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5.あの日のできごと

 レベッカに宣告した通り、私はつとめてみなに優しく振る舞うようにしていた。私の身の回りの世話などで仕方なく近づいてきたメイドたちに、できる限り丁寧に、誠意をもって接するように心がけたのだ。


 それでもメイドや使用人たちの態度は、これっぽっちも変わることはなかった。相変わらず私の機嫌をうかがうような目をしながら、ひたすらに私から逃げ回っている。


 そのままだったら、きっと私はくじけてしまっていただろう。けれど一つだけ、前向きに変わったことがあったのだ。


 あれほど私におびえていたレベッカが、恐る恐るではあるが私に近づいてくるようになっていたのだ。彼女が私の身の回りの世話をしに来た時などは、天気の話などをするようにもなっていた。と言っても、ほんの二言、三言ではあったけれど。


 そうやって私とレベッカとの関係が少しずつ変わっていくにつれて、他の使用人たちの態度も徐々に変化を見せ始めていた。彼らが私に向ける感情が、恐れから戸惑いに変わり、それと同時に警戒が緩み始めたのだ。


 もう彼らは、私の顔を見るなり逃げ出すようなことはしない。もっとも、あちらの方から積極的に関わってくることもなかったが、今そこまでを望むのは贅沢というものだろう。


 そうして、たった一人で辛抱強く問題に取り組んでいたある日のことだった。


「気のせいか、使用人たちが前よりも肩の力を抜いているように見えるな」


 あれからも時々訪ねてきていたエリックが、唐突にそう言った。彼は猫のような目を見張り、興味深そうに周囲に目をやっている。


「前はもっとかわいそうなくらいびくびくしてたと思うんだが。何かあったのか?」


「……その、以前の私は彼らにきつく当たっていましたが、これからはそんな態度を改めていきたいと、そう彼らに伝えたんです。きっと、そのせいかと」


 メグの、いや自分の過去の悪行を改めて口にするのは恥ずかしかったが、それでも勇気を出してそう答えた。


 けれどその勇気はすぐに報われた。エリックはその猫のような金緑の目を細めて笑い、優しく言葉を返してくれたのだ。


「そうか、頑張ったんだな、あんたは」


 そんなささいな誉め言葉がとても嬉しくて、つい涙ぐんでしまった。懸命に瞬きして涙をこらえていると、エリックが大あわてで手を振る。


「おい、どうしたんだ、いきなり泣くな」


「だって、嬉しかったんです」


 やっと私の努力を認めてもらうことができた。彼に笑いかけながらも、私の胸はいっぱいになっていた。


 どういう訳か、私に一番近いところにいる筈の両親は使用人たちの態度の変化に気づいていなかったのだ。そもそも彼らの目には使用人なんぞはこれっぽっちも映っていないらしく、毎日のように私をべたべたと甘やかすばかりだった。


 私はエリックになだめられながら、笑みを浮かべた拍子にこぼれ落ちた涙をそっとハンカチで受けとめた。指先ににじむ温かさは、思ったよりもずっと心地良かった。






 それから私たちは場所を移し、中庭でお茶にしていた。今日はよく晴れて気持ちのいい日だったし、外でゆっくりとするのも悪くないと思ったのだ。


「それにしても、あんたはすっかり変わったな」


 私の変化にもなじんでしまったエリックが、行儀よくお茶を口にしながらしみじみとつぶやく。しかしその表情は、どことなく優れないようだった。


「そう言ってもらえると嬉しいです。前の私は、ひどい人間でしたから」


「……まあ、確かに色々と、ひどかったと言えばひどかったような……」


「ひどかったんです。でももうこれからは、違います。私、これからはまっとうに生きたいと思っているんです」


 エリックは気遣ってくれているのか、目を伏せてあいまいに言葉を濁している。そんな彼に笑いかけながら、周囲に目をやる。記憶を失ったあの日と同じ、見事に咲き誇った花々がそよ風に揺れていた。


「こうなると、あの日頭を打って良かったと思います。あれをきっかけとして、私は変われたのですから」


 何の気なしにそう口にしたところ、エリックが突然頭を下げた。


「済まなかった!」


 この上なく真剣に、そしてどことなく苦しそうな声で、エリックはそう叫んだ。いきなり彼が態度を変えたことに戸惑いながら、恐る恐る声をかける。


「どうしたのですか、突然頭を下げたりして」


「あの日、俺がしっかりしていればあんたは記憶をなくすことなどなかった。俺はそのことが、ずっと気にかかってたんだ」


 目の前でふわふわと揺れている彼の赤茶の髪を呆然と見つめる。彼は頭を上げることなく、一気に言い切った。


「あんたはあの日から変わった、それも良い方に。でもだからって、俺のせいであんたが記憶をなくしてしまったっていう事に、変わりはないんだ。それは俺が負うべき責めなんだ」


 どうやら彼は、ずっとあの日のことを気に病んでいるようだった。気にしないで、と声をかけようとして、ふと口をつぐむ。エリックは今、自分のせいで私が記憶をなくした、とそう言った。いったいあの時、何があったのだろう。


「あの、エリック……あの日何があったのか、教えてはくれませんか」


 そう水を向けると、エリックはゆっくりと顔を上げた。覚悟を決めたように一つ息を吐き、ぽつぽつと話し始める。まるで懺悔をしている最中の罪人のような、そんな目だった。


 そうして彼が語った内容は、メグの自分勝手ぶりを裏付けるものだった。


 あの日、メグとエリックは二人で庭を歩いていた。婚約者なのだから、少し二人で話しておいでと両親に説得されたのだ。


 渋々ながら庭に出たものの、メグはいつもと同じように無言を貫きそっぽを向いていた。そんな彼女にエリックは少しばかりいたずら心を起こし、うやうやしく手を差し伸べたのだった。メグが何らの反応を返してくれるだろうと、そう思って。


 けれどメグの反応は、エリックの予想を大きく超えていた。彼女は顔を真っ赤にして、思いっきり彼の手を振り払ったのだ。そして運の悪いことに、掃除を済ませたばかりの石畳は水に濡れていた。


 メグは手を振り払った勢いで体勢を崩し、足を滑らせて思いっきり転んだ。振り払われてしまったエリックの手は、彼女をつかまえることはできなかった。


「……それは、私の自業自得だと思いますが」


「俺はそうは思わない。俺はあんたに、償わなくてはならないんだ」


 何もかもを射抜くような強い光をたたえた金緑の瞳が、食い入るように私を見ている。


「そのためなら、何だってする」


 彼はおそらく意思を曲げない。けれど私は、彼にこんな悲痛な顔をさせていたくはない。どうしようかと悩んだ末、ふとあることを思いついた。彼の意思を尊重しながら、彼の気を少しでも軽くできそうな方法を。


「でしたら、私の手伝いをお願いしてもいいでしょうか」


 思いもかけない言葉だったのだろう、彼の瞳が戸惑うように揺れる。私はにっこりと笑って、言葉を続けた。


「以前の私は、あちこちに迷惑をかけていました。私はそれを償い、新しい自分として生きていきたいと思っているんです」


「……そうか、それであんたは、やけに頑張っていたんだな」


 ぽつりとつぶやくエリックにうなずきかけて、言葉を選びながらさらに言う。


「はい。でも一人だとくじけてしまいそうですし、あなたに手伝ってもらえると嬉しいと、そう思っています」


 強引にならないように気をつけながらそう頼むと、エリックはどこか切なげに笑い、ゆっくりとうなずいた。


「ああ、もちろんだ。……それに俺たちは、友達だろう?」


 そもそもメグのことは彼にも言えないし、あの日記帳の存在を明かすのは気が引けた。それでも、今の私を理解して、傍にいてくれる人がいるというのは、とても心強かった。


 嬉しさに頬が緩むのを感じていると、エリックが小さく首をかしげてこう切り出した。


「なあ、俺があんたの手伝いをすることに異論はない。だが、俺からも一つ頼みたいことがあるんだが」


「はい、なんでしょうか」


「その口調、やっぱりもう少しどうにかならないか。前みたいにつんけんされるよりはずっとましなんだが……その、少々他人行儀な気がしてな」


 予想外の言葉に目を丸くしていると、エリックは照れ臭そうに頭をかいた。赤茶の髪がふわふわと揺れる。


「……だったら、こんな感じでいいのかしら」


 レベッカたちと話している時の感覚を思い出しながら、ゆっくりと口を開く。エリック相手にこんな口をきいているということが、どうにもくすぐったくてたまらなかった。


 けれど彼は満足そうに笑い、目を細めた。そうしているといよいよ猫そっくりだ。


「思った通り、そっちのほうがいい。……なんというか、やっと自然なあんたと話せた気がする。前みたいに高飛車でもなく、さっきみたいに馬鹿丁寧でもなく」


「馬鹿丁寧って、それは……」


「はは、気に障ったなら謝る。でも俺の正直な気持ちだ」


 私の方も、気のせいか彼との距離が少しだけ縮まったように思えていた。言葉遣い一つでここまで変わるものなのだなと感心しながら、私たちは今までにないほど和やかにお茶を楽しんでいた。






 その夜、私は一人日記帳を開いていた。もうすっかり日課になった作業を続けながらも、頭の中をめぐっているのは昼間のことだった。


「メグ、どうしてあなたはそこまでエリックのことを嫌っていたの?」


 もちろん、どこからも答えはない。開いたページに並んでいるのは、やはり『何もない日』の言葉ばかりだった。


 判で押したように同じ形をした優美な文字は、今度はどこか寂しそうに見えた。この寂しさは、きっとメグがずっと感じていたものだ。そしてこの感情の中に、彼女の振る舞いの理由がある。彼女であって彼女でない私は、そう確信していた。


 その晩、また夢を見た。前も夢に出てきたあの男性が、こちらに向かって微笑みかけている。見知らぬその顔は、ひどく懐かしく、そして心をざわつかせるものだった。

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