7.町での出会い
私にぶつかった反動で転んだのだろう、石畳にしりもちをついた子供は、涙目でこちらを見上げていた。
「……あの、大丈夫?」
自分の考え事に気を取られていたせいで、とっさにそんな言葉しか出てこなかった。子供はへたりこんだままうつむいて、静かに肩を震わせている。
遠巻きにこちらを見ている町の人たちが、ざわざわと何かをささやき合っている。あの子供、お嬢様にそそうをしたぞ、大丈夫なのか。下手に関わったら俺たちもどうなるか分からないし、放っておけ。押し殺したようなそんな声が、切れ切れに聞こえてきた。
ああ、やはり町の人たちは私のことをそういう目で見ていたのだ。その事実を目の前に突きつけられて、呆然と立ちつくす。エリックが私と子供を交互に見て、困ったように眉間にしわを寄せている。
エリックが子供の方に一歩踏み出したその時、あわてた様子の男性が人ごみをかき分けて姿を現した。その壮年の男性は牧師の制服を着ていたが、がっしりとした体格は牧師というよりも兵士を思わせるものだった。
「申し訳ありません、お怪我はありませんでしたか」
男性は機敏な動きで私の前にひざまずき、深々と頭を下げた。泣きそうになっていた子供が目を見張り、あわてて彼と同じ姿勢をとる。おそらくこの男性は、この子供の親なのだろう。だって男性を見た瞬間、子供はとても安心したような表情を浮かべていたのだから。
「あんたが何か言ってやらないと、ずっとこのままだぞ」
いきなり二人に頭を下げられて戸惑う私に、エリックがそっと耳打ちしてくる。そこでようやく我に返った。
「大丈夫です、顔を上げてください」
居丈高にならないように気をつけながらはっきりとそう言うと、男性は恐る恐る、子供は勢い良く顔を上げた。
「ほら、私はなんともありませんから」
そう言いながら長いスカートをつまんで軽くひざを曲げ、会釈をしてみせる。けれどその時、足首に鋭い痛みが走った。ふらりとよろめいた私を、エリックがすかさず支える。
「どうした?」
「……軽く足をひねったみたい。大丈夫よ、本当に軽くだから」
エリックだけに聞こえるよう小声で答えたつもりだったのだが、残念ながらその言葉は男性にも聞こえてしまっていたらしい。
「誠に申し訳ございません!」
男性は真っ青になると、石畳に額をつけんばかりにしてひれ伏す。周囲のざわめきがいっそう大きくなった。
まずいぞ、あの子供がお嬢様に怪我をさせた。旦那様と奥方様が黙っちゃいないぞ。巻き込まれる前に、早く逃げよう。そんなざわめきが、戸惑う私をさらに責め立てる。
「なあ、あんた牧師だろう。もしかして、そこの裏通りにある教会があんたの家か?」
周囲のざわめきを打ち破るように、エリックが明るく声を張り上げた。男性は顔を上げることなく、はい、と答えている。
「彼女はどうやら足を痛めたらしい。屋敷まで歩いて帰るのは大変だし、誰かに屋敷まで馬車を呼びに行ってもらおうと思うんだ。迎えの馬車が来るまで、彼女をあんたの教会で待たせてはもらえないか」
いつもの人懐っこい笑みを顔いっぱいに浮かべて、エリックが軽やかに尋ねる。周囲の人たちはその勢いに呑まれたのか、みな口を閉ざして戸惑い顔を見合わせている。
心を切り刻むようなざわめきが消えたことにほっとしながら、痛めた足首をかばうようにエリックの肩にそっとつかまる。
足首の痛みは、うずくような鈍いものに変わり始めていた。ここから屋敷まで歩いて帰るのは、確かに大変だろう。うっかり帰りが遅くなりでもしたら、それこそこの子供が父の怒りを買ってしまいかねない。それだけは、絶対に避けなくては。
男性は少しためらった後、ゆっくりと顔を上げた。その目をしっかりと見てうなずくと、彼はようやく立ち上がった。
「はい、もちろんです。元はといえばこちらが悪いのですし、どうぞいらしてください」
男性はそう言うと、もう一度頭を深々と下げる。それを合図にしたかのように、周囲の人たちが一人また一人と立ち去っていった。
エリックの手を借りながらゆっくりと裏通りの教会に向かい、通りに面した部屋の長椅子に腰を落ち着ける。
どうやらここは礼拝室なのだろう。古くて質素だがよく掃除が行き届いた部屋の中にはたくさんの長椅子が整然と並べられていて、奥には礼拝に使う机も置かれている。いくつもの高窓から差し込む柔らかな日差しが、それらを優しく照らしていた。
穏やかな気持ちで部屋の中を眺める私に、エリックが声をかけてきた。
「一時はどうなるかと思ったが、どうやら何とかなりそうだな。あとはあんたの父親が怒り狂うのを、あんたがなだめれば万事解決だ」
冗談めかして、エリックが笑う。近くの長椅子にゆったりと座りながら、彼は安堵のため息をついていた。
男性は私たちをここに案内すると、申し訳なさそうな顔の子供を連れてすぐに出て行った。二人はエリックに頼まれて、屋敷まで使いに出てくれる者を探しにいったのだ。
「ところで、足の具合はどうだ? 腫れがひどくなるようなら、水をもらって冷やした方がいいかもな」
「立っているのは辛いけれど、こうして座っていれば大丈夫よ。ありがとう、エリック」
「別に、大したことはしていないさ」
「いいえ、大したことよ。あなたがいなかったらどうなっていたか。悔しいけれど、私はただ戸惑うことしかできなかったから」
エリックのおかげで、あの場はどうにか収まった。大ごとにならないように、それでいて男性が気に病まずに済むように、わざと休憩の場所を借りて、使いの者を探しに行ってもらったのだ。
足の痛みよりも、あの場に立ち尽くしていることのほうがよほど辛かった。あのままだったら、私は痛む足を引きずってでもあの場から逃げ出していただろう。さっきの私に、子供や男性のことを気に掛けるだけの余裕はなかった。
私の言葉にどう答えていいのか分からなかったらしく、エリックが黙って目をそらす。その横顔は、どことなく嬉しそうだった。と、その目がわずかに見開かれる。
彼の視線をたどると、裏通りに通じる扉が目に入った。ゆっくりと開いた扉から、先ほどの男性と子供が静かに入ってくる。
さらに別の方から、小さなひそひそ声が聞こえてくる。そっとそちらを振り向くと、奥の扉の隙間からのぞいているたくさんの小さな顔と目が合った。みな、心配そうにこちらを見つめている。
男性は子供の手を引きながら私たちの前までやってくると、折り目正しく頭を下げた。
「先ほどは申し訳ありませんでした、マーガレット様。エリック様、あの場を収めてくださったこと、感謝いたします」
「ぼくのせいで、ごめんなさい!」
男性に続き、子供も勢い良く頭を下げる。そのかわいらしい仕草に、私たちはつい笑みを漏らしていた。
「私は気にしていないから、二人ともどうか顔を上げて。……これからは、ちゃんと気をつけて歩きなさいね」
優しくそう言うと、子供は飛び跳ねるように頭を上げ、にっかりと笑った。男性が苦笑しながらたしなめている。
そうして二人並んだところを見て、首をかしげる。彼らは、親子にしてはあまりにも似ていない。それに奥の扉の所にひしめいている子供たちは何者なのだろう。男性の実子にしては数が多すぎるし、信徒の子供にしてはみなみすぼらしすぎる。
「……もしかして、あんた孤児院をやってるのか」
エリックも私と同じ疑問を抱いたのか、唐突にそう尋ねた。男性は背筋を伸ばすと子供の方に手を置き、ゆっくりとうなずいた。
「はい。名乗るのが遅れましたが、私はゲオルグと申します。この教会の牧師で、私的に孤児院を営んでいます。この子も、孤児の一人です」
「私的にって、援助とかは受けていないのか?」
「はい。町のみなさんに支えられて、どうにかやってはいますが……お恥ずかしい話、いつも運営はぎりぎりなのです」
ゲオルグの制服にはあちこちつくろった跡があったし、頬はこけて頬骨が浮いてしまっている。子供が着ているのも大きさの合わない古着だし、靴には大きな穴が開いている。
そんな様子を見ているうちに、ふとひらめいたことがあった。後でエリックに話してみよう。きっと彼は笑ってうなずいてくれる。その顔を思い浮かべながら、私は誰にも気づかれないように小さく微笑んだ。
教会で待つことしばし、迎えの馬車が大あわてでやってきた。エリックの手を借りて馬車に乗り込み、ゲオルグと子供たちに見送られながら町を後にする。
屋敷につくまでのわずかな間に、私はさっきの思いつきをエリックに話してみた。
「へえ、それはいい考えだな。うまくいくことを祈らせてくれ」
予想を裏切らない素敵な笑みを浮かべて、エリックがそう即答する。
「応援してくれてありがとう、エリック。ゲオルグには迷惑をかけてしまったし……それにきっと、これは私が町の人たちと歩み寄るきっかけになると思うの」
「そうか。……まあ、無理だけはするなよ」
何故かエリックは、ほんの少し浮かない顔をしてそうつぶやいた。
屋敷に戻るや否や、エリックは大急ぎで帰っていった。細かい話はまた今度、とだけ言い残して。しじゅう辺りにせわしなく目を走らせながら、とてもあわてた様子だった。
彼の不可解な様子に一人首をひねる。しかしすぐに、その答えにたどり着くことができた。
私が怪我をした、それもエリックに連れられて外出した先で。そのことを知った両親が、ものすごい剣幕で駆けつけてきたのだ。なるほど、この二人と顔を合わせるのは気まずい。というよりも恐ろしい。エリックが逃げるようにして帰っていったのも、無理もない話だった。
「まったくエリックめ、マーガレットにもしものことがあったらどうするつもりだったんだ!」
「まあ、痛かったでしょう。きちんと手当てさせましょうね。エリックったら、あなたと一緒にいたのにあなたのことを守り切れないなんて」
父は湯気が出そうなほど怒っているし、母は足をかばっている私を見て涙ぐんでいる。相変わらず、大げさな二人だ。
「お父様、お母様、折り入ってお願いしたいことがあるのですが」
放っておいたらいつまでもエリックの悪口を言い続けそうな二人の間に割りこむようにして、口を開く。頼みたいことがあったのは本当だが、それ以上にエリックが悪く言われるのを聞いていたくなかったのだ。
「おお、お前の頼みならいくらでも聞いてやるぞ」
「あなたがおねだりだなんて、珍しいわねえ」
そして思っていた通り、両親はころっと表情を変えて、満面の笑みで私の言葉を待っている。話を聞いてもらえそうなこと自体はありがたいのだけれど、どうにも複雑な気分だ。
「私、町で孤児院の方と知り合ったんです。お金がなくて、とても苦労しておられるみたいで……こちらで援助してあげたいんです」
孤児については、その地の領主が面倒を見ることが多い。けれどそれは別に義務ではない。そしてうちの両親は、そういったことにはこれっぽっちも興味がないようだった。その分、ゲオルグが苦労してしまっている。私はそれを、何とかしたいと思ったのだ。
両親は基本的な領地の統治はそつなくこなすし、富を増やすことには長けている。けれど二人の関心は、ただひたすらに私だけに注がれている。それが私の、二人への評価だった。
「まあ、あなたがそんなことを言い出すだなんて、立派になったのねえ。嬉しいわ」
「なんだ、そんな簡単なことか。もちろんいいに決まっているだろう。何ならその孤児たちを、丸ごとうちで引き取ろうか。それとも孤児院を、新しく建ててやろうか」
「いえ、そこまでは……」
ゲオルグはきっと、そんな大それた援助を必要としていない。彼はあの教会で、子供たちとつつがなく過ごすことを望んでいるだろう。だから、ひとまずは金銭的な援助だけをお願いした。
援助についてにこにこと笑いながら話し合っている両親から目をそらし、考え込む。
予想通りに、両親は細かいことを一切尋ねることなく、あっさりと私の願いを聞き入れてしまった。私が何を考えてそんなことを言いだしたのかということには、これっぽっちも興味がないらしい。二人はただひたすらに、私を甘やかすことしか考えていないようだった。
ゲオルグに良い報告ができるという安堵の気持ち、その隙間を、どうしようもない空しさが通り抜けていった。