27.ひっくり返る日常
それからも、しばらくの間平和な日々が続いた。けれど私は、どうにも落ち着かないものを感じていた。私がなくしてしまったメグの記憶の中に、何かとんでもないものが潜んでいるのではないか。そんな気がしてならなかったのだ。
そう思いつつも、一気に日記帳を読み切ってしまう気にもならなかった。王都に遊びに行ったあの日からずっと、日記帳を見ているとやけに胸がざわつくようになっていたのだ。
しかしある日、そんな予感を裏付ける知らせが突然舞い込んできたのだった。
私は父に呼ばれ、父の私室に足を運んでいた。父は私の顔を見るなり、開口一番にこう言った。
「マーガレット、大変なことになった!」
血相を変えた父が、豪華な書状を前に立ち尽くしている。その隣では真っ青になった母が、同じように書状を見つめていた。今にも気絶してしまいそうな、そんな様子だった。
私の名前が記されたその書状には、なんと王家の紋章が描かれていた。震える手で中を改める。そうして、絶句した。
そこに並んでいたのは、『伯爵家の令嬢マーガレットを、第二王子グレンの側室として召し上げる』という文言だったのだ。これはまぎれもなく、王宮からの通達だった。既に決まったことを、一方的に伝えるための文書。
「お父様、これは一体……」
そう尋ねる私の声は、はっきりと震えかすれていた。目の前のものが信じられなかった。けれど何度まばたきしても、美しい文字でつづられたとんでもない文言が変わることはなかった。
「私にも分からん。今朝突然、こんなものが届いたのだ。届けてきたのは王家の使いの者だったし、ここにも王家の紋章が記されている。これは間違いなく、王家からの通達だ。マーガレット、おまえにも心当たりはないのか?」
「あなた、そもそもマーガレットはまだ記憶が戻り切っていませんわ」
震えながら母が口にした言葉に、はっと思い当たる。きっとこのとんでもない通達には、メグが一枚噛んでいるに違いない。そう思ったが、それでもあの日記帳を両親に見せるのはためらわれた。
驚きすぎて気分が悪くなってしまったので、少し休ませてください。そんな言い訳をして、大急ぎで自室に戻る。誰も入れないようにとレベッカに言い含めてから、日記帳を取り出した。手が震えていて中々鍵が開けられない。
きっとここに、あの通達の手掛かりが書かれている。今までずっと、気が進まないとかなんとか理由をつけて、日記を読み終えないままでいた。
でも今は、一刻を争う。このまま手をこまねいていたら、私は有無を言わさずグレン様の側室として召し上げられてしまうのだ。だからどれだけ気が重くても、私は日記を読まなければならない。
まだ震えている手でページをめくり続ける。真っ白になりそうな頭で懸命に読み進めて、半年分ほども遡った頃だった。
「あら、これは……」
ところどころに、開かないページがある。どうやら縁のほうが糊付けされているようだった。その中身に興味がわいて、破かないよう慎重にはがしていく。
そうして現れたのは、思いもかけないほど可愛らしい言葉だった。
『やっと、わたくしを見てくれる方に出会えた。わたくしを本当の意味で、愛してくれる方に出会えた』
いつものふてぶてしい傲慢な言葉ではない、年頃の乙女らしい華やいだ言葉。それはまぎれもなく、メグがずっと隠してきた本心のひとかけらだった。初めて目にした素直な言葉に、呆然と日記を見つめる。
メグを愛してくれる人。その言葉に、脳裏をよぎる面影があった。時折見るあの夢の中で、私を、メグを愛おしげに見つめていたあの男性。
姿絵の一枚も挟んでいてくれれば良かったのに、そんなことを思いながらさらに読み進める。
『わたくしはずっと一人ぼっちで、ずっと寂しくてたまらなかった。お父様もお母様も、わたくしのことを見てくれない。二人にとってわたくしは、綺麗で可愛いお人形でしかないのだから』
その言葉に、はっとする。ずっと、メグと自分はまるで違う人間で、彼女の気持ちはこれっぽっちも理解できないと思っていた。けれど、この言葉にはうなずけるものがあったのだ。ついこの間、母の本心を聞かされるまで、私も同じようなことを考えていたのだから。
『良いことをしたら褒める。悪いことをしたら叱る。それが普通の、親子の愛情の形だと思うの』
どこか諦めたような、メグの文字が淡々と並ぶ。
『わたくしがどれだけ悪い子になっても、どれだけわがままを言っても、お父様もお母様もわたくしを叱ってはくれない。ただひたすらに、甘やかすだけ』
メグがあんなにも傲慢な振る舞いをしていたのは、これが理由だったのだろうか。両親に自分の行いをとがめて欲しくて、ただ叱って欲しくて。そうしているうちに、自分でも自分を止められなくなってしまって。
『もう、疲れてしまったの。自分を偽るのも、両親を試すのも。いっそ、この家を出て自由になりたい。どこか遠くで、わたくしを見てくれる方と巡り合いたい』
「メグ、その思いをそのまま、二人に告げていれば良かったのに……」
独り言が口からこぼれる。もちろん、返事はない。
『ずっと、そんなことを思い続けていた。そして、わたくしはあの方と出会うことができた。こんなに幸せなことがあるなんて』
どういう訳か、メグはその思い人の名前をどこにも記していない。どこかに答えが書かれていないかと注意しながら、じりじりと読み進める。
『わたくしたちは密かに思い合っていた。でもそれが、裏目に出てしまうなんて』
『お父様がエリックとの婚約を決めてしまった時は、驚きのあまり倒れてしまいそうだった。お父様にあの方のことを打ち明けておけば良かったのかもしれない。でもわたくしは、両親のことを信じてはいなかった。そんなこと、できる訳がなかった』
食い入るように日記帳を見つめながら、ひたすらに文字を追う。だからこそ、メグはエリックに冷たく当たっていたのだろうか。それが八つ当たりだと分かっていても、彼女はそうするほかなかったのだろう。
『けれどもう、婚約は正式に決まってしまった。婚約は二つの家の合意によってなされるもので、わたくしのわがままでひっくり返すことなんてできない。それくらいのことは、わたくしだって分かっているわ』
美しく並んだ文字が、メグの動揺を表すかのようにほんの少し乱れる。
『けれどこのままでは、わたくしは愛した人と引き離されてずっとこの家に閉じ込められてしまう。決してわたくしのことを見てくれない両親と一緒に。そんな暮らしは、想像しただけで辛くてたまらない』
よく見ると、このページにはかすかに紙がささくれだった跡があった。ちょうど、こぼれた涙を急いで拭いた跡のような。
『自由になりたい。わたくしを見てくれるあの方のもとへ、何もかも捨ててたった一人で旅立ってしまいたい。ちゃんとわたくし自身を見てくれるあの方と共に生きたい』
いつの間にか、私の目からも涙がぽろぽろとこぼれ落ちていた。このメグの叫びは、確かに私の叫びなのだと、そう思えて仕方がなかった。自然と、言葉が口をついて出る。
「ごめんなさい、メグ。私も、あなたのことを見ていなかった。あなたがしたことだけを見て、あなたがどんな人間なのかを決めつけていた」
日記帳からは何の答えもない。そっと日記帳を抱え上げ、胸に抱きしめた。
「……ようやく、あなたのことを理解できた気がするわ。ずっと否定して、ごめんなさい。私はあなたで、あなたは私。どれだけ否定しても、そのことに変わりはないのにね」
グレン様との話を何とかするために、一刻も早くメグがしたことを知らなくてはならない。それは分かっていたけれど、少しだけこうしていたかった。メグと二人、和解できた喜びを分かち合っていたかった。
窓の外から、小鳥の声がかすかに聞こえてくる。その心地良い音に耳を澄ませながら、私はじっと日記帳を抱きしめていた。




