終章Ⅰ 敗者の末路、あるいは残飯の後片づけ
負けた。
最後まで俺が騙し抜いたのかもしれない。夢飼の退路を奪って、袋小路に追い詰めていたのかもしれない。夢奏戦も、夢と現のラストゲームも俺の勝ちだったのかもしれない。
それでもあいつは、負けることを見越して逃げの一手だけは打っていた。
あの場所に誘き出されることまで想定済みだったのか、あるいはその前の時点で何かしらの策として布石を置いていたのか。
何度でも何度でも、また俺と戦えるように、逃走の手段だけは確保していたのだ。
……いいや、希望的観測や楽観論に逃げるのはやめよう。
生きているかどうかなんてわからない。あれほどの激流に押し流されたのだ。逃げるための一手ではなく、もしかしたら、敵として最後まで生きるための一手だったのかもしれない。
夢飼海奈という女の子は、最後の最後まで俺の敵としてありたいと願い――死のその瞬間まで俺の敵として生きることで、自らの願いを叶えたのだ。
信念を、生き様を、願いを抱いたまま、最期の時を迎えようとしたのか。
あるいは生きていたとしても、きっと俺の敵として生きるためにあんなことをしたのか。
俺の願いを踏みにじって、当たり前の輪の中に入ることを拒絶して、彼女は己を貫いたのだ。
「カッコイイじゃねェかよ。オレもそんな風に生きてェよ」
「お前はそれでいいかもしれないけど、目の前で逃げられた俺はそんな風には思えないんだよ」
「カハハ、まあ誰彼構わずフラグ立ててんだ、それくらい我慢しろ」
現実のそれとは異なり、冥界の空は真っ暗闇の夜だった。場所は壊れてしまい、要塞としての価値をなくした大型スーパーの屋上。
ケタケタと軽い調子で笑う飛浮は、自分にはあまり関係のない話だからか、あるいは敵として夢飼が現れることを楽しみにしているからか、深刻に受け止めてはいないようだった。
同日の昼休みにかすみに呼び出してもらい、わざわざご足労いただいた身としてはこんな風に思うべきではないのだろうが、しかしどうしても納得のいかない意見だった。
だって、俺にとってはその程度の存在ではなかったのだから。
もっと大きな存在だった。敵だったとしても、俺に恐怖を与えて悦に入っていたような人間だとしても、彼女が言ったように、二人で語り合った時間や共に戦った時間、そうしたものは本物だった。俺たちの間には、ただの友達以上の何かがあったようにも思うのだ。
「だってさ、お前の敵として生きることがあの子の幸せだったんだろ? 夢飼ちゃんはテメエの敵になるとしても、一番でありたかった。テメエの敵が良かったって、そう言ったんだ。だったらそれでいいじゃねェか。認めてやれよ、あの子の生き方と生き様を」
……驚いた。
こいつはこいつで、きちんと夢飼のことを考えてくれているらしかった。この馬鹿らしい脳筋でバトル的な考え方だけど、けれどその論説には確かに一理ある。というか、正論だった。
使い古された陳腐な言葉だけど、人の幸せは人それぞれなのだ。たとえその生き方が大衆には肯定されがたい異質なものであるとしても、その幸せを否定する権利は誰にもない。
実際のところ、個人という視点で見るのならば、たとえ他人に迷惑をかけるような生き方だとしても、生き方や幸せの形を否定されてはならないような気もするのだ。
ただ、どうしても――一緒にいたかった。それは本音だった。
だけど、夢飼海奈はどうあっても俺の敵でありたかった。最後の瞬間まで朧実幻冶という男の敵として生き、たとえ疎まれ嫌われる存在であっても、俺の心の中の一番でありたいと願い続けていた。俺の心を、振り向かせたかった。
「可愛いじゃねェか。好きな女子にいたずらするクソガキみたいな論理だが、つまりはテメエのことが好き過ぎて暴走してるってことなんだからよ」
そういうものなのだろうか。
「結局テメエは、試合に勝って勝負に負けただけなんだよ。いや、普通に負けてんのか。……まあどっちでもいいけど、勝ったのが夢飼ちゃんで、信念を貫いて願いを叶えることに成功したからここにいない。悔しいなら、気に入らねェなら、勝てば良かったんだよ。勝って夢飼ちゃんをここに連れてきて、モヤモヤしてるあの子をまたいじり倒せばよかったんだ」
きっとそうなのだろう。俺はただ負けただけだ。朧実幻冶と夢飼海奈が信念をぶつけ合い戦った。その結果、俺は負けた。逃げられた。それが悔しくて認められなくて、うじうじと不満をぶつけているだけなのだ。
俺が夢飼の生き方を間違っているとか正しいとか、あれで良かったのかとか考えて悩むのは間違っている。だってそれは、夢飼の生き方だから。あいつの幸せは、俺の隣にいないということで、俺の幸せは、あいつが隣にいるということだった。
その幸せのぶつけ合いで、俺は負けた。それだけの話だ。
夢飼海奈の幸せを踏み躙って、俺自身の幸せをもぎ取ることはできなかった。
それが悔しくて、こうして悪友に愚痴を漏らしているだけ。あれで良かったのかとか、そんな風に悩んでいるのも全て、負け惜しみ。
そもそも、俺は納得していたじゃないか。戦いの最中、夢飼が俺に語った幸せの形。その定義。あいつの生き方、俺との付き合い方。
戦いながら叫び、俺が詰み一歩手前まで追い詰めた時に、どこか寂しそうに語っていたその想いに、共感こそできなくとも、理解も納得もできたはずだった。
「俺が間違ってた」
「おっ、素直じゃねェか。うじうじしててキモかったが、ようやく元に戻ったな」
「うるせえよ、別にそんなんじゃない。ただ、俺は負けたんだなって、そう理解しただけだ」
「そうだよ、テメエは負けた。それだけだ。逆に言えば負けただけ。フラれてねェし、何だったら告白だってされてる。だからそう気に病むなっての」
慰めているつもりか、バンバンと俺の背中を勢いよく叩く飛浮。痛いっ、痛いから。ウェイ特有の派手なスキンシップやめろ。
「それにしても、お母さん、か」
「あ? まさか今さらマザコンが再発したか? それともとうとう人妻萌えですかァ?」
「黙ってろよ。そんなんじゃねえ。あいつが最後に言ったんだ、お母さんの願いは聞けって」
「ふーん……? それってお前の母親じゃねえの?」
「違うだろ……母親はかすみを生むと同時に力尽きた。……まあ、そっちの『お母さん』なら、かすみを守れってことなんだろうけど、言い回しが妙だ。それに、あの母親が実は子供思いだったなんていう感動展開は希望してない」
「ってことは――」
「ああ、あいつの母親だろうな。……もしかしたら、俺が十年前に会ってたのは、あいつの母親だったのかも」
「クッ、ははははは! だとしたらお前、最高に受けるな! 約束をしたと思ってたら子持ちだってんだから。未亡人だったのかもしれねェけど、どっちにしろ相手は処女じゃなかったわけだ。高校生で子持ちとは、こりゃまたとんでもないビッチじゃねェか!」
「黙ってろよ。もしあの時あの姉ちゃんに六歳の子供がいたなら、生んだのは十歳だぞ。紛争地域ならまだしも、倫理も平和も世界一級品の日本で、そんなドラマみたいな展開あるか」
「でも、テメエはその妄想と現実の狭間で揺れてたんだろ? 馬鹿にはできねェんじゃね?」
「うるさい。もうきちんと現実だって認識した」
「まあここは夢の世界だけどな」
「屁理屈はいらねえ。お前も俺の妄想ってことにしてやろうか」
「怖いからやめろっての」
とはいえ、一連の事件のおかげで物事を少しメタ的に捉える視点を手に入れてしまったのは事実だ。全く嬉しくないスキルだ。スキルじゃねえんだよ、また出ちゃったよ。
「つぅーかよ、結局あの巨大ロボ『ルンバ』は、夢飼ちゃんの差し金じゃなかったんだよな」
「そうだな。あいつはマジで知らないようだった。普通にどっかの軍のもんか、野良の兵器だったってことになるな。『THE・Mazis』の……夢飼からの刺客じゃねえ」
「うへえー、じゃああそこで死んでてもおかしくなかったのか……結構スリリングだなァ」
「そうか?」
別に対峙した時から逃げなきゃ死ぬと思ってたし、俺もかすみも夢飼だって殺されかけた。
後から夢飼が『THE・Mazis』だったと知り、彼女とは関係のない兵器だったからと、今さらになって危なかったな、となるのは色々と因果関係とか順番とかがおかしいだろう。
「でもよォ、まさかあのタイミングで出てきたのが全く関係ないもんとは思えねェんだよなァ。ほんとに夢飼ちゃんと関係ないの?」
「しつこいぞ。ない」
何かと何かを結び付けたがる行為は、きっと物語やゲームに触れ過ぎたからこその病気だ。
現実の世界では伏線なんてなくても驚愕の事実が襲い掛かったりするものだ。あらゆる事象や物事が一つの線で繋がるだなんて展開は、批評空間で高得点を叩き出している不朽の名作エロゲくらいのもので、往々にして現実なんてものは単純でつまらないものなのだ。『冥界』などという摩訶不思議空間が人工的に作られる時代になっても、それは変わらない。……まあ、俺の周りには戦闘狂とか、えっちな実妹とか、十年前の約束の女の子がこれからも俺の敵としてと立ちはだかり続けたりと、ラノベ時空が広がっていなくもないのだが、そういうこともあるだろう。ない? 知らん。あるったらあるの。
そう考えると、今思えばあのルンバの存在こそが、ここが現実であるという一番の証拠なのかもしれない。
現実にだって因果関係はある。何かが起こるためには、その原因がどこかに存在する。火のないところに煙が立たないように、あらゆる事象は繋がっている。それは確かに事実だ。
だが、だからといって、その全てが俺たちの前に晒されるわけではない。というか、俺たち人間が目にするのはいつだって結果だ。見えないところに原因があって、その結果が俺たちの前に現れる。人の社会とはそういうものだろう。
考えても見ればいい。例えば政治。国民の何割が一つの法案が可決されたときに、その起こりから終わりまでを把握している? 経済に話を変えれば、誰もが安泰だと信じていた大企業が倒産した時、その兆しのようなものにあらかじめ気付くことのできた人間は何人いる? 家電を初めとした電気器具製造メーカーだった企業が、蓄電池技術のノウハウを生かして現在では電気自動車産業においてトップシェアを誇っているが、これを予想できた人間は何人いるだろう。身近なところでは、クラスの意外な二人が突然付き合いだした、なんてこともあるか。
世の中っていうのは大概そんなものだ。俺たちが目にできるのは結果ばかり。その『結果』の伏線が日々の生活の中に転がっているということは、限りなくゼロに近い。
あの巨大ロボだって同じだ。俺たちの前に現れたルンバには、ルンバの物語があったのだ。俺たちはそこに勝手に巻き込まれて、勝手に介入して、勝手にぶっ壊しただけ。
それはきっと、夢飼だって感じたはずだ。
結局あいつの嫌がらせは、徳院穿千っていうポンコツ美少女傭兵の一幕と、俺から逃げるってことだけだった。あのルンバの一件がなければ、もっと色々やっていたのだろう。
偶然の顔をした必然に、押し潰されただけ。結局はあいつも人間ってわけだ。
「つまんねェ悟り方しやがって。今回の一件のせいで、ちょっと現実主義になっちまったのか?」
「かもな。とはいっても、ここが楽しいのも、リアルがクソなのも変わらねえよ」
ただ、だからと言って妄想の中に逃げているっていうのは嫌なんだ。小説やゲームの世界で生きているというのなら構わない。そこが現実だというなら、俺はそれを受け入れる。
だけど、かすみや夢飼、飛浮を嘘の存在にはしたくない。
「ああ……、色々とスッキリした。サンキューな、飛浮。学校もあるのに悪かった」
「あァ、もう別にいいっての。テメエから色々話を聞いてたら、今日の連続呼び出しも許せるってなもんだ。むしろよくハブらなかったと褒めてやる。……最後は一人で解決しやがったことと、ゲームの内容を隠してたのは気に入らねェが」
「悪かったって。それも全部話しただろう……」
夢飼のことを話す過程で、あいつから仕掛けられたゲームについてもすでに明かしていた。勝負には負けたが試合に勝ったことは事実なのでもういいと判断したのだ。
ちなみにゲーム内容をこいつに話したら、
『クハハハハハハ! テメエあほだろ! テメエの貧相な想像力でオレ様みてェなキャラなんざ作れるわけねェだろ! オレはテメエの想像力で作れる範疇を超えてる天才だぜ?』
と開口一番笑われた。あまりにも腹が立ちすぎて虚霞発動のあと浣腸したら、キレた馬鹿と軽くバトルになってしまった。だが俺は悪くない、飛浮が悪い。……これは嘘じゃない。
「じゃあそろそろ戻るわ。お前も学校に戻ってくれ。昼休みなのに悪かった」
「はあ? なに言ってんだテメエ?」
「え、何だよ」
「今、まだ午前七時前だぜ?」
………………………………………………………………………………………………………は?
「ざっけやがってよォ。テメエの生活リズムでは午前七時なんざまだまだ昼なのかもしれねェけどな、善良な一般市民たるオレはきちんと学校で授業を受けるために、睡眠は取る主義なんだ。それをまあ、夜中に何度も何度も起こしてくれて」
「は?」
「あ? 何だよ」
俺の間の抜けた声を聞いた飛浮が、先までの笑顔を引っ込めて不機嫌そうな表情を浮かべた。
「いや、なんで『は?』なんだよ。謝ればか。こっちは実質徹夜みてェなもんで学校行くんだぞ。しかもよォ、どれもこれも全部かすみちゃんからのメールだから、断るに断れねェじゃねェか。幼女使うのは卑怯だろ、幼女は」
…………待て。
何だこれは? どういうことだ? 何が起きている???
時間が、ズレている……? ……まて、まて。意味がわからねえ……
「……なに黙ってんだ……? 神様仏様飛浮様に謝罪の言葉はないのかァー?」
飛浮が後ろから抱き着いてきて、俺の頬を力いっぱい引っ張るが、しかし痛みがひどく非現実的に思えてくる。どこか遠くにあるようなものの気がする。
意味がわからない。何かがズレている。時間とか夢とか現実とか、そんな次元ではない。
何か、前提を間違っているような気がする。見落としている。おかしい。
何だ……何を間違えた? どこで見落とした? 何を取りこぼした? まさか、いや、でも。そんな……無理だろう。だってここは批評空間90点台の作品の中ではない。序盤から伏線が張られている創作物の世界なんかではないんだ。
だから、いや、でも……じゃあどうすればいいんだ?
いったい何が、起きて……、――っ。
「そう、だ……」
閃きというのはあまりにもつたない。疑問と不安と恐怖と違和と混乱と狂気の入り混じった理解不能な灰色の激流の中で、藁にも縋るような……そんな、何の意味もない事実確認だった。
「おまえ……どこに、住んでるんだ……?」
「あ? リアルのことは極力晒さねェのが流儀ってか、ここでの鉄則だろうが」
「別に、地域を教えてほしいわけじゃない! お前の住んでる国は!?」
「……大丈夫かテメエ?」
「いいから早くッ!」
焦燥と恐怖に駆られ、全身から冷や汗を流す俺の様子にただならぬ気配を感じたのだろう、飛浮は変なものを見るような目をしながらも、きっちりと答えてくれた」
「日本だろ、常識的に考えて」
「…………そう、だよな……っ」
当たり前の返答が来た。そして、ますます一層、俺の混乱は極まっていく。
俺も飛浮も日本に住んでいる。ならば当たり前のように時差はない。たとえ東西の両極端まで離れていたとしても、午前七時と正午ほどの時差は発生しない。そもそも俺が住んでいるのは奈良県だ。離島どころか、海ひとつない内陸部の地方、と、し……
「………………………………………………………………………………………………おい、待て」
「あァ? やだよ待たねェよ。学校行くから」
「違う、そうじゃない。待てよなあ、頼む待ってくれ!」
「うおっ、ちょ……テメエどうしたんだよいったい」
違う、嘘だ。ありえない。そんなの間違ってる。違う違う違う違う違う!
嘘だ、違う、だってそんなの、……でも、だって……これでは報われない。救われない。
でも、ああ駄目だ。気付いてしまったから。目を逸らしていたのか、俺が馬鹿だから気付かなかったのか、それとも誰かに誘導されていたのか。もしかしたら嘘をつかれていたのかもしれないけれど、でも、だけど。ああ――もう逃げられない。目を逸らすことなんてできない。
「ない……」
声は震えていた。どうしようもなく、これ以上なく、震え切っていた。
答えを得てしまったから。どうしようもなく、それに気付いてしまったから。
誰かに何かに何者かにどこかの誰かに夢飼海奈にそれ以外の何かに、俺は負けて、あ、あああああああああ……ああああああああああああああああああああああああああああっっっ!?
「ないんだよ……」
「だから、何が、だよ……」
今ならまだ間に合う、引き返せる。決定的なそれを口にしてしまう前に、ありふれた日常に帰ろう? 今すぐスポットへ行って逃げよう? ここから出よう。違う、出たいんじゃない。出たくなんかない。それに逃げたら、それこそ逃げられない。
でも。でも、でも。だけど、でも。でも、しかし。だけどだけどだけどだけど――!
引き返せるんだ。甘ったるい、嘘くさい日常に引き返せ――――
「俺の家の近くに、海なんてあるわけないんだよ……」
イッタ。
ダカラモウニゲラレナイ。
シンジツニチョクメンシテアタマヲカカエテゼッキョウスルトキガキタ。
「あ、あああっああああああ……あああああああ ああああっっっ!? うぐ、お、オァッ!? ぎ、ぃ……ぐぅぅぅァァァぁぁぁぁがぁぁっ! ぁぁあああッ!? ぎっ。ぎぃあああああ!? なんッ! なにがッッ! なんで、何がどうなって、なんッ……で……! どうして……どうしてだよォッ! ああ、ちくしょうッ! くそったれ、くそったれがァ! なんだよこれ、どういうことだ説明しろォ! なにが、どうなってるんだよちくしょおおおおおおっっっッ!?」
駄目だ、逃げていく。大切なものが、奪われたくない思い出が、失いたくないのに。
全部が全部嘘だったと、そう突きつけられる。当たり前の事実が、俺に全てが嘘だと突き付けてきた。少し前に平城遷都から1350年が経った俺のふるさと。ここに、奈良県に、海なんてない。小学生でもわかる常識だ。だというのに、どうして俺はそんな当たり前のことに気が付かなかった? 馬鹿なのか俺は? いや、もはや俺が馬鹿なのかどうかすらどうでもいい。
「かえ、せよ……」
すぐ近くで飛浮が俺に向かって何かを言ってくれている。その全てが頭に入ってこなかった。
「返せよ、返せよ。返せよ返せよ返せよ返せよォッ! 返せェェェェええええッ、かすみを返せよォォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!」
俺とかすみの家。そこから見える海化粧。どこか塩気を孕んだ潮風。ビーチから部屋まで聞こえてくる潮騒の音。ああ、どれもこれも色褪せていく。嘘っぱちの気持ちの悪い歪んだ景色に変わっていく。何もかもがセピア色の歪んだ幻想と化す。何もかもが嘘っぱち。隣にいる飛浮すらも、これも全て幻想なんだ。嘘だ。破滅だ、終焉だ、地獄だ。ここは嘘で溢れている。ここは、何もかもが夢だ。俺の見ていたものは全部妄想だった。嘘っぱちの安い幻だった。布団の中に全裸で潜り込む実妹も一騎当千型の戦闘狂の悪友も十年前に約束した女の子もッ! そして、敵だとしても俺の一番でありたいと願うほどに俺を想ってくれたあの子さえもッッ! 全部が全部嘘っぱちで、何もかもが安い三流の作り話でしかなかったッッッ! 俺が作り出したただの幻だった! いいやそもそも『俺』なんてものが存在するのか? 俺って誰だ? 朧実幻冶? そんな奴本当に実在するのか? この『俺』が今狂乱して頭を抱えて絶叫してる醜くてみっともないこの『俺』がどこかの誰かの赤の他人のおっさんに作られたキャラクターではないという証拠はどこにある俺が作り物ではないという証明は誰がしてくれるんだ創作者は誰だよ神様かそれとも小汚いおっさんの妄想でしかないのか俺って何だよなあ誰か証明してくれ誰かなあちくしょうなんでちくしょうッ、ああああああッッ! ちくしょうがぁぁぁあああ……うう、うぅぅぅうううっ! 涙が次から次へと溢れてくるこんな風に泣く人間じゃないと思ってたのに嘘で自分を騙すなんてできないだって、もしかしたら――その性質すら、『俺』という『キャラ』に付加された『属性』でしかないのかもしれないのだから。だって、ああ……今思えば、思い出だって断片的なものでしかない現実のことを全然覚えていないそもそも現実なんてものがあるのかどうかもわからない海のある家に過ごしていることは覚えているだが何か曖昧だ何か……そうそうだ幼少の頃やここ最近のことは覚えているのになぜかそれまでの間が抜けているなんでかすみがあんなに俺に依存したのかも、飛浮とどうして知り合ったのかも中学のことも高校入学のこともクラスメイトのあいつらの顔すらまともに……ッッ
「ぎ、ぃぃおああああッ!?」
その顔を思い出そうとした瞬間、全身に雷を打ち込まれたかのような激痛が走った。
何だ? いったい何が起こった? 心が壊れてるのに体まで……ッ!?
「はアッ、はあっ! はあっッ、はあ、ぁぁぁあああああああああ……ッ!?」
「おい、朧実大丈夫かよ、おいッ! しっかりしろッ! おい!」
「あ、ぇ……? ぐ、ぅぅうあああああ……っ」
飛浮が背中をさすって落ち着かせようとしてくれるが、こっちはそれどころではない。頼む、やめてくれ、ちがう……そんなことをしてほしいんじゃないんだよ……
「朧実落ち着け! 何があったか知らねえけど、まず落ち着いて俺の話を聞けよッ!」
「あ、ぁ……?」
「テメエのそれは、別に妄想の世界に捕らわれているとか、誰かに作られたとかじゃなくて、たぶん『眠界』だ。……忘れたのか?」
俺の知らない単語……ッ、い、や……違う。これはたぶん、俺が忘れている、単語か……?
「どう、いう……?」
「なるほど、完璧に忘れてるらしいな。ああなるほど……道理で、テメエと俺の時間感覚が合わねえわけだ。作為的に忘れさせられてんのか、それとも何かの拍子で記憶が一時的に飛んでんのか……とにかく落ち着け。オレが付いてる」
俺の呼吸が落ち着いたのを見計らって、飛浮が順番に話してくれた。
「まさかな、とは思ったんだよ。テメエがこの『冥界』の時間速度を現実の百倍って言ったときから、確かに嫌な予感はしてた。……あの後、テメエに馬鹿にされたのがムカついて、計算したんだけどよ……やっぱ間違いねェ。ここは現実の一万倍の速度で進んでる」
「は……?」
「最後まで聞け。忘れてるだろうから前提から、最初から話すぞ。……まず、この共有夢の世界に入るには、一度個人の夢の中に入らないといけない。『盧生』が波長を合わす際、まずは自分の睡眠時の脳波長を、意識がはっきりとした状態にしないといけないんだ。じゃないと、朦朧とした意識のままここに入って殺される。つまりは、意識のチューニング。『眠界』ってのは、そのチューニングをする階層だ。『眠界』は『冥界』の入り口になんだよ。個人の夢に入り、まずはそこで意識をはっきりと保てる状態に脳波をチューニングしてから、『冥界』に潜る」
「ぁ……?」
「それともう一つ……こいつは夢奏とも大きく関係している。夢飼ちゃんに教えるとき説明しなかったのも気がかりだったんだが……夢奏ってのは『眠界』の在り方が元になってる。夢飼なら多分海の風景、かすみちゃんはわからねえが……色んなもんが降って湧いてくるのか。オレの場合なら刀が無数に飛び交ってるとか。テメエの場合その『眠界』が厄介なんだろうよ」
「ぅ、そ……?」
「そうだ。テメエは嘘つきだ。テメエの口から出る言葉は八割嘘だし、夢奏だって嘘を具象化したみてェな能力。……つまり、テメエは自分の夢に嘘をつかれてるんだろうよ。それも風景とか認識とかそういう話じゃなくて……おそらく、テメエの認識すら騙すような、そんな夢」
飛浮の説明によって、すでにある程度の落ち着きを取り戻した俺は、それでも、両目からボロボロと涙を流しながら、こんな疑問を発するしかできなかった――
「おまえのその説明が……誰かの想像の産物ではないっていう、保証はどこにある……!?」
「そんなもんはねェ、諦めろ。ただ、オレを信じろ」
有無を言わさぬ絶対的な視線に射抜かれて、ひとまず答えは決まった。こいつは馬鹿だが嘘はつかないし、俺の想像力ではこんな友達は作れない。
「……わかっ、た。信じる……なら、『俺』は、嘘じゃないってことで、いいんだよな……っ」
「少なくとも、この『冥界』での出来事に関しては、嘘はない」
「……わかった。なら、次だ……ああ、くそったれが……ゲームはまだ終わってないのか……」
「だろうな。そしておそらく――」
「……夢飼は、黒幕じゃなかった。あいつは『THE・Mazis』じゃない」
これはもう確定だろう。ただ、彼女が無関係ということはないだろう。もうそんな楽観論は言っていられない。ということは、あいつは手先だった……?
「……ああ、ちくしょう……そういえばあいつ、確かに言い回しが変だった」
――『そう、本物。あなたは紛れもなく本当の世界で生きているわ』
そうか。本当の世界ってのは冥界のことだ。俺が嘘に捕らわれていないとは言っていない。
じゃあ、でも――なら、いったいどこに応えに繋がるヒントがある? 違和感は、矛盾は、不自然に感じた点は、いったい、どこにあるんだ……? 俺はその前になんて言った? そこに、何かヒントがあるはずなんだ……
――『答え合わせをしよう』『ええ。でも、もう気付いているんじゃない? これまでの作られたような絆の根底が嘘であった以上――』『ああ、お前は本当に実在する。ここは本物だ』
――『ああ、お前は本当に実在する。ここは本物だ』
…………何か。そうだ、今のここだ。巻き戻せ、巻き戻せ。巻き戻せ。他にもヒントはあるはずだ。もっと先に行ってもいい。あいつはヒントになることを言っている……ッ?
「ぐっ、ゥッ。ごほっ! が、ごほッ!」
咳か……血まで出てる。さっき馬鹿みたいに叫びまくったせいで喉が切れたか……? ああ、死ぬほどダサいな……ッ。泣きながら叫び散らかして、それで血を流すって……――――っ
「――――血?」
「あァん? どうした、何か気付いたか?」
飛浮の言葉を無視する。……何だ、何に引っ掛かっている……? 血の何がおかしいんだ。
ここ『冥界』は夢奏という例外を除けば、原則的に科学法則に支配された世界で、流した血は雨に流されるでもしない限り消えない。四肢を失った場合はそこが麻痺して動かなくなるが、これは時間の経過とともに脳が動かし方を思い出すからセーフ。トラウマにならない限り、実は元に戻る。……違う、そうじゃない。気になったのは四肢切断とかではなく、血だ。
どうして血が気になった……? よく見ろ、この血をよく見ろ。ここにある、血、を…………
「まさ、か……っ」
違う。
それだけは、否定しなければならない。
でも、だけど――
「なあ、飛浮」
「なんだ」
「いくつか聞きたいことがある。いいか?」
「ああ、まァいいぜ。今のオレはテメエの味方だ」
ゆっくりと息を吸って、吐く。
「……冥界の倍速が百倍って言ってテメエが反論したとき、誰が最初にその反論を潰した?」
「そんなのテメエだろ。ガムテで口押さえやがって」
「……ルンバの円筒が壊れた時、どんな風に壊れてたか、覚えてるか……?」
「覚えてねェよ、んなこと」
「……じゃあ、夢飼が『THE・Mazis』を女だって言ったその次に喋ったのは?」
「……テメエ、オレの記憶力がそんなにいいと思ってたのか?」
「…………………………………………………………………………………………………………、」
確認に意味なんて、なかった。だって、もう俺は……気付いてしまったから。
何もかもが、これで説明がついてしまうから。忌々しいことに、全てが繋がる。伏線が、回収されてしまう。あらゆる結果と結果が連鎖し、共鳴し合い、一本の綺麗な線を作り出した。
俺は静かな挙動で立ち上がると、酷く冷めた瞳で目の前で佇む飛浮を見た。
こいつがここにいる意味。どうしてここに飛浮刀磨がいるのか。
それを考えただけで、頭を掻き毟りたいほどの怒りとやるせなさが同時に襲いかかってきた。
最低最悪の声だった。夢飼にあのことを切り出した時よりも、もっと低く、もっと冷たい。
何もかもが色あせていくような感覚だった。でも、もう――逃げられない。
告げる――この事件の、最低最悪の黒幕を。
絶対に認めるわけにはいかないのに、逃げられない結末を。
揺るぎようのない、真実を。
「最初から全部、かす
「はい大正解、愛してるよお兄ちゃんだからここで殺すねっ」
☆ ☆ ☆
ゾッとするほどに暖かい声だった。どこまでも慈愛に溢れ、何よりも俺を思いやる、そんな声だった。愛情、親愛、寵愛、情愛、恋慕、そして一抹の依存。どこまでもまともで、狂っている要素などどこにもない、いっそ清々しいほどに晴れやかで爽やかで健やかな感情のこもった声だった。僅かな依存が覗いているが、他の綺麗な愛に埋もれてほとんどわからない。
そんな声と共に、背後から無造作に投げ放たれたのは、武骨な手榴弾だった。
「――や、かッ――――」
「逃げられてるかぁー」
間延びした無機質なかすみの声が、禍々しい爆音に掻き消された。
破壊的な光とともに鉄片が撒き散らされ、その周囲の空間をどうしようもなく引き裂いた。
真相に気付いた瞬間に夢奏を発動していた俺は、全く異なる位置でその爆発を遠目から見ながら――否だ。かすみの姿はぐんぐん近づいていて、気が付けば、俺は愛すべき妹の胸ぐらを掴んでいた。
「かすみ……かすみぃいいいいいッ! どういうことだ! 何で、どうしてッ! なぜこんなことをしたッ! 答えろ、答えろォッ!」
「答え合わせの時間だね、お兄ちゃん」
「そんなことはいい。良いから答えろかすみ……ッ! 何で俺たちの絆をぶち壊すような真似をしたッ! お前は誰だッ! 本当にかすみなのかッ!?」
「……――ッ、ぐ、ぅ……ッ!」
「あ、え……?」
詰め寄り真正面から睨みつける俺の前で、一瞬かすみが壮絶な表情を浮かべた。瞳に涙を浮かべ、悔恨と哀切を滲ませたような、そんな痛ましい表情を。
しかし――
「え、えへへ……どこまで? どこまで気づいてるのかなあー? お兄ちゃんっ」
たとえどれほど印象深かろうと、それは一瞬だった。すぐにかすみは、その面貌に愉悦まみれの怪しい笑みを浮かべて、そう問うてくる。
「黙ってないで、答えてよおー。あたしがどこからどこまで関わってるのか、答えてよ?」
「……全部だ」
「へえ」
スッと嘲りすら滲ませるように、そのまぶたが薄く鋭く切れていく。クツクツケタケタ、喉の奥から引き攣ったような笑い声が漏らしながら、俺の言葉を待っていた。
「夢飼海奈……あいつは、あの子は――お前が『溶産』で創り出した『人間』だなッッ!」
「いひっ、いっひひ! あはははは! だぁぁぁああいせぇぇえええいかああああい! 人間をまるまる一人、創ったの。可愛かった? 嬉しかった? 自分に優しい女の子が、約束の女の子と瓜二つの子が現れて、お兄ちゃんはどれくらいうれしかったぁぁ? ねえ答えて、ねえ!」
「……ッ、おまえ……」
「当たり前だけど、人格形成パッケージも記憶捏造プログラムも使ってないよ? そんなのよくわからないしね。とりあえず『人』を作ってみたの。お兄ちゃんの敵として生きることを目的とした、人間。何よりも優先してお兄ちゃんの一番の敵としてあるようにプログラムしたの」
文字通りのプログラムではないのだろう。そんなこと、かすみにはわからない。
「生物すら創る夢奏だもんな……そりゃ、人間だって作れなきゃおかしいッ」
ああ、繋がる。繋がる繋がる繋がる――繋がってしまうッッ。
お母さんってのは――かすみのことだ。創造主なのだから、朧実かすみは紛れもなく、夢飼海奈の『お母さん』だ。
二年より前の記憶がないのは、彼女が創造されたのがその二年前だからだろう。
「でも何で? どうしてお兄ちゃんは気付いたのかなあー?」
「……夢飼の肩を撃ったとき、肩から弾け飛んだ血肉がカラフルな三角形になって割れたんだ。ステンドグラスみたいにな。これはお前の被造物が壊れた時のエフェクトみたいなものだ」
「うふっ、えへへぇえ……そんな細かいことで……お兄ちゃんはわたしをよく見てるねぇー?」
蕩けたような笑みは、どうしても場違いなもので、気味が悪く感じてしまう。こいつがわからない。ずっと一緒だったはずなのに、朧実かすみという女の子がわからなくなっていく。
「……徳院穿千が襲撃してきた際の鉄塊が破壊されたとき、ルンバの円筒が暴発に巻き込まれたとき、そして……夢飼の体……こんだけ揃えばお前が犯人だとわかる」
「ああーもう……完璧に仕事してくれたと思ったけど、変なところでミスってるんだからあー」
「つまり、グルだったのか。だから、……お前には、夢飼とコンタクトを取る方法があった」
「いえーす。そして、海奈さんに『THE・Mazis』の影武者になれと言ったのもわたし」
どうしてかすみが夢飼に連絡を取ることができたのか。全てここに起因していた。当たり前だ、最初から共犯関係だったのだから。あいつが前回のダイブで俺たちの前に現れたのは、何のことはない――こっちに来てから、かすみが何らかの方法で連絡したからだ。。
他にも、夢飼がルンバの出現に狼狽していた理由もわかる。きっと、あれは二人の間では取り決められていなかったイベントだったのだ。かすみにとっては第二のイベントで、夢飼にとってはアクシデントだった。
それに夢飼をさらった鉄砲水。愚かな俺はずっと、あの鉄砲水は夢飼が自分で用意していたものだと勘違いしていたが――俺はあの直前に言っていたではないか。夢飼海奈は淡水を浴びれば夢奏を発動できない。制御下にあった海水すら失ってしまうと。夢飼はあのとき足首まで水につかっていた。つまりあれは、かすみの放った水だったわけだ。
……ああくそ、こうなってくるとあいつに投げた言葉が全てブーメランになって俺に返ってくるな。勝った気になっていたことが恥ずかしい。何が『嘘を吹っかける相手を間違えた』だ。騙されておいて、本当にいいピエロだ。愚かな嘘つきとはよく言ってくれたよ、かすみ。
他にも、かすみの怪しげな言動はあった。例えば俺が夢遊病患者だったなどと嘘か本当かもわからない適当なことを抜かしたことだ。……あのみかん、俺が倒したんじゃないのかもな。
「ヒントはゴロゴロ転がっていたわけか……」
「案外、まともな人なら気付けただろうねえー。仮にわたしたち兄妹の物語を外から見られる存在がいたら、簡単に気付いてたんじゃない?」
そうだろう。今思い返せば気付けなかったことが馬鹿みたいに伏線が転がっていた。物語みたいに、三流のシナリオみたいにゴロゴロと。
だけど、たった一つの伏せられていた情報のせいで、その全てがご破算になった。景色どころか認識すら騙しにかかってくる俺自身の夢だと? ふざけんなよ。気付けるはずないだろ。
「……どうしてだ」
「なにが?」
「とぼけるなよ、かすみ。どうしてこんな馬鹿みたいなマネをした。俺を騙して、俺を惑わして、喧嘩まで売ってくれやがって。……いったい何のつもりだっッ?」
「あははははー! お兄ちゃん、妹にそんな怖い顔するものじゃないよ? 妹は守るもの、妹は愛するもの、妹は味方。そうでしょ? 結婚して?」
「……そう、信じたいッ。だから聞いてるんだかすみ、どうしてこんなことをしたのかって」
彼女の襟を握る拳が痛い。見れば、服越しに爪が食い込んで血が滲んでいた。
しかし、それをすら無視して、俺はひたすら妹を射抜く。
対してかすみは、くふふ、と怪しく笑うと、信じられないことを言った。
「わたしに勝てたら教えてあげるよ、お兄ちゃん」
ぱちんっ、とかすみの指が鳴らされた。小さな指には似つかない、殲滅の号令の意を込めたかのような、そんな禍々しさすら感じる音だった。
そして――起きた現象は、それを実現たらしめるものだったのだ。
ずどん、と重たいものが空から降ってきて背後に着地した。ずどん、ずどん、ずどん。重たい音はどうしようもないほどに続いていく。数えるのも億劫なほどに。
「ねえお兄ちゃぁあん」
しゃりん、と金属と金属が擦れ合う鋭い音が鳴り響くと同時――鈍色の軌跡が二筋、俺の手首目がけて飛翔していた。
「なっ、ん――」
「きひっ、手首どばぁああー」
かすみの体が解放された。あっけない斬撃によって、俺の手首から先がなくなったのだ。
「ぐ、がッ……!」
「痛いぃいぃぃいいいぃぃいいー……?」
「全然」
「ッ、これも嘘っ?」
虚霞によってかすみに幻影を魅せている間に背後に回り込んでいた俺は、守るべき妹の体に横蹴りをぶち込もうとしていた。
しかし――直前に飛び込んだきた風景のせいで、どうしようもなく一瞬硬直し、かすみに逃げる隙を与えてしまう結果となる。
だが、それも仕方がないだろう。
目の前に広がる兵士の軍勢。それもただの兵隊ではない。機械で作られた兵士が大量にいた。徳院穿千が率いていたあの兵隊だ。それらがスーパーの屋上を埋め尽くすほど、大量に。
ただ、それだけならまだ救いがあっただろう。
問題は下――地上だった。駐車場に降り立ち、こちらに照準を合わせる機械兵士たちがさらに多数。壊れた屋上には入りきらないほどの人数を用意していたため、溢れてしまったのか。
「一個連隊くらいかなあー? 千人分用意したの。すごく疲れたしめんどくさかったけど、お兄ちゃんとかすみを守るためだから頑張ったんだよ? 時間ならたっぷりあったしねえー」
三日月に裂かれる妹の表情は、どう見ても邪悪なのに、だがどうしても俺はそこに負の感情を見出すことができない。深い愛情だけを感じる。そして、その齟齬が何よりも気味悪かった。
「じゃ、お兄ちゃん。ほんとはこんなはずじゃなかった。最悪のプランに落ちちゃったんだけど、でも……ここで終わらすね? 殺すね? 死んでね? 楽にしてて? 苦しまないように――――お兄ちゃんも努力してよねぇぇぇぇえええええええええええええええええええっッ!」
「ちく、しょう……ッ、かすみいいいいいいいァァァあああああああああああああああああッ!」
そして、前後左右及び下方からライフルやらミサイルやら機銃やらを構える音が鳴り響き、俺自身を狙うものから俺の退路を断つものまで、あらゆる銃口が俺を殺すために向けられた。
「Fire!」
愛という名の殺意をぶつけられた――直後だった。
「――おいおい、世界最高の脇役を忘れてもらっちゃァ困るな。やれ――『操刀』」
俺を殺す射線の銃器を持つ兵士だけを的確に切り裂く、五本の刀があった。さらに、一つの影が凄まじい速度で機械兵士の間を縫うように走り抜けていた。鋼鉄の兵団をバターの如く切り裂きながら駆けるそいつは、鉄くずの花吹雪を纏いながら、寄り添うように俺に背を預けた。
「馬鹿野郎が、妹に殺されそうだからって情けねェ声上げてんじゃねェよ」
「とび、うき……?」
「おいおい、嘘つき様よォ。いつもの余裕はどうしたよ。まさかいいように騙されて調子が狂ったか? ふざけんなっての。言っただろ、テメエの存在はオレが証明してやる。テメエが倒れそうならオレ様が支えてやる」
口元を好戦的に引き裂きながら、そいつはどんっ、と俺の背中に自分の背中をぶつけてきた。
「いいか朧実、テメエはテメエだ。嘘つきで人を騙すしか能のない雑魚だ」
「……おい」
「それでもテメエについていくことを決めた。テメエに騙されたと思ってついて来てんだ。だから、嘘はついてもオレの期待だけは裏切んな。オレが保証してやるから。テメエは世界最高の嘘つきだって。だから安心して騙せ。テメエは朧実幻冶。嘘をつくしか能がないんだろ。だから道は切り開く。テメエが安心して嘘をつけるように、俺が端役を斬り尽してやるよ」
「……飛浮、」
「ああ、それより何より――だ」
七本の軍刀をくるくると手の中で弄びながら、特大の馬鹿はこんな絶体絶命の状況でも、やはりこんな馬鹿なことを言ってきた。
「男二人がこうして大勢の敵に囲まれてんだ。だったら語ることなんざそう多くねェだろ」
こいつは変わらない、揺らがない。そして真っ直ぐだ。
ウェイでお調子者で女好きで彼女持ちで、だけどなぜか俺を理解して共に歩いてくれる存在。
かすみや夢飼とは違う。同じ男だからこそ、こうして――
「飛浮」
「なんだよ」
「俺が落ち込んでると思ったか? 残念ながらそれは演技だ。そういうことだから――」
「最高。そうでなくちゃテメエじゃねェ。ってなわけで――」
「「――背中は預けた。こっちは任せろ」」
◇ ◇ ◇
飛浮刀磨の背中から悪友の背中の感触が消えた瞬間、彼はこう叫んでいた。
「脇役の脇役なりの意地ってヤツを見せてやる。無双してやるからかかって来いやァッッ!」
☆ ☆ ☆
俺もかすみも互いのことを知り尽くしている。
だから、戦いの決着は一瞬でつく。アニメみたいに一進一退の攻防が続くことはない。
8000Lまでならば生物であっても創造可能なかすみの『溶産』だが、馬鹿正直に巨大物体を創り出すことはないだろう。そして、創造回数もまたそう多くないはず。それまでに俺を仕留められなければかすみの負けだ。予想できる被造物は言うまでもなく鏡。最多で三枚。
獲物は一本の日本刀と、西洋系のサーベル。……あれは、夢飼が『八百屋』で買ったものだ。夢飼は使っていないどころか佩いてもいなかったが、そもそもあいつの武装じゃなかったか。
後ろでは一騎当千型の飛浮が最高に狂ったパフォーマンスで機械兵士を斬りまくってるおかげで、俺たちには流れ弾ひとつ来なかった。やがて屋上の敵を斬り付くし駐車場に降りると、屋上には小さな静寂だけがあった。
今夜は風が強い。雲が多く、月が隠されている。
距離は五メートルほどか。三歩か四歩で届く距離。おそらく決着までの時間は三秒を切る。
腰に装備した左右のホルスターから、ブラックの『MK.22』とメタリックカラーの『ベレッタM92』を静かに抜き、それぞれ遊底を引いた。これでいつでも発砲可能。
時が流れる。雲が流れる。かすみが横に動く。俺も彼女の正面をキープする。ゆっくりと、その時を待つ。彼女の視線を監察する。
言葉はない。
雲が晴れた。月光が落ちる。
言葉は、ない。
ただ無言のまま鏡がかすみの顔の真横に創造された。
俺は左手を掲げる。
鏡面が俺を捉えるとともに月光が反射。俺の視界を奪わんと直進したが、それよりも前に目を覆うように掲げたメタリックカラーのベレッタが光を反射。逆にかすみの視界を奪った。
軍服の裏ポケットからナイフを取り出すとともにベレッタを捨てる。MK.22でかすみの顔の隣で落下運動を始める鏡を撃った。ステンドグラスの如く鮮やかな破片が散る。それを確認もせず大地を蹴った。『虚霞』を発動し――『嘘』をつく。
一歩――だが、この距離を詰めるほどの時間があれば鏡を創造するのは容易い。だがすでに手は打ってある。俺の右手から黒い拳銃が落ちる。同時、決して少なくない量の血も。左手は右手に添えられていて、右手では小指がズレていた。ナイフで切ったのだ。
「――ッ?」
さて、かすみ。どこまで騙されてくれていたのかな? 少なくとも月光を反射されることまでは織り込み済みだっただろう。もっとも、予想していても避けられないよう俺が位置を取り、先んじて手を打っていたからこそ反応できなかったのだろうが。だが、この一手はどうだ?
かすみの視線を探る。時間にしてコンマ一秒かからなかった。かすみの意識が僅かに胸の前に傾く。偉いなかすみ、想定外の事態が起きても、戦闘中に思考を止めないのは。
だが甘い――ナイフの腹でぴんっ、と切った小指をかすみの胸元目がけて弾く。
創造設定空間内に、異物が混ざる。
「――――ッ」
驚愕を浮かべ、それとともに一度創造を止めた。暴発を避けるためだ。
そこが狙いだった。
かすみのすぐ左方に俺の像が結ばれる。同時、『俺』は空気に溶けるようにして消失。
「――――!? っ、な」
今度の今度こそ、声を漏らさずにはいられなかった。
最悪の隙だった。それを無意識のうちに――脳ではなく脊髄で理解したかのように、その瞳に自身に対する怒りが湧いた。
拘泥しなかった。迷いなど皆無だった。日本刀とサーベルをどこまでも暴力的に、しかし悲しいまでに美しく操り、ナイフ片手に飛びつこうとする俺の肩から脇腹まで袈裟を掛けた。
「――づッ……!? まじ、か――っ」
そして、振るったその瞬間にはその瞳に驚愕と絶望と悲哀が混じっていた。
それでも諦められず刃を振るおうとした彼女に、真正面から突っ込んだ本物の『俺』が、そのまま抱き着き、覆いかぶさるようにして地面に押し倒した。
「悪いかすみ、そりゃ嘘だ」
両手首を地面に固定し、両足で下半身を戒める。腰を彼女の腹に乗せて、身動きを封じた。
「ぐ、ぅうううっ!」
「動くなかすみ」
「え、ぁ……?」
なお抗おうとした彼女を黙らせるべく、俺は実の妹と唇を重ねた。
「――――ぇ、え……ぁ……?」
「かすみ。これが、最初で最後だからな」
口づけをしていた時間なんて、一秒もなかっただろう。だけどかすみは、その時間が永遠だったかのように、顔を真っ赤にして固まってしまっていた。
「あ、ぃ……ぅ」
「かすみ」
至近距離で見つめ合う。地面に押し倒した妹に、鼻と鼻が触れるくらいまで、互いの距離を近づけた。逃げられないように、逃がさないように。
先ほどまでの、時間が全身にまとわりついてくるかのような緊張はもうない。かわりに、言葉では形容しがたい、何とも言えない静寂が、俺とかすみの間に流れる。
「かすみ」
「あ、ぅ……お兄ちゃん、なまえ、よびすぎっ」
狂気的な雰囲気はない。当たり前だ、さっきのキスで、彼女の演技と役を剥がしたのだから。
「……かすみ」
「だめ、むり……それ以上は、むり!」
「かすみ、理由を教えてくれ。全部。怒らないから。……いいや、違うな。かすみに、礼を言うために」
もう言い逃れなんてさせない。こいつはもう。こいつだけは、絶対に逃がさない。
俺の敵として生み出された夢飼とは違う。朧実かすみは、朧実幻冶が一生をかけて守り続ける存在なのだから。
「……だって」
俺に見つめられながら、かすみは顔を真っ赤にして。だけど、それ以上の悲しみと恐怖を瞳に宿して、ただの十歳の女の子みたいに、叫んだ。
「もうすぐ、お兄ちゃんは死んじゃうんだもんっ! わたしを残して一人で! そんなの、絶対にやだっ! だって、だって! ずっとずっと一緒だったのに、突然いなくなるなんて、そんなのやだよおッ! あなたがいなくなるなんて、そんなの、絶対に耐えられないっ! だって、だってぇ――っっっ!」
まるで説明する気がない。ただ感情に任せ、ぼろぼろと両眼から涙を流しながら、今まで見たこともないような辛そうな表情で。かすみは、ずっと隠し続けてきた真実を、口にしたのだった。
「お兄ちゃんは――『げんやくん』は、わたしが生まれる前から、ずっと一緒だったのにぃっっ!」
え――? それ、って。どういう、……、
「お母さんのおなかの中にいるとき、ずっとずっと外に出るのが不安だった! あの中から出て、誰にも守られない世界の中に行くのが、怖くて怖くて仕方なかった!」
ちょっと、待て。何を、言ってる? 生まれる前? ずっと一緒だった? 外に、出る……?
「ずっと独りで不安でっ、誰もいないところで一人ぼっちでっ、外ではゴロゴロ雷が鳴ってて! 嫌だった、怖かった! 外に出たくなかった! 海の向こうに行くのが、怖かった!」
何かが、繋がっていく。
それはさっきまでのような冷たい真実ではない。
まるで、寒い冬のビーチで俺たちを照らしてくれる、暖かな日差しのような。
光を孕んだ潮風が運んできてくれる、始まりの真実だった。
「だけどそこに、あなたが来た……ッ。独りぼっちのわたしのビーチに、げんやくんが来てくれたっ……!」
ああ、まさか。ああ――そうだったのか。
彼女と遊んだり喋ったりしたのは、十年前。……かすみが生まれてくる前までの話だ。
かすみは十歳というそれなりの年齢でありながら、人間すら創造できる。万物を創造できる夢奏を持っていた。それは、ある程度常識や知識に捕らわれた小学生でも無理なはずだった。
かすみが生み出した夢飼海奈と、十年前の『姉ちゃん』は全く同じ姿をしていた。
ああ、そういうことか。
何のことはない。
「あれは……あの姉ちゃんは、お前だったのか、かすみ……っっ?」
――そして、十年の制約も、血の繋がりすら越えて、俺たちの物語は再会する。
「そう、だよ……ッ。お兄ちゃん。お兄ちゃんはね? げんやくんはね? ……生まれる前から、わたしのヒーローだったんだよ? 出会う前から、わたしはお兄ちゃんのことが大好きだったんだよ? 家族だとか兄妹だとか、そんなよりも前から、あなたに恋をしてたんだよ」
夢飼の容姿が『姉ちゃん』と同じだった理由が、これでようやくわかった。
簡単な話――かすみはかつて一度、『夢飼海奈』と同じ器を作っていたからだ。
『リンクドリーム』という技術がある。詳しくは知らないのだが、これはどちらか一方が『盧生』を体内に埋めていれば、その人の脳波をもう片方の人の脳波にリンクさせて、相手の夢の中へ入ることができるのだ。この技術の肝は胎児とすら夢を共有できるということ。そこで言語を教えれば、意思の疎通さえできるのだとか。
きっと、俺がかすみと出会ったのは、その技術を使って母さんの中にいるかすみの脳内へ俺が入ったから。通常は母親が胎児とコミュニケーションを取るのだろうが、うちの場合は母親が面倒だからと拒否し、代わりに俺が行ったのだ。きっと、何の事情も知らないで。
「好きとか、愛してるとかじゃない。げんやくんは……お兄ちゃんは、最初からわたしの全部だったの。生まれる前から、あなたはわたしの心の全部を満たしてた。だから、だからっ! そんなお兄ちゃんを、どうしても失いたくなかった! 独りになったら、生きていけないから……」
だとしたら、あの時の『姉ちゃん』は、きっとかすみが『溶産』で創造した『人間』であり、あるいは『アバター』だったのだ。まだ自分の姿を知りもしないかすみが、俺と遊ぶためだけに作り上げた、最初の人間だった。
俺とかすみは――確かにあの時、淡い心を通わせ合っていたんだ。
「なんで……。それなら、なんで。なんで……俺を殺そうとしたんだ?」
俺の声音は、すでにとても穏やかなものになっていた。暖かな真実が、かすみの混じりけのない愛情が、俺の心に光を灯してくれたから。
だが逆に――かすみの瞳には絶望と恐怖と憎悪があった。ただしそれは、俺に向けられた感情じゃない。もっと違う誰か。ここにはいない何か。あるいは、ここではない、どこか。
「今日……いや、昨日かな。とにかく現実での七時間前に、お兄ちゃんは病院に運ばれた……」
そうして、彼女は俺の知らない――否、俺が忘れている、俺の悲劇というものを語り出した。
「お兄ちゃんはね、昔からよく怪我をして帰ってくるの。先に帰ってきたわたしは、いつもいつもボロボロになって帰ってくるお兄ちゃんを見るのが嫌だった。だから、いつも聞いてたんだよ、お兄ちゃん、どうしたの、って。そしたらね、お兄ちゃんはこう言うの」
何でもない――
ああ、もう全部察したよ。それでも俺は、かすみに先を促す。
「すぐにわかった。お兄ちゃんが学校でいじめられてるって。それも、命に危険があるほどに」
毎日毎日、ボロ雑巾のようになって帰ってくる。日ごとに傷は増え、制服は破れ、鞄はぼろぼろ。だけどかすみを心配させず、笑顔にさせるために何でもないと嘘をつく(強がる)。
当たり前のように台所に立って、当然のようにかすみに冗談を言って、いつものようにニヤニヤヘラヘラ笑って過ごす。
「それでも、まだ……まだ、お兄ちゃんは笑ってた。だから、耐えられたの……ッ でもッ!」
これまで聞いたことがないくらい悲痛な声だった。空気を引き裂くなんて言葉じゃ足りない。
……少なくとも、俺の心をズタズタに引き裂くくらいには、どうしようもない絶望が滲んでいた。
「……そして、結局、悲劇は起きちゃった」
全身骨折、出血多量。辛うじて首の骨や脊椎にダメージはなかったが、階段から落とされた際に、頭に衝撃があったらしい。
そして、ほとんどの怪我や病気が治る現代の医学でも、瀕死の人間を治療するのは難しい。そのため、本気の本気で生死境を彷徨っていた……いや、いる、とのことだ。
「見てられなかったッ! 今にも死にそうだったっ! あんなの許せるわけない! わたしの大切な人を痛めつけたことを、絶対に絶対に絶対に後悔させてやるッ! 本当に死にかけてたんだよっ! 心臓が何回も止まったって! 血がいっぱい流れて足りなくてッ! もしも病院に輸血のストックが無かったら絶対に死んでたッ! 骨が全部治るまで今の技術でも半年はかかるって! リハビリは死ぬほど辛いって! お兄ちゃんは何も悪くないのにッ! げんやくんは何もしてないのにッ! それでも、もしも奇跡的に生還できたらって話だった! 手術が成功してもお兄ちゃんは死ぬかもしれない……ッ! もしかしたら一生寝たきりで起きないかもしれないんだよぉ……ッ! 起きたとしても、思い出が全部なくなってるかもしれないって言ってた……ッ。こんなの絶対におかしいッ! おかしいよこんなのぉッッ! なんでっ、なんでぇええ! なんでわたしのお兄ちゃんだったのさぁぁぁぁああああ……あああっ! あああああ! ああああああああああああああああああああああああああああああああっっッ!!」
奥歯が折れるほど歯を噛みしめて。血が滲むほど拳を握りしめて。
世界を呪いかねないほどの憎悪を吐き散らしながら、独りぼっちで泣いていた。
「わたしの全部が、わたしにとって、何よりも誰よりも大切な人が、もう、いなくなるかもしれないんだよ……っ」
その愛情に対して静かに涙を流しながらおでこを撫でてやると、少し落ち着いたようだった。
「それでも、手術は終わってるから……だから、あとはお兄ちゃんが現実に帰ろうとすれば、それだけでいいんだって、お医者さんは言ってた。生きたいと願えば、回復するって」
「じゃあ、お前は……」
「うん。『リンクドリーム』でお兄ちゃんの中に入って、生きる希望を与えてほしいって、お医者さんに言われたの。リミットの朝七時までに、お兄ちゃんを連れ戻してほしいって……」
「じゃあ、何で殺そうとしたんだよ。まだ俺が生きる可能性があるなら、二人で死ぬよりも、もう一度向こうで生きた方が、」
「あんな」
そんな俺の当たり前の提案は、これまでで最も悲痛な叫びによって叩き潰された。
「あんな奴らがいる世界に、もう一度お兄ちゃんを叩き返せって言うの!? そんな残酷なことできるわけがないっっッ!」
「……、そっ……か……っ」
かすみは最初から、ずっとずっと初めから、俺のためだけにこんなことをしていたのだ。
きっと最初は、穏便に済ますつもりだったのだろう。夢飼を使って『眠界』を現実だと信じ込ませ、リミットのその時間まで俺と一緒にその中で生きて――そして、リンク元の俺が死ぬことで、崩壊していく世界でたった二人、寄り添いながら最期の時を迎えるつもりだったのだ。
だけどそれができなくなった。俺が真実に気付いたから、無理やりにでも殺さなければならなくなった。俺が現実に帰ろうとする前に、俺を救う(ころす)ために。
「ぼろぼろのお兄ちゃんが担架に運ばれながら、救急車の中でなんて言ったと思う……?」
「……っ」
「『階段で転んだ』――そんな、見え見えの嘘をついたんだよ。あいつらに、言えって命令されたから。……あんなところに、お兄ちゃんを返すわけにはいかない」
俺と同じように、かすみはよく言っていた――現実なんてクソだ、と。
かすみのその言葉には、どれほどの想いが込められていたのだろう。あの飄々とした態度の裏に、どれだけの激情を隠していたのだろう。あの表情の、下に……
「さあ、お兄ちゃん。だから、死の? わたしと、一緒に、ここから逃げよう……。ね……?」
ぼろぼろと涙を流していた。そこに宿る感情は、絶望と、憎悪と、悲哀と、何より――悔恨。
悔しいな。ありえないほどに悔しいよな。何で俺たちが逃げないといけないのか。なぜ何も悪くない俺とかすみが涙をこらえて、我慢して、諦めなければならないのか。
どうすれば幸せになれたのか。あるいは、幸せになどなれないのか。
問に対する答えは出ない。
でも、だけど。
それでも。
それ以上に、ただ一つ。
たった一つだけ、看過できないことがあった。
だから、俺は今から最低最悪な救済を始めよう(一世一代の嘘をつこう)と思う。
――特別な言葉はなかった。
「大丈夫だ、生きよう」
「え……?」
何を言われたのかわからないと言うように、可愛らしい目を見開いて、俺を見つめた。
「かすみ、大丈夫だ。俺たちが我慢することなんてない。諦めてそいつらに道を譲る必要なんてない。心配するな、お兄ちゃんは人を虐めることしかできないような小物には負けねえよ」
「なにを、言って……?」
「記憶? 大丈夫、何だかんだ何とかなる。てかお前らのことと、『冥界』のことさえ覚えているなら別にどうでもいい。リハビリならかすみがいてくれれば頑張れる。だから、お兄ちゃんはきちんと起きるよ。起きて、生きる。そのくそったれな現実で」
さあ、どう出る我が妹よ。
ずっと前にもお前に言ったと思うが、お前はまず嘘を吹っかける相手を間違えた。ゲームを仕掛ける敵として、最低の貧乏くじを引いたんだ。
だから、その代償を今払ってもらう。
「むり、だよ。ううん、そうじゃない! 嫌だよそんなの! お兄ちゃんがまた死にそうな目に遭うなんて、嫌だ! 何をしたって変わらない! お兄ちゃんが変わったって、世界は変わらないッ! お兄ちゃんが頑張ったって、世界は優しくないのっ! あそこはとても冷たい所で、ぬくもりなんてない、クズしかいない地獄なのっ! お兄ちゃんみたいな人が、いっぱい苦しまなきゃいけない世界なのッっ! そんなところに――」
「世界を変えるのは難しい。でも、人を騙すのは簡単だ」
「ぁ、ぇ――? ――――ぁ――……」
嵌まった――
「いいか、かすみ? 確かにリアルはクソだ。お前の話を聞いただけでも冷たくて価値のない、救いようのない屑箱だってのはわかった。もはや淡壺より汚い。普通に下水だ。そして、そんな世界を作った神様はたぶんウンコだ。形容詞でも、たとえでもない。神様は普通にウンコだ」
言い過ぎかな? まさか。殺されかけてるんだ、これくらいならおおらかで優しい神様なら許してくれる。
「そして、そんな場所を楽園だと信じてアホ面下げて笑ってる奴はそれはもう救いよう――のない愚者だッ。そして俺からしたら、愚者を騙すのは容易い。彼女を作るよりも遥かにな」
むしろ彼女を作るのが人生最大の難局感があるよな。
「そんな奴らに、だ。俺がそう簡単にやられっぱなしだと思うか? たぶん、最初はおそらくスルーするだろう。だけど、他でもないこの俺が、お前の悲しい顔に気付かないと思うか? 何より俺が、やられっぱなしで終わると思うか? 何の策も打たないと?」
「それ、は……っ」
かすみが俺の剣幕に押される。何の根拠もない憶測。だが、積み重ねた嘘つきとしての信頼が、信用が、その可能性をちらつかせるのだ。嘘つきの信用が。
「安心しろ、かすみ。俺がここで死にかける事態に陥ったってことは、おそらく策が完璧に成ったってことだ。あいつらは俺の嘘に搦めとられた。網にかかった、だからもう逃げられない。次はこっちが逆襲するターンだ」
かすみは知っている。俺がどうしようもない、救いようのない嘘つきだということを。
だから――彼女は信じる。俺の『嘘』を、信じる。
「だからさ、もう我慢しなくていいんだ。もう涙をこらえて逃げる時間は終わりだ。後は俺が片を付ける。嘘を交えながら真実を巧みに操って、あいつらを地獄に落とす」
「できる、の……?」
「できるってか、もう準備は整ってる」
「もうお兄ちゃんが怪我しなくていいの?」
「ああ」
「もう……お兄ちゃんが、泣かなくていいの?」
「泣いてないぞ、断じて泣いてない」
「これからは、もう作り笑いじゃなくて、ちゃんと笑ってくれるのぉ……っ?」
「ああ、ちゃんと笑う。……そのために、かすみ。俺はここで最後の仕事をしなきゃならない。色々と下準備があって、それをここで終わらせたいんだ。だから、先に出ておいてくれないか?」
その提案にだけは、すぐに頭を振ることはなかった。
だから、念を押して俺はこう言った。
「頼む、かすみにはあまり見せたくないものなんだ。少し汚い方法だから。大丈夫だ、すぐに追いつく。――信じてくれ」
「……本当、に?」
「本当だ」
「嘘じゃない……?」
「嘘じゃない」
至近距離で見つめ合う二人の間を、冬の肌寒い風が通り抜ける。身を凍らすような怜悧な風で、何よりも束の間俺たちの兄妹の時間を止めた風。
止まった時間の中で。月が輝く夜に、二人見つめ合いながら、約束を交わす。
いつかのように。いつかと似た約束を。
「後でまた、かすみ会える日を楽しみにはしておく。かすみが先に現実に戻って、俺は俺であいつらを騙して。その時にまた、今日みたいに遊ぶぞ」
真っ直ぐな俺の瞳を見つめる、不安に揺れるかすみの瞳。一秒、二秒、三秒……本当に時が止まってしまったかのような静寂の中、永遠にも思える数秒の後、かすみは言った。
「信じる、から」
「ああ、信じろ」
「待ってるから……!」
「ああ、少し待ってろ」
決意が固まった。――騙し終わった。……守ることが、できた。
全ての終わりを理解した俺は、ゆっくりと立ち上がり、かすみから離れていく。彼女の刀と剣を取り上げる気もない。もうそんなことをしなくてもいいからだ。
俺と同じく、立ち上がったかすみが腫れぼったい瞳でこう言ってきた。
「お兄ちゃん。じゃあ、先に待ってるね……? 絶対、絶対にまた一緒に暮らそうね……?」
「ああ、当たり前だ。――約束だ」
「うん、約束。だからこれは――その保険」
「は――?」
不意打ちだった。
かすみは、たんっ、と軽快な調子で俺に一歩踏み込んでくると、精一杯背伸びして俺の唇に口づけをした。
「おまっ――」
「これは借りで、保険だよ?」
抗議しようとする俺に、かすみはいたずら気に微笑んでウィンクをする。人差し指を唇に当て、救われたような笑顔でこう言った。
「怒るためには、きちんと帰ってこないとねっ」
☆ ☆ ☆
スポットまでかすみを送り届けた後、俺は大型スーパーの駐車場のど真ん中で大の字に転がっている飛浮と、縁石に腰を下ろしながら雑談をしていた。
「テメエさ」
「なんだよ」
「最低だな」
「自覚はある。でも、これでかすみが死ぬことはない」
「ははッ、それを最も嫌がってただろうがよ。ったく、『本当だ』とか『嘘じゃない』とか、テメエには一番似合わねェ言葉じゃねェか」
「なあ――」
揶揄するような、あるいは責めるような飛浮の言葉に、俺はニヤニヤヘラヘラ、心底人の悪い笑みでこう返していた。
「俺が本気で何もしてないと思うか?」
「……はッ、もう知らね。テメエの言葉なんざまともに聞こうとしたのが間違いだったわ」
「そういうことだ」
身を引き裂くような冬の風が、嘘つきを責めるように口笛を吹いた。