34.私の日記帳
グレン様とエリックの間に挟まれてうろたえたあの日から、半月程が過ぎた。私がグレン様の側室となる話は、ひとまず保留となった。白紙ではなく、あくまでも保留だからね、とグレン様はしつこいくらい念を押していた。
けれど今、私は王宮で暮らしている。それが、グレン様が出した条件だったのだ。記憶を失った私を、もう一度自分に振り向かせてみせる。そのためにも、もっと近くにいたいのだとグレン様は主張していた。
レベッカは屋敷に残してきた。彼女は私についてきたがっていたけれど、彼女とゲオルグを引き裂くのはどうにも忍びなかったのだ。ぼろぼろと涙をこぼしながら戸惑う彼女に、だったらこまめに手紙を書いてね、と告げると、彼女はなおも泣きながら、はい、必ず、とそう答えてくれた。
王宮に来たのは私だけではない。なんと、エリックまでもが王宮に一室を与えられることになったのだ。しかも、グレン様たっての希望によって。
私だけがマーガレットの近くにいたら、公平な勝負ができないからね、とグレン様は挑発的に言い放っていた。一方のエリックは、お言葉に甘えさせていただきます、でもその判断を後悔させてあげますよ、などと言いながら、どこか不穏な笑顔で答えていた。
そうやって王宮で共に暮らすことになった私たちは、毎日のように三人で集まるようになっていた。グレン様の住処である離れで話し込んだり、人気の少ない庭を散歩したり。少しずつ出歩く範囲は広がっていき、そして。
「大分、お忍びも板についてきましたね」
「ああ、君のおかげだ。恋敵に教えを乞うのは少しためらわれたが、思い切って良かったと思っているよ」
そんなことを和やかに話しながら、エリックとグレン様は並んで歩いている。私は半歩下がってそんな二人を眺めている。
私たちが歩いているのは、王宮を取り囲む城下町だった。道を行く人々が時折私たちに目を止めるが、特に気に留めることもなくそのまますれ違っていった。
グレン様はエリックの服を借りて、ごく普通の貴族の令息のふりをしている。彼は立場こそ第二王子だが、王子として正式に公の場に顔を出したことはないのだそうだ。そんなこともあって、城下町で彼の顔を知る者はいない。だからこそ、こんな離れ業にも出られたのだが。
「マーガレット、歩き通しで疲れてはいないかな? ほら、私の手につかまるといい」
「それよりも、少し休もう。あっちの広場に、長椅子があるぞ」
今日は朝から、ずっとこんな調子だ。二人とも町歩きを楽しんではいるようだが、隙あらば私にいいところを見せようと、こんな感じで頑張っている。
「だったら、あそこの屋台で飲み物を買って、三人で休みましょう。あの椅子なら、三人一緒に座れるから」
そう答えて、二人の腕をつかむ。そのまま二人を引っ張るようにして屋台に向かっていった。
はしゃぎながら、跳ねるように駆ける私たち。町の人々は、とても優しい目でこちらを見ていた。
気持ち良く晴れた日に、気心の知れた人たちと町を歩き、甘酸っぱい飲み物を口にしながら長椅子で一休みする。ついこの間までは想像もできなかった、とても温かく幸せな時間だった。
「そういえば、レベッカから手紙が来たのよ。ゲオルグから正式に求婚されたんですって」
「へえ、それは良かったな。骨を折った甲斐があった。いつか、二人を祝いにいってやらないとな」
「二人を一度、こっちに招くのもいいかもしれないわね。子供たちも一緒に。あそこの子供たちにも、王都を見せてあげたいの」
「ああ、それもいいな。……あいつら、元気かな」
「きっと元気よ。また一緒に、みんなで林檎を食べたいわね」
「……マーガレット、こちらを向いてくれないかな」
私が左を向いてエリックと話していると、右側から不満げな声が上がる。そちらを向くと、グレン様が悲しげな顔でこちらを見つめていた。
「二人だけで楽しく話し込まないでくれ。寂しくなってしまう。……君は、私の知らないところで、私の知らない時間を過ごしていたのだね」
「グレン様……」
「私が日陰の身でなければ、記憶を失った君の傍にいて、君の力になってやれたのかもしれない。そう思うと、もどかしくてたまらないんだ」
グレン様がつややかな黒い瞳を潤ませて、そっと私の手を取る。その顔を見ていたら、黙っていることなどできなかった。
「あなたのことを忘れてしまったのは、申し訳ないと思っています。でもこれから、一緒にたくさんの思い出を作っていければと、そうも思うのです」
彼の手を両手で握りしめ、おずおずと笑いかける。黙ったまま、二人でじっと見つめ合う。
と、いきなり後ろからぐいっと肩をつかまれた。そのまま後ろに倒れこみそうになる私を、エリックがしっかりと抱き留める。
「ほら、危ないぞ」
肩を引っ張ったのはあなたでしょう、と抗議しようとしたその時、彼の言葉の真意を悟った。長椅子の上で半ば仰向けになった私の視界に、たくさんの白い影が飛び込んできたのだ。にぎやかな羽ばたきの音に、エリックの笑い声が重なる。
「鳩たちが物欲しそうにしてたから、さっき買ったクッキーをやってみたんだが……すごいな、どんどん集まってくる」
エリックが楽しそうに笑いながら、何やら身動きしている。どうやら、さらにクッキーのかけらを投げてやっているらしい。すぐ近くから、鳩の鳴き声がたくさん聞こえてくる。
「エリック、こんなに集めて大丈夫なのか? あと、鳩が私の膝の上にまで乗ってくるのだけれど……そんな目で見られても、私は何も持っていないよ」
グレン様は鳩には慣れていないらしく、戸惑った声を上げている。困っているようだし助けようか、と思いながら身を起こそうとしたが、エリックはしっかりと私の肩をつかんでしまっている。
「あの大きな水鳥に比べれば、鳩なんて可愛いもんだろう? あんたを一生守っていこうって言うんなら、鳩くらい自力でなんとかできるようになってもらわないとな?」
なおも鳩を呼び集めながら、エリックが耳元でいたずらっぽくささやきかけてくる。いまいち強引な理論のように思えたが、グレン様は大真面目に受け取ってしまったらしい。
「その勝負、受けて立とう。確かに私は、こういったものは不慣れだが……なっ、肩に乗ってきた!? こら、くすぐったいぞ」
いつになくあわてふためいたグレン様の様子に、私とエリックは声を上げて笑った。
澄み渡った青い空を、たくさんの白い影がはばたいている。その美しい光景をただあるがままに受け止めることができる幸福に、一人微笑んだ。
「こうしていたら、いつか私も恋を知ることができるのかしら」
そんな私のつぶやきは、元気良く騒いでいる二人には聞こえていないようだった。
その夜、私は自室として与えられた部屋でただ一人、いつものように日記帳を広げていた。
王宮で暮らすことになった時、私はためらうことなくこの日記帳を持ってきた。分厚いこの日記帳には、私の知らないメグの記憶がまだまだたくさん眠っている。
「いつになるか分からないけれど、必ず全部読み切ってみせるから。待っていてね、メグ」
机の上に置かれた日記帳に微笑みかけ、引き出しからもう一冊の日記帳を取り出す。メグのものとよく似た、けれど真新しいそれを開いて、今日あったことを記していった。
これは私の日記帳だ。王宮にやってきてから、毎日欠かさずにつけている。それ以前のことについても、少しずつ思い出しながら書き留めている。
メグの日記帳には、まだ空白のページが残っている。自分も日記をつけるのだと決めた時、その続きに書いてしまおうかと、最初はそう思った。
でも結局それはやめにして、父に頼んで新しい日記帳を用意してもらったのだ。だから今、私の首には二つの小さな鍵が下がっている。メグの日記帳を開けるための銀色の鍵と、私の日記帳を開けるための金色の鍵。
私はメグで、メグは私。そのことを実感してはいたけれど、同時にこう思ったのだ。この日記帳は彼女のものなのだから、この白いページはそのままにしておくべきだ、と。
「あのね、私、あなたのことを友達みたいに感じているのよ。こう言ったら、あなたは嫌がるかしら」
書き上げた日記帳を閉じて、隣に並んだメグの日記帳に話しかける。私がこうやってメグに話しかけているのは、私とメグだけの秘密だ。今のところ、エリックにもグレン様にも打ち明けるつもりはない。
「お互い、大変なことになっちゃったわね。これからどうなるか、私にも分からないけど」
二冊の日記帳を、まとめて抱きしめる。
「私たち、ずっと一緒よ。だからきっと、大丈夫」
窓の外に広がる夜空には、たくさんの星がきらきらと輝いていた。メグが私に笑いかけてくれているような、そんな気がした。
ここで完結です。
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