恋心
ナルが必死に馬車を組み立てなおして馬に繋ごうとしている頃。
グリムは溶けていた。
暇な時間が多すぎる、これほどの暇はいつ以来だろうか。
おそらくナルと出会うまでの数日間、絶食という名の自殺を図っていた頃くらいのものだろうか。
あらゆる戦場に現れては戦況をひっくり返し続けた結果、大半の国家が戦争という面倒で金のかかる暴力的外交を悪手と認めたその日からグリムの生活は一変した。
常に命が賭け皿に乗せられ、いつそれが失われてもおかしくない時間。
目を覚ませば眼前に広がるのは死者とこれから死にゆく者達の最後の姿。
そんな日々がある日突然終わりを迎えて、グリムの手元には一本の剣とわずかな金銭だけが残った。
わずかとはいえ数か月遊んで暮らすには十分、しかし今後の稼ぎは期待できない状況。
これで自分も潮時かと、ようやく迎えられるであろう死を目前にしたときに現れたナルという破壊者にグリムの生活はまた一変した。
何年も忘れていた楽しい時間という物を思い出す事ができる日々、それを満喫している死にたがりの自分。
いつしかこの時間がずっと続けばいいのにと思うようになったグリムだったが、死にたいと思っていた時期があったという事さえ忘れかけていたのだった。
それを思い出させたのはナルの居ない暇な時間。
平和という毒にじわじわと侵食されていく感覚をその身で感じ取ったその時からだった。
だからといって、グリムはその身を動かすことはしない。
ナルと出会い、自分の力の根源に気付いたその日からずっと言い聞かせていた言葉があったからだ。
自分は【死神】、人の命を奪う者。
その言葉を心の中で繰り返すたびに、グリムは自分の力を抑え込むことができるような気がしていたからだ。
無意識のうちに人の殺し方を考えてしまう自分の思考が嫌だった。
無意味に戦争を長引かせる自分の行為が嫌だった。
無作為に命を刈り取る作業が嫌だった。
そんなグリムを変えたナルがいない日々が、今は何よりも嫌だった。
だからグリムは、自ら行動することを放棄して怠惰な日々を過ごしていた。
昼間からナルに手渡された薬煙草を吸っては布団の中で丸まって眠る、昼夜を問わずに眠り続けるグリムを心配そうに見つめるリオネットの視線に気づきながらも自分の本性を抑え込むためにも、毒に気付いたその日からグリムは活動の一切をやめた。
一日の内起きているのは夕食を口にする時と、排泄、そして数日おきにリオネットが体を洗えと口を酸っぱくして言う時のみであり、おかしな話ではあるが寝食を忘れて睡眠をとるという生活をしていた。
それもあとわずか、ナルからの手紙が届いたからだ。
そこに書かれていたのは【愚者】と【悪魔】と【死神】という言葉から始まり、半月後に落ち合おうという内容。
予定の半月後とはすなわち今日であり、久方ぶりに太陽の光を浴びたグリムは今か今かとその時間を待っていた。
そして……ナルは現れなかった。
代わりに以前手紙を持ってきたという男が新たな書状を手にしていた。
内容は相変わらずの合言葉から始まり、そして謝罪。
最後にもう半月ほど遅れそうだという内容。
詳しくは会ってからという簡潔なものだった。
唯一の救いと言えば、これはグリムにとってではなくリオネットにとっての救いだが、グリムの身を案じる言葉が最後に一文付け加えられていた事だろう。
その言葉が無ければグリムは再び眠り姫を演じる事になっていたかもしれない。
いや、その言葉だけでもグリムはふて寝を決め込んでいただろう。
リオネットがナルも心配しているのだから身体を壊しては元も子もない、たまには外に出ようと誘い、それから連日同じ言葉をかけられたグリムの日課が街の散歩になるまで説得は続けられたのだった。
そこにリオネットの苦悩がどれほど詰まっていたか。
毎日散歩の際には必ず付き添い、子供相手だからと横柄な態度をとる人間や、悪漢の類を排除するべく威圧感を振りまいているのをグリムが見逃すはずもなく、はじめの内はそれを苦にやはりひきこもると言い出したこともあった。
しかし人は慣れるものであり、そんな態度を見せるリオネットにも慣れたグリムは一つある思い付きをした。
いつも吸っていた薬煙草、その味は知っている。
薬品と呼ぶには煙いが、煙草というには清涼感のある味であるそれに対してナルが吸っている煙草はどのような味がするのだろうかと。
これは本人も気付いていない事実だが、淡い恋心がナルに興味を向け始めていた。
二人が滞在するアルヴヘイム共和国では15歳で成人と見なされるためグリムでも煙草を買う事は可能だ。
とはいえ、幼子と見紛う外見である以上断られる可能性も考慮し渋々と言った様子のリオネットに銘柄を指定して購入してもらったそれを吸いこんで一言。
「あまり、美味しくない」
そう呟いていたのはさしものリオネットもため息を吐いていた。
過去、リオネットも憧れという感情から同じ行為をしたことがある以上何も言えない。
あくまでもリオネットのそれはナルの持つ戦闘力への憧れだったが、それでも馬鹿な真似をするものだと思い、同時に友人が煙草にはまらないでよかったという思いを胸に秘めたまま苦虫を噛み潰したような表情で煙を吸い込むグリムを見つめるのだった。
なお、リオネットという女は戦場という一点に関しては勘の働く人間だが、人の機微という物に関しては非常に疎い。
憧憬や羨望を胸い抱いた少女が一つの物事にはまるには、気持ち一つあれば十分だという事を理解できなかったのである。
ナルとの合流まであと半月。




