31.今はもうない光景
記憶のないマーガレットが王宮を訪ねてきたその日の夜、グレンは夢を見ていた。
その夢の中で、彼はお茶会に出ていた。ああ、ここはあの日のお茶会だ。彼はすぐに、そのことに気がつく。
王子でありながら立場がひどく弱い彼は、できるだけ人目につかないように過ごしている。そのため、彼がお茶会の類に顔を出すことはほとんどなかった。この時は兄であるセドリックに頼み込まれ、仕方なく出席したのだった。
彼の立場を知る他の令息や令嬢たちは、ろくに彼に声をかけてくることはなかった。自分に向けられる好奇の視線を受け流しながら、グレンはただじっと耐えていた。
夢の中で、彼はあの時と同じ気持ちを味わっていた。何もかもが息苦しく、灰色に見える。あとどれだけ、こうやって色あせた日常に苦しめられなければならないのだろうと、いつも彼はそう思っていた。
「はじめまして、グレン様。わたくし、マーガレットと申します」
その瞬間、彼は風景が鮮やかに色づいたように感じていた。目の前の令嬢は少しばかり気が強そうだったが、年頃の少女らしい可愛らしさにあふれていた。
ひときわ豪華なドレスをまとっていた彼女は、何の変哲もないごく普通の令嬢にしか見えなかった。それなのに彼は、不思議と心が浮き立つのを感じていた。
「わたくし、お願いがあって参りました。どうか、わたくしとお友達になってはいただけませんか?」
不思議なことを言う人だ。グレンが最初に思ったのは、そんなことだった。
その後どんな言葉を交わしたのか、彼は覚えていない。けんもほろろに彼女を追い払ったことだけを、かろうじて覚えていた。日陰者である自分が、うかつに他人と関わるべきではない。彼はそう考えていたからだ。
けれどマーガレットはしつこかった。彼が公の場に顔を出すと必ず、そこに彼女も居合わせていた。そうして彼に近づき、同じ願いを口にするのだ。「お友達になっていただけませんか?」と。
ついに彼は根負けして、首を縦に振ることになった。その時のマーガレットの嬉しそうな顔は、今でも彼の脳裏に焼き付いている。
そうして、グレンの生活は少しだけ変わった。マーガレットはあれこれと理由をつけては王都にやってきた。そうして彼女は王宮の勝手口を通り、人気のない廊下を選んで歩き、グレンのもとをこっそりと訪ねてくるようになったのだ。
グレンは王宮の奥にある離れで、ごくわずかな使用人と共に過ごしている。たまに兄であるセドリックが訪ねてきてくれたが、父である王はめったに顔を出すことがなかった。母は体を悪くしていて、遠い地で静養している。
だからグレンは、外の情勢についてほとんど知らなかった。マーガレットにまつわる悪い噂の数々を全く耳にしないまま、彼は密かに彼女と親交を深めていったのだった。彼の目に映る彼女は、少々素直ではないところがあるものの、くるくると表情を変える可愛らしい少女でしかなかったから。
「どうして、君は私と友達になりたいなどと言ったのだろうか? それも、あんなに執拗に」
グレンはずっとそのことが気になっていた。マーガレットは困ったように笑うと、小首をかしげながらゆっくりと答えた。
「その、こんなことを言うのはどうかと思うのですけれど……グレン様が、とても寂しそうに見えたんです。ひとりぼっちで、誰も傍にいなくて……ああ、わたくしと一緒だなって、そう思ったんです」
「……それは間違っていないよ。ならば、君もひとりぼっちなのだろうか?」
グレンの問いに、マーガレットは寂しそうに笑ったっきり答えない。きっと彼女にも事情があるのだろう。そう考えて、彼はそれ以上追及しないでいることにした。
「妙なことを聞いて済まなかったね。お詫びに、とっておきの茶葉を振る舞うとしようか」
嬉しそうに笑ったマーガレットの顔には、もう先ほどまでの暗い影は見えなかった。
やがて、二人は互いを強く思い合うようになった。こうして会っていることすら内緒にしていた二人は、周囲の誰にも気づかれぬまま、思いを育んでいたのだった。
「……わたくし、グレン様にお伝えしなくてはなりません。実はわたくし、とびきりの悪女なんです」
ある日、マーガレットがうつむいてそう告げてきた。悔しそうに唇を噛んでいる。
どういうことだと、グレンがあわてて問いただす。彼女が打ち明けたのは、こんなことだった。
彼女はずっと、両親に溺愛されて育った。一度たりとも、両親は彼女を叱ったことがなかった。彼女は両親の愛が信じられず、両親を試すためにささやかな悪事に手を染めるようになってしまった。
グレンといる時の彼女はとても愛らしいごく普通の少女だが、なんでも彼女は自分の屋敷や領地では、鼻持ちならない傲慢な令嬢として知られているらしい。
一通りの事情を聞き終えたグレンは、腕を組んで小声でうなった。
「君の気持ちも、分からなくはないが……自分を貶めるような真似をするのは、良くないな」
「……はい」
「少しずつでいい、そんな行いからは足を洗ってくれ。できるね?」
「……はい。あの、グレン様は……わたくしに、幻滅されましたか……?」
泣きそうな顔で尋ねるマーガレットに、グレンは胸がいっぱいになるのを感じた。彼は彼女を安心させるように笑みを浮かべながら、首を横に振る。彼は気づいていなかったが、その時の彼の笑顔は、泣き笑いに近いものだった。
「いいや。どんな君でも、変わりなく愛している。だからどうか、私を信じてくれ」
「はい、グレン様……」
二人はそのまま見つめ合う。どちらからともなく手が伸びた。二人の手のひらが合わせられ、そっと指が絡み合う。
グレンの胸には、色鮮やかにきらめく幸せが満ちていた。
そこで、グレンは目を覚ました。ゆっくりと開いたまぶたの間から、ころりと涙が一筋こぼれ落ちる。
「夢を見て泣くなど、まるで子供だな」
先日彼のもとを訪れた彼女は、記憶を失ってしまったと言っていた。その時は気丈に振る舞っていた彼だったが、やはり悲しかったのだ。あの満たされた時間とその思い出は、もう彼女の中には残っていない。
「それでも、私は諦めたくないんだ……」
記憶を失ったというのなら、思い出させよう。もし思い出せないというのなら、もう一度新しい思い出を作っていこう。
「……マーガレット……」
グレンは敷布を握りしめ、力なくつぶやく。その言葉は誰に聞かれることもなく、朝の空気の中に消えていった。




