温かな君
俺は自分の運の無さを呪っていた。
どうしてミラに肩入れなどしたのだろう。
彼女は俺がギャスケル伯爵だと最初から知っていた。
ジリアンとリディアが俺とハーゲン地方のカントリーハウスに行くと小耳に挟むや、情報漏洩先はハワードに違いないが、俺を脅して来たのである。
「ギャシー講師とギャスケル伯爵が同一人物だと知らないなんて、ほほ、カーネリアン伯爵令嬢はとんだお間抜けでございますのね。でも、同性のよしみで、悪い男に騙されていると教えてさし上げた方が良いかしら?」
俺は彼女達姉妹の旅への同行を認めるしかなかった。
そう、この事態を招いたのは俺自身なのだと反省しているのだから、そんなに思いつめた顔をしないでくれ。
酒場で俺に向けてくれた笑顔も尊敬の視線も今は無く、リディアの顔付きは今や学園でギャシーだった俺に向けるものと同じものになっている。
鼻の下に付けたつけ髭がチクチクと自分を苛むように、馬車が進むごとにリディアの口数は少なく、暗い顔立ちになっている。
いかにも伯爵令嬢だという貼り付けたあの怖い笑顔、あれさえも作らない程に俺に感情を見せてくれるのは嬉しいが、俺は君を苛立たせたいわけではない。
君が俺を嫌っていても、君には楽しい気持ちでいて欲しいと思っている。
ああ、ちくしょう。
あの天邪鬼め。
ハワードに来ないでいいと俺が言ったのが悪かったのか?
まだ休暇は残っているのだからたまには楽しめ、なんて言ったのも悪かったというのであろうか。
今回の謝礼だと、彼に金を手渡そうとしたのも悪かったのか?
奴はミラを操りこの旅に男爵令嬢達も加えさせ、この大所帯の旅路には護衛が必要だと自分までも旅のメンバーに加えて来たのだ。
もともと君とディークを引き離し、君が思慕する女性と邪魔なしに恋を語る時間を作るためのものだろうに!
男爵令嬢と自分では身分違いだとほざくが、君は俺の縁戚だし、軍では少佐にもなっているんだから、そんなに身分違いでも無いんだよ?
「リディア、辛いの?」
ジリアンの言葉に俺ははっと気が付いた。
リディアの顔色が悪かったのは馬車酔いか!
俺は気が付いたまま立ち上がり、その勢いのままリディアの腕を引いて抱き上げ、そのまま彼女を担いて後部ドアへと向かった。
「は、伯爵?」
「軍用馬車だけあってね、後部には兵士が立つ見張り台があるんだ。」
俺はドアを開けた。
ふわっと外気が俺達の間を駆け抜け、密閉されていた馬車の中に新鮮な空気を吹き込んだ。
俺自身深呼吸したような爽快さがあり、リディアが弱ってしまった理由が分かったような気がした。
彼女は風か水の化身のようなもので、常に新鮮であらねばいけないのだ。
「はあ、良い空気。」
疾走する馬車が起こしている風か、後部の見張り台に出た途端に、リディアの美しい髪が零れて舞い上がった。
キラキラと天に昇っていく金色に輝く光。
どんよりとしている空模様には美しすぎるが、雲間から輝く太陽の光のようにも見えた。
俺の手はいつの間にかリディアの髪の中にあり、リディアが俺の無作法にはっとした顔をした。
水色の瞳の中で瞳孔が大きく広がり、俺はその透明な瞳がとても純粋で綺麗だと思った。
無垢なシュウと同じ目だと思ったそこで、自分は彼女の髪を掴んだまま何をしようとしていたのかと自分を詰った。
リディアは具合が悪いんだぞ?
俺はなんの事も無い顔を崩さず、彼女の髪をそっと纏めた。
「綺麗な髪が車輪に引っかかったら危険だ。」
「こんなに高い台ですのに。」
「歳をとると心配性になるんだ。ほら、今度は雨が心配になって来た。これからひと雨きそうだが、新鮮な風があって馬車の中よりはいいね。」
俺は客室と見張り台を繋ぐドアを閉め、外側から鍵を掛けた。
「鍵を?」
「ダニエルが来そうだ。彼は俺と同じぐらいの大きさなのに、十歳児の動きをするじゃないか。彼が来たらぎゅうぎゅうだ。」
「確かに。でも、もしかしたらわたくしは吐いてしまうかもしれませんので、伯爵も席に戻られた方が良くってよ。」
「介抱するためにここに連れて来たのに?」
「まあ、ですが、ミラやレティシアを持て成せるのはあなただけでしょう?わたくしは大丈夫です。ありがとうございます。さ、いらっしゃってください。」
真っ青な顔は大丈夫とは言い難く、俺は彼女を無理矢理に座らせ、自分もその隣に座った。
彼女が具合が悪い癖に冷静すぎて、俺をホストの役割に戻れと窘めたのがカチンときたからかもしれない。
「伯爵?」
「吐きそうになったら、柵の間から頭を出して思いっ切り吐くんだ。俺が君を支える。俺は危険な場所から体を突き出す人を捕まえとくのは得意だな。シュウで練習した。酔って吐く人への介抱も得意だよ。ユーリスで練習した。」
リディアはうふっと笑おうとして、すぐに限界が来たのか、自分から見張り台の柵から頭を突き出して吐き始めた。
俺は約束通り彼女を支え、リディアの背中を軽く何度も撫でた。
リディアの背中に触れた事でシーナの背中を撫でた事を思い出したが、リディアの背中を撫でた感触はシーナではなく成人した祝いにユーリスに酔い潰されて吐いたハワードを介抱した時のそれだった。
だからこそ俺はリディアに好感が持てた。
リディアの背中が逞しさもある背中だったから、俺はリディアに触れてもシーナに罪悪感を抱かなかった。
久しぶりに触れた女性の身体で俺の中は何かが目覚め始めたが、ハワードに似ていると思い出した事でその目覚めを逸らす事も出来た。
「あ、ありがとうございます。な、情けない所を。」
「情けないなんて言ってやるな。ユーリスはそんな所を何度も俺に見せているんだ。あいつが自分を情けなく思ってしまうだろ?あ、思ってくれた方が良いのか、あいつは。」
リディアから弱々しいが、確かな笑い声が上がった。
俺はリディアの背中から手が離せなくなった。
温かい背中。
彼女は生きている。




