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30.揺るがぬ思いと揺らぐ心

 グレン様は立ち尽くしたまま、何も言わない。彼がどんな顔をしているのか知りたくない私は、目をそらして言葉を続ける。


「私は頭を打ち、ほとんどの記憶をなくしてしまいました。あなたと過ごした日々も、あなたと交わした言葉も、何一つ覚えていないのです」


 やはり、返事はない。その沈黙に焦りを感じながら、急いで言葉を続ける。


「あなたはかつての私のことを思っていてくださったようですが、今の私にはあなたの思いを受け取る資格はありません」


 軽く顔を伏せて、上目遣いでちらりとグレン様の様子をうかがう。彼は黒い瞳を細めて、静かにこちらを見つめていた。じっくりと、私の言葉を噛みしめているようにも思える。


「それに、こんな私があなたのお傍に上がってしまえば、きっとあなたのことを苦しめてしまいます」


 メグとグレン様は愛し合っていた。だからこそ、グレン様はメグの願いを聞き入れ、彼女を傍に置くと決めたのだ。彼のことを愛していないどころか何も覚えていない私では、メグの代わりは務まらない。そんな思いを込めて、懸命に訴えかけた。


 言うべきことは、これで全部だっただろうか。微動だにしないグレン様の方をちらちらと見ながら、必死に考え続ける。彼は何を考えているのだろう。どう言えば、彼の心を動かすことができるのだろう。


 と、グレン様が音もなく動いた。ゆっくりと、こちらに歩み寄ってくる。


 顔を上げた次の瞬間、私は抱きしめられてしまっていた。息もできないほど強く。


「本当に、君は私のことを忘れてしまったのか」


 すぐ近くから、グレン様の泣きそうな声が聞こえてくる。申し訳ないという気持ちと、私を包み込む心地良い温かさに混乱する。知らない筈のその温もりは、不思議なほど懐かしかった。


 戸惑いながらも、ゆっくりとうなずく。私を捕まえている腕に、さらに力がこもった。


「私は、君のことを……ようやく、一緒になれると思ったのに」


 触れた体越しに、グレン様が震えているのが伝わってくる。かける言葉が見つからず、ただじっと、抱きしめられるがままになっていた。


「……通達は撤回しない。予定通り、君は私のもとに来てくれ」


 どれくらいそうしていたのか、突然、グレン様が静かにそう告げた。


「でも、私は」


 反論しようと口を開きかけたその時、グレン様の腕が緩んだ。彼は私の両肩を優しくつかみ、正面から私を見つめてくる。きっと普段は穏やかなのだろう黒い瞳には、こちらを射抜くような強い光が浮かんでいた。


「いずれ、君の記憶が戻るかもしれない。私は君の記憶が戻るよう、全力を尽くす。私は君のことを、諦めたくはないんだ」


 柔和な目元を悲しげに下げて、グレン様が小さく微笑む。次の瞬間、彼は顔を寄せて私の額に口づけた。驚きのあまり、体がこわばる。けれど心のどこかで、嬉しいと感じてしまっている自分がいた。


 どこまでが私の感情で、どこからがメグの思いなのか。複雑に交差する感情に頭がついていかず、ただ呆然とグレン様の顔を見つめていた。グレン様は甘い甘い笑みを浮かべて、それは優しく言葉を続ける。


「待っている、マーガレット。君が私のところに来てくれる日を。何があろうと、どんな君であろうと、私は君のことを愛すると誓おう。だからどうか、私を拒まないでくれ」


 ああ、夢で見た笑顔だ。もう、私には何も言えなかった。






 まだ呆然としている私を置いて、グレン様が名残惜しそうに立ち去っていく。彼と入れ替わるようにして、アンドレア様が大急ぎでやってきた。


「お待たせしてごめんなさい。少し、用事が長引いてしまったの。……どうしましたの、マーガレット。何だか顔色が悪いようですけれど」


「アンドレア様……どうしたらいいのでしょう。私、断る言葉が出てきませんでした」


 唐突にそうつぶやいた私の言葉が理解できなかったのだろう、アンドレア様が可愛らしく小首をかしげる。そんな彼女に、先ほどのことを順に説明していった。


 まだ混乱していて要領を得ない私の話に、それでもアンドレア様は辛抱強く耳を傾けている。一通り聞き終えると、彼女はこくりとうなずいた。


「ひとまず、こんなところで立ったままする話ではありませんわね。こちらにいらして」


 そう言うなり、彼女は私を人気のない小さな中庭に連れていった。周囲に誰もいないことを確認してから、アンドレア様が言い出しにくそうに口を開く。


「あのグレン様が、そこまではっきりおっしゃるだなんて……あなた、本当に大切に思われていますのね」


 その言葉に小さくうなずく。グレン様の表情や声には、私、いやメグに対する深い愛情がありありと表れていた。だからこそ、私はあれ以上拒絶の言葉を重ねることができなかったのだ。


「……それで、あなたはこれからどうされますの? 改めてグレン様に、お断りを入れるのかしら」


 自分でもどうしたいのか、分からなかった。グレン様に会うまでは、彼の通達を拒否して、それで終わりにするつもりだった。でも彼の、メグへの思いを目の当たりにしてしまった今では。夢で見た面影に、出会ってしまった今では。


「……分かりません」


「そう。でもこのままでは、あなたはグレン様のもとに行くことが決まってしまいますわ。断るなら、今しかありません。いえ、今でも少し遅すぎたくらい」


 彼女の言う通りだ。グレン様はもう、私を迎えるための準備を始めてしまっている。もう私には、悩んでいる時間すら与えられていなかった。でも私は、それでも決断できなかった。


「……戻りましょうか、マーガレット」


 うつむいたまま動かない私に、アンドレア様がそっと声をかけた。こちらをいたわっているような、どこか悲痛さを帯びた声だった。






 それからのことは、ぼんやりとしか覚えていない。アンドレア様と別れ、馬車を借りてまっすぐに自分の屋敷に戻った。通達があった日からずっとおろおろしている両親の横を素通りして、ふらふらと自室に戻る。心配そうな顔のレベッカが出迎えてくれたが、彼女は何も言わなかった。


 食欲がないから、今日はもうこのまま休む。そう言って、一人で自室にこもった。寝台に倒れこみ、深々と息を吐く。


「グレン様を、悲しませたくない……」


 思いつくまま、次々と言葉を口にする。自分で自分に語り掛けるように、問いかけるように。


「あの方に、懐かしいものを感じてしまう」


「でもそれなら、エリックは……彼は、どうするの?」


 生き生きと輝く金緑の瞳を思い出すと、胸が痛くなる。


「……いいえ。グレン様は私のことを愛している。エリックは私の大切なお友達。だったら答えは、もう決まっている」


 どっちの道を選んでも、後悔は残る。だったらせめて、傷つく者が少ない道を行こう。


 のろのろと身を起こし、日記帳を手にする。つややかな革の表紙に触れて、ぽつりとつぶやく。


「……ねえ、メグ。私、グレン様のところに行くことになったのよ。あなたの代わりに」


 もちろん、答えはない。


「あなたは怒る? それとも喜ぶ?」


 日記帳をぎゅっと抱きしめて、床にうずくまる。


「ねえ、答えてよ……」


 どうしようもない心細さを抱えたまま、私はじっと身じろぎ一つせずにうつむいていた。

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