聖人とは誰も思わない
ユーリスの怒号を受けて、ハワードは決意したかのように顎をあげた。
しかし、ハワードの隣にいた女性は恐慌をきたした。
「やめてください!彼を煽らないで!ハワードは、ああ、ハワードは私の様な女と一緒になるべきではありません!そうでしょう!あなたこそご存じでしょう!さあ、ハワード、お放しになって!帰ります!私達は家に帰りますから。ぜんぶ、全部忘れてください!」
「レティシア!」
ハワードは暴れて離れようとするレティシアの手首を掴んだが、レティシアはそんなハワードの手の指をカリっと齧った。
「あつっ。」
「うーん。この気性は好きなんだよなあ。」
ユーリスがぽつりと呟き、暴れる恋人はピタリと時間を止めた。
俺はユーリスがレティシアの事情を知り過ぎていたと気が付き、もしかしてと尋ねていた。
「調べたんじゃなくて、知り合い……だった?」
「二年前に出会ってな、こんなことすんじゃねえよって、やらずに金だけ渡した。その日はシーナの誕生日だったからね、聖人ユーリスになったのさ。」
ハワードはハッとした顔つきになると、自分が抱きしめている女性を初めて見たかのようにして見つめ返した。
「……君が俺を拒むのは、兄を忘れられないから?あの婚約者ではなく?」
「違います!感謝してましたが、覚えてなどいませんでした。私はあの日は怖くて、相手の顔などよく見ていなかったもの。思い出すのもみじめな記憶よ。ただ、ああ、ただ、お食事の時のふざけた声で、あの日の方だって思い出して!」
「思い出して?」
「だから、そんな風な事をしようとしていた私など、あなたにはふさわしくないのです!お願い、ハワード、私を離して!」
「そんなにあんな家に帰りたかったら、一人で帰れば、姉さん。」
千客万来の俺の部屋に、薔薇姫までもがやって来た。
真っ赤な人形みたいなドレスを着た少女は、自分を守ってきた女性に向かって、もううんざりよ、と吐き捨てた。
「ミラ!」
「私はこんな子供みたいなドレスにはウンザリなの。貴族?そんなものになるためのお勉強をこの館のベティがしてくれたけど、そんなうざったい事を覚えなきゃなんだったら、あたしは庶民の子供になりたいわ。そうよ!リディアみたいなムカつく女とあたしは今後も仲良くなんかしたくないの。」
「ミラ。」
ミラは近くの棚にあった置時計を掴んで自分の姉の方へ投げつけた。
咄嗟にハワードはレティシアを庇ったが、置時計はそもそも届きもしない場所に叩きつけられただけだった。
粉々になった時計は、ハインズにあとで粉々にされる俺のように見えた。
最初から当てる気も無く投げるんだったら、投げるんじゃない!
悲しくなって目頭を右手で覆ったが、ミラが叫んで出した声は俺よりも悲壮感が溢れるものだった。
心の底から絞り出したような言葉だったのである。
「姉さんはそうやって守って貰えるじゃない。ハワードは何があっても守ってくれるじゃない!それなのに姉さんはハワードが嫌なの?だったらあたしにちょうだいよ!あたしがハワードと結婚するから!あたしがハワードを幸せにするから!あたしに譲ってちょうだいよ!」
ハワードは抱きしめていたレティシアから腕を外した。
レティシアは急に支えが無くなりぐらりと揺らいだが、ハワードは彼女を支えられなかった。
彼は既にレティシアの足元に跪いていたから。
「おやめになって。あなたは私など。」
「黙って!」
「ハワード。」
「あなたは俺に、はい、と言ってくれればいい。俺を愛しているなら、俺がこれから言う言葉に、はい、と言ってくれればいいんだ。」
跪いている彼は右手をレティシアに差し上げた。
「愛しています。あなたは俺と結婚してくれますね。」
レティシアはびくりと震え、だが、ハワードの手にそっと左手を乗せた。
彼女の声は殆ど泣き声に近かったが、俺達にもしっかりと聞こえた。
「はい。」
ハワードは立ち上がり、レティシアを抱き寄せて口づけた。
少し長いと思ったが、彼は彼女から顔をあげると、ぎこちないが幸せそうな笑みを俺達に向けた。
「アレイラ様を呼んでいただけますか。結婚の証明書にサインを頂きたい。」
「ヘイリー。アレンをど無視かよ?こいつこそギャスケル領の領主じゃねえか!」
ユーリスは馬鹿笑いをあげて、足をどかどかと組み木細工の床に打ち付けた。
俺の結婚の時はこの地方を治めている領主としてアレイラからサインを貰ったが、俺こそ結婚証明書を発行できる権力者だ。
館を管理する執事と女中頭には頭が上がらないがな。




