まだその絵は完成しない
「絵が好きなのか?」
昭子が軒先で、地面に拾った棒で絵を描いていたら突然声を掛けられた。
目の前にいるのは軍人さん。偉い人なんだろうたくさんの見た事のない飾りが付いている。だいぶ日が落ちてきて暗くなったから顔は見えないが、怖い感じがする。
「…………っ」
話し掛けられたら返事をしないといけないと思うが、偉い人と直接話をしてはいけないと大人たちに言い聞かされていたので何も言えずに黙ってしまう。
隣の敏小父ちゃんの死んだお兄さんは偉い人に話しかけられて返事をしたら『ぶれいもの!!』と言われて刀で切られたと聞いた事がある。
「……ここの家の子か?」
昭子が返事をしないからかその軍人さんはボロボロの家を見て尋ねてくる。
「中に入らないのか?」
こんな暗い中。
「…………」
お話しちゃだめだと聞いていたけど、ずっと話をしてくるからお返事を返さないといけないかもしれないと悩んで、このままだと家に勝手に入っていきそうだからと思ってぼそりと。
「…………お母ちゃん。仕事中だから入っちゃダメだって」
お母ちゃんの仕事はこの時間から始まるのだ。お父ちゃんはとっくの昔に亡くなったからお母ちゃんは昭子を育てるためにたくさん働かないといけないのだ。
と拙い説明をする。
「そうか」
「…………」
「…………」
軍人さんがそれだけ告げると黙ってしまった昭子をじっと見つめて。
「私のところに来るか?」
意味が分からない。分からなかったので首を傾げると。
「嫌だったら断ってもいい?」
断る?
「…………」
断ったらどうして断ったんだと偉い人が部下を連れて牢屋に連れて行くんじゃないの。昔そうやって牢屋に連れて行かれた人がいるって、多江お祖母ちゃんが教えてくれた。
偉い人からすれば下々の者は家畜同然だと。
だから断らなかった。付いていくと決めると。
「そうか」
軍人さんはそれきり黙って一緒にいた。何か相手をした方がいいのかもしれないけど浮かばないので絵の続きを描く。
「紫陽花か」
軍人さんの言葉に頷く。
「紫陽花が好きなのか?」
紫陽花が好き………。
「そこにあるから」
特に意味はない。
「そうか」
軍人さんはそれだけ告げると黙ってしまう。しばらく絵を描いている昭子とそれをじっと黙って見ているだけ軍人さんという不思議な空間が出来上がる。
からからからっ
「じゃあ、また来るな」
「待ってます」
いそいそと出ていく男の人と慌てて服を整えたという感じのお母ちゃんが姿を現す。
「昭子。今日はお肉がもらえたから鍋にしよう。か……?」
お化粧を塗り手繰ったお母ちゃんが家に入っていいよといういつものように声を掛けたのが途切れた。
「失礼」
お母ちゃんの視線はずっと一緒にいた軍人さんに注がれている。
「私は、宮脇博隆という。急の話だが、この子を預けてもらえないか?」
そこでようやく軍人さんの名前を知った。
それから一か月たった。
軍人さん……宮脇様のお屋敷に奉公する事が決まり、支度金としてたくさんのお金をもらった。このお金があれば、お母ちゃんの生活も少しマシになると言われて、ほっとした。
お母ちゃんは昭子を守るためにたくさん働いて大変だったから少しでも美味しいものを食べて楽してもらいたい。
お屋敷の下働きで働くのかと思ったら見た事もない広い部屋に大きなベットとたくさんの調度品が置かれているのが見えて、汚して壊したらどうしようとびくびくしてしまう。
「やっぱり、小父ちゃん達の言った話通りなのかな……」
ふかふかすぎて落ち着かないベットの上に正座をする。
たくさんのお金をくれて、ぜいたくな暮らしができるのはお前をお妾さんにするためだろう。誠心誠意お仕えしてしっかりと励めと。
子供だって関係ない。そう言うのがお好きな方もいる。お前は言われるままにすればいいと口酸っぱく言われた。
お母ちゃんは嫌だったら帰ってきていいのだと言っていたけど、帰ったらどんな目に合うか分からないし。
お金を貰ったのだきちんとしないと。
かちんこちん
そんな事を言われたらからには何とかしないといけないのだが、何をすればいいのかどうすればいいのかと分からなくて、不安で硬直してしまう。
「それにしても」
ベットというのはすごく不安定で正座をして傾きそうになる。綺麗な正座をいつまで維持できるのか。普段使わないところまで筋肉を使って……。
「――何をしているんだ?」
かちゃっ
ドアが開くと同時に尋ねられる。
「だっ、旦那さまッ!?」
って、呼んだ方がいいんだよね。他の呼び方をしろと言われたらどうしよう。いや、それよりも。
「あ、あの……」
そうだ。旦那様に変われたのだからきちんとすべき事をしないと。
「あのっ!!」
ここで指を付いてきちんと挨拶を……。
ぽふっ
「きゃっ!?」
態勢を変えたら顔がベットにぶつかった。そんな勢いづくなんて……。
かぁぁぁぁぁぁ
恥ずかしくて顔が赤くなる。
失敗してしまった。
「…………」
どうしよう。旦那様が呆れてる。
「布団の方がよかったようだな」
「い、いえ、すぐに慣れますので!!」
お気になさらずに。
「………………そうか」
「はい」
長い長い沈黙で納得してくれたので昭子は強く頷く。
自分も含めて旦那様の好みで用意されたのだ文句を言ってはいけない。
(夜のお務めは慣れている物の方がいいですよね!!)
自分に出来るかは置いといて。そんな事を思っていると。
「足りない物はないか?」
「えッ!?」
足りない物……。
ベット。化粧台。タンス。大きな机まであって、こんなにたくさんあってもまだ部屋が広く感じて恐ろしく思える。それなのにまだ足りない物を言えと言われても……。
「ありませんが」
家にいた時よりも物が多いし。
「あっ、服をどこにしまえばいいんでしょうか?」
タンスに入れようとしたらすでに何か入っていたし。
「………服はここに衣装棚がある」
と見せられた場所は……。
「部屋……ですよね」
物置よりも大きくて布団を敷いたら十分眠れそうな空間がそこにある。
「……ここが衣装棚だ」
「…………こんなに広いの勿体無いですね」
ああ。漬物を漬けて置いたらよさそうですね。
でも、漬物を勝手に漬けたらいけないだろうからきちんと確認しないと。
「服も用意してもらう。好みのものがあるようなら仕立て屋に伝えておくといい」
それだけ告げて去っていってしまう。
「あれっ?」
いいのだろうか。きちんとお妾さんのお仕事をしなくても。不安になってしまったが、催促するものではないだろうと判断して、ベットに横になる。
「夢みたい……」
こんなふかふかなものがあるなんて。家で使っていたせんべい布団と大違いだ。
「やっていけるかな……」
弱音が零れるが、お金をもらった分すべき事をしっかりやらないと決意を新たにする。
だが、早くも挫けそうになった。
ベットがふわふわ過ぎて落ち着かなくて眠れなかったのだ。
「ゆっくり休めたか?」
次の日の朝。大きな部屋でテーブルの前の椅子に座って朝食をとる事になる。
「はッ、はいっ!!」
眠れなかったと言うわけにはいかないので慌てて返事をすると。
「…………そうか」
相変わらず何を考えているか分からない顔だ。
メイドさんが用意した食事を一緒に食べる事自体理解できないし、テーブルに置かれている食事をどう食べればいいのか分からない。
(この銀色の道具を使えばいいんだよね……)
ちらっ
旦那様の食べているのをじっと観察する。
刺々している道具で食べ物を刺して……、この小さな包丁で切っていく。
刺していいのだろうか。箸だと挟むものなのに。
う~んう~ん
悩んでしまう。
「…………」
悩んでいるの昭子をじっと旦那様が見ているのに気付いていない。旦那様はメイドに指示をして、メイドが去っていくのにも気づかなかった。
(でも、このままじっとしていたら気にするよね)
決心して刺そうと手を振り上げたら。
「こちらをどうぞ」
メイドさんが持ってきたのは一膳の箸。
「あっ……」
ばれていた。
「気付かなくて悪かったな」
旦那様が声を掛ける。
「い、いえ……」
まさかずっと困っていたのを見られていたなんて、恥ずかしい。
「慣れない道具を使えと言われてもいきなりは無理だろう。おいおい覚えていけ」
「はッ、はいっ!!」
慌てて返事をして食事を始める。
「何これッ!?」
こんなの食べた事ないっ!!
「美味しい!!」
歓声を上げる。あげてすぐに煩いと文句を言われないかとびくびくして旦那様を見ると。
「…………」
まったく気にしていないのか静かに食事をしている。
「量はどうだ?」
「りょっ、量?」
「急にたくさん食べると身体に悪いからな」
多くないかと心配されて、
「だ……大丈夫です。多分……」
自信はないが。
「そうか」
それだけ告げると黙々と食事をしている。
食事をしているさまは正しい食べ方を知らないけど、見ていると綺麗だなと思わされる。
(頑張って覚えよう)
あんな風に綺麗に食べてみたい。
食事を終えると旦那様は仕事に向かわれる。
「あの、私は……」
何をすればいいのですか。
近くを通りかかったメイドさんに尋ねると。
「お部屋に絵の道具を届けてあります。ご自由にお使いくださいととの事です」
と告げられた。
「絵の道具……?」
机の上にたくさんの道具が置かれている。
でも……。
「紙は分かるけど……こんな綺麗な紙見た事ない。あっ、筆もある。でも、何で作られている筆なんだろう。毛先が固い。あと」
他は何だろう。
木の棒?
いろんな色が並んでいる綺麗な棒みたいな物。
石炭によく似ているけど、石炭みたいに黒だけじゃない物もあるし。
この丸い木の板は何だろう。
「…………」
使い方が分からない。でも、すべてすごく質のいい高級なものだと言うのは理解できた。
「紙に描かないのか?」
何をしたら分からないので、ぼんやりと庭を見ていたら帰ってきた旦那様に声を掛けられる。
『絵が好きなのか?』
そういえば、旦那様はそう声を掛けて気が付いたらこんなお屋敷で暮らす事になったのだった。
「…………使い方が分かりません」
情けないやら、恥ずかしい気持ちになりながら正直に告げる。
「そうか」
それだけだった。
旦那様はそれだけ告げると去っていく。
「…………」
正直、もっと何か言われるかと思った。責められるとかそんな事を……。
いや、そんな事ないか。
なぜ自分をこの屋敷に連れてきたのか分からないが、さほど自分に興味ないのだろう。
(あの様子なら、すぐにこのお屋敷を追い出されるだろうな)
そうしたら貰った支度金を返せと言われるかもしれない。そうしたらどうしよう。
そんな事で不安になったのだが、それは杞憂だった。
次の日。
「ハジメマシテ。ワタクシ。オ嬢様ノ絵ノ講師ト呼バレマシタ。メリアト言イマス」
異人さんがお屋敷に来て、絵の講師として紹介された。
メリアさんと名乗った先生は、絵の道具の使い方。絵の初歩などを教えてくれて。
綺麗すぎて、高級過ぎて触るのを躊躇っていた道具を当たり前のように使えるようになるまで教えてくれて、いろんな物を描く練習に付き合ってくれた。
そんな中、庭に遊びに来ていた雀の絵を描いていたある日。
「上手いな」
旦那様が後ろから絵を覗いて声を掛けてくる。
「あっ……ありがとうございます」
緊張しつつ礼を述べる。本当なら手を止めて直接顔を見て告げた方がいいのだが、今は雀に意識を向けているのでそんな余裕はない。
「活き活きと楽しそうにしている」
「…………」
答える余裕がないのでそのまま黙って聞いている。
「…………………」
旦那様は文句を言わない。ただじっとこちらを見ている。
「………旦那様は」
ぼそっ
「不思議な人です」
雀の羽根を描きながら漏れてしまう。
「私はこのお屋敷に来る前にいろんな話を聞きました。お貴族様に逆らうな。逆らったら殺されても文句は言えないと」
絵に意識を集中しているから普段ならけして言わない。言えない言葉がすらすらと出てくる。
「でも、旦那様は私がこんな態度でも何も言わない」
どうしてですか。
絵を描く手を中断する。手が疲れたのだ。
「特に理由はない」
「そうですか……」
残念な気持ちになるが、旦那様らしいとも思える。
「だが」
だから言葉が続いた事に正直驚いた。
「お前が地面に描いた紫陽花。あれに色が付いたらどんな感じになるのだろうかと思ったら興味が湧いた」
それだけだ。
それだけの理由で屋敷に住ませて、絵の道具を揃えた。使い方が分からないと告げたら講師まで招いて。
「お前はどうなんだ?」
急に聞かれて首を傾げる。
「いきなり妙な事を言われて、連れてこられて、絵を描く事を強要されている」
思わず旦那様の方を振り向いてしまう。旦那様はいつもと変わらない無表情。
ああ、この方は表情を変えるのが苦手なのだと今更気づいた。
それと同時に。
「いえ、連れてこられて気付きました。私は」
昭子は自信もって告げる。
「絵を描くのが好きなので」
新しい知識を得て、絵を描く技法を教えてもらってから興奮していたのだ。それを試してみたいと興味が湧いたのだ。
だから、
「感謝してます」
強要されていません。そう答えると。
「なら、よかった」
感情を出すのが苦手な口調で淡々と言われる。
「邪魔をしたな。長いことそこに居ては風邪をひく」
案じているのだろうが、言葉が足りない。旦那様が去ろうとするので、
「あっ、あのッ!?」
とっさに呼び止めてしまう。
「なんだ?」
旦那様が振り返る。
屋敷に来た当初の頃だったらこの旦那様の態度に怯えて何も言えなかったはずだった。でも、今は。
「あの、旦那様の絵をいつか書いていいですかっ!!」
必死に叫ぶように告げると。旦那様は驚いたように目を大きく開く。
「あ、あの……」
「…………」
旦那様は黙ってしまう。
長い長い沈黙。
いや、玉響のようなひと時だったかもしれない。
「完成したら見せてもらいたい」
それだけだった。
でも、
「はいっ!!」
嬉しかった。描いていいと言われた事が。
旦那様との距離が近くなった気がして。
それから何枚も何十枚も旦那様の絵を描き続けた。
「まだ、完成しないのか?」
描かれた絵の一枚を持って尋ねる旦那様に。
「はい。まだです」
旦那様を描けば描くほど旦那様の新たな表情を見つけ出して、今描いている絵が違うと思って止まってしまう。
そのまま放置していると旦那様がその絵を見て尋ねる事が多々あった。
そして、気が付いたら絵が消えている。
まあ、失敗作だしなと次の絵を制作をする。
旦那様の絵ばかり描いているわけではなく、合間合間に庭で咲いている花や木。鳥や猫などを描いているとその絵が気が付いたら価値のある物になって、高値で売れていた。
そのお金の一部を母さんに送金して手紙を添える。
母さんは再婚をして、昭子は知らぬ間に弟が出来ていた。
それでも、一番描きたい旦那様の絵は思うように進まない。
「…………」
最初はまだなのかと尋ねていた旦那様も今は何も言わずにただ正面に座って完成を待っている。
気が付いたら旦那様の髪に白髪が混じるようになった。
表情が変わらないと思われていた顔は不器用に微笑むようになった。
そんな発見をするたびに絵は没になる。
きっと、この絵は完成しないだろう。永遠に――。
だが、それでいい。
「じっとしているのは疲れましたよね。休憩しましょう」
「ああ。そうだな」
穏やかな会話をして、旦那様はそっと椅子を昭子の隣に持ってきて座る。
それが二人の今の関係だった。
宮脇夫妻の寝室にはたくさんの絵が置かれてある。
それらはすべて、妻の昭子が夫の博隆を描いたもので、彼女は、
『旦那様の絵はたくさん描いてもそのたびに新しい姿を見せて完成させてくれなかったのよ。ずるいでしょ』
と最後まで笑って告げていたそうだ。
当初の予定では旦那様が不器用に「私の絵を描いてほしい」と言ってもらうつもりだったが、そんな風になりませんでした。