第一章 冥界《ハデス》、ときどき現実《リアル》
嘘とはこの世で最も便利なコミュニケーションツールである。
嘘は冗談にもなれば救いの言葉にもなるし、自身を守り隠す鎧にもなる。
いやまあ、所詮は嘘なのでそんな高尚なものでもないし、哲学的なものでもないんだけどな。
こんなくだらないことを考えているのは、つい今しがた今日のノルマのラノベを読み終えたからだ。やはりオタクたるもの、一日一冊ラノベ道である。知らないけど。
「ねえねえ、今日はどうするー? カラオケ行かなーい?」
「行く行く! あ、男子も誘おうよ!」
「うおー! 俺らも行くべ!」
教室に残っているのは俺だけではなく、クラスのトップカーストの数人のグループが、教室の後ろのほうで今日の予定を仲睦まじく議論していた。
どうして彼らはすぐにカラオケに行こうとするのだろうか。ウェイのことだからどうせ個室に入ってズッコンバッコンするんだろうが、それならそれで誰にも聞かれないようにしろ。羨ましいだろ。羨ましくない。嘘だ、ちょっと羨ましい。
あと少しだからと、ホームルームが終わってからもラノベを読んでいたのが良くなかったのか。今日読みたかった分を読めたのは僥倖だったが、乱交の予定をこれ見よがしにされたのはさすがにきつい。まあ別に彼らが乱交するとは全く思ってないんだけどな。
ラノベを閉じてカバンに入れ、帰宅するかどうか思案する。
「…………」
さて、どうしようか。本来なら帰宅一択だ。俺は部活に入っていないし、放課後デートの約束もない。いつもはあるんだが、今日はない。……いつもなかったな。
そうではなく、だ。
俺の後ろには天敵がいる。彼らは人のことを考えていないようでいて、実は優しい。だから、自分たち以外で教室に残っていた俺に気が付けば、確実に「あ、朧実くんじゃん? 一人だけ残ってどうしたん?」と笑顔で質問されるだろう。
そこに嘲笑の意図がないことは理解している。だが、さすがに「ラノベに熱中してたから」と答えるのは気が引ける。いや、別にラノベを読んでることが恥ずかしいとかではないんだ。その後に来るであろう「ラノベ? なんかエロい本だっけ!」って質問が嫌なのだ。
彼らからすれば、そこに悪意はない。だからこそ、彼らが別に嫌いなわけではないが、苦手に思ってしまう。つかラノベ別にエロくねえよ。エロいのもあるけど。エロい方が好きだけど。
ということで、今帰るのは却下。ならばどうする?
決まっている。
ひと眠りして、俺のホームグランドでもあるあの『世界』――冥界で軽く遊ぶとしますか。
そんなわけで。
俺は寝た。
☆ ☆ ☆
生体調整ナノマシン『盧生』――作動。
電磁バルスを振動波に変換――完了。
脳波の波長を『冥界』の波長と同調――成功。
――――これより『冥界』への侵入を開始します。
☆ ☆ ☆
血液中を赤血球や白血球と共に動き回る生体調整ナノマシンによって脳波を調整され強制的に睡眠状態に落ちた俺は、ふと意識が浮上した時には、すでにこの荒廃的な世界に落ちてきた。
意識が覚醒する。
ダサい制服が消え去って、今の俺はところどころに改造を施したss軍服を纏っていた。髪はモブっぽい黒色から純白へと変化する。目の前に広がる光景も、先ほどまでの退屈なデザインの教室とは全く違う、ゴーストタウンのように廃れた景色が俺の目の前には広がっていた。
壁や床、天井までを掴んで離さぬ大量の長い蔦。それらは机や椅子をも侵食しており、俺の席すら例外じゃない。外を見ようとしても、こちらも大量の蔦に捕まっているため十分な視界を確保できない。見える範囲から見ても、校舎はほとんど蔦で覆われている。蔦、蔦、蔦。とにかく蔦。人間が絶滅して二千年くらい経ったらこんな感じになるのかもしれないな。
照明はついていない。というか壊れている。廊下へ出ても蔦。とにかく校舎の中は植物に支配されている。そのうち食人植物が横から飛び出してきて、俺を丸呑みにするかもしれない。そうなればお陀仏だ。この世界の食人植物となると、冗談抜きで殺傷兵器だろうし。
廊下の窓からは学校の外の景色が一望できた。その景色は、歴史の教科書で見た2000年代初期の光景とは様々な意味で異なっていた。
2050年現在、都市開発によってうちの地元もそれなりには都会になった。高層ビルの数はまだ少ないが、公共交通機関はほとんどリニア式だ。電車だけじゃない、バスもだ。さすがに一家に一台リニア式とまではいかないが。電光掲示板は消え失せ、代わりに大気中水分を凝縮させることで何もない空間に映像を投射する『大気スクリーン』の映像が街に溢れるようになった。他にも、半世紀で時間跳躍と巨大ロボット以外のほとんどの技術が形を得た。
ただし――そんなSFじみた街の景観はどこにもない。ここにあるのは荒廃した死の街。ビルは壁がぶっ壊れて中が見えているし、地面には大量の瓦礫がある。近所の世界遺産の寺や神社は罰当たりにも倒壊していた。
だが、そんな死の街にも人間の名残はある。
例えば、俺の視界の向こうにある方針が十メートルはありそうな馬鹿デケエ大砲と、それを操るどう見ても日本人には見えない金髪のが体のいいおっさんとか。
つか、あれ……? なんかめっちゃ照準合わされてないか俺?
「あー……まさか」
チカッ、と砲口内で何かが瞬くのと、俺が両手で目を押さえて横に飛んだのは同時だった。
直後。
先ほどまで俺の立っている場所がごっそり消え去った。
「ダイブ早々プラズマ砲で砲撃はないだろうがっ」
冷や汗をだらだら流しながらも何とか強がってみせる俺。そんな俺の背中にさらなる衝撃。つまりはプラズマ砲の余波として爆風が吹き荒んだのだ。背中に殴られたかのような衝撃が走り、えずきながらさらに前へ転がっていく。
「づ……ッ! ってェなおい……ってうおわッ?」
苛立ちを隠しもしない声を出しながら顔を上げると、サッカーボールほどはある瓦礫が顔面目がけて飛んできていた。プラズマ砲に破壊されてから爆風に運ばれたのか。反射的に顔を下げて避けた先――瓦礫がぶつかった壁には、砲撃されたかのようにごっそりと穴が空いていた。
「二次災害でも砲撃級か……?」
呆れたような声を出して余裕ぶってはいるが、実はかなりやばい状況だ。どれくらいやばいかと言うと、このままここで這いつくばったままだと、砲撃準備が済み次第俺は塵となる。
夢だから死んでも目が覚めるだけだなんて甘い話はない。
この『冥界』で死をもたらされた場合、脳は死を認めてしまい、心が死ぬ。一生起き上がれない植物人間になるのだ。つまり、今俺は生死の境を彷徨っていることになる。
……何はともあれ、ひとまず行動だ。爆風も瓦礫の砲弾も収まったので行動は可能。ならまずやることはここから逃げること。教室の中で居眠りしてたら植物人間になってました、なんて有史以来最も間抜けな死に方を晒すのはごめんだからな。
そして、逃げているだけでも駄目だろう。
見たところ奴は軍隊所属。着ている服から見てドイツ系かな? ss軍服着てる日本人を見てキレたか? 俺は死ぬほど好きだから着てるだけなのに。まあ嘘だけど。死ぬほどではない。
窓から身体が見えないよう、屈みながら全速力で廊下を駆け抜ける。階段を三段飛ばしで駆け下り、一気に一階へ。外へ出て柱の陰に隠れて息を整える。そこでようやく準備が完了したのだろう。一階と二階を繋ぐ階段の中ほどが光に呑み込まれて消失した。
おっかねぇー……あれ少し遅れてたら死んでたぞ?
とはいえ、これで俺は優位に立った。目算だが、ここからプラズマ砲を打ってくる絶倫外人兵士までの距離はおおよそ二キロ。少し遠いが、まあ何とかなるだろう。この世界の俺には地味に筋肉があるのだ。現実でもそれなりにマッチョだしな。嘘だけど。普通にもやしだったわ。
「まあ勝てるな。一発目で仕留められなかったあんたの負けだぜ、絶倫」
最悪なあだ名を名前も知らないおっさんに付けてしまったが、別にいいだろう。あっちもどうせ俺のことをオタクだとか根暗だとか陰キャだとか呼んでるんだから。……腹立ってきたな。
敵に捕捉されていないというアドバンテージを生かして、ドイツ軍絶倫をぶっ飛ばす――そのための現実的な策を立てていたその時だった。
パンッ、パパパン! パンッ! という乾いた発砲音が連続した。
伏兵? 撃たれたか? だが痛みはない。衝撃もなかった。なら別口の戦闘か。
改めて息を殺しながら柱の陰に身を潜める。距離は近かい。おそらく校舎内だろう。
じっと気配を消し、近くに落ちていた鏡の破片を使って外の様子を調べる。
「……だれだ?」
どうやら、複数の軍人に何者かが追いかけられているようだった。追いかけているのは服装からして日本軍だろう。見慣れた複数の迷彩服が、アサルトライフルを構えながら隊列も何もめちゃくちゃにしながら走っていた。それにしても、高校の中で軍人がアサルトライフルもって誰かを追いかけてるのはシュールで笑えるな。VRゲーならスクショ取ってたわ。
そんな話はどうでもいいか。……とにかく、(おそらく)俺と同類の馬鹿が日本軍に喧嘩を売って、あっちはあっちで追われているのだろう。
「……っ」
助ける義理はないが、放っておくのも後味が悪い。ビギナーだった場合、遠からず捕まって殺されるだろう。誰かが軍隊をおちょくっているだけならいいんだが、トラブルに巻き込まれている場合は助けに入るべきだ。せっかくの楽しい世界で後味が悪いのはごめんだ。
というわけで、予定変更。まずは逃げ回ってるどこかの馬鹿を助けることにする。
しかし無暗に出るわけにもいかない。
社会的には存在しない部署とはいえど、彼らは国のオーダーで正式にこの『冥界』にダイブしている。対して俺は、偶然ここの存在を知った、いわば不法侵入者。俺だって奴らにとっての敵でもあるのだ。よって、助けるにしても先手必勝。奇襲を仕掛けて混乱のうちに勝ちたい。
「さて、どうするかね」
まったく、このスリルがたまんねえんだよなあ。一歩間違えれば教室の中で植物状態だぞ。
その時だった。けたたましい轟音とともに、少し離れたところをプラズマ砲の閃光が走り抜けた。瞬間、何者かを追いかけていた兵士たちの注意もそちらへ向く。――今だ。
俺は兵士たちの後ろを、音を立てずに最大速度で走り抜ける。気取られず、そして速く。
こいつは貸し一つだから、誰かさん。
そう伝えようと、視線を向けた。
その、瞬間――
「――――っ」
驚愕に息が詰まった。
声を上げることだけは、辛うじてしなかった。
ただ、それでも俺の胸中は驚愕で埋め尽くされる。馬鹿な、ありえない。でも、だけど――
件の逃亡者と視線が交わる。驚愕する俺に比べて、相手の〝少女〟は訝しげな表情で見てくるだけだった。
その一本一本が光を反射しているかのような美しい銀髪は、肩のあたりで切り揃えられていた。いわゆるボブカットというやつだ。服装は白いVネックシャツの上からピンクのスカジャンとうラフな感じ。Vネックシャツを着ているせいで、目算Fカップはありそうな二つの果実の谷間が惜しげもなく晒されていた。丈が短いデザインなのか、おへそもまるだしだ。下は赤いミニスカートで、ふとももがほぼ全て露出されている。少し動いたら下着が見えそうだ。
ただ、そんな少女の完璧と言っていい容姿なんざ、どうでもいい。
重要なのはそこではない。
俺は知っている。彼女を、この女の子を知っている。十年前、妹が生まれる少し前に、家の近くの浜辺でよく遊んだ十歳年上の『姉ちゃん』。あの日、外に出るのが、海の向こうへ行くのが怖いと言った思い出の少女が、今目の前にいる。俺と視線を交わしている。
疑問はある。どうしてここにいるのか、何をしているのか、なぜ歳を取っていないのか、そもそもそのビッチくさい格好は何なのか――とか、まあいろいろ。
だが、今は。
「――――ッ!」
雷が落ちたかのようだった。俺の中で、奇襲から闘争へ回路が変わる。
難しいことは後だ、今は――――あの馬鹿な『姉ちゃん』を助けるのが先だッ。
「――『虚霞』」
気づかれないように呟いた直後だった。
俺の気質が――嘘つきという性分が、確かな現象としてこの『冥界』に現出した。
夢奏と呼ばれる、この夢の世界で扱うことのできる固有能力のようなもの。能力の内容は個人の性格を反映し、具象化して現象としたものだ。火のように苛烈な奴だったら炎を纏う力、氷のように冷たい奴なら氷を創造する力、風のように自由な奴なら風を操る力、という風に。
では、俺は?
わかるだろう、俺は嘘つき。つまりは、相手を騙す力だ。
「眠れ」
音も気配も何もなかったのだろう。俺の延髄蹴りが兵士の一人の側頭部を強襲した。後ろからの一撃に、なすすべもなくそいつは倒れる。
「なっ――!」
遅い。
数は今ぶっ倒した奴も含めて七人か。イージーだな。
間抜けな声を上げた男の鼻っ柱に肘鉄をぶち込み、さらに顎につま先を突き刺してジ・エンド。百戦錬磨の兵隊さんも、人体の急所を突かれれば簡単に落ちる。
「えっ、えっ? っ、どういう、」
俺の知っている姉ちゃんと瓜二つな――それでいて、どこか雰囲気が違う少女が困惑したような声を上げているが、そちらに構っている暇はない。奇襲から立ち直り始めている残り五人の兵士うち一人が、すでにアサルトライフルを構えて俺に照準を合わせているからだ。
当たるとまずい。死ぬことそのものもそうなのだが、この夢の世界には、脳が直接リンクしているため、存在しない架空の痛みを感じてしまうからだ。
「――――ッ」
回避行動を取る。しかし、遅かった。
残る四人の兵士が射線から逃れた直後。
苛烈な音が暴力的なまでに連続炸裂し、俺の体に馬鹿みたいな数の穴が空いた。体の一部が千切れ飛び、肢体がゆっくりと倒れていく。
「ちっ、手こずらせやがって。また迷い込んできたガキか。恨むなら自分をウぼふぁごァッ!?」
俺を撃った兵士が得意げに何かを言いかけたところで、その股間に特大の蹴りをぶち込んでやった。間抜けな悲鳴を上げた兵士が泡を吹きながら倒れるのを確認すると、次の兵士へ。
「なっ、なにが――?」
「今そこで倒れて!」
小物くさい台詞を吐く二人の骨を折って順繰りに昏倒させ、残りは二人。
俺は腰の左右のホルスターから拳銃を抜き、それぞれの銃口を一人ずつに向ける。右手に握っているのが暗殺用特殊部隊で使用される『Mk.22』で、左手に握っているのが映画などよく登場する『ベレッタM92』だ。どちらも当然サプレッサー装備。色は前者が黒で後者がメタル。
くぐもった音が銃口から放たれ、ライフルを構えようとしていた兵士たちの膝に命中する。激痛に呻き声を上げて倒れかけたところへ、顔面に蹴りを一発ずつ入れてノックアウト。しばらく周囲に注意を巡らすも、狙撃や伏兵の気配がないことの確認を終える。
ビビっていたわりにはあっけない勝利だった。
☆ ☆ ☆
「ふぅーっ」
軽く息を吐いて呼吸を整える。夢の世界であり、『夢奏』なんていう超能力みたいなもんまである世界だが、基本は科学が根底にある。走れば当たり前に疲れるし、殴れば拳も痛いもんだ。
「えっと、あの……」
遠慮がちな声が近くから聞こえてくる。突然の事態に状況を呑み込めず、その場で立ち尽くして間抜けな声を足掻えるしかできないのだろう。
思い出にいる『姉ちゃん』と瓜二つの少女に向き直って、俺はひとまず声をかけた。
「大丈夫か?」
「えっと、まあ。大丈夫だけど、あなたは?」
……目が合った反応で何となく察していたが、やっぱり俺のことは覚えていないか。そもそもからして、十年前から見た目が変わっていないのだ。何かしら事情があったんだろうが……それでも少し堪えた。彼女は忘れてしまったとしても、俺にとっては大切な思い出だったから。
「俺は朧実幻冶。十六歳高2だ。あんたは?」
「……げんや、くん……」
何か、少し不思議そうに俺の名前を口にしたようだったが、すぐに我に返った。
「あっ。ごめんね、あたしも自己紹介しないと。あたしは夢飼海奈。同じく高校二年生よ。助けてくれて、ありがとう」
少し照れくさそうにして礼を言う夢飼は、お世辞抜きで可愛かった。
ただ、話し方も記憶にある少女とは少し違う気がするんだよなあ。まあ覚えていないのなら仕方ないか。ぐちぐちとどうして俺のことを覚えていないのか、とかそんなことを言うつもりはない。覚えていないなら覚えていないで、ひとまず新しく関係を作り直せばいいだろう。
「何であたしを助けてくれたの? ていうか、あの人たち何? 何であたし追いかけられてきたの? そもそもここどこっっ?」
……助けたは良いが、どうやら何も分かっていないビギナーらしく、質問攻めにされた。めんどくさいな。いや、まあ別にめんどくさくないけど。可愛いから許した。
「ああー、それなんだけどな。色々と聞きたいことあるだろうけど、ちょっと待っててもらっていいか? やることがあるんだ」
とはいえ、初志を忘れてはならない。夢飼との再会で有耶無耶になりかけていたが、そもそも俺がどういう指針で行動していたのかを思い出そう。つまりは――
「ちょっと外国人の絶倫をぶっ飛ばしてくる」
同時、少し離れたところを閃光が駆け抜けた。
☆ ☆ ☆
「うぅうううう! ううううー!」
「わ、悪かったって。そんなに顔真っ赤にして怒るなよ。そんなに絶倫って単語が嫌だったか?」
「だからそんな風にその言葉を連呼するんじゃない! セクハラ!」
プラズマ絶倫をぶっ飛ばし終えた俺は、戻るなり顔を赤く染めた夢飼に、なぜか怒られた。
「いや、でもまさか『絶倫』って単語ごときでそんなに怒るとは思ってなかったんだよ。『絶倫』ぐらい女子高生なら知ってる単語だろうし、あんただって『絶倫』好きだろ?」
「あなたわざとやってるでしょう!? 楽しんでるわねセクハラ野郎! つぅーか別に絶倫好きじゃないし!」
「あ、今絶倫って言った」
「きぃいいいいいいいー! もう嫌い! 大っ嫌い!」
「……悪かったって。本当に申し訳ないと思ってる。ごめん。もう言わない」
「…………っ、まあいいわ」
「それでさっき絶倫って口にした件だけどさ、やっぱり好きなの?」
「嘘つきぃいい――――――――ッッッ!」
顔を真っ赤にして怒った夢飼がグーで俺の顔面を殴った。しかし――
「あれっ? おわ、あ、うわっ!」
しっかりと俺の顔面を捕えたはずなのに、まるで空を切ってしまったかのように体重が前へ傾き、バランスを崩してしまった。何とか転ばずに済んだが、納得のいっていない表情でこちらを見る。
すると――
「あ、え……? きゃあああああああああ!? 朧実くんの顔がなくなってるぅー!?」
殴られた箇所に穴が空き、俺の顔面は半分ほどなくなっていた。
「ぐ、ぅおおお……痛い、いってえ……! クソ、クソゥ……! こんな、こんな仕打ちってねえよ……!」
「あ、あっ、あわわわわわ! ご、ごめん。あたしどうしたらっ」
涙目になっておろおろする夢飼。もう少し遊びたい気持ちがあるが、少し可哀想になってきたので種明かしすることにした。
「なぁーんてな。嘘だ。それは俺の『虚霞』の能力だよ」
ぶわっ、と風に吹かれて消える蝋燭の火のように、顔面半分の俺の虚像が空気に溶けた。本来の俺……というか本体は、彼女の真後ろの壁に寄りかかっている。
「あれ、あれ? あれれ???」
「まあこの辺も後で説明する。それはそれとして、あんたはビギナー……ここにダイブしてきたのは初めてなんだよな」
「ダイブ??? うーん、突然ここにいたっていうか、とにかくこんなところは初めてだよ」
「そうか、わかった。なら、基本的なことをいろいろと教えるよ。ただ、どうするかな……」
どこか落ち着ける場所を探すため、思考を開始したその直後のことだった。
「お兄ちゃーん! もう潜ってたのー!」
横合いから声をかけられるとともに、がばりと首に抱き着かれた。女の子のいい匂いが広がる。しまいにはすりすりと愛おしげに頬ずりまでされる始末だった。
「むぉおおー! お兄ちゃんは今日もいい匂いいい肌触りで、かすみは今日も濡れてしまう!」
「お前小4でいつそんな言葉知ったんだ、教えた人をお兄ちゃんに教えなさい」
「えっ? お兄ちゃんを篭絡するために教材として読んでるロリ物のエロ漫画だけど?」
「明日ショップに行って携帯解約するかネット使えなくするからなマセガキ」
などと馬鹿なやり取りをしているのは、俺の妹である朧実かすみだ。この通り最悪のブラコンで、なんかもうラノベに出てくる妹キャラみたいな奴だ。俺は確かに妹キャラは大好きだが、さすがに実妹に手を上げる気はないのでなにげに困っていたりする。
腰まで伸びる長い髪の本来の色は黒なのだが、ここ『冥界』では空のようにも海のようにも見える水色だった。シンプルなデザインの黒色のワンピースのせいで、小学生の癖に微妙に色気を感じさせる仕様になっている。あどけなさが残る顔だって、なぜか年齢以上の匂いのようなものを漂わせている。我が妹ながらとても可愛い。変な男に捕まらないように守らないと。
そして、さらにもう一人、ここへやってくる者がいた。
「ハハハッ、今日もモテモテだなァ朧実。しかもよく見れば、実妹に加えて今日はおニューのミーツヒロインまで侍らせてるときやがる。羨ましい限りだぜまったく」
「黙ってろよ彼女持ちのウェイ野郎。サッカー部はどうしたんだよ、飛浮」
軽口を叩き合いながらも、俺はやって来た馬鹿と拳を突き合わせるいつものあいさつをする。
「あ? かすみちゃんから『お兄ちゃんが寝てるのでわたしはハデスに行きますが、飛浮さんはどうしますか?』ってチャット来たから俺も潜ったんだよ。つーか勝手に一人で入ってんじゃねェよ。ったく、朝っぱらから呼び出しやがってよォ」
逆立った真っ赤な髪とサングラス、何よりも好戦的な笑みが特徴的なイケメン野郎だった。もっとも、身に纏う明治軍服とか、腰に佩いた二本の軍刀、そして背中に時計の針のように背負う五本の軍刀もなかなかに視覚的なインパクトが強い。
飛浮刀磨、十六歳。俺と同い年の、俺とは対極にいるような人間だ。つまりはウェイ。しかも彼女持ちで、サッカー部の次期エース候補らしい。うーん、まじでこいつ死なねえかな。一回でいいから一緒に戦ってる最中に後ろから拳銃ぶち込んで殺したい。まあ嘘だけど。
「えっと……っ」
「ああ、悪い。紹介が遅れたな。こっちが俺の妹の朧実かすみ。そんでこっちのウェイが飛浮刀磨。モブだ」
「誰がモブだよ。あ、てかさ」
「なんだよ」
めんどくさいアピールを欠片も隠さない俺の返答に、しかし飛浮はとびっきりの笑顔を浮かべたのち、耳元に口を寄せて女二人には聞こえないような小さな声でこんなことを言った。
「この前めっっっっちゃ気持ちいい五感フルダイブエロアプリ見つけたんだけど……いる?」
「……後で詳しく話を聞くわ」
「くくく……テメエにはバーチャルエロアプリの存在を教えてもらったからなァ」
「やっぱ持つべきものは同志か。あとでURL送っていてぇぇえええ!?」
「お兄ちゃーん? 何なのかなそのアプリは? あとで端末全部見せてね? 変なものあったら全部消すから」
「待て妹よ、駄目だそれだけは、それは俺の生きがいであって!」
「気持ちいいことならわたしがやってあげるね、お兄ちゃん☆」
「…………終わった」
踵で足の甲を踏まれたうえに俺の秘蔵コレクションの数々が奪われようとしていた。まあこんなこと言ってるが、ノートPCにバックアップ取ってるし、何だったら飛浮にまた改めてアプリを送ってもらえばいいんだけどな。残念だったなら妹よ、モラルハザードはまだまだ遠い。
「…………さいてー」
だが、そんな一言が俺の胸を大きく抉った。え、今なんて言った? あの子、あの思い出の姉ちゃんの顔を、極限まで侮蔑の色に染めて「さいてー」って底冷えする声で言わなかったか?
「……まじできもい」
「……そうだ、そういえばお前らにこの子を紹介するの忘れてたな」
「えぇ!? お兄ちゃん、今のこの流れで知人紹介に持って行くのッ? す、すごい……」
「ああ、こんなメンタルの持ち主、こいつ以外にはいねェぜ」
「……あなた、本当にある意味で凄いね。ちょっと大物に思えてきたよ……」
お褒めに預かり光栄だよ、こうでもして話題をぶった切らねえと俺の株が大暴落するからな。つかこれ、まさか飛浮の策略じゃねえだろうな? 許せねえぞまじで。
「それで? この子は何なの? テメエのお嫁さん?」
「ああ、そうだ。付き合って二年でそろそろ結婚を考えてる」
「息を吐くように嘘をつくな!」
夢飼のグーパンを首を振って避ける。
「お兄ちゃん……? ついていい嘘と駄目な嘘の区別くらい、ついてるよね……?」
「はい、嘘です。すみません」
妹の絶対零度の視線に晒されて命の危険を感じると、俺はすぐさま訂正した。
「あなた……まさか妹に尻に敷かれてるの? というか、まさかあの妹さんブラコン?」
「見たらわかるだろ、ブラコンもブラコンだ。てかあんた、尻は言えるんだな」
「ッ! ~~~ッッ!」
ぶんぶん拳が飛んでくる。危ないので全て避けた。
「避けるな!」
話が逸れまくったので無視して元に戻す。まあ話が逸れるのは俺の虚言癖が原因なんだけど。
「この子は夢飼海奈。さっきそこで助けたビギナーの子だ。初ダイブで、しかもダイブした時のことは覚えてないらしい」
「ってことは、テメエと同じタイプか?」
「そういうこと。おそらく『盧生』のちょっとしたバグみたいなものだろう。すでに自律回復プログラムでバグは修正されてるだろうけど、ここに入るための脳波波長はログとして残ってるはずだから、いつでも入れるようにもなってるだろうさ」
少し話が逸れてしまったので、また元に戻す。
「ともかく、追われてたところを助けたし、助けたなら責任をもって説明はするべきだろ?」
「それはそうだな。テメエらしい。それにしても、フラグ建設がうめェなテメエはよォ」
「そんなんじゃねえ」
飛浮が嬉しそうな顔で俺の脇を肘で小突いてくるのを、うんざりしながら払いのける。
「お兄ちゃんはどうしてわたしというものがいながら他の女とフラグを……? まさか実妹の時点でフラグは折れてる???」
今さら過ぎるな。そのフラグは生まれた時から折れてるぞ。
「そしてここからが本題。今からこの子に最低限の説明と、あとは武器とか『夢奏』の使い方とか、勢力図や生き方なんかも教えようと思う」
「むむむ……お兄ちゃんが他の女に色目を使うのは果てしなく嫌だけど、けどさすがにビギナーの子を放っておくわけにもいかないし……全部教えてから殺すか」
「あの……朧実くん、あなたの妹あまりにも物騒過ぎない?」
「妹ってこんなもんじゃないのか?」
「この兄にしてこの妹あり、という感じね……」
げんなりと肩を落とす夢飼。その動きと共にシャツ一枚の向こうにある胸もすごい動きをしていた。すごい、とてもすごい。ソフトテニスのボールでもこんなことにはならないだろうな。
……まあ実際、かすみが常識では測れないクレイジーな妹だという認識は俺にもある。ブラコン過ぎるし言動・行動が過激で、ラノベの妹キャラでもここまでヤバいのは見ない。
その後向かったのは、校外にある近くのマンホールだった。歩いて数分の距離なのだが、兵隊がどこにいるかわからないため、隠れながら移動したせいで少し時間がかかった。
「いつもあんな風にして動くの?」
「ああ、そうだよ。あんたはさっき、おおかた何も考えず歩いてたんだろうが、そんなことしてたら命がいくつあっても足りないぞ」
「き、気を付けるわ……」
「ほんとにな。初めに言っておくが、ここでの死は精神の死を意味する。一生植物状態で家族に迷惑かけたくなかったら、生きる術を身に付けることだ。……鍵がかかってるな」
「鍵?」
「ああ。このマンホールの下は地下街になってる。兵隊たちみたいな正規のダイバーじゃなくて、俺たちみたいな不法侵入者たちが見つからないように隠れ家にしてるんだ」
「でも、鍵なんかかけたら何かあるって教えるみたいなものなんじゃないの?」
「それは現実での話でしょうー?」
話に割り込んできたのは、俺の腕に抱き着いて離れようとしないかすみだ。
「確かに何でもないところに鍵をかけていれば、そこには何かがあると訝しんでしまう。でも、ここは現実ではなく冥界。まだその全体像は謎に包まれています。なにせいつの間にか作り出されていて、気が付けば戦場になっていたような異界なんですからね」
「そう。そして、そんな世界で入れないところがあるとする。なら、あんたならどう思う? 例えばそうだな、現実そっくりのオープンワールドのゲームで、ある建物の中には入れませんってなったとき、中に入れると思うか?」
「うーん……ゲームしたことないからわからないけど、それは、無理だって思うかなあ?」
「まあ、MODとか使えば何とかなるかもしれねえけどな」
「MOD?」
「無視していい。……ったく、話をややこしくするんじゃねえよ。そもそも何でウェイの癖にMODとか知ってるんだ」
飛浮に釘を刺しながら、
「どっちにしても、この世界はあくまでもオゾン層を抜けてくる微量な宇宙線に特定の波長の電磁波を数種当てることで創造された別位相……異世界みたいなもんだ。自分の夢なら自分で変えることができるだろうが、すでに完成された世界に意識だけが入っている状態じゃ無理だ」
つまりは改変する権限を持っていないということだ。ログインはしているけど、スクリプトを書き換えることができないというか。ただ、唯一の例外として『夢奏』があるんだけど。
「かすみ、ここの鍵は作ったことあったっけ?」
「ないねー」
「型は取れそうか?」
「余裕だと思う。ここはたぶん、ダミーの方だから」
鍵をかけているとはいっても、それが一部だけだと怪しまれる可能性がある。そこに何かがあると本格的に悟られてしまうし、何よりも『開くものと開かないもの』があるというその違いが存在することそのものがよくない。やるなら徹底的に、だ。
「でも、鍵穴はどこ?」
「ここ」
そう言って俺が指さしたのは、マンホールの外縁。道路とマンホールの間の小さな隙間だ。
「マンホールの外周と、それを取り囲む地面の隙間。これは円形の鍵穴なんだよ」
まあ、これ見よがしに鍵穴があればバレるしな。
そんなわけで、かすみが自身の『夢奏』である『溶産』で水銀を創造し、鍵の型を取っていく。水銀を流し終えたら、冷媒として液体窒素を創造して、水銀にぶちまけて凝固させた。
「これ、このマンホール壊したら駄目なの……?」
「同意だぜ。いつもいつもかすみちゃんは苦しそうにしてるし、いっそ俺がぶっ潰すか、かすみちゃんの『溶産』をマンホールと座標が被るように発動して、暴発で弾き飛ばすとか」
暴発――無から有を創造する物体創造型の『夢奏』には必ずついて回る概念だ。
何か物体を作ろうとしている空間に、固体や液体が存在すると、被造物の体積や質量、エネルギーの比率に致命的なズレや歪みが発生し、被造物の体積や質量によった規模の爆発が発生するのだ。
「それをするとこのマンホールが開きっぱなしになって、地下があることがばれるだろ」
それに暴発なんて起こしたらかすみが危ない。負担を強いることになるが、腕が飛ぶよりはるかにマシだと思い、
とはいえ……
「つ……うぅぁぁああ……っ! しんどい……お兄ちゃん、ハグ」
「はいはい」
「えへ、えへへへへぇ……」
「この兄妹なんなの……?」
夢飼がだいぶ引いているが、無視する。仕方ないことなのだ。『溶産』は本来、こんな風に連続して使うものではない。そもそもからして、本来は1リットルから8000リットルの容積が適正創造範囲なのだ(ちなみに質量に限度はない)。だが、今のかすみはその下限よりも遥かに少量の物体を連続して作り出している。その疲労は想像を絶するものだろう。ならば頼んだ張本人であり、何よりも兄として、彼女にできることはすべきだ。
「お兄ちゃん、おっぱい揉んで」
「だめだ。それとお前には揉むほどのものはない」
十歳にふさわしい絶壁を見ながら俺は無慈悲に言い放った。
「じゃあ……ちくびをコリコリ、とか……?」
「上目遣いでおねだりしてもだめだ。妹よ、そんなことを言っているとくすぐるぞ?」
「ぐぐぐぐぐぐ……唯一苦手なやつだ……っ、いくらお兄ちゃんでも勘弁してっ!」
下らない話をしているうちにマンホールの鍵が開いた。周囲に誰もいないことを改めて確認すると、飛浮が先行して中に入り、後からかすみ、夢飼、そして俺と順番に入って行く。
一般的な下水路のイメージ通り薄暗い空間で、先の方まで通路が続いている。光源は一定間隔で存在する青色LEDのみ。匂いはない。下水路と言ってもここはあくまで夢の世界。もともとは悪臭が漂っていたのだろうが、水質浄化の夢奏者が対処したのだろう。
殿を務めるまでもなく周囲に人がいないことを確認すると、俺は夢飼の隣に並んで、
「声は響くけどこの辺りは人がいないだろうから、『八百屋』まで歩きながら簡単に説明するぞ」
「八百屋?」
「銃器や刀剣……要は兵器や武器を売ってる店のこと」
新品販売から中古販売、使わない銃器を売ることもできるしメンテもここでやってくれる。何でもやってくれる武具の八百屋というわけだ。
「『冥界』については簡単に説明するだけだ。名前の由来はギリシャ神話の神様。構造はさっき言った通り。だがこの二つは正直どうでもいい。ゲームで重要なのはルールや操作方法であって、そのプログラムじゃない。ひとまずここは夢の中だということを理解していればいい」
「ふーん……? 夢の中なのね」
「そう。で、勢力図とかは面倒だから後だな。ひとまずここでのルールを説明する」
ルール? と首をかしげてくる銀髪ボブカットに、俺は指を一本ずつ立てていった。
「一つ、ここでの死は精神の死を意味する。さっきも言った通り、死んだら意識がブラックアウトしてジ・エンド。一生植物状態だ。二つ、ここでは『夢奏』と呼ばれる超能力じみた個々人の夢を使って、この世界を支配してる物理法則を塗り替えることができる。詳細は実戦で教える。三つ、ここでは痛みも感触も全てが現実と全く同じ。……あらゆる『感覚』が脳の電気信号によって生み出されているものであることを考えれば妥当だろ?」
「痛みも感触も……っ」
「そう、つまりだ――」
そう言って彼女の後ろに回り込むと、がばりと揉まれるために存在しているかのような柔らかい果実を、両手を脇の下から通すようにしてVネックシャツの上からまさぐった。
「きゃっ、ん……んぁっ」
「これはなかなか……っ」
「ちょ、あ、だめ……っ、あなたほんとに何を……!」
「おっと、そんな変な声を出してどうしたんですかなおくさボフォッハァゥああッ!?」
調子に乗ってFカップ爆乳を両手(仮想)で堪能していると、前方から俺の顔面をピンポイントで狙ってバールが飛んできた。バチバチと青白い火花じみた電気を撒き散らすそれが、俺の眉間を貫通する。顔面が花火の如く弾けた。
「きゃああああああああああああああああ!? 死んだああああああああッ!?」
「うおー……危ない危ない、『虚霞』を発動してなかったら死んでたぜ……」
「あ、能力か……ううう、死なれるのは困るけど、さすがに粛正が一つとして効かないのはそれはそれで困る……」
恨めしそうにしてこっちを見ているが、実際のところ、本体の俺は夢飼の体に一度たりとも触っていない。そんな度胸オタクにはない。あいつが触られているように錯覚していただけだ。……あいつあれだな、媚薬だと言ってビタミン剤飲ませたら喜んで腰を振るタイプの女だな。
「なんか失礼なこと考えてない?」
「まさか」
というか、それ以上に由々しき問題というか、本気で命の危険のある物体が飛んできたんだけど。どういうことなんだかすみよ。
「おにいーちゃーん……?」
声をした方向へ視線を向ければ、ハイライトを消した瞳でたたずむ幽霊のようにたたずむかすみの姿があった。こわっ、妹だけど怖すぎる。
「妹よ、死んだらどうするんだ」
「大丈夫だよ、虚霞を発動してるのを知ってたから電気バールにしたんだしー」
「嫌な信頼だな。ちなみに発動してなかったらどうなってた?」
「後ろから絡みついてベロチュウかな」
「妹のファーストキスを兄が奪うのだけは避けられたようで何より」
「…………」
「かすみ、何で黙る?」
ニコリと意味深な笑みを浮かべるかすみ。どうやら戦場は冥界だけじゃないようだった。
「話が逸れたな、戻そう」
「夜這いの件はいいの?」
「それは後で考える。んで、最後の四つ目……これが一番面白いんだけど、この世界は時間の進みが圧倒的に速い。現実での一時間はここでは百時間。つまり、現実の百倍。俺がこうして戦ったり逃げたり説明しているっていうのに、現実ではまだ一分も経ってないんだよ」
「あり? そうだっけか」
「そうですよー」
また飛浮が余計な茶々を入れてきたところで話が脱線しかけたが、ラブリーマイシスタかすみたんが軌道を修正してくれた。
「ま、飛浮は馬鹿だからそういう検証はしたことないからな」
「扱い酷くねェか?」
「いつものことだろ」
つぅーかやっぱり脱線したし。
「かすみ、ガムテープ」
「ほいほーい」
「むー! むー!!」
そして世界に静寂と平和が訪れた。
「だからまあ、時間がたくさんあるからここは便利だ。勉強に使うのだってありかもな。ただ、何も考えず長期滞在してたらいつの間にか一日を潰してましたー、なんてこともあるかもしれないから気を付けろよ」
まあ、現実で一日中ここに潜るなら百日間――つまり三か月以上は滞在することになる。おそらくだけど、ビギナーでそんなことをすれば確実に命を落とすだろうから、そういう意味でもお勧めできない。地下街で過ごすなら別だが。
話しながらも、俺たちは右に左に通路を折れていく。やがて地図がなければどこにいるのかもわからなくなるほどに進んだところで、大きな広場のようなところに出た。
ドーム状の空間だ。ところどころに小さなクレーターや焦げた跡があることから、ここで何かしらの戦闘が起きたことを伺える。
「ここは?」
「地下街のおっさんたちの遊び場」
「???」
「賭博場ってことですよ。賭けボクシングならぬ、賭け夢奏戦といったところでしょうか」
微妙に酒やたばこの匂いが漂っているためか、かすみがとても嫌そうな顔をしている。仕方ないので後ろから袖を口と鼻に当ててやった。
「すぅぅうぅうううううううううううはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああ……っ!」
「我が妹ながらお前は本当に気持ち悪いな」
何やら俺の服の匂いでキマってしまっているが、こうすれば悪臭はシャットダウンできるらしいのでひとまずは我慢するしかない。まあ、こういうところも可愛いんだけどだな。嘘だ、結構やめてほしい。
五回ほど『俺の服の袖フィルター』で深呼吸をした馬鹿妹は、上機嫌な笑顔で口と鼻を離し、再び夢の世界の空気を吸った。
「大丈夫か?」
「うん、最高にキマった」
「表現を考えてくれ。ヤク中かお前は」
余談だが、この世界でも相当キまるドラッグはあるらしい。電脳ドラッグと呼ぶのだとか。脳に直接刺激を与えて快感を与えるとかで、澄み渡る蒼穹が虹みたいになるって話だ。他にも脳の判断を誤作動させて、この夢の世界を現実だと思い込ませる代物まであると聞く。
「それで、ここで何をすればいいのよ?」
「かすみ」
「はいはーい。画用紙だよねー。でもしんどいから紙の立方体にしていい?」
「ああ、いいぞ。それと飛浮、ボールペンは持ってるか?」
「むー! むむむー!」
「あ、ガムテで黙らせてたんだったか。悪い、外す」
「ぷはっ! ったくテメエ、いくら何でも酷すぎるぜ。えっと、ボールペンだったか? あァ、持ってる持ってる。それもちょっと高ェ五色のヤツだよ。ほら、使え」
夢飼の質問には答えず、いそいそと準備を進めていく。
かすみが用意した、両手で抱えるくらいの大きさの紙の立方体を俺が持ち、夢飼にはボールペンを持たせる。
「これで目をつむったときに思い浮かぶ自分を描いてくれ」
「えっと、自分を……? それって、似顔絵を描けってことかしら」
「違う。自分だと思うものを適当に描けばいい。抽象的でも具体的でも構わない。とにかく、画用紙に『自分と言えばこれ』というものを描いてほしいんだ」
「意味わかんないよ……。というか、アドバイスとかはないの?」
「ない」
ここだけはきっぱりと言った。だが、それも仕方ないことなのだ。『夢奏』はその特性上、アドバイスや忠告で先入観を植え付けることは、完全な逆効果になるから。『夢奏』は夢の世界の在り方を歪める。それさえわかっていればいい。
「むぅ……」
俺の固い意思を理解したのだろう、これ以上は無駄だと感じた夢飼がすらすらと立方体に何かを描いていく。時間はそうかからなかった。
描き終わったものを俺たちに見せてくれた。そこにあったのは……
「海……? え……?」
ドキリ、と心臓が跳ねたのがわかった。特に変哲のない海だ。砂浜があって、波が打ち寄せるどこにでもあるようなビーチ。見慣れた、ビーチ。そう――俺はこのビーチを知っている。夏になるとかすみとよく遊びに行く近所の海。別にそれ自体はおかしなことではない。夢飼が俺の高校にいたというのなら、彼女の家が近所にあってもおかしくはない。
『冥界』で覚醒する場合、その場所はイコール眠った場所だからだ。
だが、しかし――
十年前の約束の『姉ちゃん』と瓜二つで、なぜかその時の記憶を無くした女の子が、思い出の海だけは忘れずに覚えているということがあるだろうか。
「どういう、ことだ……?」
「えっと、何が……?」
「…………………………………………………………………………………………………………っ」
何が起きている? いったい彼女は何者だ?
そもそもからして、なぜ彼女は十年前から全く容姿が変わっていない?
そのくせに、喋り方や雰囲気が全く違うというのもちぐはぐだった。
「どうしたんだよ朧実。なんか神妙な顔しやがって。適当にヘラヘラして嘘ばっかつくテメエらしくもねえ。何か重要なもんでも見つかったか?」
「いや――」
飛浮の声でようやく自分を取り戻す。意味不明なうえ、夢飼についての謎がより一層深まったが、今はそんなことを考える時間ではない。ひとまず『夢奏』の使い方を教えないとな。
「夢飼、これが自分で思う自分のイメージでいいんだな?」
「ええ、そうね。次はどうするの?」
「別に特別なことなんて何もない。後は『その海』を自分の扱いやすい形で思い浮かべればいい。それだけで自分の『夢奏』を使うことができる」
え? と口にしつつも何気なく自分の手のひらに意識を集中してみたのだろう。
気が付けば、彼女の手のひらに上半身をすっぽり覆い尽くせそうな量の水の立方体があった。
「え、あれ??? これ、水の立方体?」
「ありゃりゃー、これはまた弱そうな能力ですね」
「そう言うなよかすみちゃん。夢飼ちゃんだって高校生なんだ。さすがに大海を創造するみたいなファンキーなことにはならねェって」
かすみと飛浮がそれぞれ勝手なことを言っていたが、俺もおおむね同意見だった。描かれた広い砂浜に比べて、彼女の手のひらの上でふわふわと浮かぶ水の塊はおおよそ100Lほど。一般的な家庭のバスタブの容積よりも少なそうだ。
「あの……あたし海を連想したんだけど」
「まあそうなるよなあ、仕方ない」
俺は間延びした適当な調子で返しつつ、説明を始めた。
「夢の世界で使える超常能力とは言っても、あくまでも人間の想像力が能力の根底にはある。そこで先入観とか。思い込みとか……何より常識っていうのが足枷になるんだよ」
例を上げるなら科学法則だ。質量保存の法則を知っている人間は、無から有を作り出すことは不可能だと知っている。そしてその知識が、『夢奏』の形成では邪魔になってしまうのだ。
『そんなことは無理に決まっている』と心の奥で決め付けている場合、その決め付けが想像力に枷をかけてしまうというわけだ。理性や知識、常識……そうしたものが邪魔をしてくる。
そして、こうした枷は年齢が上がるごとに太く強固なものとなってしまう。より多くのことを知っている人間ほど、手にする夢奏の規模や特殊性は低い。
逆に、物を知らない無邪気で馬鹿な子供ほど、この世界ではぶっ飛んだ能力を授けられる。体積に指定はあるが万物創造とかいうチート能力をかすみが使っているのもそういうわけだ。まあ、十歳でまだ生き物を創造できるって思ってる辺りはぶっ飛んでるようにも思えるが。
ともかく、そうした理由から彼女が自分の能力の弱さに落ち込む理由はない。
「飛浮だって刀を浮かして飛ばすだけの能力だし、俺だって人の認識を一時的に騙すっていうカスみたいな能力だから気にしなくていいさ。創造型っていう時点でわりと希少ではあるし、なかなかいい線だ」
「そ、そんなこと言っても、これだけの水で何が……」
「それだけあれば大抵のことはできるさ。応用方法は自分で考えるんだな。それともう一つ、それ多分、ただの水じゃなくて海水……塩水だと思うぞ」
「ほんとに……うぇ、しょっぱい!」
想像以上の塩気に驚いたのか、目をぎゅっと閉じて舌を出していた。……可愛いなオイ。
「ふぅー、じゃあ次だな」
ずっと眺めていたい光景だったが、そういうわけにもいかない。俺は話の流れを切り替えるように声を投げた。
「さて、それじゃあまずは、『夢奏』の使い方を学ぶために模擬戦でもするか」
気楽に言った直後のことだった。
「はぁーっい、有象無象の雑魚虫諸君。青春中のところ邪魔して悪いが蜂の巣地獄だひとまず死ね」
甲高いソプラノの声が響き渡るとともに、複数の銃口から連続して銃弾が吐き出された。
☆ ☆ ☆
「かすみ、バリケードっッ!」
「指示が遅いよお兄ちゃん、もう作ってるっ!」
複数のライフルの銃口から致死の弾丸が吐き出されるよりもほんの数瞬だけ早かった。
「――『溶産』。バリケードを用意するからしゃがんでッ!」
小さなつぶやきの直後に、俺たちを守るようにして鋼鉄の直方体がいくつか形成された。高さ一メートル、幅一メートル五十、厚さ一メートルで数は四つ。そこへ各々身を隠す。
鼓膜を破るが如き轟音が連続したのはほぼ同時だった。音に続くように背を預けた鋼鉄のバリケードに凄まじい衝撃が叩きつけられる。金属と金属が超高速で激突する甲高い音すらも混じり、視覚どころか聴覚までまともに利用できない。
「ちく、しょう……何なんだいきなり! 地下街のならず者って雰囲気じゃないぞ!」
「そんなこといちいち気にしてんじゃねェよひゃっほォおおおおおおおおおおッ! おいおい朧実、これは久しぶりに『生死を懸けたバトル』ってやつじゃねェの!?」
「お前このバトルジャンキー、回り込まれて鉛玉ぶち込まれたら万年植物人間だってのにっ」
男同士適当に軽口を交わし合いながら、パニくった心を正常にする。ここで男連中が折れていたら話にならねえ。かすみや夢飼もいるんだ、冷静になってこの状況を切り抜ける方法を考えねえと。
銃弾がバリケードを順調に削っているのがわかる。近くのコンクリの床が抉れてるのを見るに、これがなかったら全身穴だらけになって、あの顔も知らねえクソ女の言う通り蜂の巣みたいになって終わってただろう。その前に手を打つ必要がある。
だが、どうする?
銃撃はまだ続いているが、やがて弾倉の弾は尽きるだろう。その隙に飛び出して一網打尽にするのが一番だが……状況がわからねえ状態でそれをするのは無理があるな。敵の正確な数がわからない上、兵隊どもを操ってる親玉っぽいクソ女の正体が不明な以上、下手に動けない。
頭をぐるぐると回す俺の耳に、敵の呑気な鼻歌が聞こえてきた。
「ふんふふーん、ふふふーん。さぁーてさて、今回の依頼主サマ、『THE・Mazis』殿下の話だと、『虚霞』くんをぶち殺せってオーダーだったらしいけど、さてさて。どの子が『虚霞』なのかなあ?」
「……ぶっ殺す」
「かすみ、その重い愛は嬉しいがひとまず落ち着け。頭に血がのぼってちゃあ勝てる勝負も勝てなくなる」
確かにヤバい状況だが、だからこそ冷静さを失えば死が近付いてくる。ゆえにこそ、状況の把握と、それによる策の立案、そして検証を素早く行う必要があるだろう。
「さて、どうするかね……」
「かすみちゃんに鏡作ってもらうのは?」
「無理だ。こんだけデカイ物体を四つも創造したせいで、こいつ実は限界が近い。あと一時間は待つ必要がある」
「う、わたしは……」
「黙ってろよ妹。『溶産』は生命まで創造することができるが、デメリットとして『被造物のスケールに相応のインターバルが必要』ってのがあるだろ。唯一の家族を失うなんてごめんだ」
「お兄ちゃん……好き!」
ふざけてる場合じゃないんだよなあ。とはいえ、まだこれだけの余裕があるなら絶望には程遠い。どうせこの『冥界』にダイブしてるのは、こういう刺激を求めてのことなのだ。……まあもっとも、今回は今までの遊びとかゲームとかとは、全然違うっぽいんだけどな。
思案する俺の耳に、クソ女とは別の声が聞こえてきた。
「朧実くん……」
「……っ、夢飼か、どうした?」
銀髪のボブカットを揺らす思い出の『姉ちゃん』と瓜二つの少女は、その瞳に確かな強さを宿してこう提案してきた。
「私の海の力を使って鏡みたいにできないかな? そしたら向こうがわかるかも」
「そんな応用技術使えるのか? つぅーか海は透明だろう? ――ああ、なら、そうか」
ニヤリと俺の口角が上がる。突破口と言うほどではないが、足掛かりは見つけた。あのクソ女の足元をすくって押し倒してから服を脱がせてやる。
「飛浮、軍刀を飛ばせ。五本ともだ」
「……おいまさか」
「そのまさかだ。お前の最高にいかした『夢奏』を鏡代わりに使う」
「だァァあああ! ちくしょうー! 俺の『操刀』はそんな風に使うもんじゃねェんだぞ。もっとこう、ズバババァーッ! と敵を切って、ズァアアアー! って勝つための」
「いいからやれよ。俺にVRエロアプリの借りがあるだろ」
「くそ、地獄に落ちやがれハーレム野郎ッ!」
毒づいて飛浮が自身の夢奏――『操刀』を発動しようとした、ちょうどその時だった。
「はぁーい、弾切れだねえー。撃ち方やめーい」
底意地の悪い間延びした声が広場に響き渡った。同時、おそらく隊長扱いとなっているだろうそいつの声に従い、兵隊どもが引き金にかけていた指を離す。
……クソ。あのアマ、まさかこっちの狙いに気付いてたのか? 銃撃がやんじまうと、弾を弾くフリをして、外の様子を軍刀の刃で盗み見るっていうクールな作戦が使えなくなる。
「ははッ! いいねえいいねえその緊張。伝わってくるよアタシのところに。オマエら優等生どもの……ゲーム感覚でここを生きてる甘チャンの焦りがよ」
注意深く聞いてみると、声には若干の幼さが宿っていた。歳は十三かそこらだろうか。喋り方からあまりいい教育を受けていないように感じる上、この年だと『もう一つの条件』に合致してる可能性もあるためとんでもない『夢奏』をその身に宿している可能性がある。
ザリッ……という靴の裏で地面を踏む音が聞こえてきた。
ザッ、ザッ、ザッ、と。少女の歩みは止まらない。近づいてくる足音は一つ。つまり部下の兵隊どもは残しておいて、単身で四人の中心へと近づいてきているのだ。それはその未熟な精神ゆえの油断だろう。声の感じからして若干十三歳。ともなれば、己の強大な『夢奏』に慢心してこういう馬鹿な行為を取ることもあり得るというわけだ。
ただし――だからといって、その油断を突いて少女を撃破できるかは別。その能力次第ではここにいる全員皆殺しにされるだろう。
そして、次の策が頭の中に浮かんだ時にはすでに、俺に迷いはなかった。
「俺が『虚霞』だ」
「ははッ、ははは! こいつァ威勢がいい小僧だな、甘チャンくん。まさか銃口の前に自ら身を晒すことを選択するとは」
勢いよく立ち上がると、直方体のバリケードを挟んだすぐそこにその少女は立っていた。長いサイドテールで、ところどころに真っ赤なメッシュの入った派手で危険な印象を与えてくる髪型。目つきは悪く、目の下には隈ができていた。キャンディーを加えた口元は柄の悪い三日月に裂かれている。身に纏う衣装もなかなかにセンスが狂っていた。真っ黒なキャミソールの上から、同じく黒い革ジャンを羽織っている。ただし袖が無造作に切り裂かれており、肘から先はひらひらと宙を舞っていた。下もまた革製のホットパンツで、色は当然黒。
「ぶっ飛んだファッションセンスだな。どの雑誌で見つけたんだ?」
「ああ? こいつは八百屋で買った中古品を動きやすく改造したんだよ」
「……それで、あんたは?」
「はははっ、命を狙われてるこの状況でも動じないその精神は称賛に値するなぁ。……それにしてもオマエ、まさか自分を殺す人間の名前は知りたいタイプの人間か? いいねえ、なかなか流儀を心得ていると見える。名乗ってやるよ。アタシは徳院穿千。まあ、汚い仕事を請け負う何でも屋とか、戦地に引っ張られる傭兵だとでも思ってくれ」
傭兵稼業を営んでる美少女て……つくづく『冥界』は、物語じみた非常識っぷりだなっ……。
「それで、冥界の裏社会の大物が俺に何の用だよ」
俺が後で説明しようと思っていたこと、それは『冥界』の厄介な勢力図だった。先ほど自国軍だけでなく、他国の兵士までもが当たり前のように近くでプラズマ砲を撃っていたことからもわかる通り、この世界に国境なんてもんはあってないようなものだ。
いや、確かに地理上の概念としてそういうものはある。だが、政治も経済も機能しない、戦場として存在するこの夢の世界では、各国の首都圏以外にはまともな防衛線が張られておらず、他国の兵士だろうがテロリストだろうがお構いなしに暴れている。例えば日本ならば、東京を中心に放射的に離れていくにつれて警備の数も質も落ちて行く。うちのような大したことのない地方都市にもなると、一都市の中だっていうのにアモルファスのように様々な勢力でごった返し、乱戦状態になっているわけだ。
しかも『徳院』と言えば『冥界』における日本軍を陰から操ってるって噂の、いわば『冥界』の闇。社会からは秘匿されてごく一部しか知らないこの夢の世界の中でも、さらにごく一部しか知らないって噂のヤバい一族だ。ばあちゃんが言ってた。嘘だけど。
「だから何回も言わせてんじゃねぇよ。オマエをぶっ殺すって言ってんだろうが。気持ち良く爆裂昇天させてやるから感謝しな。こんなナリだが苦しまずに殺すのは上手いんだ」
「なるほどなあ、そうなのか。でもそれって、風俗よりも気持ちいいの?」
人殺しですと自己紹介してくる少女にも、俺はあくまで笑顔で応える。ニヤニヤヘラヘラ、俺は俺らしく軽薄に笑いながら、口先三寸でこの窮地を切り抜けてみせる。
「ていうか、何で殺されるのかは聞いてないんだが」
「いやだからさ、依頼だって依頼。オシゴト、簡単なね。『THE・Mazis』とかいう変なおっさんだかに頼まれて、オマエをぶち殺せっていうオーダー。オワカリ?」
「なるほどな。ただ、それにしても物騒っていうか、少し過剰な戦力だとは思うぜ? 俺ひとりを始末するのにプロの傭兵まで雇って、さらに機械兵士を十人も用意するって……」
「知るか」
そして、俺と穿千とかいう少女の間に僅かな静寂が生まれる。日常会話なら特におかしな間でもない、一秒にも満たないほんの小さな言葉の消失。小さな空白だ。
その一瞬で。
「つーわけで死ね☆」
とびっきりの満面の笑みを浮かべた少女が、右の手のひらを向けた。
瞬間――
ボバッッッ! と大気が凄まじい速度で燃焼し、轟音を伴って致死の紅蓮が咲き誇った。五弁の紅蓮の花びらの中心から、長さ十メートルにも及ぶ爆炎のランスが音速を超えて射出され、俺の脇腹をごっそりと削り取る。
「ごァ、ァアア!? ぎ、ぎぃぃぃいいいああああああああああああああああっッ!?」
殺気を感じて直前で避ける動作をしたが遅かった。間抜けな雑魚の足掻きなど塵屑以下だと言うように、音速超過で突き進む紅蓮の槍はこの夢で作られた肉体をミディアムに焼いた。槍の射程は相当長く、俺の背後にあった鋼鉄の直方体までを貫き破壊する。夢奏による被造物から硝子が割れるかのような甲高い音が発され、木っ端微塵に砕け散った。視界の隅でステンドグラスのような色彩が、三角形となって躍り狂う。だが、そんなことはもうどうでもいい。
「――『穿焔』」
のたうち回る俺を嘲りも笑いもせず、少女は己の『夢奏』に酔いしれていた。
「お兄ちゃんッ!?」
「朧実、さん……!? あ、あぁ……」
「馬鹿っ、顔を上げンじゃねェ! 殺されてェのかッ。夢飼ちゃんも気をしっかり保つんだ!」
三人の声が遠い。そんな中、至近で徳院穿千がようやく哄笑を爆発させた。
「ははは! ははっ! きゃーッははははははははははははははははははッッ! おいおいおにいたーん、余裕ぶってぺちゃくちゃ話してた白髪イケメンのおにいたーんッ!? まさかこんなかすり傷で根を上げちゃってる? いい年した男が中学生の女の子に殴られて涙浮かべてのたうち回るってどうなのよぉー! あひゃっ、あひゃはははは! あははははははははッ!」
ゲラゲラゲタゲタ、煩わしい哄笑が俺の鼓膜を叩く。ガンガンガンガン、闇金の取り立て屋みたいに。俺の鼓膜を玄関と間違ってんじゃねえのかってくらい。
傷口を押さえて蹲る俺を、これでもかってくらい見世物にして嘲笑う。
「ぎ、ぃぃあああ……ぐ、あ。が……く、そがァ……ッッ」
「いひひひっ、いひゃひゃひゃひゃひゃ! やーっぱ、ど素人の悲鳴はいいねえ。家を出奔して傭兵するようになったなってよかったわ。そらそらそらァ、次はどうするんだ? さっきは何か狙ってたみたいだけど、次はどうすんだよなあオイ! 聞かせてくれよ、おにぃーたーん?」
「朧実くんっ、朧実くぅん!」
間抜けな声を出す夢飼の声を聞いて、笑みがこぼれそうになった。が、そんなことをしている暇はない。こうなった以上、一刻も早くこの場を切り抜けるための言葉を、彼らに送らなければならないからだ。
「……く……にげ、ろ……っ」
「ぇ……?」
絞り出した声に、夢飼が理解できないという風に首を振っていた。
「なにを、言ってるの……? そんな、そんな状態のあなたを置いて、そんな……ッッ!」
「ヒゥウ、泣かせるねえ」
口笛を吹いて俺たちのやり取りを冷やかす徳院穿千を放って、俺はガラガラの声を出す。
「いいから、いいがら行げよォッ! もう俺は駄目だ、ここでリタイア、だ……教室の中で植物状態なんて、最悪、だけ、ど……でも、もう駄目なんだよ……頼む、頼むよ……」
「でも、でも……! そんな、そんなこと……ッ」
「うるせえ、行けェッッ! あんたが死ぬぐらいなら俺が死ぬッッ! あんたはそれくらい俺にとって大切なんだよ、だから、だから……行ってくれ。俺は大丈夫だから……最初から覚悟は、してた……気にするな。ここで死ぬことに、悔いはない」
そんな切実な言葉にも、夢飼は呆然と首を振るだけだった。こんなのは違う、間違ってる。知らない、嘘だ、ありえない。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。
そんな焦燥と困惑と悲哀と絶望が、彼女の瞳に浮かんでいく。
ああ、すまない。もっとこの世界のいいところを教えたかったんだけど。こんな血みどろの殺し合いじゃなくて、もっと楽しい……命の危険があるかもしれないけど、スリル満点の、青春とすら言えるゲームを教えたかったんだけど。
「行ってくれ、大丈夫だ。俺は、あんたの顔をもう一度見れただけで満足だから。だから……ここで死んでも、悔いは本当にないんだ」
繰り返された『悔いはない』という言葉で、ようやく夢飼の瞳に悲壮な決意が宿った。
ああ、本当に良かった。
「――まあ、嘘なんだけどな」
「は?」
間抜けな声が、背中越しのすぐ至近から聞こえた。
「え、は?」
状況の読み込めてない甘チャンに、俺は鉛玉を見舞ってやることにする。
背中合わせの状態で、引き金にかけた左手の人差し指を軽い調子で絞った。ベレッタM92が火を噴く。鉛玉がクソ生意気なメスガキのひざ裏にぶち込まれ、血の尾を引いた。
「ぎっ!?」
「まだまだー」
禍々しい火薬の爆発音が連続し、徳院穿千の体に風穴を空けていく。
「飛浮」
「ハハッ、ハァ――ッ! 名演技ご苦労さまってなァッ! 拍手喝采の代わりにしちゃァ派手だが、オレの一芸を見せてやる。咽び泣いて喜べよ。――『操刀』」
バトルジャンキー飛浮が興奮のあまり裏返った声でそう叫んだ直後だった。逆立った赤髪がぶわりと揺れたかと思うと、背に差していた五本の軍刀が風に操られているかのように宙に浮いた。さらに左右に佩いた軍刀も両手に握り、七刀流の構えを取った。
「かすみは飛浮のサポートに回れ。夢飼はそこまで無理しなくていいからな」
「テメエは?」
「メスガキ調教」
「メインディッシュかよ羨ましいなァオイ。後で感想聞かせろよ? 夢奏戦、楽しんで来い」
「はいよ」
軽い調子で馬鹿に返すと、すぐ近くで蹲っていた裏社会の傭兵(笑)が、ゆっくりと起き上がるところだった。
「がふッ、ぎ、ぃぃあああッ!? テメエ、ふざ、けやがってェ……!」
「何だよ、先に仕掛けたのはあんただろ? 俺のは正当防衛。だからここから先、あんたの服を剥いて胸をまさぐって尻叩いてどMに調教したところで、俺の正当性は揺るがない」
「ざっけんじゃねえぞペテン野郎がァッ! ケツの穴まで灰にしてやンよォォォおおおッ!」
激昂した穿千たんが女にはあるまじき暴言を吐きながら突っ込んでくる。手のひらから爆槍を連続して生み出しながら、俺の体に次々と風穴を空けていった。
「何で……」
だが、爆炎が俺の体を突き抜けるたび、その肢体がゆらゆらと水面に映る月の如く形を失い、気が付けば全く異なる場所にその像を結ぶ。
「なん、で」
爆槍が飛ぶ。当たらない。当たらない、当たらない。左右の手が異なる動きをする。軟体動物じみたその不気味な挙動でもって、脳漿と心臓を同時に狙うもやはり意味はない。
「なんっっっで当たらねェんだよこのクソもやし野郎がァァァァあああああああああああッ!」
飛浮たちに文字通り飛び火しないよう広場の端まで穿千を誘導した俺は、そこでヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべながらこんな風に尋ねてみた。
「ところで中学生、『暖簾に腕押し』『糠に釘』って言葉はご存知かな?」
「あァッ!?」
「どんだけ力込めても、紙みたいにペラペラなもの相手じゃ大した効果は得られないってやつ。今あんたがやってるのはそんな感じのこと」
「馬鹿にしてんのかァ!」
「そうだって。何でわからねえんだよ。まったく、激おこぷんぷん丸ってところか。あんたがいま相対してるのは『嘘つき』だぜ? 真正面から力のぶつかり合いなんかするわけないだろ。あんたの真っ直ぐな戦意を、俺は適当な嘘を並べて全部避ける。どれだけ破壊的な風を巻き起こそうとも、暖簾はそれを全部受け流すんだ。だから、まあ」
いたぶる趣味はない――こう言うと悪役みたいだから嫌なんだよなあ。まあ嘘だけど。ともかく、この次で終わらせる。それも力押しじゃない。完全勝利――つまりは、こいつの『夢奏』の弱点を突いて。
「そら、行くぜ?」
ニヤリと笑って俺は徳院穿千目がけて一直線に駆け出した。
「ッッッ! 死ねッ!」
空気が瞬間的に燃焼することで発する破裂音を耳にしながら、俺はその紅蓮の槍を身を屈めることで回避した。
「なっ、まさか本物っ? いや、これも偽物か? いや、でも。くそ。くそっ、くそくそくそ!」
俺が順当に近づいて行く間、穿千は疑心暗鬼に捕らわれて行動を起こせない。まあ、それも仕方ない。これが嘘つきの厄介なところだろうから。目の前の人間の言葉が真実なのか嘘なのかわからない。同じように、今目の前にいる朧実幻冶が本物か偽物かわからない。
「どうでもいい、とにかく撃ちゃいいんだ。ぶっ飛べェッッ!」
「なあ穿千たん」
「たんって何だオマエ舐めてんのかァ!?」
「知ってたか?」
穿千たんのツッコミを無視して、俺はこんな風に語りかけた。
「全ての『夢奏』には、弱点があるんだぜ?」
「あ?」
間抜けな声を発したのは、当たり前のことを尋ねられたからか、あるいは場違いにも俺が彼女の左右の手をそれぞれ握ったからか。
まるで社交ダンスでもするかのように、指と指を絡め合って、俺たちは至近から見つめ合う。そうしながら、俺はこう突きつけるように言ってやった。
「あんたの場合は『爆炎の槍が発生するのは手のひらから1cm離れた空中から』ってこと、そして、『その噴射点を塞がれた場合、その蓋がたとえどんなに脆いものでも、塞がれてしまえば爆槍は形成できないこと』だ」
「なん、な……オマエ、何でそれを! どうやって推測しやがったァ!?」
「前者は観察。後者はカマかけただけだ☆」
「~ッ! ~~~~~~~~ッっ! ち、くしょォがァァァあああああああああああッッ!?」
頭を思い切り引き、いたいけな少女の鼻っ柱と眉間に一発ずつ頭突きをかましてやった。
終わってみればあっけない。
調子づいていた思春期の女の子は、年上の嘘つき男に気絶させられていた。鼻血を流して気絶しながら泣いている穿千たそを見ていると、少しやり過ぎたと反省した。まあ、嘘だけど。
☆ ☆ ☆
「っつぅー……っ、やっぱ頭突きは良くねえなあー。痛い、めっちゃ痛い」
視界の中で未だにチカチカと瞬く変な光を振り払うように頭を振っていると、ちょうど飛浮たちの戦闘も終わったらしい。バチバチと火花を散らしながら、飛浮が最後の一体を地面に放り棄てた。
「っだァーっ、雑魚い弱い軟弱貧弱! 全然つまんねェよ。何だテメエら、もっと気張れよ機械のクセによお」
「機械だから気合の力で覚醒できないんだろ」
「そもそも夢奏に覚醒って概念はねェだろ。適当なこと言うな嘘つき」
「そう言うなって。もしかしたらするかもしれないだろ」
適当な言葉を並べてとりあえず会話にしているが、特に中身はない。
俺は気絶させた穿千を通路の端に寄せると、壁に背を預けるようにした。
「こうして順調にフラグを立てていくわけね。さすがだぜ」
「変なこと言うなっての。それにこういう温情は、この子にとっては屈辱と受け取られて逆に嫌われかねないしな」
嘆息しながらそう言う俺に、飛浮は「じゃあ何でそんなことするんだよ」と呆れていた。まあ、ここにほったらかしにするのも目覚めが悪いからなんだが……別に言う必要はない。
「ていうか夢飼凄かったな。さっき『夢奏』を手にしたばかりなのに、何かミサイルみたいの撃ったり、機械の中に海水を侵入させて破壊したりしてたよな。まあ涙目でビビりながらだったけど。めっちゃ叫んでたな」
「し、仕方ないでしょっ! ライフル向けられてるんだから怖いわよそりゃっ!」
「ははっ、成長が早くてびっくりしたぜ。そのうちもっと強くなるかもな。ククク……そん時はよろしくなァ」
悪そうな笑顔で戦いを申し込む馬鹿は放って、ひとまず夢飼とかすみの怪我を見る。
「二人とも大丈夫か? なんか怪我とかはしてねえか?」
「うん、わたしは大丈夫。体の方はね。心の方はズタズタに引き裂かれて今にも廃人になりそうだけど」
「なっ、え!? 何があった……?」
「お兄ちゃん、それは自分の胸に聞いてみるか、そこの女の胸に聞いてみるかして」
むぅー、と口をむくれさせて怒っているかすみ。どうやら先ほどのセクハラの時のように暴力を行使するつもりはないらしい。しかし、俺が一体何をしたのだろうか。確かに嘘をついたのは良くなかったかもしれないけど、あの局面ではああするしかなかった。
ていうか、ああいう演技系の作戦は俺の常套手段だから、怒ることでもないだろうに。
「まあ嘘ついたのは謝る」
「ッッ!」
しかし、特に心のこもっていない謝罪に変な反応をしたのは、怒っているかすみではなく、なぜか関係のない夢飼だった。
「どうした?」
「やっ、いや! 何でもない! あ、あとでいい……っ」
顔を赤くしてそっぽを向いてしまう夢飼に、俺は言いようのない不安を覚えてしまう。俺はこいつに何かをしただろうか……? まあいいか。
「んじゃァ、ひとまず当初の予定通り『八百屋』に行きますか」
「穿千が起きないうちに行こう。鉢合わせたら面倒だ」
「嘘つきより面倒なもんはねェと思うけどな」
そんなわけで、アクシデントもあったが夢奏の基本や実践じみたものも行えたので、当初の予定通り『八百屋』に行くこととなった。
☆ ☆ ☆
ダミーの地下道をくねくね曲がって正規ルートに入った俺たち四人は、明らかに堅気ではないおっさんやどう見ても水商売丸出しの服着てる女の人がいる中をずんずん進んでいた。
「つまり、だ。さっきも言った通り、常識に捕らわれると、夢奏の規模や特殊性は薄れてしまう。逆に、そうしたものを無視できる奴なら、ぶっ飛んだ能力を使えるんだ」
「それが、ええと……低い年齢で夢奏を手に入れた人が強い理由?」
「そう。小学生はエネルギー保存の法則も質量保存の法則も熱力学第二法則も知らないだろ? 彼らは発想力や性格次第で、この夢の世界では永久機関さえ創造できる」
馬鹿げた話だと思うがこれが事実。まあ、歳を取って色々ものを知っていくうちに、夢奏が弱体化するケースも珍しくはないんだけど。
「そう。そしてそういう子供の他にもヤバいのが――」
「えっと、チュウニビョウっていう人たち、よね」
「そう、厨二病。こいつらは年齢のわりに精神年齢が低い。具体的には十四歳くらい。こいつらは理性や常識を、豊かな想像力とお花だらけのおめでたい頭でもって塗り替えて、呆れるほど桁外れな力を振り回してくる」
他にも生まれながらの狂人なんかも。
「さっき襲ってきた徳院穿千はおそらく厨二病タイプ。イタイ子だ。……ただ、俺が穿千を下したことからもわかる通り、夢奏には必ず弱点がある」
「それが、えっと……深層心理に基づいてる、だっけ……?」
「よくできました。ご褒美としてその胸を――」
「がるるるるるる!」
「嘘だって。そんな大型犬みたいな唸り声上げるなよ……」
両手を上げてホールドアップのジェスチャー。許されるなら……とあわよくば的な下心はあったのだが、前方のかすみからの殺気により断念。本気で命を危機を感じました。
「まあ、こっちに関しては自分できちんと理解しとかなきゃ後々大変だ。そして、自分で自分の弱点に気が付いても、誰にも言っちゃだめだ。当然俺やかすみにも」
他にもこの冥界における地方都市におけるアモルファスのような乱戦状態のことや、自分から軍人や徳院みたいな暗部には手を上げないことなど、簡単なルールを説明する。
そんなことを話しているうちに、とうとう俺たちは目的地にたどり着いた。凄まじく派手な寄り道をしたせいで来るのが遅れたが、まだ店はやっているらしい。
「よぉーっすおっさん! 今日も辛気くせェ顔してんなァ!」
「あぁ? 飛浮のクソガキか。まーた性懲りもなく冷やかしに来やがったのか? ったく、商売の邪魔だからとっと消えな!」
またあの馬鹿はおっちゃんに無自覚に喧嘩売りやがって……
右眼に眼帯を付けたスキンヘッドのドワーフみたいなこのおっちゃんが、何でも屋『八百屋』を一人で切り盛りする敏腕経営者だ。こんな場所でこんな店をしている以上、腕っぷしはいい。ケラケラと笑う赤髪サングラスのウェイが華麗に宙を舞っているのを見れば、夢飼もわかるんじゃないだろうか。
背中から床に叩きつけられた馬鹿を放って、俺はおっちゃんに歩み寄った。
「悪いおっちゃん、あの馬鹿おっちゃんのこと大好きなんだよ」
「そうか。好きなら好きなりの接し方があるって教えときな。……その目を見る限り、今日は冷やかしじゃねえようだな、嘘つきの」
「もうちょいマシなあだ名はなかったのか」
にへらと軽薄に笑いながら、親指で後ろに立つ夢飼を差す。
「この子に何か武具を売ってほしい。対価は弾むぜ? なんせあの馬鹿が、最高に気持ちいいエロアプリを入荷したらしいからな」
「……まあ、話くらいは聞いてやるよ」
「おっけい、大丈夫だ契約成立」
ガシッ、と腕と腕を交差させる俺とおっちゃん。その後ろで、女性陣はこんなことを言う。
「男ってほんとさいてー」
「お兄ちゃんの腐った性根を叩き直すには、わたしが肉便器になるしか……」
「かすみぃぃいいいいいいい!? どこでそんな言葉を覚えるのかなぁー!?」
☆ ☆ ☆
おっちゃんが夢飼に色々と質問をしてぴったりな武具を用意している間、俺はかすみと二人で地下街を回っていた。飛浮の馬鹿は近くでやってる武闘大会に出るとか言って、走って地下街の奥の方へ行きやがった。暴れたいならず者どもがスパイスとしてトーナメントの形にしただけの、おめでたくもない大会であり、賞金も出ず、結構な頻度(具体的には二日に一度)で開催されているの大会で、俺は特に興味がない。だが、その暴れたいならず者である飛浮にしてみればまさに最高の娯楽なのだろう。話によるとすでに八回ほど優勝しているらしい。
「いつ見ても賑やかだねー。地下じゃないみたい」
「この辺りは『開発』が進んでるからな。細い通路は現代の掘削機やら夢奏やらを使って広げて、その結果村一つ分くらいのデカさになってる。現実で発明された『日光灯』を使えば、こうやって地下を昼みたいに明るくできるってわけだ」
俺の腕に張り付いて頬ずりするかすみは、いい匂いを振り撒きながら言葉を重ねていく。
「それにしてもお兄ちゃんは最低だよまったくー。どうしてすぐエッチなアプリとか取っちゃうかなあ。しかもそれを妹や他の女の子の前で言うし」
「貞操観念がぶっ壊れてるお前に言われたくねえよ。ていうかお前、夜這いとかほんとにやってんの? 肉便器とか嘘だよな?」
「嘘に決まってるよ、そんな形で処女を捧げたくありません。肉便器の方は……おいおい、ね」
おいおい予定はあるのかよ。ポッと顔を赤くして、両手で頬を押さえる妹を見て嘆息する。
「ふんふんふーん、ふんふーん。お兄ちゃんっ、おっにいっちゃん。かすみの愛するお兄ちゃん~。えへへぇー! どう? いい歌でしょうーっ」
「まあまあだな」
可愛いなこの十歳。危うく今コロッと行きかけたぞ、危ない危ない。水色の髪をふわふわ揺らして、満面の笑みで鼻歌の感想を聞いてくるとは、こいつできるな……。どこでそんな高等技術を手に入れた? あざといぞ。でも可愛い。やっぱり義妹より実妹だわ。
「そういえば、お兄ちゃん」
「何だ妹よ」
「いつもいつも思うんだけど、どうやってあのおっちゃんに報酬のアプリを渡してるの? アドレス知ってる……ていうわけじゃないよね?」
そう言えばいつも報酬を払ってるのは俺か飛浮だから、かすみは知らないのか。
「クラウドストレージだよ。とは言っても、俺たち『客』は情報やアプリを『入れるだけ』だけどな。あー、銀行と同じって言えばわかりやすいかもな。俺たち報酬を払う側はおっちゃんの管理する口座の番号は知ってるから振り込みは出来るけど、暗証番号も知らなければ通帳もカードも持ってないから引き出すことはできない。そういう仕組みだ」
この夢の世界では金には価値がない。こんな円やドルとか言っている場合ではない戦場の中で意味などあるはずがないのだ。それでも商売をしている人がいるのは、『利益』を得られるから。リアルで、しかも得難いものを手に入れるために。
こんな時代だ、金には当然足が付く。表向き世界がひとつになっている今では、ロンダリングだって簡単じゃない。別にやましいものを売り買いしているわけではないが(やましいか)、軍人でない俺たちが『冥界』にダイブしてることがバレれば人生終わりだ。普通に殺される。
まあ、そのアプリを換金する方法や暗号通貨などもあるため、一概に金儲けが無理なわけではないが。この辺りはまあ色々抜け道がある。かすみの学費を稼ぐために俺もたまにやるしな。
「まあ難しいことはよくわからないし、わたしはお兄ちゃんの腕に抱き着いて、ずっとこうしていれば幸せなんだよねえー」
「それもそうだな。まあ、俺はさっきみたいな刺激もたまにはいいと思うけど」
この世界へはスリルを求めてきている。俺にしてみれば娯楽なんだよな。もちろんこうして、非日常的な世界の中に浸っているだけでも十分楽しい。だが、俺だって男の子。あの馬鹿ではないけど、人並みに戦いたいのだ。まあ、痛いのは嫌なんだけど。やっぱ俺tueeeeだわ。
「おーい、朧実くーん、かすみちゃーん!」
そんな兄妹水入らずの時間もここで終わり。後ろからやって来た銀髪ボブカットの少女の声で、二人の逢瀬は終わった。
「ちっ、邪魔虫が」
「そう言いつつも排除しないようなところが、お兄ちゃんは大好きだぞ」
「えへへぇー、大好きですよ海奈さーんっ!」
「えっ、なに!? あ、ありがとう……?」
「妹よ、それでいいのか」
どれだけマセていようと所詮は十歳。犬畜生か。……駄目だ、これは喜ぶパターンだ。
「夢飼、おっちゃんにいいの選んでもらったのか?」
「うん……ただあのおじさん、すごぉーく目つきがいやらしかったんだけど……」
たはは……とボブカットの先をクルクル巻いてげんなりする夢飼。まあ確かに、あの目つきに晒されるのは嫌だよなあ。俺もされたけどマジで怖い。ありゃ確実にヤバい人だね。多分バイだ。知らねえけど。適当に言った。
ともあれ、夢飼はおっちゃんに最適な武具を用意してもらったらしい。鞘が水色の日本刀とサーベルだ。ってことは二刀流か。まあ、何となく雰囲気的にありなような気もする。
「ぷはァー! いやあ、勝った勝った! やっぱ昼間にするバトルは最高だなあ!」
「バトルを酒みたいに言ってんじゃねえよ。飲んだ飲んだ、みたいなテンションやめろ」
いい笑顔を浮かべて合流した飛浮に呆れながら言う。
まあ、さっきは雑魚相手の戦いだったから欲求不満だったのだろう。夢奏戦は有象無象と戦うのとは訳が違うからな。夢と夢、心と心のぶつかり合いだ。言ってしまえば魂をぶつけ合っているようなもの。そりゃ、バトルも路上の喧嘩やシステムで支配されたゲームとは違うわな。
ただ、これを言ってしまえば身もふたもないのだが、実は飛浮は一対一の対人戦よりも、複数の敵との戦いを得意とするタイプの夢奏者だ。一騎当千型。集団を相手にして初めてその真価が発揮されるタイプ。あいつ自身、そこをとても気にしているらしいのであまり触れないようにはしているが。あいつは対人戦が好きなんだよな。でも、適性とかあるしなあ……。
「あ、夢奏を使う奴を指揮者って意味のコンダクターって呼ぶんだけど、教えるの忘れてたな」
「え、何で急に?」
「いや、今思い出したから」
「何かさあー! そのさあー! 適当に話すのやめない!?」
「悪い、そういう呪いなんだ」
「はいはい、嘘よね」
「これはマジ。盧生のバグで定期的に嘘をつけっていう電気信号が脳に送られてるんだ。だから俺は、日常生活でも冥界でもこうやって嘘を吐いちまう」
「あ、そ、そうだったんだ……ごめん。軽率だった……」
「まあ嘘だけど」
「もうあなた本当に駄目だと思うッッッ!」
自分でも適当な奴だと思うが、これが自分の性格なので仕方ない。こうでもしないと、この『冥界』でも人と話せないんだよ……。嘘つかないと会話もできないコミュ障なのっ。
「つぅーかさっきよ、大会中に誰かが話してるの聞いたんだけど」
合流して出口に向かっている途中で、飛浮がこんなことを言い出した。
切り出し方に不穏なものを覚えた俺は、視線だけで続きを促した。飛浮は神妙な顔で頷いて、
「あの徳院のガキが言ってたクライアントのTHE・Mazisっての、結構な力をつけてるらしいぜ。名前が聞かれ出したのはここ数ヶ月だって話だけど……実は三年ほど前から何かしらの計画の準備が始まってたっぽい。気を付けろよ朧実、今回の件、結構深ェぞ」
☆ ☆ ☆
不穏な話を聞いたが、だからといって今はどうすることもできない。暗殺計画が動いていると言うが、別に恨みを買うようなことは……してるな。とはいえそれも、不法侵入者の中ではまだマシな方。不法侵入者で暗部にずぶずぶの奴に比べれば百倍マシなはず。
まあ、こんな風に建前を並べなきゃならねえくらいにはビビってるんだよな。ヘラヘラしてる嘘つきとはいっても、所詮は学生。どこにでもいるちょっと嘘つきなだけの高校生で、国を裏から操るような誰かさんに狙われて、その否定材料を探してしまうくらいには普通なのだ。
そもそも嘘をついているのだって、こうやって薄っぺらい膜を張り、予防線にすることで人と会話しやすいようにしているだけだ。
暖簾に腕押しとはよく言ったもの。
俺は暖簾みたいにペラッペラでふらふらしてる人間だ。相手の気持ちを真っ直ぐ受け止めず、嘘をついて煙に巻いてピエロを気取って笑顔を浮かべる。
とはいえ常々俺が思っている通り、嘘はコミュニケーションの手段としてとても有効なのも事実だ。それは予防線として使えるだけではなく、冗談として使うこともできれば、うまく活用すればさっきみたいに騙し討ちにも使える。優しい嘘なんて言葉があるように、嘘自体は悪ではない。重要なのは、それが人を笑顔にするかどうか。そして、真実から逃げていないかどうか。きっとこの二つだろう。
たとえ適当な言動だとしても、そこにある絆は本物なら、構わない。そして俺は、確かに自分が嘘つきで弱い人間だということを自覚している。自覚している上で嘘を『使う』。
こういう考え方を、人は免罪符だとか自己満足だと糾弾するのかもしれない。だが、知ったことか。そもそも、何で俺の生き方を他人に糾弾されなくちゃならない。かすみや飛浮、そして夢飼が俺を糾弾するならわかるが、顔も名前も知らない赤の他人に罵られる筋合いはない。
「あ、あの、さ……」
そんな風に思考の迷路に陥っていたところへ、横から声をかけられる。
自分の世界から戻ってきた俺は、少し離れたところを歩くかすみと、さらにその前を行く飛浮を見つけてから、隣の声の主に返事をする。
「どうしたんだ、夢飼?」
「さ、さっきの……」
「え?」
「だから、さっきのって、やっぱり、その……うそ、なの……?」
さっきの――はて、何を言っているのかと考えて、すぐに思い至る。
「まさかあんたと会えて良かったとかいう、あの――」
「あー! ああー! ああー!」
どうやらこれでビンゴらしい。自分でもくさい台詞を吐いた自覚があるので、顔をトマトみたいに赤くする夢飼の心情は察しないでもない。
「悪いな、あんなこと言って。ちょっと嫌だっただろ」
「ううん……そうじゃ、なくて。ただ。いろいろ気になってさ……」
「いろいろ?」
「うん」
そこで、彼女はそっぽを向きながらもこう尋ねてきた。
「あたしが大切だっていうのは、うそ……?」
「どうだろう、わからねえな。いや……結構本気かもしれない。あんたは大切だ。今こうして歩いていることが奇跡みたいなもので、何があったにしても、あんたは大切な人だ」
それは別に、恋愛がどうだとかいう話ではない。ただ一人の友人として、こうしてどういうわけか縁を結んだ。だからこそ、あの場で死なせる気はなかった、
「じゃあ、もう一つ……」
次に来る問が本命だろう。そしてその内容は、俺にも簡単に予想できていた。
「朧実くんとあたしって、もしかして前に会ってる……?」
返答に窮する問だった。
だから、ここは、この場所では。
きちんと誠実に答えることにした。
「わからねえ。あんたが思い出の人なのかどうか、俺にはわからねえんだ。でもまあ、十年前に似てる誰かに会ってるってのは、事実だ」
「そっか……」
彼女はそう言って、それ以上は何も質問しようとはしなかった。
ただ一言、こう口にした。
「ごめん。何も、覚えてなくて」
「いいや。気にしなくていい」
そう、気にしなくていいのだ。それはまるっきり見当違いな謝罪だから。
別に覚えていなくてもいい。そもそも夢飼海奈って女の子に会えたことが、ひとつの奇跡のようなものだから。顔が同じとか似てるとか、そんなことすらどうでもいいのだ。
その気持ちが伝わったのか、夢飼の表情から申し訳なさそうな色は消えていた。
俺たちは足を動かす速度を上げて、前を歩く二人についていく。
☆ ☆ ☆
「結構遊んだな」
「そうだねー。今日もお兄ちゃんはとてもカッコよくてかすみは満足です」
「はいはい、ありがとうな」
「んーっ!」
うりうりとかすみの頭を撫でてやると、猫みたいに目を閉じて喜びを表現していた。なんかお尻にしっぽが見えそうだ。
「やはりお兄ちゃんの手のひらはとても気持ちいいなあ」
「……本当に幸せそうな兄妹だね」
「まあ、たった二人だけの家族だからな。そりゃ仲も良くなる」
「あ、ごめ……」
藪蛇を突いたと思ったのだろう、夢飼が口に手を当て、申し訳なさそうに謝罪するが、それをかすみが阻止した。
「いいんですよ、海奈さん。わたしはお兄ちゃんと二人でいる方が幸せですし、何よりわたしたちの両親はクソ野郎らしいですからね」
「え、えーと……」
「父はお兄ちゃんの妊娠が決まったと共に失踪。母はお兄ちゃんを最低限生かしていただけ。普段から殴る蹴るの暴力ばかりだったというんですから」
「まあ、あいつはクソだったけど、命を懸けてかすみを俺に送ってくれたことだけは感謝してる。生んで、力尽きたんだ。まあ、それなりに母親としての矜持があったのかもな」
「優柔不断なだけでは? 自分が大好きだっただけなんだよきっと」
むくりと頬を膨らませて怒ってしまった。まあ、それはあるだろうな。科学が進歩したことで、クローン人間、人格形成パッケージを組み合わせて人間と全く変わらない思考回路や性格を持たされたAIや、胎児とコミュニケーションを取ることすら可能であると産科で重宝される、遺伝情報の近い者同士が同一の夢の世界へ入れるリンクドリームという技術、優秀な遺伝子をかき集めて創り出される『優良児』、それに記憶捏造プログラムを内蔵したチップまで作られた。そして、そんな技術革新が進んだ社会だからこそ、倫理が一層重視される。2050年代では、中絶のような命を物の如く扱う行為に対して否定的だ。そうした社会の流れや雰囲気があったからこそ、俺は生かされ、かすみが生まれて来てくれたのかもしれない。
「ていうか、俺ってそこまでお前の前であいつらの悪口言ったりしてたっけ……」
「お兄ちゃん、嘘のつき過ぎでとうとう自分が何を口にしたのかも覚えていないの……? さ、さすがにわたしも心配だよ……」
「いや、いやぁ……ダイジョウブダヨ? ソンナコトナイヨ???」
妹に少々本気で心配されてしまったのが何気にショックだった。俺ってそんなに嘘ついてたか? かすみは家族だから心の膜も必要ないし、あんまり嘘つくことがないと思ってたのに……これはいよいよ俺の虚言癖を直すときが来たのかもしれない。まあ直す気ないけど。
そんなわけで、そろそろお開きの時間が近付いてきている。名残惜しいがここまでだ。
地下街で時間を潰しているうちにすっかり夜になり、ついには東の空が白み始めていた。
「まあ、ひとまず俺の虚言癖のことは置いておくとして……今日はここで解散だ」
この冥界から出るには、ランダムに配置された『スポット』に行くしかない。理屈としては、このスポットを生体調整ナノマシン『盧生』が出口だと認識していることに起因しているとか。おそらく登録されている場所に立つことで、『起きる』という命令を脳が発するよう、『盧生』にプログラムが組まれているのだろう。
「じゃあ、また今度」
「またな」
「さようならー」
「うん、今日はありがと。……でも、セクハラはほどほどにして」
ジト目で睨んでくる夢飼に、
「……わかった」
「今の間は何!? ねえ、今の間は、こらちょっと消えるなあああああぁぁぁ…………」
残念ながら彼女の申し入れは途中で聞こえなくなってしまった。
そして――――
☆ ☆ ☆
「おっけー! じゃあカラオケで決まり! もう制服のままでいいよねー?」
「そうだな! 駅前までみんなで行こうぜ」
「夜ご飯はどうすっべ?」
「まあ何でもいいんじゃなーい? 今考えるのめんどいし、後で決めればいいっしょ」
どうやら俺が一晩かけて冒険している間に、彼らは彼らで非日常へ向かう予定を決めていたらしい。狙い通り八人は俺に声をかけるどころか視線も向けないまま、楽しそうに談笑しながら教室を出ていく。
時計を見れば、机に突っ伏した時から短針は僅かしか動いていなかった。
あちらでの滞在時間は十四時間、その間、こちらでは八分強しか経っていなかった。
邯鄲の夢、というやつだ。生体調整ナノマシン『盧生』とはよく言ったものだ。それなりの大冒険をしたつもりだったが、最新モデルの炊飯器でも八分で米は炊けない。人生まるまる経験したわけではないが、何となく事実は小説より奇なりという言葉を思い出してしまう。
もっとも、共通の夢の世界なんてものを科学で作り出せる時代なのだ。そりゃまあ、世界が小説よりも奇妙に映るのも無理はないだろう。
『本当に、本当に、本当に、あなたはそう思っているのかなぁ?』
「――――ッっッっ? だれ、だ……?」
まるで脊髄を涎だらけの舌でゆっくりと舐めるかのような、鼓膜を振るわせるだけで生理的な嫌悪感を催す電子音声が、俺のポケットから響いた。
誰だ? どこから? なぜ? どうして俺の端末からこんな声が聞こえてくる。まさか端末を何かしらの方法で乗っ取られたか? そもそも乗っ取られたのならば、誰に???
焦燥と思考がぐるぐると頭蓋の中で駆け巡る。意味がわからない、何が起きてる。
いや、違う。何よりもその前に――
おそるおそるそこに入っている携帯端末を手に取って、外気に晒す。画面が通話中になっていることを確認して、震える手を意志で必死に抑え付けながら机の上に置いた。
遠くからこちらの様子を観察しているのか、そいつは俺の反応をクスリと笑い、
『怖いかい? 恐ろしいかい? 疑問だろう? わからないだろう、辛いだろう? しかし、残念ながら逃げることはできない。あなたはこの僕から逃げることはできない。あなたを見ている、あなたを追いかける。いつだってあなたを観察している。おかしなマネをしてはいけないよ? 助けも呼んではいけない。そもそも呼ぶことに意味はないだろうけどね』
「どういう、意味だ……?」
自分勝手にまくしたてる謎の電子音声に、俺は苛立ちを滲ませて疑問を投げた。
「あんたは今、俺に何を伝えようとしている」
『何も。伝える気はない、僕は疑問を提示し、提案を与えるだけ』
「…………っ」
冷や汗が頬を、鼻を、喉を、背を伝って落ちて行く。
自分の知らない、得体の知れない感覚に捕らわれている事実に、俺はどうしようもなく嫌悪感を覚えるのを止められなかった。
仕方ないだろう。俺の性格上、基本的に相手に会話の主導権を握られてペースを掴めないのは相当ストレスなのだ。
『本題に入る前に一つ。――『穿焔』は強かったかな?』
「――――ッ、あんた。クライアントの……ッッ。そうか、あんたは……っっ!」
『そう。彼女にあなたの暗殺を依頼した、闇社会のルーキー――「THE・Mazis」だよ』
何を考えて学校の真ん中で俺に連絡をしてきたのか知らないが、とりあえずスピーカーモードで話す内容ではないだろう。俺は苛立ち紛れに端末を手に取り適当に操作し、耳に当てた。
「それで、その大物が俺みたいな小市民に何の用だ。こんなちっぽけな学生一人を捕まえてどうする気だよ。俺が何か、あんたの重大な秘密に触れたか?」
だとすればいつだ? どの時点で俺はこの一連の暗殺騒動に巻き込まれていた? 何があった? 俺は、どこで踏んではいけない獣の尾を踏んだのか。
『ふふふっ、ふは、ふはははははは! 別にあなたを取って食おうというわけではない。暗殺依頼はただの余興さ。ゲームを盛り上げるための、余興』
「ゲームだと?」
『そうさ。そしてもう一つ、勘違いしているようだが、君はただの学生なんかじゃ断じてない。没個性的で、友達ゼロの嘘つきなだけのぼっちだとか思っているようだが……』
「余計なお世話だクソ野郎」
『あなたの存在はそんな矮小なものではないんだよ。そんな風に、そもそも言葉如きで言い表されるような存在ではない』
「ははっ、じゃあ何だ? 俺は宇宙からやってくるエイリアンを殺すためのウイルスを体に宿している唯一無二の存在だってか? あるいは異能力を破壊する異能力を持ってるイレギュラーだったり? 実は神様の作り出した被造物ってのもありだな。もしくはたった一人で果てしない時間の旅を経験しているのか? さあどれだ、答えてみてくれ黒幕気取り」
『ははははは、よく回る口だ。だが、それでこそあなたというわけか。別にそんな大仰なものではないよ。ただまあ、その価値に気付いているのは、おそらく『徳院』にもいない。『裏社会』だとか『闇』だとか言われる世界の中でも、ルーキーの僕だけが知っている』
話が逸れたね、とそいつは余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の声音で軌道を修正した。
『ともかく、だ。本題に入ろう。僕があなたに提示したい疑問はただ一つ。そして、そのゲーム内容もシンプル極まりない』
「……っ」
一呼吸も置かなかった。そいつはそれを言いたくて言いたくて仕方がなかったのだろう、まるで溜めこんでいたものを吐き出すかのように、無感動に無遠慮に、こんなことを言ってきた。
『あなたの見ている光景は、本当に真実なのかな?』
「…………………………………………………………………………………………………………」
思考が、止まった。
『だからさ、』
耳障りな電子音声は途切れない。続く。破滅へ、終焉へ、地獄へ、誘うかのように。続く。
『勝負をしよう。真実と虚構を懸けた、勝負を。どうかね?』
「なにを、言って……っ」
『あなたはどっちだと思う? 今目の前に広がる教室が、本当に現実だとでも? そこにあるものが、脳が電気信号で作り出した「存在しない現実」であるという保証はどこにある? ただの妄想の世界でしかないという根拠は? 君が目を覚ましているという証拠は?』
「……あんたは、なにを」
『今あなたが現実だと思っている全てが、夢ではないという保証はどこにある? ねえ、嘘つきさん――あなたの世界が嘘ではないと、誰が証明できるのかな?』
そんなことは考えたこともなかった。
俺が見ているもの全てが妄想? そんな馬鹿みたいな話があるか。ここは小説でも映画の中でもないんだぞ。そんなSFみたいな話があるわけ
『本当に?』
「ッッ」
心を読まれたのか……? あるいはコールドリーディングか? まさか、俺の思考が、誘導されて、いる……?
『本当にこの世界が妄想ではないと、そう言い切れるのかな? なあ、おい。考えても見てくれ。あなたが楽しく活躍できるような「共有できる夢」なんて代物、実在すると思うのか?』
呑まれるな。
『この僕の声だって、もしかしたら嘘かもしれない。あなたの作り出した虚構かもしれない。それを否定する材料はあるかな? ん?』
確かにこいつの言っていることは一理ある。
『だから、ゲームをしよう』
だがそれがどうした?
確かにこの世界が現実であるという証明は難しい。
『THE・Mazis』なんていう大物が個人に狙いを定める展開だって何かちぐはぐだ。
悪魔の証明と同じで、そんなここを夢じゃないと断定するのは果てしなく難しいだろう。
しかし、だ。
「いいぜ」
言った。
そのゲームを、受けて立った。
だって。
「俺のやることは何だ?」
『この世界が現実なのか虚構なのかの結論と、その証明』
「なるほどな。ゲロ級の高難易度だな」
『ああ、そうだ。でも、受けるだろう?』
お前みたいな奴に、俺の現実を奪われてたまるか。
「……俺は、現実に生きていると今でも信じている。かすみがいて、飛浮がいて、そして今日、夢飼海奈っていう女の子と再会した。こんな世界を虚構だと思いたくはねえな」
『そうか、でも真実はひとつ』
「ああ、わかってる。だからゲームをする上でさらに賭けてやる。俺は現実に生きてるってな」
『理解した。それで、具体的にはどうするのかな?』
「あんたを見つけ出してとりあえずぶっ飛ばしてから、洗いざらい吐いてもらう。そんで、ここが現実だという証明を得る」
『それすらも嘘の可能性があるわけだが?』
「そんな堂々巡りにはならない。俺自身が作ったゲームなら、必ず答えがあるはずだから」
『僕が、ここを妄想だと言えば信じるわけだ』
「ああ。そして、邯鄲の夢は覚める」
『そうか。ならばまあ、楽しみにしておくよ』
クツクツと笑って、そいつは最後にこう宣言した。
『では始めようか、あなたの人生最後のゲームを。
愚かな嘘つき――「虚霞」。あなたの嘘を魅せてくれ』
「はッ、望むところだ。楽しみにしてろ、ケツの穴まで掘って真実を暴き出す。
そうしてもう一つ――嘘を吹っかける相手を間違えたことを後悔しな」
◇ ◇ ◇
さあ、始まるぞ。
朧実幻冶の世界の天秤を傾けるための戦い(ゲーム)が。
夢と現のラストゲームが、始まる――――