21.エリックの過去
波乱に富んだお茶会から二日後の朝、血相を変えたエリックが駆けつけてきた。
「どうしたの、エリック。こんな朝早くから」
「あんたがよその令嬢たちに、ひどい目に合わされたって聞いたんだ」
「えっと……誰から聞いたの?」
「アンドレア様だよ。あの方から俺に、昨晩手紙が届いたんだ」
彼が受け取った手紙には、先日あったことが詳細につづられていたのだそうだ。そしてその手紙は、こんな言葉で締めくくられていた。
『マーガレットは過去の自分の過ちに立ち向かっているようですわ。どうか、あなたが彼女の力になってあげてくださいませ』
話を聞いた私は、何とも言えない気持ちでエリックを見つめることになった。アンドレア様の気配りに驚いたからでもあり、エリックがいつになく真剣な表情をしていることに驚いたからでもあった。
「あんたの家が一部の貴族から良く思われてないのは、前から知ってたが……まさか、そんな行いに出るなんてな」
「でも、元はといえば全部私のせいなのだし……」
「いや、違うな。懐具合の寂しい貴族がよそに借金するなんてのは、よくあることだ。それを逆恨みするなんて、あちらが悪い。……まあ、前のあんたの行いも大概だったが」
「そうよね。私がもっとちゃんとしていれば、こんなことには」
メグが彼女たちをいびるような真似をしなければ、こんな風にこじれたりはしなかっただろう。そう思いながらため息をついていると、エリックがきまり悪そうに頭をかいた。明るい赤茶色の髪が乱れて、ぴょこぴょこと跳ねる。
「ああ……そうじゃない、だからあんたは気にするな。あんたはもう変わったんだ」
「ええ、アンドレア様もそう言ってくださったわ」
「……それに今回ばかりは、昔のあんたがあの令嬢たちにちくりとやりたくなった気持ちも分からなくもない。いくら気に食わないからって、あんたたちの悪い噂を流すだなんて」
メグをかばうような彼の言動に、思わず目を見張る。エリックは眉間にしわを寄せて、むっつりと黙り込んでいる。私の、メグのために憤ってくれているのが、はっきりと分かる表情だった。
「……ありがとう、エリック」
どういたしまして、と笑う彼を見ていたら、ふと疑問になった。どうして彼は、ここまで私のことをかばってくれるのだろう。おまけに、メグのことまで。
私はエリックの友達だ。けれどメグは、ずっと彼のことを毛嫌いしていた。彼の方はメグに歩み寄ろうとしていたようだったが、それは全て徒労に終わっていた。
「ねえ、どうしてあなたは昔の私のことを悪く言わないの? 昔の私は、あなたに冷たく当たっていたのに」
何気なくそう尋ねたところ、エリックは切なげな笑みを浮かべてこちらを見つめてきた。いつになく大人びたその表情に、胸がどきりとする。
「……ちょっとここでは話しにくいな。場所を変えようか」
そう言って、エリックはこちらに背を向けてしまった。一瞬だけ、彼が泣きそうな顔をしているように見えた。
私たちはそのまま馬車に乗り、この前の湖に来ていた。今日はあの大きな水鳥もおらず、とても静かだった。
木陰に並んで腰を下ろし、彼の言葉を待つ。やがて、エリックがぽつぽつと話し始めた。
「こんなことを言うと驚くかもしれないが……俺はあんたに、そしてあんたの親に感謝してるんだ」
「えっ、どうして感謝なんか」
私はよほど驚いた顔をしていたのだろう。エリックはこちらを見て小さく笑いを漏らした。
でも、これが驚かずにいられるだろうか。父はエリックのことをあまり良く思っていないようだったし、メグにいたってはエリックのことを毛嫌いしていた。あの二人がエリックに感謝されるようなことなど、する筈がない。
「そんなに意外か? あんたたちのおかげで、俺はすんなりと家を出ることができる。あんたらは俺に恩を売るつもりはなかっただろうが、それでも俺は感謝してるんだ」
家を出られる、たったそれだけのことを彼がこうも喜んでいる。その理由が、分からなくもなかった。彼の父のひどく冷淡な表情と、彼が一人で暮らしていた小さな離れの有り様が、次々とよみがえってくる。
「俺はどうしても、あの家を出たかった。父に頼んで分家を作ってもらうことも考えたが、それでは結局父から離れられない。どうしようもなくなって頭を抱えていたところに、あんたとの婚約話が持ち上がったんだ」
「……そこまでして、お父様と離れたかったの?」
恐る恐る尋ねたが、エリックは湖の方を見たまま答えない。やがて、彼の口から低く静かな声が漏れてきた。いつもの軽やかなものとは打って変わった感情のない声で、彼は淡々と語る。
「前に、愛のない結婚について話したのを覚えているか」
「ええ。私があなたに、友達になって、といったあの時ね」
そう答えると、彼もその時のことを思い出したのか、口元に小さく笑みを浮かべた。
「あれは、俺の両親のことなんだ。父と母は政略結婚で、そこに愛はなかった。……それだけならまだしも、父は母を嫌い、疎んでいた」
人懐っこい猫を思わせる金緑の目が、辛そうに伏せられる。
「母が生きていた頃から、父の寵愛を受けた側室が正妻のように振る舞っていた。母はあの離れに追いやられ、俺と二人きりで寂しく暮らしていたんだ」
いつも明るく軽やかに振る舞っているエリックの、静かで悲しい告白。その重さに、私は何も言えなかった。
「母が亡くなってすぐに、側室が後妻の座についた。……俺は、母に良く似てるんだ。そのせいで俺は父からも、後妻からも嫌われている。あの家のどこにも、俺の居場所はない」
そう語る彼の姿はとても寂しげで、見ているだけで胸がしめつけられる。どうにかして、彼を励ましてやりたい。元気づけてやりたい。そう思わずにはいられなかった。
けれど、どうしていいか分からない。いくら必死に探してもかける言葉が見つからない。ためらいがちに彼に手を伸ばしては、また引っ込める。手を握るのも、頭をなでるのも、何かが違う。
もしも私が、ちゃんと彼と思い合った婚約者であったなら。もしもそうなら、彼を抱きしめて、なぐさめてやることもできたかもしれないのに。かつてメグが彼にしてきたことが引け目となって、今の私の動きをいましめていた。
そんな私の葛藤に気づいているのかいないのか、エリックはゆっくりと顔を上げた。彼はそのまま、雲一つない青空を悲しげな目で見つめている。その金緑の瞳は、相変わらずこちらを見ようともしない。
「俺は自然と家を出ることが多くなって、近くの町をふらふらするようになった。息の詰まる屋敷で縮こまっているよりも、町で平民と遊んでいる方がよっぽど楽だったんだ。子供との付き合い方も、そうやって覚えた」
前に孤児院を訪ねた時、彼がやけに手慣れた様子で子供たちの相手をしていたのは、そういうことだったのか。納得がいくとともに、さらに悲しくなってしまった。
「……ごめんなさい、辛いことを思い出させてしまって」
涙声で謝る私に、エリックは困ったように笑いかけてくる。
「ああ、気にするな。あんたがそんな風だと、調子が狂う」
「でも……」
早く泣きやまないとエリックが迷惑する。それが分かっているのに、何故か余計に涙がこぼれてくる。
焦りながらハンカチを目元に当てていると、エリックはゆっくりと手を伸ばして、私の頭をなでてきた。
「泣く子供をなだめるには、これが定番だからな」
「もう、子供扱いしないで」
軽やかに笑う彼に、ふくれっ面をしてみせる。私たちの間に流れていた重々しい空気が、ようやく和らいだ。
涙をきれいに拭い去って、エリックに笑いかける。彼もほっとしたような笑みを返してきた。
それからしばらく、私たちは湖を眺めながら話し合った。うっかり暗くなってしまわないように、日常のちょっとした明るい話題ばかりを選んで。
エリックが見せていた暗い影はもう影も形もない。けれどそれは、まだ確かに彼の中にひそんでいる。それをどうすることもできないのが、少し悔しかった。