表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/34

1.真っ白な目覚め

 頭が痛い。閉じたまぶた越しに差し込む日の光が、まるで頭に突き刺さっているかのように感じられる。ひどい不快感に、ぐっと眉をひそめた。


「おい、マーガレット、しっかりしろ!」


 すぐ近くで、誰かが私に呼びかけている。声からすると、若い男性のようだ。切羽詰まったような声をしているが、どうかしたのだろうか。


 彼は私を、マーガレットと呼んでいる。けれどその名前に、心当たりはなかった。違う、私は、私の名前は。


 声に反論しようとして、気がついた。何も思い出せない。私が誰なのか、傍にいるのは誰なのか、いったいどうして、こんなにも頭が痛むのか。


 戸惑いと焦りに、冷や汗が浮かぶ。ひとりぼっちで暗闇の中に放り出されたような感覚に、小さく身震いした。


「なあ、目を開けてくれよ、マーガレット」


 聞こえてくる声は、さらに切迫したものになっていた。その声に導かれるようにして、重いまぶたをそろそろとこじ開ける。なおも突き刺さる日差しに、ゆっくりと目を慣らしていく。


 ようやっと、周囲のものが見えてきた。澄み渡る青い空と、美しい金緑の輝き。最初に目についたのは、そんな素敵な色。ぼんやりと見とれていると、また声がかけられた。


「ああ、良かった。気がついたのか」


 金緑が喋った。ずっと私に声をかけていたのは、金緑の目をしたこの青年だったらしい。猫のようなきれいな目だな、とそんなことを思う。


「マーガレット、大丈夫か。どこか痛いところはないか」


 少し目尻がつりあがったぱっちりとした目を心配そうに細めて、目の前の男性が私の顔をのぞきこんでくる。癖のある赤茶の髪が、彼の動きに合わせてぴょこんと揺れた。


「……私、どうしてしまったのでしょう」


 頭の痛みをこらえながらそう答えると、彼は戸惑ったように身をこわばらせ、表情を消した。さっきとは打って変わった、硬い声で尋ねてくる。


「どうしたって、覚えてないのか」


「……はい。何があったのか、まったく。あと、あなたが誰なのかも、分かりません。……自分のことも、何一つ」


 信じられないことを聞いたという顔で、彼が目を真ん丸に見開く。おい、嘘だろ、という小さなつぶやきが、かすかに聞こえてきた。


 彼の様子からすると、私と彼はそれなりに親しい関係らしい。それは容易に推測できたが、やはり彼についてはこれっぽっちも思い出せなかった。さっきから必死に考えているのに、頭の中は見事に真っ白のままだったのだ。


 困った様子の彼を見ているのが忍びなくて、そっと彼から目をそらす。辺りには様々な花が咲き乱れていて、とても美しい。その向こうにはよく手入れされた石の壁が見えている。ここはどこかの屋敷なのだろうか。


 今度は自分自身に目をやる。私は石畳の上に足を投げ出して座り、上体を彼に預けている。どうやら彼は意識のない私を支えながら、目を覚まさせようと必死に呼びかけていたらしい。


 そうやってきょろきょろと辺りを見渡している私に、彼がためらいがいに声をかけてくる。


「……もしかして頭を打ったせいで、記憶が混乱してるのか?」


 身動きするたびに頭が痛むのは、そういうことだったのか。ようやく納得できた。


「だったら話しているうちに、記憶が戻るかもしれないな」


 一人でそう納得したらしい彼は私の様子をうかがいながら、ゆっくりと話しかけ始めた。


「あんたはマーガレットで、俺はエリック。あんたは濡れた石畳で足を滑らせて転び、頭を打った。……どうだ、思い出せたか?」


「……いいえ。残念ながら何も」


 そう答えると、彼は心底困り果てたような顔になり、そのまま天を仰いでしまった。


「勘弁してくれよ……」


 うめくようなその声を聞いていたのは、彼の腕に抱えられた私と、誇らしげに咲き誇っている薔薇たちだけだった。






 エリックはしばし呆然としていたが、やがて気を取り直したらしい。赤茶の髪を振ると、私をまっすぐに見つめてきた。


「ひとまず、医者に診てもらおう。少し失礼する。暴れるなよ」


 そう言うが早いか、彼はいきなり私を担ぎ上げて屋敷の一室に運び込んでしまった。


 私がぽかんとしている間に、両親だという男女と医者だという男性が大あわてで駆けつけてくる。彼らの後には、神妙な顔をしたメイドたちも控えていた。エリックは一人離れて、壁際に立っている。


 寝台に横たえられた私のところに医者が恐る恐る歩み寄り、頭の傷を見たり、脈をとったりし始めた。しばらくして、彼は目を伏せ小さく首を横に振る。


「……これは恐らく、頭を打った衝撃で混乱されておられるのでしょう」


 その言葉を聞いたとたん、少し離れたところに座っていた父が勢い良く立ち上がる。父の顔は、庭の薔薇を思わせるほどに真っ赤だった。その隣では、母が涙ぐみながらハンカチで目元を押さえている。


 二人ともたいそう豪勢な身なりをしているし、肌のつやもいい。部屋にあるものも、少々派手ではあるがとても高価そうなものばかりだ。両親と、あとたぶん私は、普段からとても贅沢な暮らしをしているのだろう。


「それくらい、私たちにも見当がついている! お前の仕事は、一刻も早くマーガレットを元に戻すことだ!」


「ああ、かわいそうなマーガレット」


 全く見覚えのない父は怒鳴りながら医師に詰め寄り、見ず知らずの母はひときわ激しく泣き始めた。


 しょぼくれた貧相な顔をした医者は、父の剣幕に押されてたじろいでいる。そもそも記憶喪失というのは病気とは違うのだし、治す方法なんてあるのだろうか。ないように思える。


 身を縮こまらせている医者を、父がさらにきつく責め立てていた。放っておいたらいつまでも続きそうだし、医者が何だか哀れに思えてきた。


「お父様、大丈夫です。しばらく休めばきっと良くなりますから。ですから、どうかお医者様を責めないでください」


 なおもがなり立てている父に、そっと声をかける。そのとたん両親は表情を一転させ、甘い笑みを浮かべてこちらを見た。驚くほど見事な表情の変わりっぷりだった


「おお、お前は優しいのだな。さすがは私たちの可愛いマーガレットだ」


「そうですわね、あなた。でも本当に大丈夫なのかしら」


 二人は蜂蜜をたっぷりとかけたようなとろける声で話しかけてくる。もう医者のことなど、彼らの頭にはないようだった。そんな彼らにあいまいに笑顔を返して、今度は医者に向き直る。


「ひとまず、頭の傷の治療をお願いできますか」


 私の言葉で父から解放された医者は、何故か呆然としたまま私の顔を凝視していた。そのことを不思議に思いながらもう一度声をかけると、彼はようやく我に返ったようだった。


 傷の手当てを受けながら、私はずっと考え込んでいた。さっきの医者の様子は、どうにもおかしかった。おかしいというなら、エリックやメイドたちもそうだった。


 私が医者をかばってからずっと、彼らはみな複雑な表情をして私を見つめていたのだ。目の前の光景が信じられないといったような、そんな顔だ。取り立てておかしなことを言ったつもりはないのに、どうして彼らはあんな表情をしているのだろう。


 数々の疑問と居心地の悪さを飲み込んだまま、澄ました顔で治療を受け続けた。その間も両親の甘い言葉は、やむことなく続いていた。






 傷の手当てが終わると、両親はみなを連れてすぐに出ていった。お前は怪我をしているのだし記憶も混乱しているのだから、まずはゆっくり休みなさい、と言い残して。


 残ったメイドに手伝ってもらって、寝間着に着替える。彼女は何も言わずに着替えを手伝うと、そそくさと立ち去っていった。ひどく焦っている様子だったのが、なんとも気になった。


 寝台の端に腰かけて、ぼんやりと辺りを眺める。ここは私の自室らしいのだが、どこもかしこも見覚えのないものばかりだった。


 少しだけ考えてから、首元に手をまわす。そこにかかっている細い銀の鎖を引っ張ると、レースがふんだんにあしらわれた寝巻の下から、小さな銀の鍵が現れた。さっき着替えの時にこの鍵に気づいてから、どうにも気になって仕方がなかったのだ。


 鍵を手に取り、まじまじと眺めてみる。繊細な装飾が施されていてとても美しい。これが何の鍵なのか覚えていないというのに、とても心惹かれる。きっとこれは、以前の私にとって大切なものだったのだろう。


 何かに導かれるように目線が動き、窓際にある机の上で止まった。この鍵に合う何かは、きっとあそこにある。


 寝台を下りて、机に歩み寄る。引き出しを開けると、そこには分厚い本のようなものがしまわれていた。金で装飾された革の表紙に、鍵と同じような彫刻が施された銀色の金具。金具の中央には、小さな穴が開いていた。ちょうど、あの鍵と合う大きさだ。


 本を机の上に置き、鍵を穴に差し込んでひねる。かちりという音と共に、あっさりと金具が開いた。


 本をぱらぱらと開くと、手書きの文章がびっしりとつづられているのが見て取れた。その間には日付も入っている。これはおそらく日記帳だろう。しかも、過去の私が書いたものだ。


 この日記帳は、記憶を取り戻す助けになってくれる筈だ。ひとりでに心が浮き立ち、頭が痛いことも忘れてページをめくる。まずは、一番新しい文章を探してみよう。じきに、昨日の日付が見つかった。


 けれどそこに記されていたのは、あまりにも味気ない一言だけだった。


『今日も、何もない日だった』


 その前の日も、まったく同じ文字で同じ言葉がつづられていた。以前の私は、そこまで退屈な日々を過ごしていたのだろうか。日記に書くことが何もないような、そんな日々を。


 首をかしげつつ、日記を逆にたどっていく。数日ほどさかのぼったところで、予想していなかったとんでもない文章が、いきなり目に飛び込んできた。


『今日はメイドを首にしたわ。使用人の分際でわたくしに口答えするなんて、生意気ですもの』


 あまりにも傲慢なその言葉に、ただ立ちすくむことしかできなかった。見間違いであって欲しい。けれどいくら見直しても、書かれている言葉は変わることがなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ