ローカスト
「ローカスト、いるか? グラスホッパーだ、入るぞ」
ノックもせずに部屋に押し入ったナルが見たのは、大量の実験道具と書物の山に埋もれる青年だった。
顔立ちはいたって平凡、それ以上に異臭が鼻につく。
それをあらかじめ予見していたナルは口元を布で覆い隠していた。
「あー……グラス、ホッパー? ……うわぁ懐かしい顔だぁ……」
「お前何時から風呂入ってないんだよ……」
「えっとぉ……ここに来てから何日? 」
「知らねえよ、一回も入ってないってことかよ。そりゃくせえわ」
ローカスト、ナルの管理している組織の中でも稀代の変人として有名な彼は気になる事があれば寝食を忘れて研究に没頭する性格である。
現代医学、並びに科学のいくつかは彼が考案した物が元になっている。
時代を変えるほどの天才として表の世界でも有名だが、その資金調達のために裏世界にも身を置いていた。
「ちょうどいい、明日城に行くからついて来いよ」
「えー……面倒くさいなぁ……」
「俺も知らない毒が使われている可能性もあるからお前に見せたかったんだがな。嫌なら無理強いはしないが、残念だなぁ」
「行く! 」
相変わらず扱いやすい奴だ、と布の下で笑みを浮かべたナルはそうかそうかと頷いてから、ローカストを持ち上げた。
【力】のカードを使うまでもなく持ち前の腕力だけで軽々と持ち上げられるローカスト、彼の身体は余計な脂肪はもちろんの事、必要最低限の筋肉しかついていない。
それで十分、それで問題ないと言い切れる理由が存在する。
稀代の天才というのは天からいくつもの才能を授けられており、ローカストは魔術という分野においても最先端を突き進む男だ。
トリックテイキングが先を越していなければ【魔術師】のカードは彼が所有していただろうとさえ思える。
「ならまず風呂に入ってこい。それから睡眠をとって、飯を食べて、髪を切りそろえてこい。俺はその間に明日着る服を用意してやるから」
「あいー……」
「あとクイーンが仕事の命令を出すつもりみたいだから、それまでに研究切り上げろよ。あと十日くらいでここも引き払うみたいだから」
「ういー……」
話を聞いているのかも定かではないが、一応はナルの言った通り部屋から出て浴場として使われている一室へと歩みを向けているのを見てため息を吐いたナルは研究器具一式を見て何をしているのだろうかという好奇心に駆られたが、それを振り払ってローカストの後に続いた。
彼は研究成果に興味はないが、研究途中ものに触れられると激怒する。
それはもう烈火のごとく、大爆発するのだ。
過去にそのあおりを受けて支部の一つが街諸共吹き飛んだことがあるため、ナルはそっと見なかったことにしてローカストと共に風呂に向かった。
「あれぇ? グラスホッパーも入るのー……? 」
「いやか? 」
「んーん、背中流してー……」
「相川あらずだなぁ……まぁこの際だ、全身垢一つ残さないように磨いてやるよ」
「そういうのは女の子にお願いしたいなー……」
「お前……変なとこでは俗物だよな……」
「人間はーみんな俗物―」
稀代の天才と呼ばれる男の言葉とは思えない発言にナルは苦笑を浮かべながら衣類を脱ぎ、下水道にあるとは思えない程に清潔な浴場で高級な石鹸をふんだんに使って自分の身体を清めた。
それから横で四苦八苦しながら頭を洗うローカストの背中を流し、ついでにと全身くまなく洗い流してから二人で浴槽に使っていた。
下水道故に浴場でも悪臭が蔓延しているのではと危惧していたナルだが、浮かべられた花や湯に溶け込ませた香油で不快なにおいは一切せず、体の芯まで温まるのを感じ取りながら風呂を満喫していたのである。
「あぁ……いい湯だ……」
「お風呂―、久しぶりー」
「定期的には入れよ、ここはただでさえ臭うんだから」
「んー、考えておくー」
「あと明日城に行くんだから今日は別の部屋で寝ろ。あの部屋に一晩籠られるとせっかく落とした臭いがまたつくから」
「それはー命令―? 」
「あぁ、キングとして命じる。その代わり今年の研究費上乗せしてやるから我慢しろ」
「じゃーそーするー」
ローカストが裏組織に身を置く最大の理由は金銭であり、その方面で援助を怠らなければある程度の命令には従ってくれるのだ。
その点では金の眼やほかの幹部連中と比べると扱いやすいが、タイミングを間違えると面倒な事になりかねない。
主に研究が佳境に差し掛かっている時などにちょっと手を止めろなどと言えば問答無用で周囲一帯を焼き払いかねないほどである。
そんな危険人物であろうとも需要と供給の釣り合いが取れれば風呂も食卓も共にできる度量を持ち合わせているが、ナルには一つ大きな欠点があった。
「これで酒と煙草といい女がいれば最高だなぁ」
世俗にまみれているせいで欲望に忠実すぎるという事である。
「お風呂で研究できたらさいこー」
「そして気が付けば浴槽は毒の海ってか? 俺以外死ぬぞ」
「それもまた一興なりー」
「なりーじゃねえよ、それで何人死んでると思ってるんだ」
「とうといー、犠牲―? 」
「尊くないなそれ、ただの犠牲だわ」
研究が絡めば一転、普段のとぼけた姿から危険人物へと早変わりするローカストだが餌を与えれば大人しくなるのだ。
だからナルは一つ、後継者を捕まえるという大仕事の前に特大のえさを用意したのだった。
(まぁジェネ嬢には悪いが……我慢してもらおう)
今日ナルが行った治療行為ですらあれほどの恥じらいを見せ、侮蔑の視線を向けてきた純真な少女である。
ローカストにとっても未知の毒物が使用された可能性を考慮すれば、明日彼を連れて行った場合どのような惨状になるとも知れない。
事実ナルが過去その被害にあっているのだ。
ナルが不老不死という事実は組織の幹部間ではある程度知れ渡っている事だが、ローカストを仲間に引き入れた際にその情報を得たローカストは迷わずにナルの心臓にナイフを突き立てようとした。
当然ながら阻止されたが、死なないならいいじゃないという一言で済まそうとした事をいまだに忘れる事ができず、その後事有る毎に命を狙われ組織内でも問題になっていた人物だったが、死なない範疇での実験を承諾したことで数日間ナルは生かさず殺さずの負傷を追い続けるという地獄に直面することになったのは最悪の思い出として記憶に新しい。
おそらく、ジェネは酷い目にあうだろう。
その事で爺馬鹿を発揮している皇帝がどれほど怒り狂うだろうかという想像をしながらも、まぁなるようになれと全てを投げ捨てたナルは湯船を堪能していた。




