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3.初めての友達

 頭を打ってから二日経ち、三日経っても、記憶はそれ以上戻ることはなかった。傷は順調に癒えていて、もう頭が痛むこともなくなっていた。


 失われた記憶について、一つだけ手掛かりはあった。あの日記帳だ。あれをじっくりと読んでいけば、それをきっかけにして記憶が戻ってくるかもしれない。


 そう考えたとたん、ぶるりと身が震えた。この前突き付けられた恐ろしい事実、以前の私がどうしようもなく傲慢で自分勝手だったという事実を、まだ私は受け止め切れていない。


 きっとあの日記帳には、過去の私の悪行がまだまだ眠っているだろう。そう思うと、日記帳に触れることすら恐ろしかった。


 自分の身を自分で抱きしめるようにしながら、しばらく机の前で立ち尽くす。


 過去から目をそむけたところで、過去は何一つ変わらない。それに、何かの拍子にまた記憶のひとひらが戻ってこないとも限らない。先にこの日記を読んで、何があったかだけでも把握しておけば、そんな場合であってもきっと落ち着いて対処できるだろう。


 意を決して、日記帳を取り出す。震える手で、まだ見ていないページを開いた。少しずつ昔へさかのぼっていく。


 何もない日、という見慣れた無難な言葉が続く。ほっと息を吐いた時、またもや目を疑うような記載に出くわしてしまった。その日付は、記憶を失う十日ほど前になっている。


『相変わらずエリックは気にさわる物言いばかり。つい、平手打ちをしてしまったわ。顔も見たくないと言っているのに、性懲りもなく訪ねてきて。彼が婚約者だなんて、絶対に認められない』


 思わず目を見開いた。エリックというのは、頭を打って目覚めた時に一緒にいたあの男性だ。それなりに親密な関係なのだろうなとは思ったけれど、まさか婚約者だったとは。


 そして以前の私は、彼のことを毛嫌いしていたようだった。それなのに私はあの日、彼と二人きりで会っていた。妙なこともあるものだ。


 あの日、私を介抱してくれていた彼の姿を思い出す。今の私が知る限り、彼は誠実な好青年のようだった。平手打ちをくらわせたくなるような人物だとは、とうてい思えない。私と彼の間に、いったい何があったのだろう。


 首をかしげながら、さらにもう少し読み進める。けれどどこにも、その答えは書かれていなかった。






 そんな風に過ごしていたある日、エリックがふらりと訪ねてきた。改めてお見舞いにきてくれたのだそうだ。日々メイドや使用人たちにあからさまに避けられている身としては、そんなささいな気遣いがとても嬉しい。


「……よう、マーガレット。そろそろ何か思い出せたかと思って、来てみたんだが……」


 人懐っこい猫を思わせる整った顔に心配そうな色を浮かべて、彼がためらいがちに尋ねる。私のことを気遣ってくれているのは確かだったのだが、それと同時に私の逆鱗に触れることを警戒しているような顔だった。


 仕方ない。以前の私は、きっと彼にもきつく当たっていたのだろうから。そう自分に言い聞かせつつも、少し悲しくなるのを止められなかった。暗い顔を隠すように、うつむいて首を横に振る。


「そうか。……こういうのは、焦ってどうにかなるものでもないと、そう聞いたことがある。気を落とさずに、ゆったり構えておけばいいんじゃないか」


 上目遣いに彼を見ると、彼はためらいがちに苦笑を向けてきた。私にどう接していいのか分からないといった顔をしている。


「あの、エリック様」


 そう呼びかけると、彼は気まずそうに身震いした。いや、気味悪がっているのか。


「様はいらない。呼び捨てにしてくれ」


 普通、婚約者同士であってもそこまで砕けた話し方はしない筈だ。訳が分からずに目を丸くする私に、エリックは小さく笑いかけた。


「ずっとあんたは俺を呼び捨てにしていたから、今さら様づけなんてされると落ち着かない、ただそれだけのことだよ。……まあそれを言うなら、その丁寧な物言いもそうなんだが」


 何となくそんな予感はしていたが、前の私は彼に対しても高飛車だったらしい。他家の令息、しかも婚約者を呼び捨てにしていただなんて。


 がっくりと落ち込みそうになるのをぐっとこらえて、ずっと気になっていたことを口にする。


「それでは、エリック。記憶をなくす前の私は、あなたのことを嫌っていたような気がするのですが……」


「ん? もしかして、何か思い出したのか」


 私の質問に、エリックが小さく目を見張る。けれど彼は、私の言葉自体は全く否定していない。やっぱり以前の私は、彼のことを嫌っていたのだ。彼にも分かるくらい、はっきりと態度に出して。


 さらに落ち込みながら、あいまいに言葉を濁す。


「ああ、ええと、何となくです」


 私はまだ記憶を取り戻していない。けれど、あの日記帳のことは秘密にしていたい。とんでもない言葉がふんだんにつづられているだろうあの日記帳は、とても恥ずかしいもののように思われたのだ。


 視線をさまよわせている私を怪しむでもなく、エリックは平然とうなずいた。綺麗な金緑の目が、まっすぐにこちらを見ている。


「確かに、前のあんたは俺を嫌っていたな。まあ、それも仕方のないことだとは思っていたが」


「仕方ない? いったい、どういうことでしょうか」


「そうか、あんたは覚えていないんだったな。たぶんなんだが、あんたは俺との婚約に納得がいってないようだった」


 あの日記にも、そんなことが書かれていた。でも、ならばどうして私たちは婚約したのか。分からないことが、どんどん増えていく。


 つい難しい顔をしてしまっていたのだろう、エリックが苦笑した。


「俺たちがどうして婚約することになったのか、まずそこから分かっていないっていう顔だな。無理もないか。良ければ、ざっといきさつを説明するが」


「はい、お願いします」


 そう答えて姿勢を正すと、エリックの苦笑が柔らかくなった。ちょっとだけ、彼の警戒が解けている気がする。


「まずは、俺たちの家について説明しておくか。あんたの家も俺の家も伯爵の位にあるが、家の格だけでいうなら俺の家の方がずっと上なんだ」


 なるほど、とうなずく私から目をそらし、彼は表情を消して目を細めた。あっという間に、彼の雰囲気が変わる。先ほどまで人好きのする笑顔を浮かべていた彼は、一転して他人を拒むような冷たさを漂わせていた。


「でも俺は次男で、家を継ぐ予定はない。だから俺は、あんたのところに婿入りすることになった。俺の親は余った息子を片付けられるし、あんたの親は格上の家と縁を持てる。双方にとって利のある婚約ってことだ」


 何故だろう、その言葉を聞いて胸がちくりと痛んだ。以前の私は彼のことを嫌っていたようだし、今の私も彼のことはほとんど知らない。私が心を痛める理由なんて、何もない筈なのに。


「ところがあんたは俺のことが心底気にくわなかったみたいで、婚約はしたものの、あんたはろくに口もきいてはくれなかった」


「……どうして、以前の私はあなたを嫌っていたのでしょうか」


「それは俺には分からない。気にするだけ無駄だと思っていたからな」


 エリックは静かに笑って、目を閉じた。彼は私と二つしか違わないと、そう聞いている。それなのに目の前の彼は、ひどく大人びて見えた。


「愛のない結婚なんてよくある話だし、妻に嫌われた夫というのも珍しくはない。貴族の家に生まれたからには仕方のないことと、俺はそう割り切っていた」


「それでは、あなたは私のことが、その……嫌い、なのでしょうか」


 何故かそんなことが気になった。私にそんなことを聞く資格はないのかもしれないと思ったが、聞かずにはいられなかったのだ。


 うつむいて唇を噛んでいる私に、彼は柔らかな苦笑を向けてくる。


「いいや。あんたはわがままで尊大だったが、案外話せば分かるんじゃないかと思っていた。……今となっては確認のしようもないような気もするが」


「……ごめんなさい」


「おい、何を突然謝ってるんだ」


 エリックの言葉はとても自然で、彼が思ったままを口にしているのが分かった。でもそれだけに、以前の私が彼にした仕打ちが許せなかった。


 彼は決して悪い人間ではない。けれど以前の私は彼を毛嫌いして、あまつさえ平手打ちまで食らわせた。どうせ私のことだ、その場では謝っていないに決まっている。


「その、以前あなたを殴ってしまったような、そんな気がしたので……」


「言われてみれば、そんなこともあったな。ただ、別に俺は気にしていない。それよりも、あんたがしおらしくしていると、どうも調子が狂うんだ。だからあんたも、気にするな」


「ありがとう。……でしたら、もっと偉そうに振る舞った方がいいのでしょうか。その、以前の私のように」


 私は本気でそう言ったのだが、エリックは目を見開くと、大きく口を開けて笑い出した。先ほどまでの暗い空気が、一度に吹き飛ぶ。


「いや、それはやめておいた方がいいと思う。違和感はあるが、あんたはあんたが楽なように振る舞っていればいいさ。記憶が戻れば、いずれ自然とどこかに落ち着くだろう」


「ありがとう、エリック」


 彼はやはり思ったままを言ったのだけなのだろうが、それでも今の自分を肯定してもらえるのは嬉しかった。あの日記にさんざんに打ちのめされた後だったから、なおさら。


「どういたしまして。……さて、長居してあんたを疲れさせるのも悪いし、そろそろ帰るとするか」


「あ、あの!」


 このまま彼を帰してしまいたくない。彼ともっと親しくなりたい。そう思った勢いのままに、彼を引き留めてしまった。


 彼はわずかに首をかしげると、目だけで続きをうながしてきた。その金緑の輝きに励まされるように、勇気を振り絞って言葉を続ける。


「その……エリック。良ければ、私と友達になってはくれませんか」


 自分でもおかしなことを言っているとは思う。私たちは既に婚約しているのだ。友人よりもずっと、近しい関係だ。


 それでも私は、彼と友達になりたいと思ってしまった。以前の私を拒むことなく、今の私を受け入れてくれている、彼と。


 エリックは金緑の目を真ん丸に見開いて、ぽかんと口を開けている。私の今の言葉が、とても信じられなかったのだろう。


「……なあ、あんた自分が何を言っているのか分かっているのか?」


 その声には、どこか呆れたような響きが混ざっている。どこか薄気味悪いものを見るような目で、彼は私をじっと見ていた。


「分かっています。でも、私は……」


 うまく言葉が出てこない。とっさに口が動いてしまったとはいえ、私はなんと図々しいことを言ってしまったのだろうか。今までさんざん彼のことを遠ざけていたくせに、記憶を失ったとたん友達になりたいだなんて。


 自己嫌悪の影がゆるゆると忍び寄ってくる。ずんと胸が重苦しくなった。


 彼から目をそらして、またうつむく。顔を上げるのが怖い。エリックは何も言わない。居心地の悪い沈黙が、ぐさぐさと胸に突き刺さっている気がする。


 それ以上何も言えずに困り果てていると、エリックが静かに一言つぶやいた。


「……ああ。いいぜ」


 恐る恐る顔を上げると、そこには困ったように眉を下げ、口元に小さな笑みを浮かべたエリックの顔があった。

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