4.マーガレットとメグ
エリックが友達になることを承諾してくれたその日、私は中々眠れなかった。どうにも心が浮き立ってしまって、目を閉じても少しも眠くならない。寝台の中でごろごろと寝返りを打ちながら、今までのことを思い返していた。
以前の私は、エリックのことを毛嫌いしていた。でも今の私は、彼と仲良くなりたいと思っている。彼はまだ戸惑っているようだったが、それでもこちらに歩み寄ってくれた。
たったそれだけのことで、とても心が軽くなるのを感じた。あの日記帳を読んでしまったときからずっと心の中にわだかまっていたものが、少しだけ消えたように思えたのだ。
使用人たちを気軽に解雇していた高飛車で傲慢な以前の私と、記憶を失って手探りで歩き出している今の私。どちらも私だというのに、ずいぶん違ってしまったと思う。できることなら、もっと違った存在になりたい。
そう思った時、ふとひらめいた。以前の私に、名前を付けてしまおう。今の私と違う名前がいい。そうすることで、今の私と以前の私の間に、さらに距離を置くことができるような気がしたのだ。我ながら子供じみた考えだとは思うし、恥ずかしいので誰にも言えないけれど。
名前はすぐに決まった。メグ、それが以前の私の名前だ。
「メグ、私はあなたのようにはならない。もっとあなたのことを知って、あなたの過ちを償って、新しい自分になってみせる」
誰もいない暗闇に、私の決意の言葉はすっと吸い込まれていった。自然と笑みが浮かぶ。頭を打って目覚めてから初めて、心安らかな気分で笑えた気がした。
新たな自分になるという目標ができた私は、気分一新、改めて頑張ることにした。エリックとも話せたし、今のところ順調だ。そう思っていた。
しかし行動を開始した矢先、私は早くもくじけそうになっていた。
まず私は、一番身近にいるメイドや使用人たちとの関係を何とかしようと考えた。けれど彼女たちは必要最低限しか私に関わってこない。こちらから雑談を持ちかけようにも、用事があるといって逃げてしまうのだ。それも、はっきりとおびえた様子で。
一瞬、命令してでも彼女たちを呼び止めようかと思った。しかしすぐに思いとどまり、立ち去っていく背中を見送る。おびえる相手を命令で無理やり引き留めるだなんて、それではメグと何も変わらないではないか。ここは辛抱強く、何度でも呼びかけ続けるしかない。
けれどこれでは、私が変わったということをみんなに知ってもらいようがない。泣きたいのをこらえながら部屋に戻り、日記帳を開く。不思議なことに、以前の私をメグと名付けてから、この日記帳が恐ろしくなくなっていた。
「メグ、あなたが何をしてきたのかもっと知らないと。きっとそこに、変わるための糸口があるのだから」
もうすっかりおなじみになった『何もない日』の合間に、ところどころ違う文章が見える。それらを追いかけているうちに、私はあることに気がついた。
『レベッカは相変わらずおどおどとしてばかりで、辛気臭くてたまらないわ。何か落ち度でもあれば、喜んで首にしてやるのだけれど』
『今日はむしゃくしゃしたので、レベッカを呼びつけてやったの。あの子にお説教すると、少しだけ気が晴れるから』
『いつになったら、レベッカは口答えしてくれるのかしら。そうしたら、思いっきり罵倒して首にしてあげるのに。それまでは、せいぜい可愛がってあげることにしましょうか』
「相変わらず趣味が悪いのね、メグは」
そんな言葉がため息とともに漏れる。どうやら最近のメグは、レベッカという名のメイドに目をつけて、あれこれといびっていたらしい。
「レベッカには、一度しっかりと謝っておかないといけないわね。……本人が受け入れてくれるか、怪しいところだけど」
メグのしたことは私のしたことだ。私がどれだけ否定したくても、そのことに変わりはない。だから私以外に、彼女に謝罪できる人間はいない。
手早く日記帳に鍵をかけてしまいこむと、重い足取りで部屋を出た。
部屋を出てきょろきょろしていると、すぐに運の悪いメイドを捕まえることができた。逃げたくて仕方ないと顔に書いてある彼女に、レベッカを私の部屋に寄こすよう頼む。
「レベッカ、ですね。はい、承りました」
私の機嫌を損ねないようにしているのだろう、彼女はかわいそうになるくらいぎくしゃくしながら、それでも礼儀正しくうなずいた。しかし同時に、痛ましげな表情を浮かべている。
きっと彼女は、私がこれからレベッカをいじめるのだと思っているに違いない。違うのだと弁明したかったが、同時にそれが意味をなさないだろうことも分かっていた。私が変わったのだということは、言葉ではなく行動で示すしかない。
あわてて去っていくメイドを見送ると部屋に戻り、椅子に座って身構えた。これから、いよいよ謝罪の第一歩を踏み出すのだ。
心の中で、そっとレベッカに謝る。きっと彼女は、処刑台に向かうような心持ちでこちらに向かっているに違いない。できることなら、自然に彼女と近づいて、普通に話せるようになるのを待ちたかった。
でもそれでは、何年かかるか分からない。ひたすらに逃げ回るメイドや使用人に困り果てていたこともあって、私は思い切って動くことにしたのだ。
そわそわしながら、ただじっと待ち続ける。やがて、扉がとても控えめに叩かれた。
「どうぞ、入ってちょうだい」
期待と不安に、鼓動が一気に速くなる。精一杯平静を装いながらそう声をかけると、扉がゆっくりと開いて一人の女性が恐る恐る入ってきた。
「お呼びでしょうか、お嬢様」
顔に見覚えはないが、おそらく彼女がレベッカだろう。メイドのお仕着せをまとった彼女は、おどおどとしながら視線をさまよわせている。
彼女は女性にしてはかなり背が高いが、そのせいなのかやや猫背なのがいただけない。困ったように下がった眉と、せわしなく動く目が特徴的だ。黒目がちの顔はそこそこ整っていて、その分余計におびえた表情が際立ってしまっている。どちらかというとがっしりした立派な体格とは裏腹に、その表情は妙に弱々しい。
メグが彼女をいたぶりたくなった気持ちも、ほんの少しだけ分かるような気がする。分かりたくはないし分かってはいけないと思うけれど。
両手を強く握りしめたまま私の出方をうかがっている彼女の目の前で、私はゆっくりと立ち上がると、深く頭を下げた。ひっ、という小さな悲鳴が、頭の上から聞こえた。
「今まで私は、あなたにひどい仕打ちをしていたわね。ごめんなさい」
頭上から聞こえる声は、さらに困惑の度合いを増していた。あの、その、といった意味をなさない言葉が、切れ切れに聞こえ続けている。
そろそろと顔を上げると、震えながら口元を押さえているレベッカと目が合った。まるで悲鳴をこらえているような仕草だ。
「私が記憶をなくしているのはあなたも知っているわよね? でも私は、かつてあなたに辛く当たっていたことを思い出したの。ぼんやりと、でしかないけれど」
この言葉は嘘だった。メグの日記を読み直しても、レベッカについての記憶はこれっぽっちも戻らなかったのだ。正直にそう言おうかとも思ったが、そうすると日記帳のことを説明する必要が出てくる。
日記帳について他の人に知られたくない、そんな思いは未だに根強く心の中に巣くっている。それに、記憶がないということを言い訳に使いたくない。
「……信じてもらえないかもしれないけれど、私は記憶をなくしたのをきっかけに、まともな人間としてやり直そうと思ったの」
戸惑い続けていたレベッカが、ほんの少し表情を緩める。彼女は私の言葉を信じたがっているようでもあり、けれど同時に信じることを恐れているようにも見えた。
「これからは、あなたを、そしてみんなを苦しめないように精いっぱい頑張るわ。せめてもの罪滅ぼしとして」
「お、お嬢様は、なにも悪くなど」
「いいえ、私が悪いの」
勇気を振り絞ったらしいレベッカの言葉をすぐに遮り、私はもう一度頭を下げた。
「すぐに認めてもらえるなんて思っていないし、許してもらえるとも思っていない。でも必ず変わってみせるから、どうか見ていて。お願いよ」
顔を上げてレベッカを見つめると、彼女はまだ戸惑いつつも小さくうなずいてくれた。
レベッカが帰っていった後、私はまた日記帳を開いた。彼女について書かれた文をそっと指でなぞり、語りかける。
「メグ、レベッカは絶対に首になんかしないから。私、これから彼女に信頼してもらえるよう頑張るつもりよ」
相変わらず美しく優雅な文字は何も答えてはこなかったけれど、少しだけ不満そうに見えた。