8.初めての笑顔
ゲオルグの孤児院への援助が、それはもうあっさりと決まってから数日後のこと。
すっかり足も良くなった私はレベッカを連れて、こっそりと町へと向かっていた。ゲオルグがあれからどうしているのか、気になっていたのだ。
最初は、堂々と彼のいる教会に向かおうと思っていた。馬車で向かえばあっという間にたどり着ける。そう思って準備していたところ、血相を変えて駆けつけてきた両親に止められてしまったのだ。
平民なんかとわざわざ関わるものじゃない、また怪我をしたらどうするんだ。会いたい人がいるなら呼んであげるから、あなたはここにいなさい。二人は心配でたまらないといった表情で、口々にそんなことを言ってきたのだ。
先日の怪我はちょっとした偶然の結果だったんです、今日は馬車で行きますし、気を付けますから。そう主張したのだが、こういう時に限って両親は首を縦に振らなかった。二人としては、とにかく私が無事であることが何よりも大切らしい。
私の身の安全は必要以上に気にかけるのに、私の意思は全然尊重してくれない。歯がゆさを感じながら、私は二人の甘い言葉を聞き流していた。
「お嬢様、本当に無断で出てきて良かったのでしょうか……」
「大丈夫よ、もしお父様とお母様が何か言ってきたとしても、責任は私が取るから」
「は、はい。ありがとうございます、お嬢様」
無事に町の入口に差し掛かった辺りで、レベッカが相変わらずおどおどとしながら口を開く。最初に思い切って謝罪したのが効いたのか、彼女は比較的私のことを警戒しなくなっていた。おどおどしているのは単に彼女の地だったらしい。
町に一人で行くな、とエリックに言われていたけれど、まっすぐ教会に向かってまっすぐに戻ってくるだけなら問題ないだろう。レベッカもいるし、きっと大丈夫だ。
この前と同じ、活気にあふれた大通りを注意深く歩く。前回の騒動のことが広まっているのだろう、町の人たちは前以上に私たちを遠巻きにしていた。あからさまに避けられていることに少し傷つきながら、気を取り直して進み続ける。
考えようによっては、この状況も良いものなのかもしれない。これだけ遠巻きにされていれば、前のようにうっかり誰かとぶつかることもないだろうから。
自分でも少し無理があるなと思うくらい強引に気分を前向きにしながら、記憶をたどって教会を目指す。大通りをまっすぐ進み、わき道に入ってすぐのところだ。
見覚えのある古ぼけた教会が目に入った時、思わず安堵のため息がこぼれ出た。実は、ちゃんとここまで来られるか自信がなかったのだ。道を正しく覚えていただろうか、途中でもめ事などに巻き込まれはしないか。そんなことでずっと頭がいっぱいだったのだ。
私はよほど分かりやすくほっとしていたのだろう、こちらを見ていたレベッカが小さく微笑んだ。けれど彼女は私の目線に気がつくと、あわてて笑みを引っ込めて首を横に振る。
「その、申し訳ありません、お嬢様のことを笑うなど」
「いいの、レベッカ。私のことをさげすんだりとか、そういった笑いではないのでしょう?」
「も、もちろんです!」
「だったら、笑ったくらいでいちいちとがめはしないわ。それに、私ちょっと嬉しいのよ。初めてあなたの笑顔を見られたから」
「あ、あの……ありがとうございます」
どんな表情をすればいいのか分からないといった顔で、レベッカが深々と頭を下げた。その途中ちらりと見えた口元には、かすかな笑みが浮かんでいるようにも思えた。
「あっ、この前のお姉ちゃんだ! 今日はあのお兄ちゃんはいないんだね」
「だめよ、ちゃんとマーガレット様、って呼ばなくちゃ」
「こんにちは、マーガレット様!」
教会のすぐそばで立ったまま話しこんでいた私たちの耳に、突然にぎやかな声が飛び込んできた。二人同時に振り向くと、教会の入口に子供たちがひしめいている子供たちの姿が目に入った。子供たちはみな物珍しそうに目を輝かせ、くすくすと笑い合いながらこちらを見ていた。その無邪気な様子に、心が温かくなるのを感じる。
子供といえどあまりにも礼儀を欠いたその言葉に、レベッカが青ざめながらこちらを見る。私は何事もなかったかのように子供たちに笑顔を返し、歩み寄るとかがみこんで話しかけた。
「こんにちは。ゲオルグはいるかしら」
「うん、いるよ。ゲオルグ先生に用があるの?」
私の問いに、一番大きな子供が元気よく答えてくれた。前歯の抜けた口でにっかりと笑いながら、とても無邪気に笑いかけてくる。
「そうよ。ゲオルグ先生と少しお話がしたいのだけど、今いいかしら」
あわてふためきながら私と子供とを交互に見ているレベッカを無視して、和やかに会話を続ける。
「たぶん大丈夫だよ。今先生を呼んでくるから」
「君たち、そこで何をしているのですか」
ちょうどそこに、ゲオルグの声が割って入る。声だけでもはっきりと分かるほど、彼は焦っていた。
無理もないだろう、私が彼のところの子供とぶつかって怪我をしてからまだ数日しか経っていない。それなのに私がメイドを一人連れただけでまたここにやってきて、子供たちと話しているのだから、ゲオルグとしては生きた心地がしなかっただろう。
入口でぎゅうぎゅう詰めになっている子供たちをかき分けるようにして現れたゲオルグは、私の顔を見るなり深々と頭を下げた。きびきびとした、気持ちのいい動きだった。
「こんにちは、ゲオルグ。子供たちは元気でいいわね」
「ようこそいらっしゃいました、マーガレット様。しかし、馬車が見当たらないようですが……」
「実は、こっそり屋敷を抜け出してしまったの。どうしても、あなたと話したいことがあって」
精いっぱい軽い調子でそういったものの、ゲオルグの顔は緊張で引きつっていた。
「……分かりました。それではひとまず、中へどうぞ」
ゲオルグは子供たちを奥に追いやると、この前と同じように入ってすぐの部屋に私たちを導いた。レベッカが興味深そうに、辺りを見渡している。
「申し訳ありません、他の部屋はみな散らかっておりまして」
恐縮しながら、ゲオルグはさらに頭を下げてくる。見ているこちらが申し訳なくなるくらいだ。
「いえ、構わないわ。この部屋はとても落ち着けるから。それよりも、突然押しかけてきて迷惑ではなかったかしら」
「迷惑などと、とんでもない! マーガレット様には、感謝してもしきれません。先日、こちらへの援助の話をいただいた時には、夢を見ているのかと思いました」
ゲオルグはずっと頭を下げっぱなしだ。彼の顔を見ている時間よりも、彼のつむじを見ている時間の方が長いかもしれない。レベッカが戸惑いがちに、彼をじっと見つめている。
「私が勝手に援助を決めてしまって、これで良かったのかどうか悩んでいたのだけれど、どうやら問題ないみたいね」
「はい。伯爵様の使いの方が突然現れて、金貨の詰まった袋を置いていかれた時は驚きましたが……これで子供たちにも、ちゃんとした食事を存分にとらせることができます」
ようやく顔を上げたゲオルグは、ほんのりと涙ぐんでいる。よく見ると彼の頬はこけていた。そこには、彼が今まで積み重ねてきた苦労が表れているようだった。
「だったら今後も、同じように援助していけばいいかしら」
「そうしていただけると、とても助かります。マーガレット様、この御恩はかならずお返しいたします。私にできることがありましたら、何なりと申しつけください」
ゲオルグのまっすぐな感謝の言葉はとてもまぶしくて、少したじろいでしまった。
私にはこの感謝の言葉を受け取る資格があるのだろうかと、そんなことを考えてしまったのだ。私は両親にねだって、少しばかりお金を動かしてもらっただけだ。感謝されるほどのことは、何もしていない。
黙り込んでしまった私に、ゲオルグが気遣うような目を向けてくる。彼の目から逃れるように視線をそらすと、こちらをのぞきこんでいるレベッカと目が合った。
二人とも、私を心配してくれているように思えた。少なくとも、私を恐れたり、疎んだりしているようには見えない。
どうやら私は、他人の冷たい目にさらされすぎて心が縮こまっていたようだ。あまり自分を卑下しては、感謝の気持ちをくれたゲオルグにも失礼だろう。
「ありがとう、ゲオルグ。あなたのその気持ち、喜んで受け取るわ」
だから私は精いっぱい笑みを浮かべ、可能な限り優しくそう答えた。ゲオルグはようやく安心したのか、私の言葉に満面の笑みを返してくれた。
初めて見た彼の笑顔は、すがすがしく穏やかな、素敵なものだった。