29.彼女が愛した人
アンドレア様からの返事は、驚くほど速かった。私が彼女に手紙を送った三日後、私は彼女の屋敷に招かれていた。メイドを下がらせて二人きりになったとたん、アンドレア様がもどかしげに口を開く。
「マーガレット、グレン様が側室を迎えられるという話についてはセドリック様からうかがっておりますわ」
セドリック様というのはアンドレア様の婚約者であり、グレン様の腹違いの兄であるこの国の第一王子だ。
「いつも控えめなグレン様が、どうしても愛する者と共にいたいと、陛下にそう訴えておられたらしいんですの。その話は私も小耳に挟んでいたのですが、まさかそれがあなたのことだったなんて」
以前はあんなに堂々と、そしてゆったりと構えていたアンドレア様は、戸惑いを隠せないのか視線をさまよわせている。
少し迷って、本当のことを打ち明けることにした。彼女に何も知らせないまま、協力を仰ぐのは難しいだろう。
「そのことなのですが……私が記憶を失っていることは、前にお話ししたと思うのですが」
「ええ。私が開いたお茶会で、確かにそううかがいましたわ」
「……以前の私は、グレン様と密かに思い合っていたようなのです。この側室の話も、記憶を失う前の私がグレン様にもちかけたものでした。ですが……」
難しい顔をしたアンドレア様からそっと目線をそらし、言葉を続ける。
「今の私は、グレン様のことを何一つ覚えていないのです。それに、婚約者であるエリックを、こんな形で裏切りたくなくて……」
言葉を濁してうつむく私に、アンドレア様が声をかけてくる。いつものものとは全く違った、硬くこわばった声だった。
「つまり、今のあなたはグレン様のことを愛していない、側室の話は迷惑だ。そう受け取ってよろしいのかしら」
「……はい、その通りです。グレン様には申し訳ないのですが、今回の話をどうしてもお断りしたくて……」
「そうですわね。正妻としての婚約でしたらどうにもならなかったでしょうが、側室ですものね。まだ白紙に戻すことは可能でしょう。グレン様はがっかりなさると思いますけれど」
アンドレア様の口ぶりに、ほっとすると同時に胸が痛くなる。おそらくグレン様は、事情を説明すれば引き下がってくれる、そんな方なのだろう。メグのことを待ち望んでいる彼をがっかりさせることに、少し罪悪感を覚えずにはいられなかった。
「けれど、今のあなたにはエリック様がおられますものね。どちらかを選ばなければならないとなれば、答えは言うまでもないでしょう」
意味ありげに笑いながら、アンドレア様がこちらを見る。
「前にあなたがあの令嬢たちに脅されていたことを彼に知らせたら、それはもう感謝されてしまいましたの。あなたはとても大切に思われていますのね」
どう返事をしていいか分からずに、軽く礼をして黙り込む。確かにあの時、エリックは大急ぎで駆けつけてくれた。でもそれは彼が私の友達で、婚約者だからだ。メグとグレン様の間にあったような情熱的な思いは、そこにはない。
それを寂しいと感じていることに、今頃になって気がついた。
「そうと決まれば、急ぎましょう。ちょうどこれから、セドリック様のところに向かう予定がありますの。あなたも、私と一緒に王宮に来ればいいわ」
善は急げとばかりに、アンドレア様は私をうながす。そうして私たちは、二人揃って王宮に向かうことになった。
アンドレア様の屋敷から王宮まではそう遠くない。私たちは当たり障りのない話をしながら、じっと馬車に揺られていた。
「王宮に着いたら、少しだけ待っていてくださるかしら。私はまずセドリック様にお会いしなくてはならないの。その用事が終わったら、一緒にグレン様のもとに参りましょう」
「はい、分かりました。アンドレア様がついていてくださるのなら、これほど心強いことはありません」
「そんなに身構えなくても大丈夫でしてよ。グレン様はとてもお優しい方ですから」
「……その、グレン様というのは、どのようなお方なのでしょう」
どうやらアンドレア様は、グレン様と面識があるようだった。こらえきれずにそう尋ねると、彼女は小さくうなずいて言葉を返してくる。
「とても繊細で思慮深い、素敵なお方でしたわ。……私には、セドリック様の方がずっと魅力的だと思えてしまうのですけれど。きっとこれは、恋する乙女のひいき目なのでしょうね」
「まあ……」
アンドレア様は人差し指で唇を押さえ、片目をつぶってみせた。それはとても愛らしい仕草だった。
「今の私の言葉は、どうか内緒にしておいてくださいませ。うっかりセドリック様に知られてしまったら、恥ずかしくてたまりませんもの」
今までで一番華やかに、アンドレア様が笑う。あまりに幸せそうなその笑顔に、ぶしつけだと思いながらもさらに尋ねずにはいられなかった。
「……アンドレア様は、セドリック様のことを愛しておられるのですね」
「ふふ、そうですわ。私がセドリック様の婚約者に選ばれたのは、あくまでも家柄や私の素養を見込んでのことでしたが……セドリック様にお会いした瞬間、私は悟りましたの。ああ、この方こそが私の運命の相手だったのだと」
うっとりと語るアンドレア様を、じっと見つめる。恋する乙女の顔で、彼女は微笑んでいた。
「そしてセドリック様も、同じように思ってくださっていたの。そのことを伝えられた時は、今までで一番嬉しかった」
アンドレア様がうらやましい。メグがうらやましい。誰かを心から愛することのできる彼女たちが。そんな思いが胸をよぎる。
その拍子に、エリックのことを思い出した。私もいつか、彼女たちのように彼のことを愛することができるのだろうか。
私と彼の間にあるのは、ただの友情だ。一体どうすれば、その思いを恋慕の情へと変えられるのだろうか。そもそもこういったことは、理屈では片付かないし、自分一人でなんとかできることでもない。
アンドレア様に気づかれないようにそっとため息をつきながら、窓の外を見た。遠くに小さく、王城とそれを取り巻く城下町の姿が見えていた。
無事に王宮に着いた私は、いったんアンドレア様と別れ、人気のない回廊で彼女の帰りを待っていた。
この王宮のどこかに、グレン様がいる。私はこれから彼に会って、残酷な現実を告げなくてはならない。彼が愛したメグは、もうどこにもいないのだということを。
考えただけで気が重かった。窓枠に肘をついて庭を眺めながら、もう何回目になるのか分からないため息をつく。
「マーガレット?」
澄んだ男性の声が、私を物思いから引き戻す。窓から離れてそちらを振り返ると、若い男性が急ぎ足でこちらに近づいてくるのが見えた。
小麦畑を思わせる金の髪に、夜の闇を映したようなつややかな黒い瞳。少々線が細いが、気品にあふれた物腰の優しげな男性だった。その端正な顔には、心底嬉しそうな笑みが浮かんでいる。
それは、夢の中で何度も見た顔だった。私には、すぐに分かってしまった。この方が、グレン様なのだと。
どうしようもなく胸が高鳴っているのは、私の中に残っているメグの思いのせいなのだろうか。彼を見つめているだけで、どんどん頬が熱くなっていく。彼に惹かれているのはメグなのか、それとも私なのか。
「君をここで見かけたと、侍女が教えてくれたんだよ。王宮に来ているのなら、私のところを訪ねてくれれば良かったのに」
「グレン様……」
「君のための特注のドレスは、もうほとんど完成しているんだ。二人でこっそりと準備をした甲斐があったよ。君があのドレスをまとって、私のもとに来てくれる日が待ち遠しい」
にこにこと幸せそうに微笑んでいるグレン様をじっと見つめ、深呼吸する。いつまでも、その時を引き延ばしてはいられない。
アンドレア様がいないのが心細いが、そんな子供のようなことを言っている場合ではない。彼と話せば話すほど、きっと私の決意は鈍ってしまう。
「グレン様、今日はお願いがあって参りました」
私の声音に真剣なものを感じ取ったのか、グレン様が戸惑いながら笑みを引っ込める。そんな彼から目をそらし、一気に言い切った。
「どうか、私を側室とする旨の通達を、取り消してはいただけないでしょうか」
グレン様は何も言わない。辺りには、また元通りの静寂が戻ってきてしまっていた。




