師匠の頼み事は
私は厩舎の馬を勝手に借りた。
黒鯨号を引いて来た馬が厩舎には六頭もいるのだ。
より取り見取りの六頭の中から、私は一番若そうな子を引き出した。
私が選んだ馬は馬車しか引いた事が無いためか、人間が自分に鞍を付けて乗って来たことに驚いて最初はかなり嫌がった。
しかし馬は頭のいい動物だ。
数分ほど歩かせれば、重たいものを引くよりも身軽に動けると気が付き、私の手綱に従順に従う方がもっと楽に動けると理解したのである。
「相変わらず君は馬の扱いが上手いね。」
「カーネリアン家が伯爵位を王から承ったのは、王に最高の馬を献上したからだってご存じの癖に。それ以降、歴代の王の乗る馬はカーネリアンが育てた馬よ。」
「ははは。だから最高の馬を輩出できる伯爵家には、直系じゃなくとも続けられる特記を王が与えたと、君に聞いた時には笑ってしまったけれどね。」
「笑うなんてひどいですわ。王が決められた事は合理的なんですのよ。最高の馬を育てるには環境も大事。広大な領地を管理できる手腕が伯爵には求められているのだから血なんて問題ない、その通り。ええ、我が家で大事な血は、最初に王に献上した馬を生んだ母馬、フィレーネの血統だけね。お父様とお母様はそうじゃないみたいだけど。」
「君には結婚して貰って、君の子供を伯爵にしたい。とってもご両親も合理的だよ。君を認めているからこそ、君みたいな子供に跡を継いで欲しいと思うのさ。君こそご両親にとってはフィレーネそのものなんだと思うよ。」
ありがとうと私は素直に感謝して笑顔を返したが、私に向けたレイの笑顔は少々痛々しさがあった。
それはジリアンに兄と呼ばれた時の涙のあとがあるからではなく、彼が今も不安と心痛を抱いているからだろう。
ディークは本当に大丈夫なの?
「師匠は人に自信を持たせるのが上手いわ。わたくしは師匠に会えて本当に幸運だと思っているの。だから何だって手伝いたい気持ち。ディークの本当の状態を教えて下さる?彼は大丈夫なの?」
「大丈夫だ。死にはしない。崖から引き揚げる事が出来ればね。ああ、嘘だ。骨折で動けない状態で、見つけた時にはその状態でもう二日は経っていた。」
つまり、敵が巡回しているだろう地域の崖にディークは落っこちており、一人ではディークが崖を上ることができないという状態だ。
で、レイの引き揚げには、見張りをしてくれた上に、ディークを抱えたレイを馬でけん引して持ち上げてくれる相手が必要という事かと、私は理解した。
理解した上で、もしもの際は、私が二人を見捨てて逃げる事を希望している事もしっかりと理解した。
「最後の最後で師匠に女扱いされるとは思いませんでした。逃げ出しても誰にも誹られない人間として私を選んだだけですね。」
「誰よりも馬を上手に扱えるのは君だ。私は確実を選んだだけだよ。引き揚げにモタモタ時間をかけたくはない。それに、君は逃げても絶対にまた助けに来る。」
私はレイが本当に人を使うのが上手だと思いながら、彼に顔を向けてニカっと笑って見せた。
彼は初めて出会った時のように笑い返してくれた。
私が男に茂みに殴り飛ばされた日が、レイに初めて出会った日だ。
レイが私の受けた暴力のお返しをその男にしてくれたのである。
戦う姿が恰好良くて、私は自分の怪我の痛みなんか一瞬で忘れた。
そんな私の目の前で、彼は私に謝る女性に囁いた。
「こいつの頑張りを無駄にしないでやってよ。こいつがあんたから欲しいのは、ありがとう、だよ。」
「く~。カッコイイ!そうよ!わたくしはレイに会ったその日から師匠と呼んで、師匠に扱いてもらって騎士にしてもらうつもりだったのよ!ええ、頑張るわ!」
「まだそんなことを考えていたのか!この子は!」
レイはようやく明るい声で笑い、その十数分後に私はレイを暗くしていた事情を全て理解したが、もっと早く私を呼んで欲しかった。
いえ、館を出る前に状況をしっかりと教えて欲しかったと、師匠だろうがレイを思わず詰ってしまった。
「やっぱりあなたも私を女と甘く見てらしたのね。崖の状況を教えて頂けたら、この子じゃなくて伯爵の馬こそ引き出して来たのに!」
急斜面の崖でもあるが直角でもなく、足を折った人間にもそんな人間を背負った人間にも無理でも、野生のシカやヤギだったら軽々と上り下りできる程度の斜面である。
そしてディークは見たところ折ったのは左の足の骨だけらしいが、ちょうど棚のように出っ張っている岩の上をベッドのようにして横たわっていた。
私だったら馬で駆けおりてそこまで行き、ディークを馬に乗せられないのだったら、ソリみたいなのに乗せて綱を引いて上まで引っ張ってお終いだったろう。
「だから言いたくなかったの。馬で崖下りなんか危険な行為を君どころか誰にもさせたくないからね。それに、君は大事なディークを紐で縛って馬で引き摺り上げる気でしょうが。絶対にそんな酷いことはディークにさせないから。」
「何ですか!私の身よりもディークでしたか!お言葉ですが、ソリは使う気持ちでした!」
「結局ディークを引き摺るつもりだったのね!この悪魔!」
私達の言い合いが声を潜めていたものであっても、ディークは私達の気配に気が付いたようで顔をあげた。
無精ひげで顔が薄汚れていても相も変わらずの美貌で、彼が私達に安心するように微笑んで見せた時には、私達が安心して黙ったのではなく彼の美貌に唸らせられただけのような気もした。
「ああ、ディーク。」
「はい、さっさと落ちて。師匠。」
「かわいくない子。」
レイは持ってきていた綱を馬に繋ぎ、自分の体にも巻きつけると、まるで羽が付いたカモシカのようにして、殆ど飛ぶようにしてディークの元へと崖を駆けおりていった。




