初日
シュウはあの闖入者のせいで昨夜からとても脅えていたが、学園の幼児用の教室内に入るやすぐさま上機嫌になってくれた。
同じぐらいの幼児と触れ合うのは初めてのようで、シュウがおっかなびっくりと自分と似たようなサイズの幼児と挨拶し合う姿は、可愛い、の一言だ。
この学園に編入できて良かったと、私はこの光景を前に神に感謝した。
さて、私は、というと、この学園は小間使いを生徒が持てないだけで、衣食住にかかる職員が寮にも学園にも常駐している事を知ってホッとしている。
洗濯物は所定の職員に手渡せばよく、トイレや風呂が部屋に無くて共通なのは、水回りが貴族の家よりも最新式だからである。
つまり、おまるの始末はしなくても良いし、蛇口を捻れば熱い湯や水が出てくるという素晴らしき環境だったのだ。
また、私がこの学園に編入するにあたり渡されていた教科書は、女学院で与えられていたものとは全く違っている。
これらの教科書の中身は、貴族の女性には不適切と言われている専門的な高等学問であり、勉強したければ独学でせねばならないものだったのだ。
教室の席についた私は、ウキウキしながら教科書を開いた。
「ああ素敵。神様。いつも私を見守って下さりありがとうございます。」
「変なお祈りだね。難しくて困っちゃった?」
突然に自分にかかった声に驚いて顔を上げた。
そこには大柄な青年が立っていた。
薄茶色の髪は金色に近い色合いで、日に焼けた肌によく似合っている。
そして、瞳は見た事もない金色だった。
「いいえ。ええ、難しい事を勉強できるなんて光栄だって思ったの。」
「わお。勉強好きって君は変わっているね。でも俺も勉強好きだから変わり者同士仲良くしようか?はじめまして、俺はダニエル・ヴァレリー。兄貴に忘れ去られた可哀想な弟だ。」
「変な挨拶ね。」
ダニエルは私が良いという前に、私の横の机の椅子を引き出して勝手に座った。
その上、私がまだ自分の名前を答えていないのに、聞いてよ、ときたものだ。
「それって、私の紹介はいらないっていうことかしら?」
「あ。ごめん。俺はさ、半年ぶりに兄に会ってね、その兄に、お前はここの学校だったのかって言われるという酷い目に遭ったばかりなんだ。ごめんね、君の名前を知ろうとしなくて。ねえ、リディア。」
「あら、転校生ってことで先にご存じだったって事ね。よろしくてよ。それで、その酷いお兄様のそれは冗談じゃなくて?だって、あなたに会いにこの学園にいらしたのでしょう?」
「いいや。」
「違うの?」
「ああ。兄は軍隊を辞めてね、今日から幼児教室の保父さんをするらしい。それで俺を見つけて失敗したって騒いだってわけ。最悪でしょう?」
私はダニエルをまじまじと見つめた。
彼は私に見つめられて急に頬を赤くして、あら、もじもじし始めた。
「ねえ、ヴァレリーさん。」
「あ、ダニエルで。俺も君をリディアと呼ぶから。大体ここはみんなファーストネーム呼びだよ。兄弟姉妹でぶち込まれるからさ、名字で呼ぶと、何番目のスミスさん?とか、兄弟姉妹全員がやってきたりで大変だから。」
「あ、まあ。じゃあ、ダニエル、さん。」
「ダニエルで。俺もリディアって呼ぶ。」
呼ぶって断言なんだ。
もしかして庶民の学校は、ファーストネームの呼び捨てこそが当り前なのかもしれない。
ならば、私は不毛なやり取りを続けることは止めて、聞きたかったことを聞き返すべきであろう。
「ダニエル、お兄様もあなたに似ているのかしら?ええと、背が高くて。」
「ハンサム?」
私はいい加減にしろと言う風に脛を蹴っていた。
紳士たるものは女性の言葉を遮ってはいけず、また、こんなにダラダラお喋りしてはいけないのだ。
だが、蹴ってしまってから気が付いた。
紳士とか淑女といういい方こそ、私が嫌いな女性や男性がこうであるべきという概念そのものではないのかしら、と。
「ごめんなさい。ダニエル。痛かったでしょう?」
謝らなくても良かったな、と、私は一瞬で思った。
ダニエルは満面の笑みを顔に浮かべているのである。
「俺さ、女の子と話してこんなに楽しいのは初めてだよ。女の子は俺が馬鹿な事を言っても、くすくす笑いして誤魔化すだけだろ?」
「まああ。ここはそんな可愛らしい子ばっかりの場所だったのね。でも、足を蹴ってしまった事は謝罪します。」
「いや良いよ。いつでも蹴って。俺は元気な方がいい。死んだ姉さんはとってもガミガミして怖い人だったからね。姉さんみたいだ。」
「まあ。」
「で、兄は大柄だよ。元軍人だもの。」
「そうよね。元軍人ってあなたは最初に言ったわよね!って、いけない!」
私は初めての授業かもしれないが、慌てて立ち上がると駆け出していた。
だって、シュウちゃんが怖いって泣いているかもしれないもの!
でも、隣をダニエルが走っているのは何故?