22.自分への嫉妬
湖畔で二人語り合っているうちに、すぐに夕方になってしまった。帰りの馬車の中で、向かいに座るエリックがぽつりとつぶやく。
「……思えば、俺たちは案外似た者同士なのかもな」
何のことだろう、と首をかしげる私に、彼は苦笑しながら説明を足す。
「あんたは前に、レベッカがうらやましい、って言ってただろう」
「覚えていたの?」
あれは確か、エリックにあれこれと難癖をつけていた父を追い払った後に、私がぽつりとつぶやいた言葉だった。
レベッカみたいに憧れられるような立派な親が欲しかったという思いを込めて、私は彼女がうらやましいと、そう言ったのだ。そんなささいなことを、彼がいまだに覚えてくれていただなんて。
「覚えているさ。あの時、俺も同じことを考えていたんだからな」
親との関係でいえば、私よりもエリックの方がよほど悲惨だろう。素敵な親を持つことができたレベッカをうらやましがる気持ちは、痛いほど分かる。
「そうだったの……私たち、確かに似た者同士ね」
そう答えながら、私は胸の中がほんわりと温かくなるのを感じていた。エリックがあんなささいなことを覚えてくれていたということ、似た者同士だと言ってくれたこと。そのことが、とても嬉しい。
両親は盲目的に私を甘やかすばかりで、私のことをちっとも見てくれていない。ずっと抱いていたそんな不満すら、ありがたいものに感じられてしまった。だって、この不満のおかげで、エリックと共感し合えたのだから。
私よりずっと真剣に、深刻に悩んでいるエリックにそんな思いを知られてしまわないように、小首を傾げて静かに微笑む。こんなことで喜んでいる自分が、ちょっぴりあさましいもののように思えてしまったから。
エリックはいつになく大人びた表情で窓の外を見ていたが、不意に視線をこちらに戻した。赤茶の髪が、夕日と同じ色にきらめく。
「そうだ。一つ、言っておこうと思ったんだが……」
ひどく優しげで、それでいて真剣なその表情に思わず居住まいを正す。
「あんまり、昔のあんたを否定してやるなよ」
思わぬ言葉に、どきりとする。確かに私は、メグのことを否定して、彼女とは違うまっとうな人間になりたいと、ずっとそんなことを考えている。
でも彼に、メグのことをちゃんと話した覚えはない。彼女のことをどう思っているかについても。それなのに、どうして彼はこんなことを言うのだろう。それも、こんなに優しい顔で。
「図星を突かれたって顔だな。あんたは色々と顔に出やすいから、分かるんだよ。あんたが、以前の自分の行いを恥じているだけでなく、傲慢だった自分を全力で否定してるってことが」
どう答えていいか分からず黙り込む私に、彼はさらに語りかける。
「確かに、昔のあんたは傲慢だったし、周り中全ての人間を見下していた。でも、何というか……昔のあんたは、本当はとても素直な女性だったんじゃないかって、そう思うんだ。どこかで何かが掛け違って、ああなっただけで」
驚きに目を見張り、エリックの顔を食い入るように見る。彼は何も答えずに、ただ微笑んでいた。
「どうして……どうして、そんなことがあなたに分かるの? だって以前の私は、あなたのことを嫌っていて、遠ざけようとしていたのに」
「こう言うとあんたは笑うかもしれないが……俺には、昔のあんたが俺のことをわざと遠ざけているように見えたんだ。どうにかして俺を嫌いになろうと、努力していたように思えた」
私を優しく見つめながら、エリックは静かに思い出を語る。その金緑の目には、確信のようなものが浮かんでいた。その表情に、ぎゅっと胸が苦しくなる。
「きっと、昔のあんたにも事情があったんだろう。何か、やむをえないような事情が。だから、あまり昔のことを気に病むな」
どうやら彼は、力んでしまっている私を励まそうとして、こんなことを言い出したようだった。そのことに何故か安堵している自分がいる。
「ありがとう、心配してくれて」
笑顔で答えながらも、胸の中のもやもやは晴れなかった。
屋敷に戻ってエリックと別れ、晩餐やら湯あみやらを済ませて自室に戻る。レベッカに手伝われて寝間着に着替えている間も、昼間のことが頭から離れなかった。
「あの、お嬢様。何か悩み事でもあるのでしょうか。ずっと難しい顔をされているようですが」
レベッカが心配そうな顔で、声をかけてくる。大丈夫、何でもないのと言いかけてふと口をつぐんだ。彼女の顔色をうかがうようにしながら、そっと問いかける。
「ねえ、あなたから見て、以前の私とエリックはどんな感じだった?」
私の問いに、レベッカは目を丸くした。けれどすぐに眉をひそめ、じっと何かを思い出そうとするかのように宙を見つめている。
「……そう、ですね。以前のお嬢様はエリック様のことを疎んじておられるようでしたが、何と言いますか……心の底から嫌っておられるようには見えませんでした」
無言で続きをうながすと、レベッカはさらに話し続ける。次第に彼女の口は、なめらかになっていった。
「どちらかと言うと、以前のお嬢様はエリック様のことを憎からず思っておられたのかもしれません。けれどお嬢様はエリック様がおいでになると、いつもいらいらしておられて。何にいらだっておられたのかは、分かりませんでしたが」
「そうだったの……ありがとう、話を聞かせてくれて」
「お役に立てたなら幸いです。ですが、あくまでも私が勝手にそう感じただけですので」
「いいのよ、それでも。やっぱり自分一人で考えていると、どうしても行き詰ってしまうから」
嬉しそうに頭を下げて退室していくレベッカを見送り、日記帳を手に取る。ページをめくり、以前目にしたメグの言葉をもう一度探す。
『エリックは何を考えているのかしら。私がこれでもかというほど冷たく当たっていますのに、わざわざ自分から顔を出してくるだなんて。彼が何を考えているのか、分からない』
エリックは、メグのことを嫌っていない。そしておそらくメグも、エリックのことを嫌っていなかった。だって目の前のこの文字からは、嫌悪ではなく戸惑いが強く伝わってくるのだから。
また胸がちくりと痛む。その痛みの理由に、ようやく思い至った。
これは嫉妬だ。あんなにも傲慢でわがままで、どうしようもなく自分勝手だったくせに、エリックにかばわれていたメグのことが、どうにも妬ましくてたまらないのだ。
「……エリックは、あなたには渡さないから」
気づけばそんなことを口走っていた。自分でもおかしなことを言っているという自覚はある。けれど、どうしても宣告せずにはいられなかったのだ。今はもう、日記帳の中にしかいないメグに向かって。
焦ることはないのだ。いずれ彼は婿入りして、自分の夫となる。それが分かっているのに、何故か安心することができなかった。何かが起こる、そんな予感が消せなかったのだ。
そして、またあの人の夢を見た。夜空のようなつややかな黒い瞳の彼は、とても優しく、愛おしそうにこちらを見つめていた。何故だかひどく、胸が騒ぐ。けれどそれは不快なものではなく、むしろ甘い痛みだった。
この夢は、きっとメグの記憶なのだろう。眠りの中で、私はそう確信する。ならばこの人は、誰なのだろう。私の、メグの胸をこんなにも騒がせている彼は。
いつかどこかで、その答えを知ることができるのだろうか。そんなことを考えながら、私はぼんやりとメグの記憶を見つめ続けていた。