2.真っ黒な過去
何度見直してみても、つづられた文章は変わらない。美しく整った文字が、この上なく傲慢に、非道な事実を私に伝えている。
かつて私は、メイドを解雇した。彼女が口答えをしたから、ただそれだけの理由で。
いや、もしかしたらメイドの方に落ち度があったのかもしれない。ここに書かれていないだけで、彼女の口答えは度を越したものだったのかもしれない。もしかしたら、他のところを読めば真相が分かるかもしれない。
嫌な感じに鼓動が速くなるのを自覚しながら、救いを求めるかのように日記帳を逆にめくる。その前の日は、また『何もない日』だった。その前の日も、さらに前の日も。
けれどさらに一日戻った時、私を打ちのめすような言葉がまたもや目に飛び込んできた。
『今日は庭師を追い出したわ。わたくしの好きな薔薇の枝を、勝手に切ってしまったから。必要なことなのだと必死に弁明していましたけど、その態度が気に入らなかったの。いなくなってせいせいしたわ』
木を育てる時、適度に枝を切った方が良いということを今の私は知っている。ならば以前の私も同様に、そのことを知っていた筈だ。しかし以前の私は、それを知った上で庭師を解雇した。彼の行いが気に入らないというだけの理由で。
目の前の日記帳が忌まわしいもののように感じられ、反射的に手を引っ込める。その勢いで、日記帳がぱたんと音を立てて閉じた。
その瞬間、ぼんやりと記憶の断片がよみがえってきた。自分が解雇されるのだと知った時のメイドと庭師の顔。悲嘆に満ちた目で、どうかそれだけは、と懇願している哀れな姿。記憶の中の二人は、真っすぐに私を見ていた。
ああ、ではこの日記帳に書かれているのはまぎれもない事実なのだ。信じたくない現実に足の力が抜け、そのまま机にもたれかかった。
それでさっき、エリックやメイドたちはあんな顔をしていたのか。自分勝手に使用人を解雇していたわがままなお嬢様が突然医者をかばったりすれば、誰だって驚くに決まっている。
謎が解けたというのに、心はちっとも晴れなかった。むしろずっと重苦しくなってしまっている。
今日はもう、おとなしく眠ってしまおう。そうして元気になってから、あの日記帳をもう一度調べよう。問題の先送りかもしれないけれど、今はあの日記帳を見たくない。
日記帳にしっかりと鍵をかけ直し、元通り引き出しにしまいこんだ。ふらふらと寝台に戻り、頭まですっぽりと毛布をかぶる。なんだか色々な夢を見た気がしたが、どれ一つとして記憶には残りはしなかった。
ただ一つ、若い男性の面影を除いて。顔も声も思い出せないその男性は、とても穏やかな目でこちらを見つめていた。
次の日の朝食後、すぐに両親のところを訪ねることにした。日記帳に書かれていたことが真実なのか、確かめるためだ。
朝食の席で話せるかと思ったのだけれど、怪我をしていのだからゆっくり休みなさい、という母の言葉と共に、部屋まで朝食が運ばれてきてしまったのだ。寝台に入ったままでも食べられるようなものばかりがずらりと並ぶ銀のお盆を見て、私は朝から目をむく羽目になってしまった。怪我といっても大したものではないのに、これではまるで重病人だ。
両親の気遣いは嬉しいけれど、このもやもやする気持ちを放っておく方がよほど健康に悪い。自分にそう言い訳して、部屋から飛び出す。といっても、私は当然のように屋敷の間取りすら忘れてしまっている。隣の部屋に控えていたメイドに頼みこんで、両親の部屋まで案内してもらうことにした。
あの日記帳の内容からうすうす察してはいたが、やはり私とメイドたちとの関係は良いものではないらしい。道案内を頼もうとメイドに声をかけた瞬間、彼女はおびえたようにびくりと肩を震わせたのだ。
その後もずっと、彼女はこちらと目を合わせようともしなかった。けれど無礼なところはどこにもなく、むしろ過度に礼儀正しいくらいだった。ただ、必死に私を避けようとしているだけで。
私を避けていたのはメイドだけではない。他の使用人たちも、私の気配がするとそそくさと姿をくらましてしまっていた。窓ガラスの向こう、廊下の曲がり角、あちこちにあった人の気配が、私が近づくと波が引くように逃げていく。
そのことに少し傷つきつつ、扉を叩いて両親の部屋に足を踏み入れる。
「おや、マーガレット。ゆっくり眠っていなくていいのか」
「そうよ、今日は一日、部屋で休んでいたほうがいいわ。あなたはまだ怪我が治っていないのだから」
談笑していたらしい両親が同時にこちらを向き、笑いかけてくる。母が大急ぎで立ち上がり、私の手を引いて空いた椅子に座らせた。私がまた転んだりしないように、気を使ってくれているのだろう。
両親は私のことをたいそうかわいがっている。そのことは、頭を打ってからの短い時間でも嫌というほど実感できた。むしろ、少々度を越しているような気すらする。溺愛と言った方が正しいだろう。
彼らはその最愛の娘の傲慢な振る舞いを、どう思っているのだろう。それを聞きたくてたまらない。だから前置きもそこそこに、いきなりこう切り出した。
「あの、少しだけ思い出したことがあるのです。……先日、私はメイドや庭師を首にしたという、そんなことを。お父様とお母様は そのことについて、どうお考えでしょうか」
「おお、記憶が戻り始めたのか、いいことだ」
「まあ、よかったわ。希望が見えてきたわね」
私の疑問に答えることなく、二人は手を取り合って喜んでいる。仕方なく、二人が本題に入ってくれるのをじっと待つ。
「……それで、何だったかな。ああ、解雇した使用人たちのことだったか」
「はい。以前私は、大して落ち度のない者を首にしたように思えるのですが……」
懺悔するような心持ちで目を伏せる私に、意外なほど優しい声がかけられる。
「あら、どうしてあなたが暗い顔をするの? あのメイドはあなたに口答えをしたのだから、首にして当然だわ」
上品な顔に非難の色を浮かべて、母が小首をかしげた。何かを思い出すように宙を見つめながら、言葉を続けている。
「確か『日の当たる場所に宝石箱を置かれては、箱が傷んでしまいます』とかなんとか言っていたわね。あの箱は光を当てると装飾が輝いてとても美しいのに」
「あのメイドは頭の回転は早いようだったが、そのせいか分をわきまえない、差し出がましいところがあったな」
父が重々しく同意すると、母もうなずいてこちらを見た。
「ええ。ほかに大きな落ち度もなかったから、そのまま雇っていたのだけれど……マーガレットが首にしたいって言ったのだから、私たちとしては反対する理由なんてなかったわ」
メイドの言葉は確かに少々差し出がましいと言えなくもなかったが、きっと彼女は良かれと思って、善意で助言してくれたのだろう。
そんなメイドが、いともあっさりと解雇された。私の機嫌を損ねたから、ただそれだけの理由で。
目の前が真っ暗になっていくように思える。足が恐怖で冷たくなっていった。そんな私の様子に気づいていないのか、両親は和やかに話しかけてくる。
「お前にたてついて、お前の気分を害した。それだけで、解雇する理由としては十分すぎるほどだ」
「ええ。使用人なんていくらでも替えがききますもの。もっといい子を雇ってあげるから安心してね」
「私たちは、お前のことが何より大切なんだよ」
「そうよ、可愛いマーガレット」
まるでお茶菓子について語ってでもいるかのような軽い調子で、二人はそう言い切った。相変わらず甘い笑顔が、二つ揃ってこちらを見ている。いっそ気味が悪いほど、甘くにこやかな顔だった。
目の前の光景がぼんやりとかすみ、音がくぐもって遠くなる。そんな錯覚を感じながら、私は作り笑いを浮かべてただ座っていた。
それからどうやって自分の部屋まで戻ってきたのか、まるで覚えていない。気がついたら、私はまたあの日記帳を開いていた。
「やっぱり、この文章は真実だった……私は、悪女だった……」
昨日読んだところを震える指でなぞりながら、一文字ずつ読み上げる。あきれるほど美しく優雅な文字の上に涙が一粒こぼれて落ち、ゆっくりとにじんで広がっていった。




