6.時には気晴らしを
それからも毎日少しずつ日記帳を読み進め、屋敷の中の様々な人やものに関わり続けていった。メイドや使用人たちとの関係は、さらに変わっていった。けれど失われた記憶は、これっぽっちも戻ってはこなかった。
一度だけおぼろげながら記憶が戻ってきたのは、最初に日記帳を開き、メイドと庭師を解雇したことを知った時だった。だったら、同じように日記を読み、そしてその内容に衝撃を受ければ、また記憶が戻るのではないかとも思っていた。
けれど中々、踏み切ることができなかった。またあんな風に、自分の過去の行いを突き付けられるのはやっぱり怖かったのだ。最近の私は、変わらずに並ぶ『何もない日』の文字に、安堵さえ覚えるようになっていた。
そうやって度胸のない私が足踏みを続けていたある日のことだった。いつものように私のもとを訪ねてきたエリックとの何気ないお喋りから、それは始まった。
「なあ、あんたは以前の自分の行いを謝りたいって言ってたし、その心意気は立派だと思う。だが、たまには息抜きも必要なんじゃないか?」
私がどうにかして使用人たちと和解しようと、毎日あれこれと気を砕いていることをエリックは知っていた。そして彼は、会うたびにその成果を褒めてくれていた。
それまでずっと一人で全てを抱え込んでいたことを思えば、今の状況はまるで天国のように思えた。ただ一人日記帳におびえ、絶望を感じていた頃とは大違いだ。
けれどエリックの目には、私が頑張りすぎているように見えているらしい。だったら少しだけ、その言葉に甘えてみてもいいかもしれない。
問題は、息抜きといっても何をすればいいのか全く見当もつかないということだった。たぶん、メグもそうだったのだろう。でなければあそこまで『何もない日』を延々と書き連ねることなどない筈だ。
「息抜きって、どうやったらいいのかしら。何も思いつかないの」
素直にそう口にすると、エリックはにやりと笑ってみせた。気のせいか、猫を思わせる金緑の目がきらりと光っているようにも見える。
「よし、なら俺のとっておきを教えてやる」
そう言うとエリックは執事を捕まえて、夕方までには戻る、と告げていた。大いに戸惑った様子の執事をその場に残し、彼はどんどん歩いていく。私も執事に会釈して、エリックの後を追った。
彼はさらに歩き続け、なんと屋敷の外に出てしまった。ちょっとそこまで行ってくる、と言われた門番は困り果てているようだったが、私に気づくと何も言わずに口を閉ざした。うっかり私の機嫌を損ねたら大変だと、その顔には大きく書いてあった。
門の外に立ち、辺りを見渡す。石畳のまっすぐな道の先に、それなりの大きさの町が見えている。耳を澄ますと、にぎやかな喧騒がかすかに聞こえてきた。いつも屋敷の窓から見ていた光景に、生き生きとした音が加わってとても楽しげだ。
しかしエリックは、ここからどうするつもりなのだろう。首をかしげている私に笑いかけると、エリックはとても気楽な様子でずんずんと道を進み始めた。
「あの、まさかあの町に行くの? 歩いて? 馬車を出さなくていいの?」
「大丈夫だ、ついて来いよ」
戸惑いながら尋ねる私に、彼は自信たっぷりにもう一度笑いかけてきた。仕方ない、ここはおとなしく彼に従おう。
町は思ったより遠かった。歩いても歩いても、町が近づいてこない。石畳を踏みしめて自分の足で歩くのは思いのほか楽しかったが、あちらに着くまでに疲れてしまいそうで、それだけが少し心配だった。
エリックは落ち着き払った様子で歩き続けている。どうも彼は、こういう行動をするのは初めてではないらしい。
「ほら、着いたぞ。ここが町の入口だ。ここからは人も増えるし、はぐれないように気をつけてくれよ」
「エリック、あの、町に入るのよね? 私、初めてで」
「大丈夫だ、俺は慣れているから。俺の屋敷の近くにもこんな感じで町があってな。時々こうやって遊びに出ているんだ」
ここに町があるのは知っていたけれど、実際に足を運ぼうとは思わなかった。ましてや、徒歩でだなんて。エリックは少しばかり、型破りなところがあるのかもしれない。
メグはどう思っていたのだろう。あの日記の文面から察するに、彼女は町の人間のことも見下していたに決まっている。歩いて遊びに行くなんてとんでもない話だ。メグがエリックを嫌っていたのには、こういったことも関係していたのかもしれない。
町に着くとエリックは辺りを見渡し、人が多い方の通りに向かっていった。はぐれないよう彼のすぐ後ろにつき、一緒にそちらに向かう。
記憶のない私にとっては、全てが目新しく興味深かった。レンガと石の雑多な建物が立ち並ぶ中を、驚くほどたくさんの人たちが行きかい、にぎやかに言葉を交わしている。熱気にあふれていてとても騒がしく、生き生きとした世界がここにはあった。
「おい、きょろきょろしてるとはぐれるぞ。……ほら」
面白いものを見つけるたびにいちいち足を止めているせいで遅れがちになっている私に、エリックがためらいがちに手を差し出した。
あの日のことを思い出してしまっているのだろう、その顔はどこか苦しげだった。また私がその手を振り払うのではないか、彼はそう考えずにはいられないようだった。
「ありがとう」
私はメグとは違う。私はメグではない。私はにっこりと笑うと、ためらうことなく手を伸ばし、エリックの手を取った。
手が触れ合った瞬間、エリックが小さく身を震わせる。けれど彼は何も言わずにしっかりと私の手を握り、また歩き出した。
気のせいか、つないだ彼の手はかすかに汗ばんでいるように思えた。
それから私たちは町のあちこちを歩いて、たくさんの店をのぞいて回った。その辺に出ていた屋台でちょっとした軽食を買って、立ったままかぶりついた。
口いっぱいに食事を頬張って、汚れてしまった指をぺろりとなめる。淑女にあるまじきはしたない振る舞いだが、エリックを含め周囲の人間はみなそうしていたので合わせてみたのだ。それだけのことが、驚くほど楽しい。
「屋敷のすぐ外に、こんなに面白いものがたくさんあったのね。ありがとう、エリック。自分ではこんなこと、思いつきもしなかったから」
「あんたに喜んでもらえて、よかった。だが、一人で来るのは駄目だからな」
「どうして?」
エリックがなぜそんな注意をするのか分からなくて首をかしげていると、彼は困ったように笑って声をひそめた。
「大体の町には、女子供が気軽に足を踏み入れない方がいい区画ってのが自然とできるんだ。あんたにはそれがどこなのか、見分けられないだろう?」
言われてみればその通りだったので、素直にうなずいた。
「ここにまた来たくなったら、俺を頼れ。なんたって俺たちは友達なんだからな」
いたずらっぽく笑う彼を見ていたら、自然と私の顔にも笑みが浮かんでいた。
その後も私たちはあちこちをぶらぶらしていたが、やがてどちらからともなく立ち止まり、顔を見合わせた。
「……やっぱり、避けられてる気がするの」
「あんたも気づいてたか」
最初のうちはただの偶然かと思っていたのだが、それはじきに確信に変わっていた。町の人たちは、私に気づかれないようにさりげなく、それでいてしっかりと私たちから距離をとっていたのだ。
あの立ち回り、そしてあの目つきには覚えがある。私が記憶を失って間もない頃、私のことを極度に恐れて逃げ回っていた、メイドや使用人たちのそれとよく似ていた。
「私、もしかして町でも偉そうに振る舞っていたのかしら……」
そう口にしてしまったとたん、さっきまで浮き立っていた気分が急に重くなってしまった。うつむいて唇をかんでいる私に、エリックがあわてた様子で話しかけてくる。
「いや、そうとも限らない。ここはあんたの屋敷のすぐそばにあるんだし、使用人たちから話が広まった可能性だってある」
「自業自得なのだけど、悪い噂が広まってるって考えるだけで悲しいわ……」
「だったら、これから誤解を解いていけばいいだろう。使用人たちと同じように」
懸命な彼の励ましにもかかわらず、私はあっという間に落ち込み切ってしまった。けれど同時に、そうやって彼が気にかけてくれることを嬉しいと感じていた。他人を振り回して喜ぶなんて嫌な女だと、さらに自己嫌悪がひどくなる。
そんな堂々巡りを断ち切ったのは、意外なものだった。突然、後ろから何かが勢い良くぶつかってきたのだ。よろめいて転びそうになった私を、すかさずエリックが抱き留めてくれた。
彼に支えられながら振り向くと、涙目の子供と目が合った。薄汚れたなりのその子供は、石畳にしりもちをついていた。