序章 約束
冬の海だった。
ビーチには俺たちの他には誰もいない。肌を刺すように冷たい風は潮の香りを孕んでいて、夏のそれとは少し違って輝く冬の日差しが、海面に星のような黄金の輝きを無数に映している。
「外だっていいものだと思うよ。少なくとも、こんなところで燻ってるくらいなら」
「あはは、そうかな。でもなあ……やっぱり不安だよ。ここの外に出るのは」
その姉ちゃんは、俺よりも遥かに年上なくせにそんな弱気なことを言っていた。いつも余裕ぶって俺の上に立とうとするくせに、ふたを開けてみればだいたい俺がこの姉ちゃんを励ましたり慰めたりしているんだ。
十年前の、冬。親がクソだったせいで中途半端に心が成熟した俺は、年上に対する口の利き方がまずなっておらず、加えて微妙に達観していた。六歳のくせにだ。
ただ、それにしても、十六歳の女の子が十歳も年下のガキにアドバイスを受けるっていうはどうにもちぐはぐというか。大丈夫なんだろうかって心配になってしまう。
「大丈夫だって、姉ちゃんはカッコイイし強いから。まあ、俺みたいな子供に上から目線で応援されてる時点でだいぶ怪しいけど。でも、姉ちゃん優しいから何とかなると思う!」
「そう、かな……? 大丈夫、かな……? うう、でも、でもなぁー……」
「だから大丈夫だって。困ったときは俺が助けに行ってやるから! 六歳だけど!」
はぁー、とうなだれる姉ちゃんの頭に、俺は精一杯背伸びして手を置いた。そのまま右に左に、前に後ろに撫でてみる。姉ちゃんは目をつむって、猫みたいにされるがままにされている。
「んー……ありがと」
「それで、勇気は出た?」
「行かなきゃだめだよね」
「いや、それはわかんないけどさあ。でも、姉ちゃんが行きたいと思うなら、行ったら良いと思う」
「……まあ、行きたいか行きたくないかなら、とても行きたいかなあ」
俺の言葉に、姉ちゃんは困ったように唸ってしまう。
「実を言うと俺だって、今の家をぶっ飛ばして外の世界に行きたいんだ! お父さんはいないし、殴るし蹴るしのお母さんだって大嫌いだから」
「……なら、一緒に行く?」
「うーん、多分それは無理だと思う」
「なんで?」
「わかんない」
あっけらかんと言ってから、「でも」と続ける。
「いつかまた、姉ちゃんと会える日を楽しみにはしておく。姉ちゃんが外の世界に飛び出して、俺は俺で大人になって。その時にまたこうやって遊ぼう!」
「あははっ、そうだね」
俺の提案を聞いた姉ちゃんが、少し嬉しそうに笑った。それと共に、海で光る無数の輝きにも負けないくらい美しい銀髪が揺れた。肩口で切り揃えられた銀髪が揺れる様子は、彼女のご機嫌がとてもいいことを教えてくれる。
そして、そんな俺たちの足元には、九つのマスと、それぞれのマスの中に描かれた○と×が描かれた落書きみたいなものがあった。簡単なゲームだ。近辺の砂が軽く掘り返されていることからわかるように、このマスの取り合いのゲームを、さっきまで何度も何度も繰り返していた。
「じゃあ――」
機嫌が直ったことで、どうやら余裕を取り戻したらしい。全然様になっていない年上の余裕ぶったお姉さん的な笑顔を浮かべた彼女は、そこで俺の頭に手を置いて。
「楽しみにしとくね、げんやくんと会うの。――ありがと、わたし、頑張るね」
耳元でそう囁かれて、少しどきっとしてしまった。一生の不覚だ。
楽しそうに一歩後ろへ下がると、雲のように真っ白なワンピースが風に揺られてぶわりと浮かんだ。ふとももがあらわになって、恥ずかしくなった俺は咄嗟に目を逸らす。
「あはは、かわいーねー」
「うるさいなあ」
それからのことはぼんやりだ。適当に他のゲームをして遊んで、それから別れた。
再会と遊びの約束をしたあの姉ちゃん。
あれ以降、銀髪ボブカットの姉ちゃんとは、一度も会っていない。
十年が経った、今も。