9.次の被害者たち
色々なことが、少しずつ動き出していた。エリックと友達になれただけでなく、レベッカももう私のことを怖がらなくなっていた。そしてゲオルグには感謝されてしまった。
もちろん、他の使用人や町の人、両親との関係はまだまだ改善が必要だろう。それでも私は、変わりつつある状況に気を良くしていた。もっというなら、浮かれてしまっていた。
相変わらず記憶はこれっぽっちも戻ってこなかったけれど、特に困ることもなかった。むしろ、一度に記憶が戻ってこなくてよかったとさえ思っていた。過去の悪行をまとめて思い出してしまったら、きっと混乱してしまう。
さあ、今日もいつもの日課に取り掛かろう。鼻歌交じりに日記帳を開き、いつものように読み進める。日付を逆にたどり、メグが何をしたのか調べていく。
最近では、日記帳の内容もだいたい同じ言葉、『何もない日』の繰り返しになっていた。そのことも、私の浮かれた気分に拍車をかけていたのだろう。衝撃的な事実など、もうこれ以上出てはこないだろうとたかをくくっていたのだ。
見慣れてしまった『何もない日』の記載の合間に、使用人を首にした話やエリックへの愚痴がぽつぽつと並ぶ。メグは一度だって、明るい話題をここに記したことはなかった。
初めて日記帳を開いた時からは想像もつかないほど私はのんびりと構えていた。けれど次のページをめくった時、思いもかけない記載に目を見開く。
『まったく、あの令嬢たちには我慢がならないわ。いつも陰でこそこそとろくでもないことばかりわめいていて。文句があるのなら、直接言いにくればいいのに。その態度に腹が立ったから、思い切りやりこめてやったの。少しだけ、すっとしたわ』
メグは目下のものだけでなく、他の令嬢に対しても傲慢に振る舞っていたらしい。次の被害者がはっきりとしてしまったことに、一気に気が重くなる。
机に肘をつき、頭を抱え込む。いっそ、夢であってくれたらいいのに。そう願ったけれど、残念ながらもちろんこれは夢ではなかった。
日記帳に覆いかぶさるようにしてしばらく突っ伏した後、のろのろと頭を上げる。先ほどまでの浮かれた気分は、見事に消し飛んでしまっていた。
開いたままの日記帳にもう一度ゆっくりと目を通し、今回の被害者である令嬢たちの名前を探し出す。ぱっと見つかっただけでもざっと三名。もしかすると、もっといるかもしれない。
まずはこの三人について、情報を集めなければ。メグはこの三人と知り合いなのだろうが、私は彼女たちのことはさっぱり分からない。
日記帳に鍵をかけて元通りにしまいこみ、部屋を出た。久々に、日記帳がずっしりと重く感じられた。
母ならきっと、あの三人のことを知っているだろう。たぶんエリックもそれなりには知っているだろうが、最近彼はここに顔を見せていない。先日私を町に連れ出して怪我をさせてしまった、そのほとぼりが冷めるのを待っているのだ。
私も折を見て両親をとりなしてはいるのだが、父の怒りが特にひどく、なかなか思うように説得できていない。そのことが、どうにももどかしくてたまらなかった。
早く、エリックに会いたい。私の最初の、お友達に。そうして他愛のないお喋りをしたり、一緒に遊んだりしたい。
自然と浮かんできた思いに、苦笑が漏れる。彼を嫌って避けていたメグとは、本当に大違いだ。
そんなことを考えながら歩いていると、やがて母の部屋の前に着いた。そっと扉を叩き、声をかける。
「お母様、今お話しできますか?」
がたんという音がして、息を弾ませた母が扉の向こうから現れる。
「まあマーガレット、あなたならいつでも大歓迎よ。ちょうど退屈していたの。さあ、座ってちょうだい」
母はそのまま私を優しく抱きしめると、手を引いて空いた長椅子に座らせた。もうとっくに痛めた足は治っているのに、母はまだ世話を焼こうとしている。
低い長机の上には、一人分のお茶の用意が並んでいる。母はのんびりとお茶を楽しんでいたらしい。さっきのがたんという音は、どうやら私の声を聞いた母が大急ぎで立ち上がった音だったのだろう。メイドがせっせと、動いてしまった食器の位置を直していた。
私に用件を告げる間すら与えることなく、母はメイドに新しくお茶を用意させて、お茶菓子を次々と勧めてくる。あっという間に、私の目の前には様々な菓子や果物が山のように積み上がってしまった。
両親は私のこととなるといつもこうだ。必要以上に大騒ぎして、これでもかとばかりに私のことを甘やかし続ける。これが二人なりの愛情だということは分かっていた。けれど同時に、二人は本当に私のことをちゃんと見ようといていないのではないかという疑問も生まれていた。
いつかはこの二人との関係も、変えられるのだろうか。この二人について、メグはどう思っていたのだろうか。そんな疑問が頭をよぎる。
「どうしたの、マーガレット。ぼんやりしてしまって、どこか具合でも悪いの?」
うっかり考え込んでしまった私の顔を、母がそれは心配そうにのぞき込む。私は安心させるように微笑みかけ、本題に入ることにした。色々と悩ましいことは多いけれど、まずは目の前の問題を片づけてしまおう。今日はそのためにここに来たのだから。
「その、私と交流のあった令嬢のみなさまについて、聞きたいのですけれど……まだきちんと、思い出せていないので」
「ええ、いくらでも話してあげるわ。それがあなたの役に立つのなら、喜んで」
私がした頼みごとに、母は誇らしげに胸を張りながら答えてくれた。
「……メグ、あなたって妙なところで気が回るというか、小賢しいというか……」
母とのお茶を終え自室に戻ってきた私は、鍵をかけたままの日記帳の表紙に手を触れながらそうつぶやいた。
メグの被害者である三人の素性はすぐに判明した。三人とも男爵家の令嬢で、しかもどうやら彼女たちの家はみな、私の家から多額の借金をしていたのだ。
彼女たちの家はどこも懐具合が大変苦しく、一方の私の家は伯爵家で、おまけに貴族たちの中でもかなり裕福な部類に入る。そんなこともあって、彼女たちの親はみな、私の親には頭が上がらないようだった。つまりメグは、圧倒的な力の差を理解した上で、令嬢たちをいたぶっていたことになる。
「いじめる相手をちゃんと選んでいる、ってことよね……」
メグはやたらと他人に当たり散らす悪い癖があった。しかし誰彼構わずにいたぶってしまえば、いずれ大騒ぎになってしまう。だから彼女は、自分の家より格下で、しかも自分の家に逆らえない相手を選んでいたのだ。
けれどその分、被害にあった令嬢たちの恨みは深いものになっているだろう。メグがどれだけ暴言を吐こうとも、ただじっと耐え続けなければならないのだから。うかつに反撃などしようものなら、親にも迷惑がかかってしまう。
「普通に謝罪したところで、うまくいきそうにないわよね……」
レベッカの時のように、呼びつけた上でごめんなさい、では済まない気がする。しかも毎日のように顔を合わせるレベッカとは違い、令嬢たちと会う機会はかなり限られている。
「……一人ずつ順に訪ねていって、謝って回るしかないかしら。それも根気良く」
さらにずっしりと気分が重くなるのを感じながら、日記帳の表紙をぺしりとはたく。
「まったく、全部あなたのせいよ。どうして私があなたの尻拭いをしなければならないのかしら。真っ当に生きるのって、大変ね」
鍵がかかったままの日記帳は、不満げに何かを訴えようとしているようにも見えた。