16.今日は休日
エリックに頑張りすぎだと言われてしまったし、今日は一日のんびりゆっくり過ごそう。彼と出かけて数日経ったある朝、目覚めてすぐに私はそう決意していた。数日に一度くらいは休めと、彼もそう言っていたし。
しかしゆっくりすると決めたはいいが、何をしていいか分からない。腕組みをしたまま、自室のど真ん中で立ち尽くす。日記帳がしまわれた机につい目がいってしまうが、今日は休日なのであれには触らない。
そこまで考えた時、ふとあることに気がついた。
「メグの……私の趣味って、何だったのかしら」
自室の中をぐるりと見渡す。美しい棚の上の方には数冊の本が、下の方に置かれた大きなかごの中には編みかけのレースが入っていた。
本を手に取り、ぱらぱらとめくる。どれもこれも、どろどろとした恋愛もので、しかもどうやら悲恋ものばかりのようだった。戦記物や歴史物ならともかく、せっかくの休日にわざわざ読みたいようなものではない。
レースを取り出し、そっと持ち上げて広げる。優美で繊細な編み目が、しなやかに揺れた。今の私に、これの続きを編めるだろうか。もしかしたら手が覚えているかもしれないが、どちらかというとめちゃくちゃにしてしまう可能性の方が高いように思える。
さらにあちこちを探してみたが、暇をつぶせそうなものはろくにない。もしかしてメグは、あまり趣味のない人物だったのだろうか。そうだとしたら、日記に『何もない日』が並ぶのもうなずける。
それはさておき、このままでは退屈でたまらない。少しの間悩んだ後、私はふらりと部屋を出た。屋敷の中をうろつき回れば、何か暇をつぶせるようなものが見つかるかもしれない、そう考えて。
足のおもむくままに、廊下をぶらぶらと歩く。もう使用人のみんなもすっかり私に慣れて、にこやかに笑いながら頭を下げてくる。最初の頃のおびえたような様子は、もう影も形もない。
そのことに気を良くしながら、さらにあちこちをうろついて回る。両親に会いたい気分でもなかったので、二人のいる部屋を避けるようにしながら。
ふらふらしているうちに、馬小屋にたどり着いていた。馬車で移動する時くらいしか近くで見ることのない馬たちが、わらの敷かれた小屋にずらりと並んでこちらを見ている。
そろそろと近づいて見上げると、馬たちは黒くつややかな目を輝かせて首を伸ばしてきた。どことなく懐かしさすら感じられるような、とても優しい目だった。触っても大丈夫だろうか、と思いながら手を伸ばした時、横から声がかけられた。
「お嬢様、馬に興味があるのですか? 馬の方も、お嬢様のことが気になっているようですね」
声の主は、朗らかに笑う中年の男性だった。その顔には見覚えがある。確か彼は、ここで馬たちの世話をしている馬屋番だ。彼はこちらへどうぞ、と身振りで示してくる。
「ここに立って、こう手を伸ばせば触りやすいですよ。首の辺りをそっとかいてあげると喜びます」
「ありがとう、やってみるわ」
馬屋番の言葉に従いながら、恐る恐る馬に触れる。思っていたよりもずっと温かく、そして固い感触が手に伝わってきた。そろそろとなでてやると、馬は私の手に首をぐっとすりつけてきた。
「もっと強くかいても大丈夫ですよ」
馬屋番が笑いながら、そう助言してくる。戸惑いながらも、かゆいところをかくように軽く指を立ててみた。
馬は嬉しそうに震え、さらに力強くこちらにもたれかかってくる。可愛いけれど、このままでは押し倒されそうだ。
頑張って踏ん張りながら、馬の首をごりごりとかく。何故だろう、こうしていると疲れが吹き飛んでいくような気がする。鼻を鳴らしながら甘えてくる馬が、とても愛おしくてたまらない。
「馬は可愛いでしょう? この子たちは賢くて、相手をちゃんと見ているんですよ。お嬢様が悪い方ではないと、そう見抜いているのです」
私の内心を見透かしたように、馬屋番がそうささやきかけてくる。彼もまた、馬に負けず劣らず嬉しそうな顔をしていた。社交辞令なのかもしれないが、その言葉がとても嬉しかった。鼻の奥がつんとするのをごまかすように、にっこりと微笑む。
「ええ、とっても可愛いわ。また遊びに来てもいいかしら?」
こんなに癒される場所が、こんなに近くにあるなんて思いもしなかった。そう思いながら尋ねると、馬屋番は大きくうなずいた。
「はい、いつでも歓迎いたしますよ。私も、馬たちも」
まるで彼の言葉が分かっているかのように、馬たちが一斉にいなないた。
「ああ、お嬢様、ここにおられましたか」
そうして馬たちと楽しいひと時を過ごしていた私の目の前に、レベッカが足音もさせずに姿を現した。突然のことに、少しだけびっくりしてしまう。
「どうしたの、レベッカ。気配もさせずに現れるから驚いたわ」
「申し訳ありません。……その、普段鍛錬をしているせいで、つい気配を消すのが癖になっていて」
以前の彼女は、私に近づくときはおびえきって震えていた。だから気配を消すこともできなかったのだろう。これも彼女と親しくなれた結果とはいえ、音もなくぬっと現れられると少々心臓に悪い。
「あの、お茶の時間なのにお嬢様がお部屋におられないので、どうかされたのかと探しに来たのです」
「あら、もうそんな時間だったのね。探しに来てくれてありがとう、すぐに戻るわ」
笑顔の馬屋番に見送られ、私はレベッカと共に自室に戻ることにした。
馬と触れ合ってすっかり気分が良くなった私は、ためらうレベッカをお茶に付き合わせることにした。一人でお茶というのも味気ないし、話し相手が欲しかったのだ。
「それにしても、お嬢様が馬小屋におられるとは思いませんでした」
「暇だったからあちこち歩いていたの。そうしたら、偶然あそこにたどり着いてしまって」
レベッカに説明しながら、さっきの感触を思い出す。温かくてしっかりとした馬の肌の感触が、まだ手に残っているような気がした。
「馬って、とっても可愛いのね。初めて知ったわ」
興奮を隠せずに言う私に、レベッカは穏やかに笑いかけてくる。
「お嬢様も、馬が気に入られたのですね。嬉しいです。私も好きなんです、とても温かくて、賢くて」
「あら、レベッカは馬に触ったことがあるの?」
「父が騎士ですから。それに、町では大小様々な馬車が走っていますし」
町、という言葉に、ふとあることを思い出した。機会があったらレベッカに聞こうと思ったまま、忘れていたのだ。
「……ねえ、ゲオルグとはその後、どうなの?」
その一言に、レベッカが面白いくらい真っ赤になる。前のようにおどおどとしながら、目線をそらしてうつむいた。
「……親しくして、もらっています」
「具体的には、どんな感じ? どれくらい会っているの?」
彼女に悪いとは思ったけれど、知りたいという気持ちには勝てなかった。さらに食い下がると、レベッカは観念したように話し出した。
「仕事として数回、あとは休みの時にさらに何回かお会いしました」
意外と少ないな、と思いながら、さらに質問する。
「それで、どんなことをしているの? 仕事の時と休みの時で、何か違う?」
「いえ、いつもだいたい同じです。孤児院の掃除や洗濯を手伝ったり、一緒に子供たちと遊んだり……」
それでは、屋敷で仕事をしている時と大差ないように思える。肩透かしをくらった気分になりながら、彼女の話に耳を傾けた。
「あとは、子供たちが眠った後、二人でゆっくりと話したりもしました。……とても、楽しかったです」
ひどく幸せそうな笑みを浮かべてつぶやく彼女を温かい目で見守る。ひとまず、二人の仲は進展しているのだろう。
そう考えた時、ふと気づいた。子供たちが眠った後、というのはかなり遅い時間のことではないだろうか。そんな時間に、未婚の男女が二人きり。
もの言いたげな私の視線に気づいたのか、レベッカがまた真っ赤になる。
「あっ、その、教会の客間に泊めてもらったんです。単に、家事を手伝っていたら遅くなってしまったので、それだけです」
焦る彼女ににっこりと笑いかけ、上品にお茶を一口飲む。この分なら、心配はいらないだろう。また時間をおいてから、それとなく尋ねてみよう。きっと、興味深い話を聞くことができるに違いない。
ああ、今日はいい日だ。今日を休日にして良かった。ふわりとたちのぼるお茶の湯気を穏やかな気持ちで眺めながら、私は大きく笑みを浮かべた。