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32.秘めていた熱情

 心を決めてからの日々は、あっという間に過ぎていった。グレン様のもとに上がることを両親に告げた時、二人は真っ青になっていた。


 その表情に、もしかしてこれはメグから両親へ向けた復讐でもあったのかもしれないな、と思った。いつまで経っても自分を見てくれない両親への、最後の一撃。


 グレン様とやり取りしながら、その日に向けて準備を進めていく。その中には、エリックへの連絡もあった。私との婚約解消を一方的に申し出る手紙を、父が複雑な顔で書いていた。


 父に頼んで、その手紙に言葉を付け加えてもらった。もしもエリックが望むのなら、彼を私の家の養子としてもよいという、そんな文言を。彼は家を出られることを喜んでいた。そんな彼のささやかな希望まで、つぶしてしまいたくはなかったのだ。


 そうして手紙の最後に、私がさらに書き加える。私はもうよそに嫁ぐことになったのだから、あなたとはもう会えません、と。


 エリックの顔を見てしまったら、決意が揺らぐような気がしたのだ。きっと彼は私のことを心配してくれる。過去にとらわれて、望まぬ決断をしたのではないかと気遣ってくれる。そう確信できるからこそ、彼には会いたくなかった。


 幸い、エリックが私のもとを訪ねてくることはなかった。そのことに安堵と落胆を感じながら、私はついにその日を迎えることになった。






 その日私は、純白のドレスに身を包み、涙にくれる両親に見送られながら馬車に乗り込んだ。私を迎えに来た、王宮の豪華な馬車だ。


 どれくらい馬車に乗っていたのだろう。まるで一瞬で王宮に着いてしまったような、そんな錯覚にとらわれる。


 私は正妻としてではなく、側室として王宮に上がる。だから婚礼の儀は行われないし、出迎えの者もほとんどいない。これでは、先日アンドレア様と一緒にやってきた時と大差ない。そのことに、こわばっていた肩の力が少しだけ抜ける。


 侍女に導かれ、ゆっくりと王宮を進んでいく。グレン様が過ごしているのは王宮の奥にある離れだ。てっきりそちらに向かうものだと思っていたら、侍女は突然足を止め、途中にある部屋に入っていった。不思議に思いつつも、彼女の後を追う。


「マーガレット!」


 そこに待っていた人物を見て、思わず立ちすくんだ。


「エリック……どうして、あなたがここに……」


「どうしても、あんたに言っておきたいことがあったんだ」


 そう答える彼の唇は、かすかに震えていた。動揺しているのか、しきりにまばたきをしている。彼は深呼吸して息を整えると、ゆっくりとこちらに進み出てきた。金緑の綺麗な瞳が、まっすぐに私を見据えている。


 手を伸ばせば触れられるほどの距離を置いて、エリックが立ち止まる。


「……最初は、ただの引け目だったんだ。俺が至らないせいで、あんたは記憶を失ってしまった、そのことへの」


 肩を震わせ、唇を噛むエリック。そんな彼に、声をかけたいと思ってしまった。気にしないでと言って、励ましたかった。


「だから、友達になりたいっていうあんたの願いをためらうことなく受け入れた。せめてもの罪滅ぼしになればいい、そう思ったんだ」


 エリックは一瞬だけ切なげに目をそらし、またこちらを見る。


「でも、そうやってあんたと一緒に過ごし、あんたを知るうちに、俺の中には違う思いが生まれていった」


 彼の金緑の瞳から目が離せない。視界の端で、彼が手を伸ばすのが見えた。彼はそのまま私の手をそっと取り、両手で握ってくる。顔を伏せて、私の手に額をつけた。彼の赤茶の髪が、さらさらと私の手をくすぐる。


「……ゲオルグに偉そうに説教しておきながら、臆病者は俺の方だったな。あんたとの関係が壊れることを恐れて、口をつぐんで、あげくこんなことになってしまった」


 自嘲するようにつぶやくと、彼はまた顔を上げる。その目に浮かんだ熱っぽい感情にたじろいだが、それでも目をそらすことはできなかった。


「俺は、あんたの傍にいたい。度が過ぎるほど頑張り屋で一生懸命なあんたの傍にいて、力になりたい。ずっとあんたと、笑い合っていたい。あんたと離れたくない」


 エリックの言葉が嬉しくて、そして苦しい。思わずうつむくと、純白のドレスの裾が目に入った。


「側室だなんて、絶対に駄目だ。あんたは過去の自分から自由になるために、ずっと頑張ってきたんだろう? それなのに、今度は王宮のかごの鳥になるだなんて、あんたはそれでいいのか? 俺は……嫌だ」


 彼は私の手を強く握りしめたままだ。ドレスに覆われていない、私の手を。がっしりとした彼の手には、白くなるほど力がこもっている。けれど不思議と、そのことを不快だとは思わなかった。


「今からでも間に合う。逃げよう、マーガレット。どこまでだって、俺がずっとついているから。何があっても、俺があんたを支えるから」


 エリックがもう一歩、近づいてきた。目の前の彼が、とても遠くに感じられる。


「俺が、一生あんたを守ってみせる。これは義務じゃない。俺自身が、心からそうしたいと思っているんだ」


「エリック……」


 彼に答えたいのに、うまく言葉が出てこない。胸が苦しくて、たまらない。


 グレン様を悲しませたくないという思いは、今でも確かにこの胸のうちにある。けれどそれと同じくらい、もしかしたらそれ以上に、エリックと離れたくないとも思ってしまう。


 自分がこんなにも強欲で自分勝手だとは思わなかった。これでは、メグのことを非難できない。


「エリック、わたくしはグレン様のことを愛しているの。だから引き下がってちょうだい」


 とっさに、メグの口調を真似て、メグのふりをする。私がどう思っていようと、エリックがどう思っていようと、私にできることはただ一つだ。


 彼の気持ちは涙が出るくらい嬉しい。けれど私を連れて逃げたりしたら、彼が罪に問われてしまう。私の愚かな決断の責めを彼に負わせるのは、絶対に嫌だった。


 こうなったら何がなんでも、彼を突き放さなければならない。彼を守るために。破滅させないために。


「それと、手を放してもらえないかしら。いい加減、暑苦しいのだけど」


「……マーガレット、あんた……記憶が……?」


「ええ。分かったら、早く引いてちょうだい? あなたの出番はどこにもないのよ」


 一人であれこれ悩まずに、エリックにきちんと相談していたなら。彼のその思いを、もっと早くに聞くことができていたなら。


 私はもう一つの道を、選んでいただろう。メグへの配慮も、グレン様を傷つけることへのためらいも乗り越えて。エリックと離れたくないという思いは、他のどんな思いよりも勝っていた。彼を拒む言葉を口にして、ようやくそのことに気がついた。


 この引き裂かれるような胸の痛みは、罰なのだ。自分の心から目を背けて、一人で突っ走って、安易な選択に流されたことへの。


 そう思ったとたんに、涙がこぼれ落ちた。笑顔のままの私の頬を、一粒の熱いしずくが転がり落ちていく。


 エリックはそれを見たとたん、顔を引き締めた。離しかけていた私の手をもう一度しっかりと握りしめ、腹の底から絞り出すような声で短く叫ぶ。


「嘘だ!!」


 もう、彼の顔を見つめていられない。もう一度うつむいた私を、彼はがばりと抱きしめた。純白のドレスに、エリックの手が触れる。


「もう決めた。あんたが何と言おうと、俺はあんたをさらって逃げる」


「駄目、そんなことをしたらあなたが! あなたが、罪人になってしまう!」


 メグの演技をすることも忘れて、必死に叫び返す。けれどどうしても、彼の腕を振りほどくことができなかった。


 私はそのまま、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

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