第三章 嘘と真の最終遊戯
「「「かんぱーい!」」」
満面の笑顔でジョッキを打ち付け合う夢飼、かすみ、飛浮の三人を白い目で眺めながら、俺はひとりちびちびとジンジャーエールを飲んでいた。
あいつらのジョッキにはどう見ても大学生や社会人が一杯目に飲むあれにしか見えない液体が入っている。それらを口に含みながら、馬鹿三人は楽しそうに騒いでいた。
とはいえ、あの液体は、あれに似せたジュースでしかないらしい。ノンアルコールってやつ。
場所は『八百屋』も構えている広場にある、未成年ダイバー専用のバー(?)だった。板張りの床に木製のテーブル。椅子はあるにはあるが、どちらかと言えば立って飲むのが主流か。カラオケもあり、大きなスクリーンの前では睡蓮花を歌ってる奴がいた。超ウェイだなあの人。
酒場とは言いつつ、未成年専用なのでアルコールはなく、ドリンクも厳密にはお酒ではない。というか、そもそも夢の世界なので酒という概念そのものが特に意味のないものだった。
「何と言っても今回のMVPと言えばオレだよなあ! 絶妙なタイミング! 朧実が欲しい所で確実に答えてみせたオレ様! あ、そこの子、一緒に飲もう! ほらほらァ、楽しいぜェ? やっぱ酒ってのは可愛い女の子と呑むのが最高だからなァーッ! うは! うはははははは!」
とはいえ、ここは夢の世界。ノンアルコールという体になっているが、本人が勝手に酔ってしまえばそこまでだ。アルコール分を摂取していないため厳密には違法ではないが、脳が酒を飲んでいると錯覚するせいで、その状態に近くなっている。正直、黒寄りのグレーだ。
「なーに言ってんの! なーに言ってんの! 飲み足りないから言ってんの!? はいッ! ドドスコスコスコ! ドドスコスコスコ! ドドスコスコスコ! OCYッッ!」
いやお前がなに言ってんだよ。馬鹿じゃねえの?
「いやあ、海奈さんも良かったですよおー! お兄ちゃんとぉ、わたしとぉ……ケセランパセラン! ケセランパセランの次くらいにカッコよかったですぅー!」
「待って、待って待って!? あたし達の間に割り込んだそのケセランパセランってなにッ?」
そしてかすみも酔っていた。いやもう、あいつは何で酔ってるんだよ。飛浮は友達と隠れて飲んでてもおかしくないけど、お前にはそんなもん与えたことねえぞ。まさかこいつ、めちゃくちゃ弱い……? まずいな、大学では絶対サークルに入らせねえ。飛浮がお店の女の子に絡みに行き、ボディタッチに乾杯イッキ、コールで女の子に呑ませるなど好き勝手やっているのを見つめながら、俺は固く誓った。あいつ、かすみに指一本でも触れてみろ、去勢してゲイバーに放り込んで……うおっ、あいつ、あんな! マジか? おい、おい! そこはおっぱいだぞ、おい! ずるい! ちくしょう、ウェイはこれだからっっっ!
「あれ、幻冶くんはお酒飲まないの?」
どう見てもあれ……もう濁すのめんどいな。ビールにしか見えないドリンクを持ちながら、夢飼が近付いてきた。呼び方の変化は、おそらくさっきのルンバ戦で信頼を勝ち取ったからだろう。このままルート入ってベッドインまで一直線だ。
「酒じゃないけどな。……はぁ、俺はさ、こういうウェイのノリはすげぇー苦手なんだよ。あんまり飲み会とか好きじゃない。酒に任せて騒ぐなんて何かダサいだろ?」
「へぇー、あれだけあたしにセクハラするのに、そういう男の子らしいことはしないんだ」
「一回も触ってないけどな。……まあ、なんだ。嘘ついて適当にしてる自分のこともあまり好きじゃなかったりする。本当ならもっと普通に接してえけど、嘘を使わないと話せないんだ」
鏡に弱いのも、案外この自己嫌悪から来てるのかもな。
とはいえそれはどうでもいい。俺はさらに続けて、
「それに……この世界だからこそ、なのかもな。ここだと、俺は自分を出せるんだ。もちろん、嘘つきを前提にした自分、だけど」
今でもこういう考え方はとても格好悪いと考えられている価値観なのだが、事実なのだから仕方がない。数十年前にSNSが世に出て、俺みたいなオタクが〝繋がる〟土台ができた。趣味が合う人間同士が好きな作品を通して知り合えるようになった。現在ではVR技術の進歩により『SNS空間』なんてものも生まれて、人と人との距離はより近くなっている。……もっとも、そのせいで『VRニート』なんて社会問題が発生しているんだけどな。つってもまあ、彼らの気持ちはわかる。リアルってマジでカスだよな。
そして、かくいう俺もその同類。大勢の人間ってのはだいたい科学技術が進歩してもあまり関係なくて、だいたい友達と遊ぶか女子とデートの二つだけ。技術の進歩の恩恵を真っ先に扱うのはいつだって俺たちオタクなんだよなあ。SNSだけじゃない。昔ならアニメ、CG,オンゲー、VR。現在ではVRから着想を得た主観モノの映画、電子書籍という媒体を最大限利用した小説や、挿絵がアニメーションと化したラノベ、人格形成パッケージを用いて生み出されたAIとの恋愛シミュレーションゲーム。俺は、『冥界』もそれらの一つだと考えている。
「この世界はさ、俺の居場所みたいなものなんだよ。辛くて厳しい現実とは違う。他人の顔色を窺うのが上手くて、服に興味を持ってる奴だけが認められる現実じゃない。地上はそれどころじゃない場所だけど、それでも……この世界は、俺が自分を出して生きて行ける場所なんだ」
別に彼らを軽視してるわけじゃない。むしろ、あの世界で、それでも自分の価値を認めてもらおうと抗い戦い、社会に必要とされるための努力をしている彼らを、俺は尊敬すらしている。
あんなに難しい世界を笑顔で渡り歩ける彼らは、紛れもなく尊敬されるべき人間だ。
だけど――
「この世界はもっと楽しい。まず夢奏がある。超能力を使えるんだぜ? 楽しいだろマジで。一人に一つ、しかも自分の性格を元に作られたものだから、それだけで自分が出せるってわけだ。あと、普通の人には引かれるような、アニメやラノベで得た知識や雑学だって役に立つッ」
それだけじゃねえ。ここに来て遊んでる奴は変な人間ばっかだから話してて楽しい。頭の中で思いついた渾身のギャグをキャラだからという理由で我慢しなくていい。……滑るけど。
そんな風にこの世界の良さを力説していると、隣から笑い声が聞こえてきた。
「ふふっ、あははは」
「あ? おい、なに笑ってんだよ」
むっとなって聞き返す俺に、夢飼は目じりの涙を指の腹でぬぐって、俺の顔を覗き込んだ。銀色のボブカットがさらりと流れ、端正な顔が傾いたまま俺の近くに寄ってくる。
「いやね、あなたがそんな子供みたいに目を輝かせてるのが珍しくてさ」
「……なんだよ、舐めやがって」
「くふふふっ! うふ、あはは! 照れて子供みたいよ。嘘つきで濁った目をしてるあなただけど、そういう純粋な面もあったのね」
「うるせえ」
「そこは『嘘だけど』って言わないのかしら?」
「当たり前だ。この世界は好きだからな。アニメとかゲームとか、作品に対して嘘はつかない主義なんだ。オタクとしての流儀とか矜持だと思え」
「ふーん、なんか面白くないっ」
見つめ合う形になり、優しい瞳に射抜かれる。それが少し癪だったので目を逸らした。
こいつ、本当にあの『姉ちゃん』と瓜二つなんだよな。だっていうのに、記憶がない。容姿は瓜二つで、歳を全くとっていないようにも見える。……いったい、何があったんだ。『THE・Mazis』やルンバとの激しくも粘質な戦いのせいで忘れがちだが、現実と夢がどうとかの問題の他にも、こいつのことも――…………
「なあ……っ」
……今、とても。とてもとてもとても嫌な想像が、頭をよぎった。
「なに?」
すいっと自然な動作でこちらに寄ってくる夢飼を見る。その空色の瞳を見る。出会ったときよりも俺への好感度が高くなっている夢飼の顔を見る。整った顔たちに完璧なスタイル。銀髪のボブカット。性格もオタク受けするツンデレ気味で、大きな戦いを経て距離が近くなり――何よりも、幼少の頃に出会ったある少女と瓜二つの容姿の、女の子。
「…………ッ。なんでも……ない……ッ」
喉まで出かかったその問いをギリギリで呑み込むと、俺はさっきとは全く異なる理由で夢飼から目を背けた。
こんな想像は最悪だった。
でも、そうだ。
全部が全部妄想で、何もかもが俺の夢だとするならば。
夢飼夢奈という少女だけではない。十年前、毎日砂浜で遊んで絆を育み、また会おうと約束したあの『姉ちゃん』との思い出すらも、あの優しい記憶すらも、全て嘘かもしれないんだ。
「大丈夫なの? 顔色悪いわよ……。ルンバのこと思い出したの……?」
「いや、大丈夫だ。それより……明日のこととか考えないとな。『THE・Mazis』の居所を探る。見つけ出して……そんでリザインしてもらわねえと」
結局、ルンバの残骸からは特にそれらしいものは見つからなかった。『攻略可能な超火力ロボ』なんていう、いかにも中ボスらしい性能だったことからも、あれがゲームを仕掛けてきた『THE・Mazis』からの差し金だってのは確定だ。因果関係がそれ以外に見つからない。だが、そこに何の手がかりもなかったのはどういうことなんだ。
ゲームと言っている以上、攻略法は用意していなければおかしい。奴は俺に恨みや憎しみを持ち、復讐するためにこんなマネをしているわけじゃない。遊んでいる。楽しんでいる。頭脳バトルもどきの対人ゲーを仕掛けているつもりなんだ。お粗末なゲームなことこの上ないが、それでも攻略不能の無理ゲーなはずがない。ヒントは、これまでのどこかにあるはずだ。
そして、その細い糸を手繰り寄せて必ずあのクソ野郎のもとへ辿り着く。クレイジーサイコホモ野郎のケツに鉛玉ぶち込んで、現実の証明を手に入れる。
――……何か、いま違和感がなかったか……?
「ねえ」
「……なんだ?」
「一つ聞いてもいいかな」
喉に魚の骨が引っ掛かったような気持ちの悪い感覚があったが、夢飼の沈んだ声を聞いた瞬間に消えてしまった。
「昔のあたしのこと、今でも、好き……?」
「え、いや。好きって……?」
「好きだったんでしょ? 見てればわかるよ。あたしを見る目が、どこか懐かしそうで、だけど寂しそうなのが」
抗議するような俺の声はしかし、重ねるようにして放たれた夢飼の言葉で止められた。
そして、そんな彼女の言葉に、俺は反論できなかった。彼女を特別扱いしなかったと言えば嘘になる。夢飼海奈という少女に、今まで出会った人たちとは異なる感情を向けているのは事実だろう。それが恋愛的なものかどうかはわからないが、他とは違うのは確実だ。
そして、その感情の根底にあるのが、あの『姉ちゃん』にあることも。
「だから、聞きたいの……幻冶くんは、今でも前のあたしのことが好き……? ここにいるあたしじゃない。十年前に約束した方のあたしは、好き……?」
こちらを真っ直ぐ見る瞳は、どこまでも純粋で綺麗だった。だけどそれでいて、なぜか悲しそうな瞳で……
「好きじゃねえよ」
対して、俺の言葉はあまりにもあっさりとしていた。
「昔は好きだったかもしれない。だけど、今は別に好きじゃない。……初恋ってやつだったのかもしれねえけどな。初めて自分を肯定してくれた女の子で、ずっと一緒に遊んでいた。あの子とのやり取りは楽しかったし、今でも大切な思い出だ。だけど、思い出は思い出。それを引きずったりはしていない」
「そう、なんだ……」
「意外そうな声だけどさ、そんなもんだって。だってここは、小説やゲームの世界じゃない。ずっと昔の思い出を引きずって、初恋を胸に抱いたまま操を立てるなんてことはない」
普通の定義が何なのかはわからないが、少なくとも俺は、会えるかどうかもわからない誰かと結ばれる日を夢見て、ずっとずっと他の人を好きにならないなんてことはありえない。恥ずかしいから絶対に言わないが、中学の頃なんて何回騙されてコロッといったかわからないしな。
「なんだよ、寂しいのか? 昔は自分のことが好きだったのに、今は違うのかー、みたいな?」
「ちっ、違う……! そんなんじゃないから!」
「大丈夫大丈夫、まだまだルートに入れる可能性は残ってる。頑張って攻略してくれよ」
「だからぁ! この自意識過剰のナルシスト! きもいっ! きもいっ!」
「何で二回言ったの?」
ポカポカ叩いてくる夢飼。それからも少し罵倒は続いた。君って結構酷いこと言うのね。
「それに、『姉ちゃん』と夢飼は別人だ。たとえ昔は同じ人だったとしても、今は違う。俺は今の夢飼がそれなりに好きだし、これからも一緒に馬鹿やりたいと思ってる」
「…………ほぇ?」
なんて声出してんだよ。
「えっと」
「だからまあ、別に気にするなよ。別に記憶を失ってても、昔とは全然違ってても、関係ない。俺は今の夢飼海奈の方が好きだから。昔よりも今を取るのは当然だろ」
「……う、ん」
「……? 何で離れるんだ???」
「いや、別に」
どうやら何かがお気に召さなかったらしく、顔を背けた夢飼が、そのままの姿勢で自分から狭めた距離を開けてしまった。何か気に障るようなことでもしたか? もしくは汗臭いとか?
「何してるのよ……」
スンスンと身に纏う改造ss軍服の匂いを嗅ぐ俺に、さっきのか細い声とは一転して、呆れ果てたような声音で話しかけてくる。
「別に臭いから離れたとか、そういうのじゃないから」
「ほんとに? 嘘じゃない???」
「まさか本当にそれを気にしてたなんて……」
疲れたようにため息を吐いた夢飼は、どこか哀れなものを見るような瞳で俺に視線を向けていた。これがリアルジト目か。良いものだなあ。
そんな風にして、楽しく、優しい時間が流れる。
――もっとも、その時間ももうすぐ、終わってしまうんだろう。
何となく、そんな確信があった。
「……なあ、夢飼。ちょっとついてきてもらっていいか?」
「え、まあうん。いいわよ」
ジンジャーエールを飲み干してテーブルの上に置くと、夢飼もまた同じようにドリンクを飲み干して近くのテーブルの上に置いた。飛浮に視線だけで店を出ることを告げ、ついでにかすみのことを見ているようにと(これも視線で)伝えると、板張りの床を歩き、騒ぐ未成年客たちの間を縫い、西部劇に出てくるような両開きの扉のある出口から外に出た。
☆ ☆ ☆
電球しか明かりのない地下街の広場を、後ろに夢飼を伴って歩いて行く。どいつもこいつもいろんな場所で酒を飲んでいた。いい年したおっさんが店員の女性に絡んでまあ……
「ねえ、どこ行くの?」
「別に。ぶらぶらしてるだけだよ」
「まさかいかがわしい所に連れて行く気じゃあ――」
「違うっての」
まさかこいつ、俺(の幻影)が胸を揉んだことをまだ根に持っているのか?
「いろいろ聞きたいことがあってな」
この辺りの光源は天井に設置されたランプの明かりだけ。この2050年代に凝った演出だが、こういうところも好きなんだよなあ。雰囲気が出てる。
雑多な声が入り混じる街を抜けると、少しずつ人気が減っていく。やがて街から外れ……やって来たのは、何の変哲もない地下水路。もとは下水だったが、地下街で生きる水質浄化だかなんだかの能力の夢奏者によって、飲めるほどにまで綺麗に整備された水が流れている。
辺りに人はいない。光源は地下街にあった風情あるランプではなく、古びた蛍光灯だ。
とはいえ、まあ――そんなことはどうでもいい。
「――……はあ」
何かに呆れ果てたような温度のないため息が口から漏れた。
心底どうでもいい。下らない、もういいだろう。
演技はやめよう。
本質を語ろう、真実に迫ろう。いい加減、こんな茶番も飽きた頃だろう?
嘘つきの本性を、晒す時が来てしまったらしい。
「くっ――だらねえ」
「えっ……?」
夢飼が不安がるほどに冷たい声が、喉の奥から漏れ出した。
「嘘をつくならもう少しまともにすればいいのにな。馬鹿みたいだ、まったく」
頭の中が冴えていく。うなじから熱が引いて行き、代わりに自分への怒りが湧いてきた。
これまでの全ての茶番に甘んじた自分を、殴りたい気分になってくる。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
きっと、今の夢飼には、俺が豹変したように見えるんだろうな。
だが、忘れてないか、お前。――俺は、嘘つきだぞ。
お前の前で見せる姿が、かすみや飛浮の前で見せる笑顔が、全て本物信じていたのか?
「――何でお前、『THE・Mazis』を女だって思ったんだ」
☆ ☆ ☆
さっき俺が抱いた違和感。自分の思考に、自分で疑問を抱いたあの時。
――クレイジーサイコホモ野郎のケツに鉛玉ぶち込んで、現実の証明を手に入れる。
「えっと、幻冶くん。なにを、言って……?」
「俺はさ。俺たちはさ、ずっとずっと、『THE・Mazis』を男だと仮定して話してた」
俺が奴を男だと思い込んでいた理由には様々な原因があった。徳院穿千が『おっさん』と称したこと。スマホから聞こえてきた音声が男のものだったこと。一人称が『僕』だったこと。
どれも『確定』にはあまりにもつたない要素だが、思い込みを生むには絶好の素材だ。
だからこそ、その差異が際立った。
どいつもこいつも、『THE・Mazis』をホモ認定して、粘質なゲーマーだと思い込んでいた中で、夢飼海奈だけはそうじゃなかった。
「『こんな兵器まで使うなんて……裏切られたら真っ先に刃物で追いかけそうな女よね』……お前は確か、こう言ったんだ」
「…………」
「もう一度聞くぞ。どうして敵を女だと思ったんだ? 別にお前がそうだと言ってるわけじゃない。ただの疑問だ。奴の刺客を倒した後だから流しかけたそれの、答え合わせをしたい」
「刺客……?」
「自分の差し向けたものじゃないから実感がないのか? 別口の脅威だったから、自分のことのように言われても困るのか。あの時もそうだったよな。ルンバが出てきた瞬間に、お前は大きく狼狽えた。徳院穿千が奇襲を仕掛けてきた時よりも、遥かに」
「――っ」
失言に気が付いたのだろうか、夢飼が表情を歪めた。それが、どうしてか真実のように……つまらなくて下らなくて冷たい自白のように思えて、胸をきつく締め付けられるような痛みを自覚する。それでも……止まらない。止まるわけにはいかない。
俺たちの、これからのためにも。
「ただの偶然なのかもしれない。だけど、もしかしたらお前って、実はそいつと繋がっているんじゃねえのか? もしくは、お前自身が――」
「あたしは、ちが、う……」
弱々しい否定だった。
今にも崩れ落ちてしまいそうなほどに、脆い城壁だった。あんなミスを犯すくらいだ。演技は上手くとも、嘘は下手なのだろう。つき続けることが、できないのだ。
「憶測でしょ? そんな確信はどこにもないはず。証拠なんて、何もないじゃない。全て状況証拠。あたしが黒幕と繋がる要素なんて、どこにも――」
「なあ夢飼」
なおも言葉を続けようとする夢飼に、ますます痛くなる胸を押さえながら、こう言っていた。
「もっと否定の仕方ってのが、あるだろう……?」
「――ッ」
自分が今どんな顔をしているのかわからない。酷い顔をしていることだけはわかる。
「なんで自分を疑うんだって怒れよ。どうして信じてくれないのって、涙を浮かべろよ! そうやって否定しろよ! 嘘が下手過ぎるんだよっ!」
「…………」
「違うなら違うなりの否定の仕方があるだろうが! こっちは証拠なんて何も掴んでないんだ! お前が黒幕なのかどうかなんて何もわからないんだよッ! 勝手な憶測でお前を悪者に仕立て上げようとしてるのに、どうして、どうして……ッ! 何でこんなしょうもないカマに掛かってんだ! クソ下らねえ、三流以下の誘導尋問に引っ掛かりやがって!」
おかしな点ならいくつもあった。彼女と約束云々の話ではない。『THE・Mazis』と事を構えることが決まったのは彼女と出会ってからすぐのことだった。徳院穿千が襲ってきたのだって、夢飼と出会った直後。夢飼が自分の夢奏である『海築』を使いこなせるようになるのが速すぎだ。覚えて数秒で実践運用できるなんてありえない。二回目のダイブ以降も俺たちと行動する意味は何だったのか。あの円盤型の巨大兵器に狼狽していた時のこと。そもそも彼女の存在自体が、俺の現実と夢という世界の境界線を曖昧にする最大の要因だった。
何もかもが怪しかった。一度その可能性に気付いてしまっては、もうどうすることもできなかった。知らんぷりはできなかった。何よりこれはゲームだったから。
夢飼海奈という少女が仕掛けてきた、ゲームだったのだから。
「なあ、正直に答えてくれ。夢飼……お前は俺の敵なのか? 今からお前をぶちのめさないといけないのか? それとも、違うのか……?」
いや、結局は。
俺にとってはそんなことすら、どうでもいいような気がする。
そうじゃない。そういうことではなく――
「どっちでもいいんだよ。なあ……俺たち、そういう敵とか味方の縛りとか関係なく、これからも楽しくこの街で遊べねえのかよ。ゲームとか勝負とか関係なくさ。全部取っ払って、ただのガキに戻れないのか……? 嘘をついてたことなんて別にいいから……だから、」
結局、俺はこの少女のことが好きなのだ。話しかければ笑ってくれて、かすみとも仲良くしてくれて、飛浮の凶暴性に忌避感を示さずに、俺の嘘を冗談として受け取ってくれた。
夢飼海奈と『冥界』を走り回るのが、大好きなのだ。
「そんな冷たくてつまらない嘘を、頼むからつくなよ……ッ」
今ならまだ、間に合う。全部なかったことにしろとは言わない。嘘をついたことを忘れて、間抜けな顔をして一緒にいてくれと、そんなみっともないことを頼むつもりはない。
ただ、ただ――
「やり直してくれよ。こんな形じゃなくて、もう一度初めから――」
甘い頼みなのだろう。ガキのわがままなのだろう。
それでも、やり直せると思うんだ。もう一度俺たちなら。
もう、これがただの早とちりだという可能性は消えてしまった。夢飼海奈が敵だったという事実は覆せないのだろう。
それでも、もう一度――
「ない」
そんな俺のみっともない懇願を、冷たい一言が切り捨てた。
「なっ……」
「それだけはできない。あたしの存在意義に懸けて。生れた意味に報いるために。あたしの全て、生存本能に懸けて、その甘く優しく、なにより魅力的な――その結末だけは認められない」
「ゆめ、かい……?」
俺の目の前で、膨大の量の海水が創造される。本気を出せば人間が五十人は収まりそうなほどの立方体は、やがて彼女の意思に呼応し、死にかけて暴れる蛇のようにのたうち回る。それはやがて銀髪の少女の周囲を守るかのように配置された。
「いつ?」
怜悧な瞳が俺を射抜く。ただし、感情がないわけでもない。憎悪や怨恨に似た負の感情も宿っていない。俺に対する親愛――つまり、夢飼の中で、俺の立ち位置は未だ変わっていない。
「どのタイミングで?」
「さっきだ。ついさっき」
いつもと変わらない声音で尋ねてくる夢飼に、俺は種明かしをしていく。
「『THE・Mazis』の……お前の居所を探ろうと思って、色々と考えてた時だ。あのデカイ兵器を『THE・Mazis』からの刺客だと思い込んでいたから、あれのどこにヒントがあったのかなって探してた。その時に、お前の認識だけが、俺たちとは違うことに気付いた」
「そっか。失言だったわ」
「ああ、大失言だよ。こんなダサい結末があるとは思えないくらいダサい」
実際、夢飼だってこんな形でばれるとは思っていなかったはずだ。
「確かに現実か夢かの区別は、『THE・Mazis』に辿り着けるかどうかが攻略への糸口だった。そのためのヒントを配置していく……そういうつもりだったんだけど、思いのほか早かったわね。少しヒントがお粗末過ぎたかも」
「なるほど、わざとだったわけか」
「ええ。発言には注意するべきだったわ。意外と人の記憶に引っ掛かってしまうのね」
後悔しているようには見えない。むしろ楽しんでいる。自分に否があったとはいえ、まさかこんなにも早い段階で辿り着かれるとは思っていなかったと。
その証拠に、神妙だった夢飼の顔つきが歪んだ。悪辣愉悦に、口元が三日月に裂けて、これより始まるラストゲームに心を躍らせている。
「答え合わせをしよう」
「うん。……これまでの作られたような絆に、悪意が介在していたのなら――」
「ああ、お前は本当に実在する。ここは本物だ」
「そう、本物。あなたは紛れもなく本当の世界で生きているわ」
……下らねえ。なにが夢と現のラストゲームだ。ふたを開ければクソゲーじゃねえか。
これまでの疑心暗鬼の全てが晴れる。かすみや飛浮はきちんと存在しているし、夢飼との出会いも嘘でも妄想でもなかった。
「ここ、共有夢たるハデスは確かに存在している。あなたもあたしも、この世界で生きる夢奏者であることに変わりはない」
「ああそうだ。そして、だからこそ――もう一つ聞きたいことがある」
右手を顔の横に掲げ、海水を自在に操りながら酷薄に笑う夢飼の――その未だにあたたかな瞳を見つめながら、俺は最も聞きたかった問いを投げた。
「――――俺とお前の全てだけは、全部嘘だったのか?」
その瞬間――夢飼の周囲で蠢く海水が、ぴたりと動きを止めた。
まるで、今この時だけは邪魔するなと、夢飼海奈が下僕たる蛇に命令したかのように。
小さな静寂だった。一瞬の沈黙だった。まるで永遠に続くかのような、そんな一瞬だった。
酷薄な笑みを消して、俯いて――そこまで長いわけでもない前髪で顔が隠れるようにして。
「…………ぁ、う」
「……今、なん、て……」
聞き返すまでもなく、何となく答えはわかっていた。それでもきちんとした形で聞きたかったから。空気の振動として。あやふやで曖昧でわかりにくい『想い』ではなく、人の心と心を繋ぐ『言葉』で知りたかったから。
だから、あえて問い返していた。
だけど。
「あたしに勝ったら、教えてやるッ! ――さあ始めましょう、嘘と真の最終遊戯をッッ!」
そして、始まってしまった。
人生最悪の夢奏戦が。
絶対に戦いたくない人との、命を懸けた殺し合いの幕が上がる。
☆ ☆ ☆
躊躇はしなかった。
迷いなんてどこにもなかった。
俺は左のホルスターから拳銃を抜き取り、軍服の裏ポケットから軍用ナイフを取り出すと、構えも取らず夢飼目がけて疾走を始めた。
コンクリの床を蹴った瞬間、景色が一変する。無機質な景色が無数の線となって背後へ流れ、代わりに夢飼海奈の姿がみるみるうちに近づいた。
「甘い」
音が遠く感じた。夢飼の周囲で漂っていた海水の大蛇が大口を開けて俺の全身を呑み込んだ。音速に近い速度が出ていたためだろう――全身の骨が折れて体が原形を留めなかった。
「――嘘だけど」
「知ってたよッ!」
その幻影が虚空へ溶けると同時、俺の姿が夢飼の左方数十センチの位置に現れる。
「それも幻影!」
「大当たり……っ」
ガァンッ! と火薬の炸裂音が響き渡ると同時、彼女の真上に像を結んだ俺の両手の拳銃から、鉛玉が空気を穿ちながら直進する。
対する夢飼は、音が鳴るとほぼ同時に水塊を操作。反射じみた反応で大質量の海水が弾丸を阻まんとしたが――僅かに遅い。紙一重で銃弾が水塊の横を通り過ぎ、夢飼の肩へ直進した。
「ッッ!」
咄嗟に身を硬直させた夢飼だったが――
「ぐぅぅううっ!」
実は真正面から突っ込んでいた本体の俺の右手が、深々と夢飼の腹に叩き込まれた。
体がくの字に折れたところで脇腹へ横蹴りを叩き込む――が、届か、ねえ……? いや、それどころか夢飼の姿が遠くへ……?
「なめ、てくれるわね……ッ、殺す気で来いってのッッ!」
ごぼん、とくぐもった音が腹から響くとともに、景色が凄まじい速度で前方へ流れて行った。俺自身が後方へ吹っ飛んでいると理解した時になり、腹に鈍い痛みが広がっていった。
凄まじい速度で地面に叩きつけられ、再度宙へ舞い上がる。
「ぐっ――」
「どうして拳銃で頭を撃ち抜かったの? あなたの前にいるのは『敵』だぞォォァァアアッッ!」
二度目のバウンドの際に両足と右手で着地すると、左手の拳銃を前方に向けた――が、なぜか視界が歪んでいた。脳震盪でも起きたのかと思ったが――違う、こいつは水だッ!
「――――……ッ」
迷うことなく引き金を絞り弾丸がぶっ飛ぶ。大気を穿ちながら音速を超えて飛翔する鉛玉が俺を食おうと大口を開けていた水の大蛇を弾く――が、当然その全てを散らすことなどできず、猛スピードで突き進む水塊が左の二の腕に激突した。
「ぎ、ィアア……ッ!」
肩が外れた。だらんと垂れ下がる左腕。しかし、俺の瞳が見つめるは夢飼――その右手後方。
叩きつけられた衝撃に逆らず、まるで身を任せるように反時計回りに旋回した。
「ッ――そこか!」
その狙いの全てに気付いたわけではないだろう。だが、確信をもって少女の右手が鞭のようにしなりながら後方へ――俺の視線の先へ放たれる。そして、俺の体を見事打ち据えた。
そして――全く逆の方向から、がら空きになった左のあばらに、完璧なフォームのボレーキックをお見舞いする。
「ぅあ……ッ、――きゃぁぁああああっ!? う、く、そぉ……!」
勢いのあまり通路から投げ出された夢飼は、水路に落ちて濡れるのを嫌がってか、ロケットの如く海水を壁に叩き付け、ホバークラフトの要領で対岸の通路まで飛んだ。
「それ……っ」
「ええ。かすみちゃんが乗ってたサーフボードみたいのから連想して……今思いついたの」
弾丸を一発放ってから水路に飛び込み、全速力で夢飼へと近づいていく。だが、足首まで水位があるため、どうしても歩みは遅くなってしまう。その隙を突くように放たれる海水製の弾幕を『虚霞』でやり過ごしながら、俺はこう叫んでいた。
「やっぱりお前の中でも、あの戦いは意味のあるものだったんじゃねえか!」
「ええ、そうよ! 意味ならあった! あったよッ、あったに決まってる!」
厄介なことに、夢飼の夢奏『海築』はただの物体創造型ではなく、創造した海水を操作できるらしい。現象発露型に現れる特性なのだが、『海築』にはその特性が備わっている。捨てない限り再利用が可能というわけだ。しかもこいつ、創造できる水量が相当ある。初めて俺たちの前で海水を創造した時は、実力をほんの一割も見せていなかったってわけか。
だが俺は、虚霞を駆使して夢飼の認識を騙し、欺き、偽って、翻弄することでやり過ごす。
「何もかもに意味があった! 全部が全部本物だった! 嘘なんてちっぽけなものよ! あなたの認識を狂わせた! ゲームを仕掛けた! ただそれだけよっ! 確かにここに来たのはあの時が初めてじゃない! 夢奏だってもっと昔に持ってた! ビギナーだったのは嘘だった! わざとあの場所で見つかるように立ち回った!」
さっきの幻影ではない、本物のナイフを投げつけながら近づき、さらに『虚霞』を使用して本来の俺からは分岐し、認識の外から奇襲を仕掛ける。
「でも、あなたと出会ってから楽しかったのは本当だった! 胸を揉まれるのだって予想してなくて本当に驚いた! こんなにいっぱい弄ばれるなんて思ってもなかった! 全部が全部初めてのことばかりで、本当に驚いてた! あなたに変な嘘つかれた時はすごくムカついたわよ! 迫真の演技に巻き込まれた時は利用されたのがわかってたのにドキドキしたよ! 一緒にあの巨大兵器に立ち向かった時だって、そうよ! そう……っ!」
キッ、とその瞳が幻影ではなく、姿が見えないはずの俺の方向を睨んだ。俺を探している様子はない。完全に捉えられている。確信をもって俺を睨んで……!? まずッ――、
「演技も嘘も全然ないッ! あたしは幻冶くんとこの『冥界』で冒険するのが、とても楽しかった! バイクに二人乗りして、二人で台詞を合わせた時だって、楽しかったわよバカぁー!」
その瞳に涙さえ滲ませて、それでも彼女は戻る気はないと、言葉ではなく力を持って告げた。
海水の塊が拳の形を取り、俺へと照準を合わせられる。一秒の迷いもなく、巨人の鉄拳が俺の胸を中心に全身を打ち据える。
「がッ……」
みしり、と嫌な音が体の中から響き――衝撃が爆発した。
凄まじい運動エネルギーにより進行の方向を強制的に変えられた。前から横へ。ベクトルが足し合わされて若干前方へ向かいながらも、全体的に見れば真横へ毬のようにぶっ飛ぶ。
「ァァァァァァアアアアアアアアアアアああああああああああああああッッ!?」
水路の壁に叩き付けられ、背中を中心に全身へと激痛が駆け抜けた。脳が痛みの信号に支配され、真っ白になる。透明な水路に血反吐を撒き散らし赤く染めると、全身から力が抜けた。水路の浅い水につかりながら、俺は夢飼の作り出した水の拳――の横にある、小さな楕円形の水に目を向ける。
「そ、れ……鏡、がわり、か……」
「ええそうよ。あなたがいつか却下した、海水の鏡。すごく悔しかったんだからね」
きれぎれの言葉で確信気味に問うと、夢飼は面白くなさそうにそう明かした。
「それも――あの時、あなたに却下された時も本当に悔しかったわよっ!」
言葉とともに放たれたのは、弾丸だった。フルオートの連続掃射が俺を追う。
「じゃあさ、何で……」
弾丸から逃げるように水路を駆け抜けると、夢飼もまた追いかけるように通路を走る。
「俺たちと一緒にいるのが楽しかったっていうなら、どうしてッ! なんで戻ってこないんだよッ? どうせゲームだったんだから、もう一度やり直せばいいだろうがっっ!」
「無理よッ! だって、だってこれがあたしの全てなんだから! あたしにとっては、これが全部、これが全てなのよぉっ!」
夢飼の叫びが響き渡ると同時、タァンッ! という凶暴な音が水路内に響き渡る。
「ぐ、ぅうああああ……っ!」
夢飼の右肩に風穴が空いた。銃弾と共に肉が千切れ飛び、それらが鮮やかな色彩を放ちながら不規則な三角形となって割れた。
「ぎ、ッ。……ッ、まだだッッ!」
だが、そんな気合の喝破をもって、銀髪の少女は壮絶な表情を張り付けたまま一歩踏み込み、水路に近づいた。背後に海水の鏡を創造して俺の幻影を消し飛ばすと、さらに一歩近づく。右腕に鎧の如く水の拳を纏わらせる。馬鹿正直に殴るわけじゃないだろう。おそらくロケットみてえに飛んでくるはず。
絶体絶命? ――いいや、否だ。
これを、この時を――こいつが水路に近づく瞬間を待っていた!
俺が右足を思い切り振り上げて淡水のしぶきをぶちまけるのと、夢飼のウォーターロケットパンチが俺の体を撃ちすえるのはほぼ同時だった。
どごんっ! と痛みが全身を伝播するも――しかし、さっきのように全身の骨がイカれたかのような激痛はない。吹っ飛ばされ、壁に背中を叩きつけられたが、やはり先ほどのような思考が飛ぶほどの衝撃には届かない。
それに比べ、相対する夢飼の変化は劇的だった。
「なっ、え、え……? まさか……、水、が……?」
無から有を創る物体創造型であり、被造物を操作する特性すらも持ち合わせている。それが夢飼海奈の『海築』の力だ。
だが――
「どうやら『本当の』水を浴びると、創造した海水が全部消えちまうらしいなあ」
夢飼が周囲に侍らせていた大量の水が、幻か何かだったかのように跡形もなく消失していた。
「どうして、それ、を……?」
戦いが始まって以降、最も驚愕した表情を張り付けたままそう問いを投げてくる。勝利すら確信していたのだろう。騙した時よりも、殴った時よりも、その動揺は激しいように見えた。
牙を奪われた獣、鰓を奪われた魚、火を奪われた人――今の夢飼はそんな存在だ。
そんな弱者へと――淘汰される者へと変じてしまった少女へと、俺はニヤニヤヘラヘラ、いつもの軽率でふざけ切った笑みを浮かべながら、種明かしをしてやる。
「海水って時点である程度弱点の予想はできたんだ。海水と淡水の間には大きな違いがある。その最たるものが生命環境。海で生きる魚は淡水では生きられないし、湖や川で生きる魚は海水に放たれれば死ぬ。海水を伴って生きるものは、淡水の中では生きられない」
むかし海で釣った魚を家のバケツで飼ったら何ともグロテスクな死体になっていたことを思い出しながら、全身を淡水と海水で濡らしたままで、さらに追い詰めるように言葉を重ねる。
「同じ水のように見えるけど、全く違う。だから、ヒントも伏線もなかったけど、簡単に推測できた。淡水が弱点の可能性があるってな」
もちろん、これはただの推測であり憶測だった。何の証拠もなければ、そもそも仮定としても成り立っていない。
だから、そもそもからして弱点を突いて勝つというビジョンは最初なかった。いつも通り、言葉と幻で彼女を騙し、嘘で搦めて狡からく勝利をもぎ取るはずだった。
「だけどさ、やっぱ少しでも可能性は増やしたいわけだ。夢奏戦において、相手の弱点を突くことはセオリーとすら言えるからな。……まして俺は、すでに弱点がお前にばれてたし」
「だから、水路を戦場に……」
「ああそうさ。もっとも、最初はお守り程度のつもりでしかなかったけど。あわよくば弱点だったらいいなって、その程度の認識だった」
受験本番の前に神社へ行って試験合格のご祈祷をするようなもの。藁にもすがる思いで小さな後押しが欲しかっただけだったのだ。
「だけど、お前は面白いまでに水路の水を避けてくれた。水質浄化の夢奏者によって綺麗な淡水に変わったってことを、俺が教えたからなあ」
蹴り飛ばして水路に落とそうとした時、彼女は大量の水を消費してでも対岸の通路へ渡った。その後、俺が水路に叩き落とされた後も、彼女はあくまで通路の上から攻撃を仕掛け続けた。何だったら、俺にあえて『虚霞』を利用させ奇襲を誘うことで、岸へ上げようとすらしていた。
「露骨だったな、相変わらず嘘が下手なようで微笑ましいよ」
「…………っ」
「今なら、遅くない。まだ何も起きていないことにできるぞ。……だからさ、なあ――戻って来てくれよ、夢飼海奈」
戦場の有利をもぎ取り、弱点を暴き出し、奇襲すらも自由自在。今の状況は、明らかに俺の方が有利だった。この状況から負けるビジョンは、正直見当たらない。
だけど、そんな圧倒的有利な立場に立ってなお、漏れ出したのは、こんな甘い嘆願だった。
「さんざん言ってただだろ。楽しかったって。四人で一緒にいるのは、悪くないって思ってたんだろ? だったら……」
「あたしにはね」
その情けない俺の言葉に被せるようにして、夢飼が口を開いた。
「記憶が、ないの。二年より前の記憶が」
「……どう、いう……?」
告げられたのは、関係ないように思えて――それでいて、絶対に聞き過ごせない言葉だった。
遠くのほうから聞こえてくる獣の唸るような音を無視して、夢飼はその先を続けた。
「どういう経緯だったのかなんてわからない。それより前に何をしていたのかだって覚えていない。ただ、気が付いた時にはこの世界のどこかでふらふら歩いてた」
ようやく。
ここに来てようやく、『姉ちゃん』と夢飼夢奈の共通項を見つけたような気がした。
十年前と、今が、繋がったような。
そんな気がする。
「言葉や生きるために必要なこと、知識なんかは覚えてた。なぜかわからないけど、ここの世界のことも。ただ、記憶や思い出が、何もなかった……あたしを形作るものが、なかったの」
それは何よりも辛く、苦しいことだろう。自分のことが何もわからないことに対する恐怖。それを俺は、この一日で、嫌というほど叩き込まれた。自分の見ているものが嘘なのかもしれないという疑念。何もかもが虚構かもしれないという不安。
目が覚めた時には何もかもが泡沫のように消え去って、時間が経てば残滓すら残さず忘却するのかもしれない。
その境目に立っているだけで。
虚実茫洋の境界線を彷徨っているだけでも、頭がおかしくなりそうなほど怖かったのだ。
記憶が何もない。自分を全く知らない。何一つ自己を形作るものを持っていない状態で目を覚ました夢飼の恐怖は、その比ではないだろう。想像することなんて到底できない。
「ただ、二つだけ……二つだけ、覚えてたことがあった。まるで頭に焼き付けられてるみたいに、思い浮かぶ景色と、目的があったの」
「…………ふた、つ?」
間抜けな声に、夢飼はふっと優しげに笑った。
やはり、あの『姉ちゃん』に似た笑顔で。
「ビーチで遊ぶあたしの姿。それと……げんやって子と、戦うこと」
「……それ、……って」
低く唸るような音は大きくなる。その音にかき消されるかのような小さな声が、水路に尻もちをつく俺の喉から漏れた。
「それ以外のことは覚えてなかった。でも、それだけは覚えてた。他のことは何も覚えてなくても……いつかのビーチと、幻冶くんとの約束のことだけは、覚えてたの」
ああ、約束した。あの姉ちゃんと俺は、確かに約束したんだ。
再会と遊びの約束を。
いつの日か、俺が大人になって、姉ちゃんが海の向こうから帰って来た時に、またあの時みたいに一緒に遊ぼうって。
「それだけが、道しるべだった。それだけが、生きる希望だった! 幻冶くん、君との再会と、何よりも楽しいゲームをすることだけが、あたしの全部だったのよ! あなたと戦うことだけがッ! あたしにとってはそれが全て! それが全部! だから、これを取り上げられたくないのっっ! たとえそっちの方が楽しくて幸せな道だったとしても、あたしのとっては、敵だとしても! 恨まれるとしても! あなたとぶつかる方が、いいっっ!」
夢飼海奈が俺に付いてこようとはしない理由。この少女が、死んでも曲げたくないと願う信念、矜持。そんなものの片鱗を見た気がした。
それは、歪で理解しがたいものだった。共感なんて全くできない。
だけど、なぜか納得はしていた。
そうか――と。
どうあっても、俺と一緒に来るよりも、俺の敵としてゲームを続けたいのだと。
「……俺のことを覚えてないってのは、嘘だったのか」
「そう、ね……でも、厳密には嘘じゃない。覚えてたのはビーチのことと約束のことだけ。思い出なんてなかったし、あなたがその人だっていう実感もなかったわ」
思い出したのがいつだったのかはわからない。いいや、もしかしたら今でも記憶も思い出も戻っていないのかもしれない。
実感なんてない。それでも、朧実幻冶という馬鹿な少年と遊ぶことだけは、楽しかったのだろう。
一緒に遊ぶのも面白かった。――でも、それ以上に、俺を困らせて不安がらせて、ちょっかいを出して……それを突破されることまで含めて、生きる実感となっていたのだろう。
苦労して考えた障害を突破されることの喜び。
頑張って作った難問を真剣に考えてもらう嬉しさ。
そういうものが、彼女の中にはあったのだろう。
よくわかる。それが嬉しいことは、嫌というほどわかってしまう。
自分の考えたものに、自分の作ったものに、誰かが真剣に取り組んでくれること。その喜びは、十年前に夢飼が教えてくれたことだから。
「それでも、覚えてたんだよな……あの日のこと。十年前の、こと……」
「覚えてたのかな? ……よくわからないけど」
それでも、彼女を形作るものが十年前の約束だとしたら。
俺と遊んだ日々や、別れ際の約束だけが彼女の意識を形作っていたのなら……
「お前の容姿が変わってないのは……」
そして、ようやく記憶喪失の原因がわかった気がした。
「あの時の思い出に、引っ張られているから……?」
『冥界』では自分の容姿をある程度は変えられる。俺の髪や服装が変わるのもそのせいだ。
もちろん、全く違う顔にするというのはアイデンティティや自意識の問題で無理なのだが、記憶を失っており、拠り所が十年前の自分にしかないのなら、かつての自分の姿に容姿が変わることもあるだろう。
それが正解だったのか――夢飼は少し悲しそうな笑顔を浮かべていた、
「だから……ごめん。あたしはどうしても、あなたとは一緒に行けない」
ここで全てを終わらせるために。決着をつけるために。
あるいは――生き残っても、これから先も戦い続けるために。
「そうか――」
彼女の願いは聞き届けた。
その想いも信念にも、理解を示した。
それが彼女のやりたいことだから。絶対に曲げられない生き方だから。
「わかった。それなら、もう止めない」
だけど――
「――嘘に決まってるだろ、そんなお行儀のいい結末なんてクソくらえだ」
そんな俺の一言とともに、背中を押された夢飼の体が水路へ落ちた。
「きゃっ」
可愛らしい声が水路内に響くと同時、彼女を見上げていた俺の幻影が空気に溶けるようにして消え、夢飼の後ろに、不満げに表情を歪める俺の姿が現れる。
何で俺がお前の願いだけ聞き届けなきゃならないんだ。
理解? 納得? できるか。
それがお前のやりたいことなら、俺だって俺のやり方を曲げない。
右手に握った拳銃から弾倉を抜き、手首の袖に隠していたホルスターから新しいものを取り出して再装填する。
「――――ッ」
淡水に身を濡らされているため何もできない夢飼が、暴力の前触れの音に肩を震わせるが、その銃口が彼女に向くことはなかった。
「選べ」
――我ながら卑怯なやり方だな。
遊底を引き、引き金に指を添えて、銃口は俺自身のこめかみに突きつけた。
たった数ミリ指が変に動けば、それだけで俺の脳漿が弾け飛び、同時に現実の俺の脳が死を受け入れて永遠にくやら実の底から起き上がることはない。
だが、恐怖はなかった。
銃を握る手が震えることも、全身が委縮して動かなくなるなんてことも、呼吸が荒くなることもなかった。
「お前がここから逃げるなら、トリガーを引いて俺は死ぬ。ついてくるなら銃を下ろす」
「なっ――そんな、そんなの!」
「残ればお前は、僅かながら可能性を残すことができる。俺と戦うという選択肢が、いつかは来るかもしれない。でも、逃げるならお前の生きる意味は永遠に失われるぞ。どうする?」
「ひっ、卑怯よ!」
ごうごう、ごうごう。獣の唸り声は近くづいてきているような気がした。それが何の音なのかはわからないが、別に今はどうでもいい。
「卑怯なのは百も承知だ」
「そういうことじゃない! 今のあなたが本物だなんていう証拠はどこにもないじゃない!」
「ああそうだな」
ヘラリと笑って俺は肯定する。
「引き金を引いても死なないで生きてる可能性がある……ッ」
「そうかもしれない」
またまた笑う。
「でも、でも……ッッ! そんなのどうやって判断すればいいのよ!」
「今の俺は本物だぜ?」
「――――ッ、う、……うぅううっ! このッ……嘘つき!」
「クッ、くく……」
嘲りさえ混ざった含み笑いを漏らしながら、引き金に添えた指を遊ばせる。
「ああ、ちなみに動くなよ? きちんと淡水に自分の足を付けておけ。一歩でも動けば俺の頭がぶっ飛ぶぞ」
「くっ、うぅ……! ――あ」
「お?」
そこで夢飼が、何かに気付いたように声を上げた。
「も、もしもあなたなら本物なら、死んだあとかすみちゃんはどうするの? あなたが死んだら、あの子は生きていけないわよ」
「金のことなら心配するなよ。経済援助なんていくらでも受けられるし、こう見えて『冥界』で稼いだ金で、私立の大学に通えるぐらいの金は溜めてる。心の問題については……まあ、少しどころか大いに心配だが、どっちにしろあいつもいつかは兄離れをしないといけないからな。まあ、かすみから兄を奪いたくないなら、逃げずに俺について来てくれよ」
「そんなの……!」
結局は、さっき夢飼自身が言った通りなんだ。
俺が本物か偽物かどうかなんて、こいつには判断できない。『虚霞』により見せられている幻影なのか、はたまた真実の俺が真の意味で自分の頭に銃を突き付けているのか。
だが、どれもこれも夢飼の自業自得だ。
「なあ、最初に行っただろう。嘘を吹っかける相手を間違えたんだよ、お前は」
お前は今惑わされている。目の前にいる俺が本物か偽物かわからない。真実なのか虚構なのか、嘘か真か――わからない。
嘘つきを相手にしたときの、本当の恐怖。
それは騙されることでも、真実を覆い隠されることでもない。それらは全て枝葉、本筋から分岐したおまけでしかない。
その中心を貫く主柱、根幹は――何が真実で何が虚構かわからなくなること。その境界線が曖昧になり、茫洋たるモザイクと化すこと。嘘と真が溶け合い、混じり合い、揺ぐこと。
夢飼海奈。お前は今、俺の術中にいる。網にかかった。搦めとった。もう逃げられない。
後はもう――真実を叩き付けるだけだ。
「夢飼、俺はお前と一緒にいたい」
「……っっ」
「お前が敵になるのが嫌だ」
「あ……っ、ぅ……」
「夢飼海奈と、俺は一緒にいたいんだよ。別に俺の敵にならなくたって、遊びの種類なんていくらでもある。対戦ゲームじゃなくても、協力プレイでやればいい。記憶を失った原因を探すでもいいし、次はみんなで海の向こうへ行くでもいい。何にしても――俺は、お前と一緒にいたいんだよ、夢飼」
その感情の源泉がどこにあるかなんてことはわからない。
「お前が楽しかったように……いや、お前が楽しかった以上に、俺は楽しかったらさ」
あるいはこれは、二度目の恋なのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。
俺が夢飼海奈に抱いている感情は複雑で乱雑で、どうにもまとまりのつかない得体の知れないものだから。
「自分でもよくわからないが、俺は夢飼と一緒にいるのが好きなんだ。だから一緒にいてくれ」
手を差し伸べるなんてことはしない。拳銃を下ろそうともしない。残念ながら、隙を見せたり嘘を明かしたりはまだしない。……もっとも、夢飼の前で拳銃を突き付けている俺の姿が、幻で作られた嘘だという証拠はどこにもないんだがな。
「こんなの、ずるい」
「知らないな」
「だって、拒めば引き金を引くんでしょ?」
「ああ。引く。絶対に引く」
「あたしには、目の前にいる幻冶くんが本物かどうかなんてわからないんでしょ?」
「そうだな。夢奏で鏡を創ったとしても、その頃には俺の頭は弾けたザクロになってるだろ」
「じゃあ、もう選択肢なんてないじゃない……ッ!」
「そうだ。だから言っただろ――嘘を吹っかける相手を間違えたんだよ、夢飼海奈」
ごうごう、ごうごう。
低い獣の唸り声が大きく、そして近づいてくる。
「だから戻って来い、夢飼。別に敵じゃなくても、いつでも相手にくらいにはなるから」
別に敵として対立するだけが対戦ゲームではないだろうし。遊ぶだけなら、戦わなくてもいいだろう?
「…………っ」
俺の最後の提案に、夢飼は俯いたまま言葉を発さない。迷っているのだろう、どうするべきかわからなくて、困惑しているのだろう。
俺は俺の言いたいことを言い終えた。だから、後は待つだけだった。
ごうごう、ごうごう。
低い唸り声はさらに大きくなる。近づいてくる。
それにしても、この音はいったいなんだ?
「幻冶くん」
疑問を覚えた俺の耳に、夢飼の声が滑り込んでくる。
「それでもあたしは、やっぱり、本気で幻冶くんと遊びたい。だって、あたしは――」
夢飼の言葉よりも先に、湧き上がる疑念と不安に捕らわれ、心身がまともに機能しない。
これは獣の唸り声じゃない。反響しより大きくなる音には、何かが弾けるような。水がしぶきを上げているかのような――ッ、
「まさか、これ――お前、まさか嵌めて……ッ!?」
「あたしは――朧実幻冶くん、あたしはあなたと出会って、恋を知ったの。
そして、あなたの一番になりたいと思った。
敵でもいいから、あなたの一番に」
「あ……え?」
頭の中が真っ白になった。
指先一本動かすことができなかった。
答えを前に引き金を引くこともできなければ、彼女に手を差し伸べることさえできなかった。
ただ、夢飼海奈という少女は。
俺の初恋を奪い、再会してからも、俺の心を色んな意味で乱し、ざわつかせ、いいように操ってくれた女の子は。
「あたしは敵でいい。幻冶くんの一番なら。たとえ敵でも、あなたの一番になれるなら――」
最後にそう笑った。
目じりに涙を浮かべて、
これからも俺の敵であれることが、心の底から幸せだとでも言うかのように。
「でも、お母さんの願いは聞いてあげてね? ――大好きです、愛してます」
「なっ、おい――っ」
直後に、世界を噛み砕く魔獣の如き濁流に呑まれて、俺の前から姿を消した。
一瞬のことで、言葉を返すこともできなかった。
ただ、その幸せそうな笑顔が呑み込まれる瞬間を見送ることしか。
「……、ばかやろう……っ」
やがて氾濫した川のような鉄砲水も収まった。
後には、呆けたように立ち尽くす、愚かな嘘つきしかいなかった。