26.両親の思い
ゲオルグを怒鳴りつけてしまったあの日、私たちは帰ってすぐにレベッカにゲオルグの言葉を伝えた。ずっとしょげていた彼女は、伝言を聞くとすぐに休みが欲しいと訴えた。もちろん、それを拒む私たちではない。
レベッカが戻ってきたのは、もうすっかり日が落ちた後だった。驚いたことに、ゲオルグが彼女を屋敷まで送り届けてきたのだった。暗い中女性が独り歩きをするのは危険ですからと、そう言って。
二人はとても、晴れやかな顔をしていた。出しゃばって良かったと、そんなおかしなことを考えてしまうくらいに。
それから数日ほど経ったある日、私は一人ぼんやりと窓の外を眺めていた。今日はいい天気だし、屋敷にこもっている気分ではない。わくわくする気持ちを、どうにも持て余していたのだ。
ちょっとここを抜け出して、町に行ってみようか。そう考えて、すぐに思い直す。今日レベッカは丸一日休みをとって、ゲオルグのところを訪ねている。やっと仲直りできた二人の邪魔をしたくはない。
ならば一人で、エリックの屋敷に遊びに行ってしまおうか。ついこの間も一緒に出かけたところだけれど、あの日はろくに話もできなかった。改めて他愛無いお喋りをするのもいいかもしれない。
そう考えて出かける支度をしようとしていた時、部屋の扉が控えめに叩かれた。
「ちょっといいかしら、マーガレット」
ためらいがちにそう言いながら、母が顔をのぞかせる。
「その、あなたさえ良ければ、なのだけど……一緒に出かけない? ほら、ちょっと気晴らしに買い物に行きたくって」
母の様子はどことなくおかしい。いつもの母であれば、満面に笑みを浮かべて私を誘ってくるだろう。気晴らしということは、何か思い悩むようなことでもあったのだろうか。
良く分からなかったが、ひとまずうなずいておく。どうせどこかに出かけようと思っていたのだし、母と一緒というのもたまには悪くないだろう、そう思って。
急いで支度を済ませ、母と一緒に馬車に乗り込む。これから私たちは王都に向かうらしい。なんでもそこの宝飾品店が、いい宝石が入荷したと知らせてきたのだそうだ。あちらを呼びつけてもいいのだけれど、たまにはこちらから出向くのもいいだろう。母はそう言っていた。
馬車の中で、私たちはぽつりぽつりと他愛のない話をして過ごした。しかしその間も、母は幾度となく考えこんでいるようなそぶりを見せていた。
やがて、とうとうこらえきれなくなったらしい母が目線をそらし、もじもじし始めた。その唇から、か細い声がもれる。
「ねえ、マーガレット。あなたは私たちが甘い親だって、そう思っているの? おかしいくらいに甘いって」
どうやら母は、この間の言葉を気にしているらしい。私がネックレスを持ち出していることがばれた時に私が口にした、あの言葉。どうして父様と母様は、そんなに私に甘いのですか、確かに私はそう言った。
「……実のところ、そうです」
今さら自分の言葉を否定する気にもなれなくて、神妙にうなずく。母はああ、とため息をついた後、寂しそうな顔でぽつぽつと語りだした。
「私たち夫婦には、ずっと子供ができなかったの。やっと授かった最初の子は、産まれて半年もしないうちに天に召されてしまった」
どうして母がいきなりそんなことを言い出したのか、皆目見当もつかなかった。けれど口を挟むことなく、じっと耳を傾けることにする。
「だからあなたが生まれた時は、とても嬉しくて、そして恐ろしかったの。この子まで失いたくはないって、私たちは必死だったのよ」
母は涙ぐみながら、それでも言葉を詰まらせることなく語り続けている。
「けれどあなたは並外れて体の弱い子供で、小さな頃からしょっちゅう風邪をこじらせて寝付いていたの。私たちはもうずっと、生きた心地がしなかった」
ハンカチを目元にあてて、母はうつむく。その姿はひどく弱々しいものに見えた。
「だからね、私たちはあなたを叱れないの。あなたに強く当たって、あなたが心労で倒れてしまったらどうしようって思ってしまうから。あなたはもう大きくなって、すっかり丈夫になったと分かっているのに、そう思わずにはいられないの」
「そう、だったのですか……」
呆然とつぶやくと、母は顔を上げて涙に濡れた目でこちらを見た。
「この前、あなたがネックレスを持ち出していたあの時もね、そんなものをどうするのだろう、とは思ったのよ。でもどうしても、あなたに尋ねる勇気が出なかった。余計な事をして、あなたに嫌われたらどうしようって、そんなことが気になって」
思いもかけない母の思いに、何も言えなかった。どうにかして母を慰めたいと、そんなことを考えながら手を伸ばす。母はハンカチを置いて、両手で私の手を握ってきた。
「私たちの持てるもの全てをあなたにあげたいし、どんな手を使ってでもあなたには幸福でいてもらいたい。私もあの人も、それしか考えられないの」
「母様……」
「でも、そんな私たちの振る舞いが、あなたには重荷になっていたのかもしれないって、私たちはちょっと考え直したのよ」
思わぬ言葉に、目を見張る。どれだけ言っても変わらないように見えた両親が、そんなことを考えていただなんて。
「ねえマーガレット、きっと私たちはこれからもあなたのことを存分に甘やかしてしまうわ。でもね、あなたがそれが嫌だというのなら、少しずつでも変われるよう努力する。それで、いいかしら?」
「……ありがとうございます、お母様。とても嬉しいです」
鼻の奥がつんとするのを感じながら、どうにか笑顔を作って答える。母は一転して、晴れやかな笑みを浮かべた。
「あなたに喜んでもらえて、私も嬉しいわ。あのね、あの人は仕事で忙しいからって言ってここには来なかったけれど……あの人も、私と同じように考えているのよ。そのことも、どうか覚えておいて」
母だけでなく父も、私のことをきちんと愛していてくれた。ただちょっと、やり方が暴走しているだけで。そのことを知ることができたというだけでも、今日は収穫だった。
手を取り合ったままにっこりと笑い合ったその時、ちょうど馬車が王都に着いた。御者の手を借りて馬車を降り、周囲の街並みをぐるりと見渡す。メグはともかく、私にとっては初めての王都だ。
しかしその時、何とも言えない感覚が全身を走り抜けた。けれど決して、不快な感覚ではない。これは、懐かしさだろうか。切なさかもしれない。
私はこの光景を、幾度となく見た。胸の高鳴りを覚えながら、この街並みの中を歩いていた。
これは、メグの記憶に違いない。きっとその気になれば、私は彼女がどこに通っていたのかを突き止められるだろう。だってこうしている今も、道順が次々に頭に浮かんでくるのだから。そこの大通りをまっすぐに進み、お堀の手前で右に曲がって、それから。
「どうしたの、マーガレット?」
いつも通りのおっとりとした母の声に、考えが中断される。別に、メグの記憶を急いでたどる必要はないだろう。王都は近いし、いつでも気軽に来ることができる距離だ。それに、そのうち彼女の日記帳の中から答えを見つけられるに違いない。
「ちょっと、見とれていたんです。今行きます、母様」
そう答えて、少し先で待っている母のもとに歩み寄った。今日はこれから、母子水入らずでお買い物だ。
さっき感じた胸のざわつきは、もう消え去っていた。




