「さよなら」にさよならを告げた日
ぺらり、ぺらり。
静かな病室内に、紙をめくる音が響く。
『二〇二二年三月二五日』
なにも書かれていないページに、新しく文字を刻んでいく。
これは、俺が今日も、生きていたのだという証明。ちゃちなものだけど、俺の軌跡を残すためだけに存在する言葉だ。
『今日は、院内学級の終業式だった。今年は退院で二人減って、亡くなってしまった人が一人いて……新しい人は来なかったな。ここは、お別ればかりの場所だ』
微かで規則正しい機械音。シャーペンと紙がこすれる音。ベッドデスクを照らす電球の、ジーッという静かな騒音。
『中学二年生も結局、病院の外には出られなかった。多分、一生を俺は病院で過ごすんだと思う。いつ死ぬかも分からないし、年々、苦しくなっていくばかりなのが分かるから。』
――あれ。
呼吸音がうるさい。
そう気づいたときには、すでに背を丸めていた。
動悸が激しくて、呼吸のペースが速くて、苦しくて。
本当に『こいつ』は、いつどんな動きをするか分からない。
「……っ……はあ」
ようやく呼吸が落ち着いたときには、俯きすぎでノートに重い影が落ちていた。それを振り払うようにして、背筋を伸ばす。
『それでもいい。病院内でも、たくさんの幸せや楽しさがあったから。これからだって、他の入院患者さんと一緒に、楽しくやれるんだと思う。特にアイツ、蓮人となら、きっと。
明日は蓮人とどんな話ができるだろう。ただくっだらない話をするだけかもしれないけれどさ、それがいいんだ。』
「今日も日記? マメだねえ、亮は」
一瞬、息が詰まった。
声の降ってきた方、右を向くと、そこにいたのは。
「――心臓止まるかと思ったぞ、蓮人」
「あっはは、縁起の悪いこと言うねえ。僕らはもとから心臓と仲良くできてないってのに」
俺の右隣、窓際のベッドに腰かけてそう言った蓮人は、癖のある金髪を揺らして笑う。長い前髪が左目を隠しているせいか、こいつの感情はイマイチ摑み切れない。
「心臓がポンコツなのは生まれつきさ。お前だってそうだろ?」
「そうだね。なんでこうも気まぐれで自分勝手なんだろう」
「そんなの、俺に訊くことじゃないだろ」
ぶっきらぼうに返答を投げても、蓮人はのらりくらりと躱してにこにこしている。かと思えば、急に立ち上がって点滴棒を引きずりながらこちらへとやってきた。
「ねえ、日記読ませてよ。どんなこと書いてるのか気になるからさ、ね?」
「やだね」
即答。
当然だ。ここ五年ぐらい、ずっと親にも担当医にも見せてこなかった日記だ。いや、自分ですら見返していなかった。誰にも見られないようにと隠していたら、自ら手に取ることもなくなっていた。
「いいでしょ、お願い!」
蓮人の鼻にかかった声が、畳みかけるように懇願する。前髪に隠された目がじっとこちらを見ているのを、なぜか感じることができる気がした。
日記は、俺が生きていた証として残ってくれればいい。だから、もう一度読む必要なんてない。
そう、思っていたのに。
「……どうせなら、昔のやつから見るか?」
「いいの!?」
視線から逃げるようにして、手元のノートを見下ろし、一言。蓮人の、耳に突き刺さりそうなほど大きな歓声に「うるせえなあ、もう」なんて言いながらも、なぜか俺まで笑っていた。
「ここで冗談でも言うと思ったか? なんか俺も、見返したくなったんだよ。だからついでに見せてやる」
嘘じゃない。
自分と蓮人のことは、きっと間違いなく書いている。そのことだけは分かるけれど、それ以外になにを書いたのかは、全然覚えていない。きっと、書いてすぐに忘れている。
だから、どんな道を歩いてきたのか振り返りたくなった。ただ、それだけ。
「とりあえず、蓮人は一回、そこどいて」
「え?」
「日記、ベッドの下に隠してんの。そこにいられると出せないから」
「あ、なるほどね。分かった」
よっこいしょ、なんて年寄りじみた声をあげて床に降りる。そして、心臓に負担をかけ過ぎないように休みながら、ベッド下から段ボール箱を引っ張り出した。白くほこりを被っているそれに、ふうっと何度か息を吹きかける。
「すごい量だねえ。いつから日記を書いているんだっけ?」
「お前、それ知ってて質問してんだろ……小学校一年生の時から。親が文字の練習代わりに書いてみればいいんじゃないかって言ってノートを渡してきたのがきっかけだよ」
落ち切らなかったほこりを払い、箱の中身を取り出した。色褪せたノートの表紙に書かれた文字は『二〇一四ねん四がつ きよかわ亮』。
「多分これが一番古いやつだな……字、きったな!」
「子どもの字ってそんなもんじゃないの? ほら、見てみようよ」
「分かったからちょっと待てって。せめて座ってからでもいいだろ?」
急かされながらもベッドに腰かけ、右隣に蓮人が来たことを確認してから、表紙をめくる。
大きな字で書かれている、最初の記録が目に飛び込んできた。
『四がつ一にち
きょうは、おかあさんにこののおとをもらった。きょうあったことを、かくためだって。いっぱいかいても、かかなくてもいいってゆってた。すきなときにかきなさい、だって。
あとは、れんとといっしょにしりとりをした。まけてばっかりで、つまんなかった。』
大したことない内容だ。蓮人としりとりをやった回数なんて数えきれないくらいあるから、この日のことを鮮明に覚えているわけでもない。
でも、二人で遊んではしゃぐ声が、耳の奥で聞こえる気がする。
「最初の日に書いてあることがこれってことはさ、僕と亮が出会ったのは、この日よりも前ってことだよね。いつだったっけ?」
「……分かんないけど、多分、四歳か、それよりも前。一番遠い記憶が四歳のときなんだけど、その中に、お前がいるから」
俺が覚えている限りで一番古い過去は、初めての転院のときのこと。がらんとした一人部屋だと思っていたその病室に、蓮人がいた、それだけの記憶だ。
『蓮人くんも、ここにおひっこしなの?』
『うん! 亮くんもだったんだね!』
二人で喜び合って、はしゃいで。でもあんまり嬉しくて興奮したからか、ポンコツな心臓に負担をかけ、二人そろって体調を崩し、親や医者に怒られた。当時はけっこう落ち込んだけれど、今となっては幸せでほろ苦い、いい思い出だ。
「そういやそんなこともあったねえ。懐かしいや。ねえ、他のページを見せてよ」
「そんな急かすなって。とりあえず適当にめくってみっか」
ぺらぺら、と日記を流し見していたけれど、ふと『ともだちたくさん、できるかな。』の文字が見えて手を止めた。
「こ、れは」
「『あしたから、いんないがっきゅうってところにいく』って書いてあるね」
蓮人が身を乗り出して、日記を覗き込む。
「友達がほしかったの?」
「……そうだな。当時は、すごく寂しかったから。蓮人がいつもそばにいてくれているのに、たくさんの友達がほしくて仕方がなかった。……お前も、ずっと病院暮らしなら、分かるだろ?」
「分かるよ。ここに残り続ける人はいないからね。みんな、どこかに帰っちゃうんだ」
ぺらぺらと適当に残りのページを流し見る。たったそれだけで、『■■くんとおともだちになった!』とか『きょうは■■とけんかした』とか、いろいろなことで一喜一憂する幼い自分の姿があって、なんだかこっぱずかしくなる。思わず一冊目のノートを閉じて、別のものを箱から取り出した。
「それはいつの日記?」
「二〇一七年一〇月、って書いてあるな。小学校四年生のときのやつだ」
一冊目の文字よりはまだ読みやすくなった自分の字を見返して、日記を開く。
『二〇一七年一〇月一五日
聞かなきゃよかった。
今日は、おれの病気についての話があった。
昔からずっと、いろんな人に「亮は病気だからここにいるんだよ」と教えられてきたし、自覚しょうじょうだってあった。あまりはしゃいじゃだめだよ、はげしい運動もしないでね、って言われてきた。だけど、くわしいことをちゃんと聞くのは、初めてだ。
病気の名前はむずかしくて覚えてない。けれど、おれはどうやら、しんぞうがポンコツらしい。しかも、ポンコツな原因がいくつもあるみたいで、これはとてもめずらしいことだ、ってお医者さんは言ってた。なおるんですか、ってきいたら、お医者さんは少しなやんでから、首をふった。分からない、って。』
「……蓮人。お前が自分の病気について聞かされたのって、いつだったか覚えてるか?」
「うん。四年生のときだった。きみと同じ病気だって知らされたんだよね」
急な質問にも、隣にいる親友は戸惑わない。儚げな笑みで、静かに蓮人は答えるだけ。
その表情に、なんとも言えない気持ちになりながらも続きを読む。なんとなく、なにが書いてあるのか想像はついていたけど。
『急に死んじゃう可能性もある、って言われた。しんぞうがポンプみたいに動くんじゃなくて、変に細かく動くかもしれない。そうなったら血がめぐらなくなって、最悪、死ぬって。
おれ、あまり長生きは、できないのかもしれない。
何人か、死んでおわかれをした人はいるけれど……自分事になるって、思ってなくて。
死ぬ、って。どういうことなんだろう。』
文字がだんだんと読みづらくなっていったのは、きっと書いている手が震えていたからなんだろう。初めて自分の病気について聞かされた夜、心細くて怖くてしかたがなかったことを、鮮明に思い出せる。
分からないことは、恐怖だ。先の見えない未来ほど、不安になるものはない。
「――ねえ、亮」
ぽつり、と。
蓮人の声が、沈黙の中に落ちた。
「この日の夜に僕が言ったこと、覚えてる?」
「えっ?」
「きみ、この日記を書いた後にさ、怖い、死にたくない、って僕に泣きついてきたんだよ」
言葉と同時に、目の前であのときの記憶が蘇る。
蓮人が俺のベッドに腰かける、その隣で俺は、枕を抱えてぐずぐずと鼻を鳴らしては愚痴をこぼして。『なあ、俺はどうしたらいいんだろう?』なんて弱音を吐いて。
けれど、蓮人の第一声は、あまり優しいものじゃなかった。
『病気でもそうじゃなくても、先のことが分からないのなんておんなじだよ。未来なんて、僕らが知ることのできるものじゃないからさ』
ふふ、とかすかな笑い声。思わず顔を上げると、まだまだ子どもだなあ、と言いたげに口角を上げた表情がそこにはあった。
同い年のはずなのに、このときの蓮人は、ものすごく大人で、子どもだった。
『大丈夫だよ。僕はずっと、亮のそばにいるから』
『……本当か?』
『もちろん。二人で一緒なら、なにも怖いことなんてないでしょ?』
それを聞いて、不安が消え去ったわけじゃない。ただ、少し心強くなっただけ。
でも、その言葉が支えになってくれた。
「――覚えてるよ。俺はあのとき、すっごく救われたんだ」
「そっか。なら、よかった。……ほら、日記の続きを読もうよ。もっと別の日のやつ、ない?」
「ん……ちょっと待ってろ」
手元のノートを適当にめくっても、なにか面白そうだと思える内容はない。その日、蓮人となにをしたのか、診察のときにどんなことを言われたか、誰かがお見舞いに来たときになにをもらってどんな話をしたか――そんな内容ばかりだ。最初に見たノートのように、他の人との関わりで一喜一憂する自分の姿はない。それなら、とまた別のノートを手に取ると、表紙には『二〇二〇年八月』の文字。
「なあ、蓮人。適当にページめくるからさ、どっか好きなところで止めてくれよ。そこの日記を読もう」
「いよいよ選び方が雑になってきたなあ。まあ、いいけど」
「それじゃ、いくぞ?」
ぱらぱら、という乾いた音で満たされた病室。そこに優しく鋭く「ストップ!」の声が響いた。
「ん、ここだな。さてと、なにが書いてあるのかな――」
『■■が退院することになった。また、院内学級の人数が減る。』
ページを開けた瞬間、目に飛び込んできた文言に、言葉が崩れ去っていく。
「『■■は教室を出ていくとき「みんな、またね」って言ってた。もう二度と、会えないくせに。でも、心の中で「さよなら」って投げつけたら、ちくりと胸が痛くなった。』――か」
「なんで音読するんだよ、恥ずかしいだろ。……でも、このときはさすがにショックだったな。こいつ、蓮人の次に長い付き合いだったから」
俺の話し相手や遊び相手は、ほとんど蓮人だけと言っても過言ではない。けれど、他の人との関係がないかと聞かれれば、そういうわけでもないというのが現実だった。蓮人ほど気を許すことができなかった、ただ、それだけで。
「亮ってさ。僕以外の人に心を開くことがないよね。なんか、一歩距離を取ってる、っていうかさ」
「……まあ、な。ってか、よく分かったな」
「だってあからさまだもん。普段はやけにテンションが高くて、謎に威勢がよくってさ。逆に僕が一緒のときは、口調こそ明るいけどなんか淡々としてるんだよね。それでもどこか、自分の弱い部分を見せないように、頑張って演技してるみたいなところはあるけど。でも、それもきみの素の一部ってことなのかなぁ」
「……」
図星だった。
「どうして、きみはそんなに強がっているの?」
「意地悪だな、お前。どうせ分かってるんだろ? なぜか俺のことはなんでもお見通しだからな」
「さあ。どうだろうね?」
こいつがそう言うのは、だいたい俺の言ったことが正しいときだ。
思わずこぼれたため息を見つめていたら、自然と言葉が口をついて出る。
「お前の言う通りだよ。自分一人のときか蓮人の前じゃなきゃ、自分の弱みなんて吐き出せない。……だってさ、」
そして、話し出してしまうと、歯止めがかからなくなっていく。
「ここは、あまりにも別れが多すぎるんだ。みーんな俺よりも先に病気が治って、何人かは、俺よりも先に死んでいって。そしてもう、二度と会えない。俺は、この病院から出られないんだから」
蓮人は、なにも言わない。
「もう嫌だよ。誰かとさよならを言うことなんて。いなくならないでほしい。ずっとそばにいてほしい。お別れを言うくらいなら、もう誰かと出会いたくないって、そんなことすら考えてるよ。寂しくて、心が引き裂かれそうになって、痛くて、たまらないから」
「……」
「でも、そんなこと、他の人には言えねえんだよ。言っちまったら、ただのわがままになる。だから、弱いところを隠そう、黙っとこう、って思ったら……どうでもいいこと、関係のないことを話して騒いでいるほうが楽だった。一時的に嫌なことを忘れて、口をふさぐには、いい方法だったんだ」
目を背けるように、日記を閉じてしまいこんだ。段ボール箱を、力任せにベッドの下へと押し込む。ただそれだけの動きで、息が上がって動悸が激しくなる、この体が忌々しい。
「じゃあ、さ。どうして僕には弱いところをさらけ出してくれるの?」
鼻にかかった穏やかな声が、そっと、心を撫でるように問いかける。
「……たぶん、だけど。物心ついたときから、ずっと、一緒だったから。何回、転院しても、同じタイミングで、蓮人も同じ病院の、同じ部屋に転院してきて。いつでも、どこでも、誰よりも、ずっと一緒、だったから。ただ、それだけだよ」
ずっと共に生きてきた、闘病仲間。たくさん話して遊んだ、親友。物心ついたときから今まで、一〇年間側にいてくれた幼馴染。両親よりも大事な、たった一人の、特別な人。
蓮人自身が弱みをさらけ出してきたことはない。隠れた目のせいなのか、表情や感情がうまく読み取れないこともある。摑みどころがなくて不思議なやつだと、いつも感じている。
多分、あいつ自身は、俺に対して一枚、壁を作っている。
けれど、蓮人は他の人と話さない。俺以外の人とは、まったく口を利かない。だからきっと、蓮人にとっても俺は特別なんだって、そう、思っていたい。
「そうだね。僕には、きみしかいないからさ。そう言ってもらえて、嬉しいよ」
「なんか大げさな言い方だな」
「そんなことないよ」
くすり、蓮人が笑って。
ははっ、と俺が笑って。
声の二重奏が、静かな病室に広がって消えていく。
「特別な者どうし、これからも一緒がいいな。お前だけとは、絶対にさよならなんて言いたくない」
「当然のことを言わないでよ。僕らは――」
――病室の外から聞こえる、かつかつ、という音。
「見回りだ!」
「お前、急がねえとやばいぞ」
「亮こそ、早く布団を被らないと」
そうだ。最近は夜更かしすることがなかったから忘れていたけれど、夜には何度か、廊下を巡回する人がいるんだった。見つかったら、間違いなく注意される。
「……亮、電気」
慌ててベッドに戻ったせいで息が切れ、かすれた声が、そして蓮人の指が、ベッドテーブルの灯りを指した。日記の読み書きのためにつけていた橙色の光は、闇の中でひときわ存在感を放っている。
「あ、やっべ」
ぱちん、と慌てて電源を切り、布団の中に潜り込む。別に廊下側に窓があるわけじゃないし、ドアだってちゃんと閉めていたけれど、それでも起きていたことがばれるんじゃないかと思うと心臓がどきどきと音を立てる。病気のせいじゃない。紛うことなく、焦りの心拍数増加だ。
――かつ、かつ。
――かつ、かつ。
目をぎゅっと閉じると、耳だけが敏感になって音を事細かに拾い上げていく。
――。
――しーん。
足音が、だんだんと遠ざかっていき、そして、聞こえなくなったころ。
俺はようやく、いつの間にやら止めてしまっていた息を吹き返した。
「はあっ……やっと、行ったか」
布団から顔を出し、体を起こす。
「みたい、だね」
蓮人も呼吸を止めていたらしく、乱れた呼吸を整えながら苦しげに口角を上げる。
「お前、大丈夫か?」
「うん、なんとか。きみは?」
「ああ。俺も、」
大丈夫だから、心配すんな。
そう、言うつもりだった。
「――っ!」
胸の痛みに邪魔されて、声にはならなかったけれど。
いけない。今日は――今晩は少し、動きすぎた。他の人ならなんてことないんだろうけど、ポンコツな心臓を持つ俺には、耐え切れないくらいの激しい運動をしてしまったんだ。
――動きすぎると死にやすくなるから、なるべくしないようにね。
いつだかに主治医の言っていた言葉が、ふと蘇る。
くらり、眩んで思わずベッドに倒れ込む。
「――りょう……っ!」
がらがら、ぺちん、と音がする。不穏な気配に思わず蓮人の方を振り返ると、そこには。
「……!」
横倒しになった点滴棒と、ベッドから落ちて床に伏す蓮人がいた。
「待ってろ、いま……」
「だめ……! りょうまで、たおれ、ちゃう……!」
鬼気迫る声に、一瞬、体が固まる。
そうだ。俺と蓮人は同じ病気なんだ。蓮人が動いて倒れるってことは、俺も同じようになってしまうということで。
でも、でも。
俺には大切な人を放っておくことなんてできない。できやしない。
ふらつきそうになりながら、点滴棒に体重をかけて、ゆっくり立ち上がる。
「あぶない……!」
蓮人の忠告は、間に合わない。キャスターの付いた金属の棒はするすると床を滑り、俺はバランスを失って、床に体をしたたかに打ち付けた。ついでに、点滴棒が俺の背中にクリーンヒット。一瞬、息が詰まってしまった。
「だから、言ったのに……」
「はは……ごめん、な」
起き上がろうとするけれど、もう、うまく力が入らない。
ずる、と体を引きずって、蓮人がゆっくりとこちらに近づいてくる。俺も蓮人のところへ行きたいけれど、髪の毛の被っていない右目が「動くな」と言っている。それに、もしそうでなくても、俺はなにもできない。
「……ナースコール、押して、くれないか」
「――ごめん、ごめんね。こんなとき、僕は、なにも、できない。……押せ、ないんだ」
「そ、そう、だよな……お前、動きすぎ、だよ。」
眩暈はまだ、収まり切っていない。けれど、ここで止まっていたら、助けを求められない。
少しずつ、這うようにして、自分のベッドに向かった。けれど、もう一度ずきりと胸が痛んで、目の前がふらふらして、ナースコールのボタンに、手が届かない。
「だ、めか……」
目の前が、真っ暗だ。息が、苦しい。呼吸音が、やけにうるさい。
「俺……死ぬ、のかな」
こんなことに、なるのは、初めてだ。しかも、誰も、呼べないなんて。
さっき、見回りが通っていったと、いうことは。もう、しばらくは、誰も来ない。
だれも、俺に、気づいてくれない。
――怖い。
――怖い、よ。
――死んだら、きっと、永遠に独りだ。
――寂しい。
――嫌だ。
――死にたく、ない。
「独りじゃ、ないよ」
とうとう声すら出なくなった俺に、蓮人が一言。
「大丈夫。僕も、一緒さ」
――そんなわけ、ない。
「そんなわけ、あるんだよ」
――どうして、分かるんだよ。
「……ねえ。不思議に、思わないの?」
――なにを、だよ。
「きみは、喋っていないのに、どうして、僕が、返事をしているか」
――!
たしかに、そうだ。
聞こえていない、はずの声を、どうやって、蓮人は、聞いている、んだ?
「答えは、簡単だよ」
――なん、だよ。
「きみと、僕は、いっしょなんだ」
――一緒……?
「はは……そうじゃ、ない。同じ、って意味だよ」
――いっしょ……おんなじ……。
ああ。
そういう、ことか。
「やっと……分かった、かい?」
――分かった、よ。だから、お前は……。
「そう。だから、僕だけは、ずっと、きみの、そばにいる、んだ」
――死んでも……その先、も?
「うん。だから、大丈夫。約束は、守るし、二人なら、なにも……怖くないよ」
――そうだな。蓮人と、さよなら、しないで済むなら……寂しく、ないな。
それに、俺の――俺たちの、歩いてきた、足跡なら。
ベッドの下、日記の中に、たくさん残って、消えないから。
きっとこれなら、他の、みんなも、寂しくない、はず。
――蓮人が、いてくれて、ほんとうによかった。ありがと、な。
「ありがとう、亮。これからも、ずっと、一緒だから、ね」
最期に、一瞬、見たような気がしたのは。
蓮人の眩しい笑顔。そして――。
――はじめて繋いだ、俺と、蓮人の手――。
***
誰も入院していない、一人部屋。
亮が生きていた時のままだったその場所で、その女性は荷物をまとめていた。
「……」
すすり泣きの声が雨音のように辺りを満たして、女性の心に降りかかる。亮のいなくなった病室は、未だ死の気配が残っているかのよう。どんよりと重たい空気の中、ぼやける視界を何度も拭いながら、片付けの作業は続いた。
「あ……」
ほぼすべての荷物をまとめ終わったころ、床に下ろしていた鞄を手に取ろうとして、女性はふと、ベッド下にあるものに気づく。
どこか見覚えのある箱だと思ったのは当然のこと。それは、女性が亮に頼まれてこの病室に持ち込んだものだった。
ゆっくり、ゆっくりと、段ボール箱を引き出して。
「……日記」
ふたを、開けた。
「……こんなに、たくさん……」
一番上にある、真新しいノートを拾い上げた。震える手で探したページは、自分の息子が最後に書き残した言葉。数十分後に死ぬことを知らない少年が、自らの思いの丈を綴っただけの記録。
「……ごめんね、亮」
血の気のない手に、ぽつりと滴がこぼれ落ちる。
「寂しくて、苦しかったんだね……なにも、気付けなかった……」
唇が紡ぐのは、ひび割れて崩れた想いたち。言葉が音に変わるたび、女性からは色が失われていくようだった。
それでも、ずっとこの病室にとどまっているわけにもいかず、鞄と箱を持ち、部屋を出る。肩にかけた旅行鞄の中には着替えや筆記用具などの生活必需品ばかりが入っていて、それほど重たいわけでもない。けれど、書き溜められた日記だけは、亮の入院していた期間を証明するかのように、女性の手にずっしりと食い込んだ。
「……そう、だよね」
十四年間、ずっと病院暮らしだったもんね。
ごめんね。
声にならない声で呟いた、そのときだった。
「亮くんのお母様、ですよね?」
呼び止められて振り返ると、そこはナースステーションの目の前。カウンターから出て来て駆け寄ってきたのは、亮とも顔なじみであった看護師だった。
「はい。……今まで、お世話になりました」
少し頭を下げるだけでも、荷物のせいで重心が一気に下がる。その重みで、ひとつ、女性は思い出した。
あの日記に書かれていた少年のこと。お見舞いに来るたびに、息子が楽しげに語っていた彼のことを。
「あの、一つお伺いしたいのですが……蓮人くんはいま、この病院にいますか」
「――えっ」
「亮の――息子の、一番の親友だそうで。いつも、『あいつがいて本当によかった』って、言っていたので……せめて、お礼を言いたくて」
亮と仲良くしてくれて、ありがとう。あの子はいつも、あなたのおかげで幸せそうだった。――そう伝えられたら、どんなにいいだろう。そう、思ったのだった。
けれど、女性の思いに反して、看護師は困ったような表情を見せる。
「……蓮人くんは、」
そこで、看護師はしばらく、考え込んで。何度も逡巡してようやく「もういません」とだけ言った。
「亮くんが亡くなった夜、彼――柏木蓮人くんも、亡くなってしまったんです」
「そんな……ならせめて、ご遺族の方には、」
「もう、ここにはいらっしゃらないと思います。すでに荷物も引き払った後ですし……」
「……そう、ですか」
焦点の合わない目で、どこか分からない場所を呆然と見ている女性に、看護師は。
「――日記、ありますよね」
「……」
「亮くんは、毎日のように日記をつけていました。……どうか、大切にしてください。亮くんの思い出も、蓮人くんの存在も、その中にたくさん詰まっていると思いますから」
ぼんやりとしていた目が、抱えたままの段ボール箱を捉えた。じっとそれを見つめて、ああ、とかすかに声を漏らす。
――ああ、なんて愛おしい重さなのだろう。
だってこの中には、二人分の、人生が詰まっているのだ。当然と言えば当然だ。
「……ありがとう、ございました」
女性は再び頭を下げ、その場から静かに立ち去っていく。
亮と蓮人が生きていた証を、強く抱きしめながら。
---
「……これで、よかったんでしょうか」
ナースステーションの中。看護師たちは、静かに言葉を交わしていた。
「うん、きっとね。なにも真実だけが人を幸せにするとは限らないから」
「……亮くんの死に顔、見たことがないくらいの、満面の笑みでしたね。最期に、蓮人くんのことを見ていたんでしょうか」
「かもしれない。もしそうだとしたら、亮くんに話を合わせ続けた甲斐があったなぁ」
言いながら、ふふ、と誰かが寂しげな笑みを浮かべて。
「一回会ってみたかったな、柏木蓮人くん。どんな子だったんだろう」
---
二人のいない時間は、静かに、でも確実に、刻まれ続けていく。
いまも。そしてこれからも。
『「さよなら」にさよならを告げた日』をお手に取ってくださった皆様、ありがとうございます。いかがでしたでしょうか?
作中でははっきりとは書きませんでしたが、この世界の柏木蓮人くんは、清川亮くんの生み出したイマジナリーフレンドでした。一人部屋にもかかわらず蓮人くんが亮くんと同じ部屋に入院していたことや、亮くん以外の人間と口を利くことがないことなど、頑張って伏線は張ったつもりですので、うまく機能しているといいな、と祈っています。
さて、ここで『「この世界の」柏木蓮人くんは――』という、少し意味深な書き方をしたのは、「別世界の」二人の物語が存在するからです。
作者の私は、清川亮くんと柏木蓮人くんのことをかなり気に入っており、二人が登場する話をいくつか書きたいと思い立ちました――が、同じ世界線で複数の物語を書こうとすると、様々な矛盾点が発生してしまい、現実的に不可能でした。そこで、一つの作品を「どこかの世界でありえたかもしれないIf話のうちのひとつ」と捉え、様々な世界線上の二人を書くことにしたのです。
この世界では、二人のうち実在していたのは清川亮くんだけでしたが、他の物語では二人とも実在していたり、逆に柏木蓮人くんだけが実在していたり……というように、様々な設定を考え、作品の構想を立てている段階です。
『重なる世界のどこかでふたりは』というシリーズに二人の物語をまとめていく予定ですので、興味のある方は是非、見守っていただければと思います。
今回はリアルであることよりも書きたいことを書くことを優先させたので、一部実際にはありえないようなことを書いてしまっているかもしれません。すみません。
感想、評価等頂けますと励みになります。
この小説、および後書きを最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました!
秋本そら