はじまりのこと その四
「おお、治元殿!よくぞ来られた!」
門番に連れられ詰所の一角に行くと、血色のよい小肥りの老人が出迎えてくれた。
これが、小川先生だろう。狸か熊か…とにかく人なつっこいような丸顔だ。
「小川先生、お久しぶりで御座います!」
先生はとても嬉しげだ。
「して…なぜここへ?」
小川先生も再会が嬉しそうではあったが、すぐさま訝しげに私たちを見た。
「実は…」
先生が事の説明をしなさると、小川先生も納得したようだった。しかし、またすぐにその表情が曇った。
「してな、この阿哲十部衛殿なのだが…」
「何か、腑に落ちぬことでも?」
「斬殺ではないやもしれぬ。」
「はばかりながら…十部衛殿は、どのようにお亡くなりに?」
たまらず私は口を挟んだ。そも、私たちは十部衛さまの死に様をよく聞いていない。
「おっと、治元殿も詳しくはないので?」
小川先生が先生を見た。
「知らせを聞いてすぐに参上した次第で…」
それを聞くと、小川先生の表情が険しくなった。
あまり、想像したくはない死に様のようだ。
「阿哲十部衛殿は、店の近く…そうさな、二十間も離れておらんかったろう。そこで、と首の急所を突かれていた。」
店の近くということは、大通りで斬られたというわけか?いやしかし、小川先生はさっき斬殺を否定しておられた。
「小川先生、なぜ死因がわからんのです。店の近くであれば人の往来はあるでしょう。」
「それがな…この御仁、なんとこの日夜更けにひとりで帰ってきたそうでな。」
夜更け?
そういえば先刻向かいの茶屋の主人は女でもできたのではないかと言ってたが、そういうことになるのだろうか?
お上とある程度手堅いつながりを持つ商家のあるじとしては、不用心であるし、やましいと思われる行動だろう。
「声なども、聞かれなかったのですか?」
「聞こえなかった、と周りの家々のものは申し立てておる。遺体も、おそらくは死んでから暫らくして見つけられたようじゃ。見つけたのは、この阿哲屋の二軒となりの小間物屋の小女でな…。」
なるほど、その時にはすでに息絶えていたというわけか。
「我慢ならん。十兵衛は頑固ものとはいえ、殺されるようなことをする男じゃあなかった。」
先生が吐き出すようにののしりなさる。
「で、じゃ。斬殺ではなかった、というのはじゃな…。」
「そうです、腕の良い剣客であれば声一つ上げさせずに殺めることもできようが、ほかの方法ではそうはいきませんでしょう。」
「いかさま。しかしじゃ…わしが十兵衛殿の遺体をあらためたとき、妙なかんじを受けたのでな。」
「妙なかんじ、で御座りますか…。」
先生が言うには、この小川先生というのは大した医師らしい。
それが妙だと仰るなら、それはいかなことだろうか。
「血が、少ない気がしたのじゃ。」
血?私だけでなく先生も黙って続きを促した。
「首の管をぴゅ、と切られたからにはそれだけの出血はあるものなのはわかりましょう。
しかし、十兵衛殿は血をどろりと流してはいたが、まき散らしてはおらなんだ。」
「それがゆえに、斬殺を疑っておるので…。」
先生が、話を結んだ。その表情は、どこまでも険しかった。