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「こんにちはー。美咲、おめでと!」
「佐紀!ありがとー。」
どれほど経ったのかわからない。
意識がどこかへ行ってしまいそうだったとき、初めて聞く声に引き戻された。
私の空間へ入ってきたのはあの人と同じ女性。
その二人は私の横でキャッキャ楽しく話をしている。
「この服ですぐ分かったよ。いやぁ凄い服を作るもんだ。」
「照れるなぁ。けど、まぁ?それなりに頑張りましたから?」
「言うようになりおってー!楽しんでるんだね。」
「うん!実は今朝ね、小さい男の子と出会ったんだよ。」
「へぇ。それでそれで?」
私はあの人の話し方がいつもよりも明るい感じがすることに気が付いた。
冗談めいた事も言えば、拓真との話も楽し気に話す。
それを聞いていた私は時々頷きながらもあの人と感覚を共有出来ているのだと少し、嬉しかった。
「って事があったんだよ。」
「そんな事もあるんだね。ちゃんと服、作ってあげなよ?」
「もちのろんよ。イメージは頭の中にもうある!」
「イメージすんのがいつも早いよね、美咲は。」
「けどそれが私が持ってる一番の武器だからねぇ。切っても切れないものなんだよね。」
「そうだね。頑張って。」
「ありがと。」
会話がいったん落ち着き、佐紀という名前の女性が私に近づいてくるのが分かる。
そして私の左後ろから右後ろ、そしてのぞき込むように正面を見て「うんうん。」と小さく言葉を残す。
その様子をあの人も見ていたのか、若干緊張交じりに言葉を紡いだ。
「ど、どうかな。」
「改めてしっかり見ました。」
「は、はい!」
「これはすべて自分で作った?」
「生地は良いものを探してきて…裁断とか、縫ったりするのは私がしました!」
説教めいた雰囲気で話始める佐紀。
その佐紀と会話するあの人――美咲の緊張がひしひしと私に伝わる。
私は決して美咲の過去を知っているわけではない。
それでも今の会話、一言一言が大切な事くらいは分かる。
「なるほど…。」
「はい。」
また佐紀の視線を感じる。
その視線は先とは違った、褒め称えるような、尊敬するような視線になっている事に気が付いた。
しかし、その視線を美咲は知らない。
「さっきも言ったんだけど…。」
感想を述べようとしている佐紀を美咲は固唾を飲んで見つめている気がする。
そして佐紀が次に口を開くまで私と美咲はこれまでにないほど緊張した。
「良い。非常に良い。学生の時よりも腕上がってるのが見て分かるよ。」
「ほ、ほんと!ありがと、凄く嬉しい。」
「美咲がちょっと遠い人になった気がするよ…」
「え?どうして?」
会話の後半、佐紀の心なしか小さくなった声に美咲だけでなく、私も不安になった。
遠くなったというのは言葉の綾だろう。
物理的な距離ではなく、心と心の距離だ。
「美咲はいっつも言ってたでしょ?お店を出したいって。」
「うん。」
「それで今、店を出した。」
「うん。」
「それに比べて私は、ふらふらと仕事をするだけ。
自分で何かを成しえたこともない。やっぱり美咲は凄いや。」
佐紀の声は口を開くたび、一言一言を紡ぐたびに小さく弱くなっていく。
私の空間、すなわち美咲の店へ入ってきた時にはあんなにも明るかった佐紀は今となっては比べるのも可哀想だ。
それに今の私では佐紀の感情を少ししか分かってあげられない。
私が感情を知ったのは所詮、昨日今日の話なのだから。
「佐紀…。」
そんな私に比べて美咲は感情を知っている。
それに佐紀とは長い付き合いがありそうだ。
だからこそ、今は美咲にこの状況をなんとかしてもらうしか無かった。
「ごめんね、湿っぽい話しちゃって。」
「いや、いいの。
それよりもさ、佐紀はしたい事とかってあるの?」
「したい事?」
「うん。したい事。」
考え込む佐紀を美咲は決して煽ったりしない。
ただ静かに、佐紀が答えを出すことを待っていた。
しかし、事はそう簡単には進まない。
「――ない。」
板の向こう側では人がせわしく流れていく中、店の中ではゆっくりと話が続けられる。
佐紀の言葉に美咲は何か思うところがあったのだろうか、と私は思った。
「じゃあさ、作ってみたら?」
「それさ、良くみんなが言うじゃん。
私が悩んでるのに。それも知らないで、易々(やすやす)と。」
佐紀は静かではあるが、己の本心を晒していた。
私は美咲が失敗を犯してしまっているのではないかと思ってしまう。
しかし、美咲は佐紀の言葉をゆっくりと受け止め、それを咀嚼する。
「私と同じ。
したい事が無いのは。」
「え?」
気の抜けた、曖昧な佐紀の返事が店の中で響く。
その言葉を聞いた直後、美咲は一歩を踏み出した。
「私も中学の時、進路で同じように悩んだ。
周りは近くの高校だとか、偏差値が良い高校に行けとか言ってた。」
「――。」
「でも、周りに合わせたら私の人生じゃなくなる。
私が主人公じゃなくて、私の横に居ると思ってた人が主人公になってるんだよ。」
「――。」
優しく紡がれる美咲の言葉に佐紀は小さく頷く事しかできなかった。
「それは絶対ダメだと、嫌だと思った。
だから私はすぐに動いた。」
「どうした、の?」
「今考えれば馬鹿な事なんだけどね。」
美咲の声のトーンが高くなり、明るい話し方に切り替えられる。
最初に話していた様な雰囲気が再び店を包み込み、私はそれに安堵した。
「私の身の回りで出来るもの、片っ端からやってみた。」
「片っ端から?」
「そう。私の目に入るもの、聞こえるもの、匂うもの、感じるもの全て。」
美咲は大きく、世界を抱擁するかのように手を差し出す。
「それで私はある人と出会った。田舎に一つしかない服屋さんに。
それで私は服に、ファッションの道に進もうと思った。
そこからはとても早かったよ。」
とぼけたような口調になりつつも、しっかりと過去を語る。
そんな美咲の声音を私は静かに受け止めた。
「高校は被服のできるところへ行ったし、大学も佐紀と同じファッション系。
そこで何度も折れかけたけど、私は前に出会った服屋さんになりたい。その一心で頑張った。」
私は思った。
だから服屋をやっているんだ、と。
これまで疑問に思っていた。
あの人が、美咲がなぜ服を作っているのかと。
美咲は昔に出会った人になりたくて、それを目指して走り続けているのだと分かった。
それは私の胸にすとんと落ちる。
そして、彼女の願いの一部を私が支えているような気がして少し嬉しい。
希望的な、自分勝手な思いだが、私にとってそれはとても重要だ。
「だからさ、佐紀もこれから見つけるの。待ってるだけじゃ絶対に始まらない。
今の佐紀は佐紀が主人公になってない。
――だからなろうよ。主人公に。」
美咲の言葉がそこで終わり、優しく佐紀を見つめる。
「主人公に…なる。
――私は、私が主人公の人生を送る。」
「うん。」
「足掻く、必死に足掻いて、一生残る何かを見つける。」
「うん。」
「これまではどうしても周りのせいだって、責任転嫁してた。
それに比べて美咲は動いて解決した。凄いよ…。私にはできるか分からない。
でもね。」
「うん。」
「やっても無いのに結果を求めるのは駄目だよね。」
涙交じりに、感情を必死に抑えるように言った佐紀の言葉は私の胸にも響いた。
ただの正論と括られるかもしれない言葉だが、実行に至るまではとてつもなく険しい。
しかし、それを知った上で佐紀は覚悟を決めたのだ。
「そうだね。でも佐紀なら出来るよ。
結果を掴めるその日、その時まで、きっと走り続けられる。」
「うん。ありがと。頑張るね。」
「頑張って。」
短く二人は会話を終え、佐紀はカラカラと音を鳴らした。
私の聞こえないところで続けられる会話はどんなものなのか、私には想像もできない。
しかし、それも佐紀の糧になるであろう言葉である事ぐらいは分かる。
『やっぱりあの人は、美咲は、優しい人。』
他人思いで、自分の能力をひけらかす事も無い。
ただ単純に、人の幸せを願っている優しい人なのだと強く思った。
またカラカラと音が鳴り、美咲が帰ってくる。
そして、私の隣に腰を下ろすと私の方を見ながら口を開いた。