04-56 旅行15日目 その2 国の話
パンが硬い。
それは発酵していないからである。
ふっくらしているパンは、スポンジのように、中に小さな空気の泡を含んでいるのだ。
その空気の正体は『二酸化炭素』である。
これは、『酵母』すなわち『イースト菌』による発酵の副産物だ。
ちなみに『イースト』の和訳が『酵母』で、通常はパン酵母のことをイースト菌と呼んでいる。
この酵母菌は常在菌で、どこにでもいる(だが現代日本では、効率よく発酵をさせてくれる菌だけを選りすぐって培養し、使用している)。
つまりわざわざイーストを使わなくても、時間さえ掛ければ発酵してくれる……はずなのである。
が、気温によっては1日以上置かないと発酵しないため、実用的ではない。
時間が経ちすぎてパン生地が乾燥してしまったり、カビたりすることもある。
「でもな、ブドウの皮にはけっこういい酵母菌が付いているんだよ」
ゴローは迎賓館の厨房で、料理人たちに説明していた。
昼食に食べたぶどうパンがふっくらしているのはどうしてか、とクリフォード王子から尋ねられたのがきっかけで、『謎知識』を駆使して、美味しいパンづくりを指導することになったのであった。
「ぶどうパンでなくても、ブドウ酵母を作って、それを使えばできるよ」
「おお! ゴロー様、是非ご指導ください!」
いなり寿司やちらし寿司、焼きおにぎりなどのレシピを教えたため、ゴローはすっかり料理人たちに尊敬されていたのである。
「ええと、密閉できる容器を煮沸消毒したら、水とぶどうを入れて蓋をし、暖かい場所に置いておけば発酵するから、それを使うんだよ」
「あの、それってワイン造りと同じでは……?」
「まさにそれさ。ワインは、葡萄の皮に付いている酵母を使っての発酵を利用して糖分をアルコールに変えているんだ」
パンも同じである。ただ、小麦粉に含まれる糖分はわずかなため、酒になるには時間が掛かるというだけである。
ちなみに麦から作る酒といえばビールが代表的である。
「そうやって作った酵母を小麦粉に混ぜてこねて、丸めて置いておくと発酵して膨らむから、それを焼くんだ」
発酵なので当然アルコールも生成されるが、わずかである上、焼いたときの熱で飛んでしまうから、パンを食べて酔っ払うことはない。
ゴローの説明は概略ではあるが、料理の専門家たちであれば、それを道しるべにして実用化に漕ぎつけられるであろう。
「ほほう、ためになったぞ」
「うむ、さすが『天啓』持ちであるな!」
ローザンヌ王女と、リラータ姫は感心することしきり。
リラータ姫は迎賓館に交流という名目で遊びに来て、ゴローがパン作りの指導をしていることを知り、厨房を覗き込んでいたのである。
こうした雑学は、教えてくれる者がいないので、知ること自体が楽しいのだろう。
「でもまあ、酵母が増えてくるまで1週間くらいかかるから……」
「何、そんなにか」
「うむう……すぐにふかふかのパンを食べられるわけではないのか……」
ちょっと残念そうなリラータ姫であった。
* * *
「しかし、ゴローは物知りじゃな」
迎賓館の庭園でお茶を飲みながら、リラータ姫が言った。
「商人だと言うとるが、学者か……『相談屋』の方がふさわしい気がするのう」
「相談屋……って何ですか?」
聞き慣れぬ言葉に、聞き返すゴロー。
「ほう? ゴローにも知らないことがあったか」
「そりゃあ、何でも知っているわけないでしょう。この世界は未知のもので溢れていますよ」
「そういうものかのう。……それで『相談屋』じゃったな。つまり、いろいろ悩みを持っている者の相談に乗るわけじゃ」
(コンサルタント……あるいはアドバイザーかな?)
ゴローの『謎知識』は『相談屋』を『コンサルタント』『アドバイザー』と説明した。
もちろん、社会の構成が異なるのだから、全く同じというわけではないだろうが、『相談屋』のイメージを掴むには十分だった。
念話でサナにも簡単に説明すると、
〈うん、ゴローに似合っている、かもしれない〉
というコメントが返ってきたのであった。
それで、少し本気で考えてみようという気になったゴローである。
「相談屋か……」
「ふふ、確かにな。思えばゴローは、出会った頃からなにくれとなく相談に乗ってくれていた気がするぞ」
ゴローの呟きに、ローザンヌ王女が答えた。
「そっちは副業くらいならいいんですけどねえ……」
「ふ、そういえばゴローが提供してくれたんだったな、あの『金緑石』は?」
「あ、そうでした」
「……どこ産なのだ? ……ああ、秘密なら答えなくてもいいぞ」
「ええ、別に秘密でもありませんから。 王都のずっと北の山ですよ」
「ふむ。ジメハーストよりも北か?」
「ええ、もっともっと北です。カーン村ってご存知ですか?」
だが、ローザンヌ王女は首を横に振った。
「いや、知らぬな」
「私は、聞いたことがある気がする」
辛うじてモーガンは聞いたことがあるようだった。
「そのカーン村の北側に、宝石類の採れる山があるんですよ」
「ふむ、なるほどな。……そこはルーペス王国なのか?」
「え……わかりません……サナは?」
カーン村付近がどこの国に属するのか、ゴローは知らなかったのでサナに話を振った。
「あの周辺は、ルーペス王国ではありますが、『自由地区』のはず、です」
「おお、なるほどな」
「……自由地区って?」
ゴローは初耳だったのでサナに尋ねてみる。またしても『謎知識』が役に立たないケースだった。
「一言で言えば、国が管理を放棄した地域。というのは、あまりに辺境なので、管理するとかえって負担が大きくなるから」
「そんなことってあるのか?」
どんな辺境でも領土は領土じゃないのかなあ、とゴローは思っている。
だが、この世界ではそういう考え方をしているらしい。
(……この世界では……?)
ゴローは薄々、『謎知識』の源流が、この世界ではないのではないかという気になってきていた。
ではどこの世界かと言われても答えられないが。
「ゴロー、国というのは民から租税を取り立て、代わりに民を保護しているわけだが、辺境すぎると得られる租税が少なく、下手をすると徴収する手間と費用が税収を上回ることがあるのだ」
ローザンヌ王女が説明してくれる。
「そういう地域を『自由地区』と呼んでいる。領土ではあるが、管理をしてはいないのだ。……この先、移動手段が改良されたり、その地域での租税額が十分多くなったりすれば変わってくるであろうがな」
「そういうものですか」
「そういうものだ。……そう考えない国もあるだろうがな」
「わかりました」
「……この地方だって、もっと西には自治区があったりするのであろう?」
このセリフはゴローにではなくリラータ姫に向けてのものであった。
「うむ、ローザンヌ殿下のいうとおりじゃ。もっと西の方には、国交をしていない国や、獣人の自治区がある」
「ええと、『自治区』というのは?」
またしても耳慣れない言葉に、ゴローが質問をした。
「うむ、自治区というのはじゃな、国未満の集団といってよいじゃろうな」
「それは、人口的に、ですか?」
「いや。人口が少ないこともあるが、定住していないという理由もあるな」
「遊牧民、あるいは狩猟民なんですか?」
「狩猟民じゃな。おおよそ数家族単位で狩りをしながら移動して暮らしている連中じゃ」
森や草原を移動しながら狩りをし、生計を立てている民族なのだという。
ああ、それじゃ国交なんてできっこないな、とゴローも納得した。
それにしてもいろいろな人々が、いろいろな場所に暮らしているのだな、と改めて思うゴローであった。
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次回更新は9月20日(日)14:00の予定です。




