51話 賢者になるためには
「お師匠様は、死にました」
その言葉はとてもとても無機質だったと思う。
だって、その時のあたいの頭は思考を放棄していたし、そもそもお師匠様は死んでいるわけで。あと、仮に、仮にお師匠様が生きていたとして、殺せと言われて飲み込めるはずもないから。
だから、あたいはそう答えた。
「生きてるよ、彼は」
ブリーさんのその言葉が、あたいには真冬の岩のように冷たく感じた。
思い出したように息を吸って言葉を出そうとするが、空気は喉のどこかを刺激して、あたいは盛大にむせた。
ちらりと隣に座るジャンを見れば、なぜか焦ったような顔で俯いて、しきりに背中の剣を気にしているようだった。
静寂の中でブリーさんが話を続ける。
「彼は、とある男を殺して魔法使いとなった。今やアルミルティの街を支配している。攻撃してくる王国軍は、皆返り討ちだ」
「そんな、どうして……」
あたいは頭を抱えたい気持ちだった。あれほどまでに魔法使いのことに触れようとしてこなかったお師匠様。きっと、お父さんへの後悔からだと思う。けれど、そのお師匠様が、魔法使いになるなんて。
ガタリとジャンが椅子を揺らした。
「だから、テラロアは……いや、待て。ヒヨは髪の色を変えられ、嘘の情報まで流されてるのに、なんでヒヨが追われてるんだ?」
「……これは推測だが、そのテラロアとやらがなんらかの魔法を利用して突き止めたか、レーザが暴露したか。前者ならば、ヒヨを利用してレーザを追い詰めようという算段なのだろうが」
「あ、はは……まさか、ね」
あたいは引きつった笑みを浮かべて想像してみた。もし、お師匠様があたいのことを信頼してくれていたなら、ここまで来るのは当然と思ってくれるのかな。
メガルハをダシにしてテラロアを送り込んだ。
そして、こう言うんだ。
「これも修行、ね……」
知らず知らずのうちに、あたいの頬の緊張は解けていたらしく、自然と笑みがこほれた。
たぶん、あたいは単純に嬉しいのかもしれない。魔法使いになってしまったとしても、お師匠様が生きていることが、嬉しい。
だって、お師匠様はお師匠様だもん。
俯くあたいの視界に、ぼんやりと肌色の小さな丸が写った。ファムちゃんの手だ。
あたいが不思議に思っていると、ファムちゃんの手が優しくあたいの下まぶたを擦った。あたいはわけがわからずにジャンを見た。ぼやけて見える。
霧がかったような視界の先で、ジャンが呆れ笑いのような表情を浮かべた。
「……ヒヨ、涙、拭けよ」
「……んえ?」
……本当の本当に気がつかなかった。
ファムちゃんは再びあたいの顔へ手を伸ばし、涙を拭った。ダメだね。考えてばっかで、ああ、違う。そうじゃなくて、あれ? 何を考えればいいんだっけ。
もう、なんもわかんないや。
わかんないよ。
あたいの頭を撫でるのが誰の手なのかも、わからないよ……。
こうまで泣いたのはいつぶりかな。たぶん、お師匠様が死んだと思って、あの街から逃げ出した後ぶりだ。
しばらくぶりに出口を見つけた涙たちは、どんどんとあたいの頬を伝って石の床へと落ちていく。
暖かい手は、頭だけではなく背中にも触れていた。
ーーしばらくしてから、あたいはブリーさんに言う。
「ブリーさん。あたいは、賢者になります」
「……覚悟はできたのだね」
「はい」
これがきっとあたいの精一杯の恩返しだ。だから、あたいは全力でお師匠様を倒す。
あたいの決意の色が見えたのだろう。ブリーさんは頷いた。
けれど、ひとつだけ不安なところがある。
「ブリーさん。あたいは、お師匠様に勝てますか?」
「今のままでは不可能だろう。何しろ、相手は大賢者だ。しかし今は時間が無い。すぐそこに魔法使い狩りがやってきている」
テラロアさんのことだろう。あたいは神妙な顔で頷いた。
ジャンが引きつった笑みで立ち上がる。
「なら、俺が止めてくるぜ」
「できるの? 結構強いって言ってなかった?」
「強いって言っても、俺の体感じゃ五分だ」
「じゃあだめ!」
「ええ?! おいおい、もう少し信頼してくれてもなぁ……」
「そうじゃない。危ないもん」
あたいはジャンの腕を持って、無理やり椅子へと座らせた。ジャンは少し不服そうだったけれど、やっぱり行って欲しくない。
もう、悲しい思いをするのは嫌だから。
「だから」とブリーさんが続けた。
「今回は奮発しよう。ヒヨの父の顔に免じて、大賢者以上にしか立ち入ることのできない空間へ案内する」
「いいんですか? そんなことして」
「ああ、大丈夫だ。自慢じゃないが、わたしは多少偉いんでな」
なら大丈夫だね。あたいはブリーさんに続いて立ち上がった。そして、ファムちゃんに手を出す。ファムちゃんがそれをぎゅっと握った。
外に出て、ジャンと横並びになって歩く。霧はだいぶ腫れていて、明るい日差しが届いていた。苔が青々しい。
「なあ、ヒヨ。お前本当に大丈夫なのか?」
ジャンがそう不安げに聞いてきた。あたいは小さく顎を引いた。
「今は、ね」
そう、今のあたいには覚悟がある。あたいはお師匠様を倒すつもりだし、絶対に負けたくない。
けれど。
「でも、たぶん辛くなっちゃうと思う」
あたいがそう笑って言うと、ジャンはやっぱり不安そうな顔をした。
ジャンは続ける。
「俺は、お前がやるって決めたならなんの邪魔もしない。お前のお師匠様がお前をボコボコにしても止めないし、そのお師匠様をお前がボコボコにしてても、止めない」
「……うん」
それっきり、ジャンは黙ってしまった。
けれとあたいにはその沈黙が心地よかった。やっぱりジャンの隣は安心する。無条件に信頼出来る。
良い友達を持てたな。
そうして長い長い道と階段を進んで、あたいたちは少し小高い丘の上に出た。その丘の真ん中にはポッカリと穴が空いている。
ブリーさんはそこまで進んだ。穴の内側には螺旋階段がどこまでも続いている。
ブリーさんが説明する。
「この穴の中は、時間の流れが遅い。上位賢者である精霊の主や交信者にのみ使用が許されている」
「時間の流れ……」
口の中で反復してみて、あたいはその凄さを理解した。光の屈折はわかりやすいけど、いったいどうやって時間なんて操作しているんだろう。
それに、賢者の位、全然知らなかった。そんなかっこいい名前があったのね。
「でも、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫だとも。わたしは精霊の主序列五位、魔力の操作に最も長けていると評判なんだ」
「うええ?!」
ブリーさん、本当にすごい人だった?! あたいはおどおどして、とりあえず頭を下げた。
「ははは。急にそんな態度を取られても困るね」
「す、すみません……」
思わず頭を下げてしまった……。
ブリーさんは楽しそうな笑顔で言う。
「時間の流れが遅いというのは、だいたいこの世界の三分の一ということだ。そして、ヒヨにはわたしとともに三日間……穴の中では九日だな。それだけの時間で修行をしてもらう」
修行と聞こえて、あたいは自然と背筋を伸ばした。こんなにすごい人と修行ができるなんて。お師匠様、羨ましがるだろうな。
「ジャンくんは好きなところで腕を磨くといい。ゴーレムの操作が素晴らしい者もいるから、尋ねてみてくれ」
「はい。わかりました」
あたいはファムちゃんの手を離して、ジャンの方へと送り出す。ファムちゃんは少し残念そうな顔をして、それからジャンの足元へ。手は握らなかった。
あたいはジャンに言う。
「それじゃ、ファムちゃんをよろしくね」
「おう、任せとけ。お前も頑張れよ」
「もちろん」
あたいは拳をジャンへ突き出した。ジャンは自分の拳をそれにこつりとぶつけた。
「それとジャンくん。君は、決してメロウジスタの英雄だと名乗ってはいけない。快く思わぬ者が多いからな」
「わかりました」
ジャンは真面目な顔で頷いた。
ブリーさんはそれを確認して、あたいにも確認のように目線を配った。あたいも頷く。
「それでは、行こうか」
あたいたちは穴の中へと降りていく。