ひと悶着
「……なにやってんだ」
ドアの向こうから現れたのは書類を書くために道具を用意してきたリオネットだった。
「おどろかせ」るなよ、と続けようとしたがグリムの行動がそれを遮る。
手にしていた陶器の皿をリオネットめがけて投擲し、自らも突進したのだ。
突然の行動にグリム以外の全員が意表をつかれ、そして皿が空中で乾いた音を立てて割れた。
それはリオネットのすぐ後ろ、何もないかのように見えた場所だった。
同時に割れた皿の破片を一つ掴み取ったグリムが、何もない空間に鋭利な破片を突き刺した。
それも同じくして空中で静止する。
先程の投擲よりも幾分か手前で止まっている事から、受け止められたのだろう。
事実グリムは空中に浮かぶ形で体をひねり脱出しようともがいている。
「ストレングス! 」
即座に理解したナルは【月】を解除して【力】を発動させる。
見えないが、そこにはグリムが反応するような危険なものがいる。
ならばナルがとる行動は一つだった。
「どけ! リオネット! 」
状況の理解が追い付いていないリオネットの鎧を掴み、後方へ投げ飛ばす。
乱暴な扱いだがソファーの上に落ちるように計算して投げたため怪我はないはずだ。
その代わりに成人女性+全身鎧、そして強化された腕力で投げられたせいでソファーが悲惨な音を立てる。
「グリム! 」
いつの間にやら、というべきだろう。
正攻法だけでは復讐を成し遂げる事は不可能という理由から覚えたスリの技術が役に立った瞬間だった。
リオネットの腰に吊るされていた剣、鋳造製の量産品だが皿の破片よりはマシであろうそれをグリムに放り投げてから、グリムの眼前に拳を突き出した。
見えない、しかし確実に存在する何かがナルの拳に触れて大きく吹き飛ばされた。
同時にグリムはドア枠に身体を打ち付けながら剣を空中で掴み取り、持っていた皿の破片を再び見えない誰かに投擲した。
そうしてようやくというべきだろうか、破片が空中で静止するとともに、何もないはずの場所から赤い液体が流れ出た。
「……乱暴ですねぇ、紳士淑女たるもの慎みは美徳ですよ」
「紳士なら姿を隠して女の後を付け回すような真似はしないだろ」
「おや、これは痛いところを突かれてしまいました」
「正体を見せたらどうだ」
「ふむ……やめておきましょうか、私は逃げさせていただきます。できると思うか、なんて陳腐な台詞はご遠慮願いますよ」
すでに感情を隠す意味もないので素直に舌打ちをしたナルは、いまだに刺さったままの破片めがけて拳を振り下ろしたが空振りに終わる。
どころか、刺さっていたはずの破片は抜けたというよりは、刺さっていた対象そのものが消えたかのように地面に落下した。
「それでは皆さん、ごきげんよう。また近いうちにお会いしましょう」
そう声を響かせて、見えない誰かは出血痕も含めて完全に姿を消してしまった。
「……そこ」
「おぅわ! 」
消してしまったのだが、気配に敏感なグリムがそれを許さなかった。
一足飛びに距離を詰めたグリムの一閃が新しい傷を作り、再び誰かの傷口と血液だけが空中に浮いているように見えるようになった。
「陳腐、で結構。逃がすと……思う? 」
「……なんと厄介な、しかしこちらが何の対策もしていないと思いましたか? 」
「………………」
「貴女は死神と恐れられた傭兵、外見にそぐわない17歳の成人……この国ではまだ未成年ですけどね。そして心を病んでいると聞きました、その原因は過去に殺した人々、その悪夢に心を痛め死を望んでいるとか……お望みなら私が殺してあげましょうか」
グリムの情報をべらべらと喋り始めたそれは、もう一度グリムの一閃を受けて新たな傷口を作る事になった。
「ちょっ! 殺したくないんじゃないんですか! 」
「見えない、人間はいない、だから、私がこれから切るのは、人間じゃない。たぶん、幽霊? なんでもいい、切ってもいい相手」
「だそうだぞ、そのまま姿隠してるとバッサリいかれるぞ」
「なんて野蛮な! 」
困惑するそれに対して、ナルはいたって冷静だった。
グリムの内心がある程度読めていたからである。
先程のセリフ、半分以上は嘘であり、どちらかと言えば自分に言い聞かせているようなものだろう。
グリムのように繊細な者が会話のできる相手を切って何も思わないわけがない。
事実、慣れていない剣という事もあるのだろうが刃先がぶれていた。
それがなければ先程までの斬撃はどちらも致命傷になっていてもおかしくはない。
そもそも見えない相手を切りつけられる時点で、グリムの気配察知は常軌を逸しているともいえるが、見えない相手をどう倒すか、それがナルにとっては重要だった。
今この状況ではグリムの直感以外に攻撃を当てる手段はない。
そしてグリムの攻撃では致命傷に至らない。
「くそっ……まあいいでしょう、これが私の姿。これから死にゆくあなた方への、死出の土産といったところでしょうか」
そう言って隠ぺいを解いたのか、四肢の末端から徐々に姿を現したそれは平凡な男だった。
特徴らしい特徴を一切持たない、服装から体格、容姿に表情、髪型に肌の色、全てが平凡な男。
しかしそれ故に、ナルはここでこいつを殺さなければと決意することになった。
目を離せば数分もしないうちにその男の容姿を忘れてしまうだろう。
それほどに特徴を持たない男であり、更には明日何事も無かったかのように道を尋ねられたら応対してしまいかねない程である。
そんな男を見逃してしまえば、いつどこから襲われるかもわからない。
ナルはまだいい、グリムも殺気に対しては敏感だ、しかしリオネットが狙われた場合を考えると、それは最悪の結果をもたらしかねない。
ナルが書かせる予定だった誓約書がある場合、ナルが犯人ではないかと疑われる。
今日こうして実際に面接を行い、そして今日の日付でかかれた遺書ともとれる書類が存在して、なおかつ廊下でひと悶着起こした後なのだ。
疑われない方がおかしい。
逆に誓約書を書かせなければ、リオネットの死後【戦車】のカードの行方が分からなくなってしまう。
それに関しては時間をかけて探せばいいと楽観しているが、ナルにとって見過ごせない理由があった。
リオネット個人、彼女はナルと反りが合わない。
仲違いしているわけではなく、純粋に相性の問題だろう。
片や真面目で堅物なリオネット、片や世捨て人でちゃらんぽらんなナル。
正確からして相性がいいはずもない二人だったが、一つの共通点があった。
グリムの友人、あるいは仲間であるという事だ。
リオネットが死ねばグリムが悲しむ、それはあまり気分のいい事ではない。
だから、この男はこの場で殺さなければいけない、そう考えていた。
それも隠ぺいを使っていない今が好機であり、グリムが手を下すことなく、自分自身が直接殺すべきだと。
(くそ、素直に武器全部預けたの失敗だった)
ナルは暗器の類をいくつか持っていたが、その大半もまとめて預けてしまっていた。
手元に残っているのは靴に仕込んだナイフ、これは縛られた時に縄を切る程度の事しかできないものでこの場ではおもちゃ程度の意味しか持たない。
襟の裏に仕込んだカミソリ、これも武器としては役に立たない。
あとはもう一つ、これは正確には武器ではないが、ナルには秘策があった。
毒煙草、その煙を吸い込ませれば大抵の人間は昏倒する。
しかし下手に使えばグリムとリオネットを巻き込みかねない危険性もあった。
「グリム、下がってろ」
「……大丈夫? 」
「任せておけ」
短く答えてから、ナルは一度深呼吸をして男に話しかけた。
「よう、初めましてだな透明人間」
「そうですか? 実は何度か会っているかもしれませんよ」
「あぁ、おまえ平凡だからな。こうして見てても普通に忘れそうだよ」
「でしょうね、だからこんな仕事をしているんですけどね」
「それは暗殺者の事かい? 」
「暗殺も含めて何でもやりますよ。盗みも誘拐も、まったくもって便利ですね」
「そうだな、実にうらやましい能力だ。返してくれと言っても、素直に応じてはくれないだろ」
「これはおかしなことを……これは私の力ですよ」
「ま、そう言うだろうなと思ったよ」
駄目だ、とナルは笑いながら表情と異なる答えを出した。
この男が【隠者】である可能性は相変わらず高い、しかしその確証を得る事ができない。
もしほかのカードであれば、この男は姿を隠していた以外能力を行使していないのだ。
何かしらの才能を強化することで、姿を見えなくする程度の事は雑作もなくやれる。
それ故にナルはこの男に対する戦術をいくつか考案して、それを一つ一つ検証することにした。
グリムを下がらせたのもその一環であり手を下させないというのは方便だ。
実際には、巻き込まれないように下がらせただけであり、グリムもその辺りを察してか鎧の重さと姿勢のせいで亀のように動けなくなっているリオネットを起こしに行っていた。
「じゃあ、力ずくで」
拳を固めて殴りかかったナルを、男は風を受ける柳のようにひらりと躱して腰から引き抜いたナイフで伸ばされた腕を切りつけた。
斬り傷は即座に修復されるが、傷口から流れた血はふき取ることなくそのままにしておく。
不死という情報を悟らせないためにも右手を庇うようにして、真横に移動した男の足を踏みつけて背中を押し付けた。
そしてそのまま、地面を踏み抜かんとばかりに空いている方の足で地面を蹴りつけ、衝撃だけを男へ受け渡す。
同時に左腕の肘を男の腹部に叩き込んだ。
【力】のカードによる筋力増強と長年の修練で得た技術の融合、普通の人間ならば間違いなく致命傷である。
しかし。
「なかなか……痛かったですよ」
そう言って男はナルの首にナイフをあてがい喉を引き裂こうとした。
「なかなか痛そうだ」
「ちっ」
そのナイフを、指先でつまみそれを阻止する。
互いに致命傷を負いかねない攻撃を繰り広げ、しかし詰所への被害は最小限で済まされている。
互いに考えている結果が同じだけで理由は全く別の物だったが、利害の一致が成立していた。
男の舌打ちを引き出したナルだったが、この膠着状態にこそ舌打ちをしたい気分だった。
「まったく……やりにくい相手ですね」
「お互いにな、名無しさん」
「そういえばまだ名乗ってませんでしたね」
「お、聞かせてくれるのか? てっきりだんまりだと思ってたんだが」
互いに腕を卸した状態で、空気が戦場の殺伐としたものから日常のそれへと変化する。
「そうですね……フライと呼んでください、偽名ですが」
男は大仰な仕草で一礼して、そう名乗った。
「じゃあ俺の事はナルと呼んでくれ、使い古した偽名だけど」
ナルは煙草を取り出し、火をつけてから適当に返した。
火をつけたのは毒煙草ではなく普通の物だ。
お前なんか一服する片手間で十分だという挑発も込めている。
「くふふふふふ」
「うははははは」
ナルとフライ、その攻防は間の抜けたやり取りの直後に再開された。
「まったく煙いですねぇ、捨ててくれませんか? 」
「いやぁ、これが俺の楽しみなんでな。嫌ならそのナイフで切り落として見せろよ、首でも煙草でもな」
「ふふふ、やはりあなたは……不愉快ですね。では戯れもここまでとしましょうか」
そう言ってフライはナイフを、リオネットの顔面にめがけて投げつけた。
当然のごとくそれはグリムによって防がれたが、一瞬の隙を見逃すことなく二本目のナイフを引き抜い
てナルの腹部にそれを突き立てた。
右わき腹、から突き上げられるように差し込まれたそれは肝臓を貫き致命傷をナルに与える。
「くふふふ、やはりあなたのような人間は仲間を巻き込めば気がそれる。甘ちゃんですねぇ」
これから先、どのように足掻いても死を免れる事の出来ない一撃。
反撃をしようにも動きは相当鈍るため脅威ではなくなる。
それだけに勝利を確信したフライは、今度こそ油断してしまった。
先程までの張り付けた仮面のような笑みとは違う、腹の底から湧き上がる笑いでナルの傷口を広げるべくナイフをひねったり押し込んだりともてあそんでいた。
そう、油断したのだ。
「ばーか」
フライはとっさに理解することができなかった、眼前に広がる光景が徐々に何かによって塗りつぶされていったのを最後に意識を手放す。
それはナルの拳であり、傷ついてまともに動かせる様子の無かった右腕で繰り出されたものだった。
脳が揺れる、というレベルをはるかに凌駕した一撃は鼻を折り、歯を砕き、眼球を押しつぶした。
あらゆる戦術を試して、その事如くを防がれたナル選んだ手段は相手の挑発に乗り隙を作ったように見せてのカウンターだった。
「いてて……」
その代償は安くない、死なないと言っても限度はある。
傷口に異物があれば再生は阻害され、相応の痛みをナルに伝える。
それが致命傷ともなればなおさらだ。
「くそっ、まだ息があるのかよ……どんだけしぶといんだこいつ」
まさしく文字通りの意味で息も絶え絶えなフライの喉に足を置いて、一息にへし折った。
こうして謎の男は息を引き取る事になった。
「さて、おまえは誰だ」
タロットカードを広げたナルの前にはフライの死体から魂のように抜け出た光があった。
カードの力、それが元ある場所へと戻る。
タロットカードの一枚に光が吸い込まれ、モノクロだったそれに色彩が宿った。
「……やはり【隠者】だったか、つーか【隠者】でよかった」
もしもこれで実際は生まれつき地味な顔立ちで目立たないだけの別のカード保有者でした、という事になれば本格的に詰所が崩壊しかねない事態になっていた。
そう思いながら新たに手にしたカードに目を卸す。
そのカードは【隠者】、静かな暮らしを意味するカードはフライという男の人生において平穏を与えていたのだろう。
当人が平穏を望まずとも、どれほどの悪逆を尽くそうとも、それでも平穏は彼を包んでいた。
「まぁ、見つけにくいと思っていたカードを得られたのは僥倖だったけど……もうこんな面倒事は嫌だぞ」
「今のが……」
「お、亀が起きた」
「誰が亀だ」
「ひっくり返って起き上がれずにもがいていた大隊長様だよ」
「ぐぬぬ……いや、そもそもお前が投げ飛ばしたのが原因だろ」
「そうしなきゃ、どうなってたと思う? 」
十中八九フライの凶刃の餌食となっていただろう。
目の前に餌を出されて喰いつかない獣はいない、あの男はそれだけ殺しに慣れていた。
「それは……感謝している、ありがとう」
本日何度目かの驚愕に、ナルは目を見開く。
つんけんとした態度を取り続けていたリオネットが素直に礼を述べた、驚天動地だった。
そうでなくとも権力を持つ者は他者に頭を下げたがらない。
意地ではなく、そうしてはいけない立場にいるからだ。
自分が頭を下げるという事は、自分の部下も頭を下げるという意味を含む。
それ故においそれと謝罪や感謝の言葉を述べるには慎重にならなければいけない。
リオネットという個人との付き合いは短くともその辺りをわきまえた人物であると評価している以上、これは獣騎士隊全員から礼を受けたに等しい。
「意外と素直な所もあるんだな……」
「意外とはなんだ、私は謝罪も感謝も即断行使を信条としているのだぞ……その、なんだ。私達のような稼業では次があるとも限らないからな」
「まぁ……それもそうか」
常に死地に身を置いている騎士や傭兵と言った者達は命の軽さを理解している。
だからこそ礼を言えるならば即座に言う、そう言った習慣を身に着けていてもおかしくない。
ナルが本気で驚いた理由は前述の理由と後述の信条の狭間でもがく人物を何人も見てきたからだ。
だからこそ素直に礼を言ったリオネットに、好感を抱いていた。
「それで、順番が逆になったがまさか今更契約は無しなんていうつもりは無いだろうな」
「あぁ、ただし二つ条件がある」
「言ってみな」
「まずこれの後片付けだ、さすがに名誉有る獣騎士隊の詰所での騒ぎを上に報告しないわけにはいかない。何よりこんな場所に死体を置いて契約も無いだろう」
「たしかに、その通りだ」
「次に、これは答えたくなければそれで構わないのだが……貴様本当に何者だ。そのわき腹の傷は明らかに致命傷だというのになぜ平然としていられる」
「……気になるのはわかるが、今この場で話せることではないし片付けが終わってからじっくりと腰を据えて話そうか。契約をしながらな」
流石に誤魔化すのは無理だと判断したナルは、これ以上の間者がいなければ語らなければならないと覚悟を決めた。
しかしナルは失念していた、【愚者】が教えてくれるのはカードの気配。
グリムが察知できるのは敵意や殺意、害意の類である。
そのどれにも属さない気配を探すことは不得手だという事に。




