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湯上がりの冬の脱衣場さえ、ちょっと楽しみになる魔法。


女「……死ね」


眼帯をつけて歩くのが、恥ずかしい。


真っ黒い液体が常にふつふつと沸いているように、私の心の中に今までの人生にはなかったような感情が芽生えていた。


憤怒、憎悪、羞恥、後悔。


地面を向いて歩きながら、屈辱だ、と呟いた。


昔、学校の道徳の時間か何かで、盲目の人と盲導犬のドラマを見たことがあった。普段人に同情することがない私でさえ、少し涙が出てしまった。


同じ立場で相手に寄り添うことを共感と呼び、異なる立場で相手に寄り添うことを同情と呼ぶのだとしたら。


今の私に同情するような奴らは、絶対に許せない。


関心を持たれても、無関心を装られても、あるいは本当に無関心だとしても。


私はどんな相手でも憎むだろう。


私は、世界を憎むようになった。


私の右眼が、まぶたのうらのはなび、を見ることはもう二度となかった。


/


見えない右目の視界の中から人が近付いてくる気がして怖かった。


眼帯を見られたくないという気持ちがありながら、自分の右目が以前のようには見えないということが通行人に伝わってほしかった。


こんなに学校に行きたくないと思った日はなかった。


夏休み明けの登校でも、友達と喧嘩した翌日の登校でも、ここまで気が重たくはなかった。


/


みんな暖かく迎えてくれた。


地元で起きた出来事は学校にも伝わっていた。


過度に明るくしないように、過度に触れ過ぎない空気を出さないように。


急に冷たくなることも、急にやさしくなることもなく。


それでいて気遣いはしてくれたのだった。


よく勉強した子供達が入るような学校だけあって、100点満点の対応だった。


その対応に、私は後ろめたく思った。




私は変わってしまった。


この人達がそのことに気付いて、日に日に離れていくことは確実で、その未来を想像するのがつらかった。


生まれたままの姿でいることが当然で、身を清め、身体の内側からあたためてくれるお風呂を小さい頃から避けていたように。


この生暖かい空間に、私は時期に耐えきれなくなるだろう。


のぼせて卒業したくなるほどに、ずっと浸かっていたいと思っていたのにな。


/


思った通り、私に話しかける人は日に日に少なくなっていった。


私が壁をつくるようになってしまった。


心から笑えなくなってしまった。


もしも生まれつき右目に視力がなくて、だけど誰もそのことに気付かない見た目であれば、私は私を隠して楽しく卒業までの日を過ごせたかもしれない。


あんな事件があったせいだ。


私が人を遠ざけるようになってしまった。




誰とも話さずに過ごす休み時間がこんなにも惨めなものだとは知らなかった。


何かおっちょこちょいをしても、誰も笑ってくれないのがこんなに空虚な気持ちになるものだとは知らなかった。


ありとあらゆる、人と関わる行事が、こんなに気怠く憎しみすら覚えるものだったことはなかった。


みんなが会話している中で、誰とも話さずに食べる給食は味もわからず、上手く噛めない。

口の中を噛んで、血の味だけを感じて、黙って飲み込む。


放課後になったら1番早くに教室を出る。友達と残って喋るなんてこともない。


独りの時間が増えた。かといって、勉強する気も、趣味をつくる気も何も起きなかった。


母「何をいつまでふてくされているのよ」


女「うるさいな。生まれてこなければよかった」


母「何よそれ……。だったら今この場で殺してあげようか」


女「やればいいじゃん」


私にしてみれば、ある日いきなり10点の答案が返ってきたようなものだった。


頑張る気すら起きなかった。


盲目の人も隻眼の人も、その他にも障害を抱えて生きている人を見下したことはなかった。

父親が世話になっている凄腕の按摩(あんま)の先生は盲目だ。

私が小さい頃に通っていたピアノの教室の先生は左耳が聴こえなかったそうだが、それを知っても小学生の私は何も態度を変えなかった。


障害者の人を美化するような番組が流れたら、母はお笑いの番組にチャンネルを切り替えるような人だった。


プライドの高い父は、逆にどんな人でも特別扱いをしなかった。

母はそんな父を、医者としても尊敬していた。


我ながら、因果応報なんてものが決してあてはまらないような一家だと思う。


それが今では、母親の愛情にも反抗を示して、左目につくものをかたっぱしから否定していた。


/


また独りで休み時間を過ごしている時だった。


「何読んでるの?」


隣の席の、肥っていて気持ち悪い男の子が話しかけてきた。


私が読んでいる本について聞いているのだろう。


久々に人に話しかけられた私は、嬉しい、とは思わなかった。


とても不快だった。


醜い感情が芽生えた。


以前だったら、この男の子は私に話しかけることはなかっただろう。


片目を失明したことで、話しかけやすくなったのだろうか。


同じ土俵に立ったとでも思ったのか。


仲間だと思われたのが屈辱的だった。


私は怒りの感情をひたすら堪えて「ごめん」とひとこと言った。


以前の私なら、笑顔で返したんだろうか。


それも自信がないな。


/


今日もため息をつく。


メガネをかけていればよかったのか。


わたあめを買わなければよかったのか。


地元の友情なんか放棄して家で寝てればよかったのか。


視力は左目の方が良かったので幸いだったと言えるのか。


犯人が無事捕まって、それで。


私は相変わらず、今日も死にたかった。


/


右目については、皮肉なことに不自由を感じなくなってきていた。


コンタクトレンズをつけているのを忘れて寝てしまうことがあると以前先輩がいっていたが、嬉しいことにも慣れて当たり前になるし、悲しいことにも同じことがいえるらしい。


左目の視界だけでも日常生活を送ることは可能で、右目が見えないことを忘れてしまう時間が増えてきた。三次元の距離感を感じる必要のある体育の時間などはとても困ったが(次第に体育は休むようになった)。


意識してはいけない呼吸が1つ増えたくらいだった。


こんな不謹慎極まりない発言、右目が見えていた頃の私なら間違いなく言えなかっただろう。


/


そうはいっても。


右目のことについて考えなかった日は、あの日からもう10年近く経つけれど、一度もない。


めんどうくさがりで、歯磨きや、お風呂を、時々さぼることがあった私だけど。


記憶から抹消したい出来事に関しては、律儀にも、毎日憎む習慣ができていた。


ただの一日さえあの日を考えなかったことはない。


あの犯人を頭の中で拷問にかけなかった日はない。



夜中の暗闇の中でさえ、見えない右目の事を思い出して、犯人の顔が浮かんで、怒りが抑えられなくなって暴れまわったことがある。



テレビを見ても本を読んでも、新聞に書かれている記事を読んでも、全て自分ごとに置き換えるようになってしまった。


点字ブロックが目につくようになった。

公共交通機関が視覚障害者に対してアナウンスしているのが耳に入るようになった。


性犯罪の被害者など、今まで気にもしなかった人のことまで考えてしまうようになった。


「傷つくことで、他人の痛みを知ることができる」


確かに大切なことだけれど。


それにしては、あまりにも代償が大き過ぎるのではないか。


女「他人の痛みなんて知らなくていいから、傷つきたくなかったよ」


この日も憎悪に駆られたあと、独りで泣いた。


/


女「悪いこともあれば良いこともありました」


女「まずは良いことから。ちょうどいいことにあなたは私の左側に座っていますね」ザバァ…


女「例えば、こんな風に、右側に座っていた人が顔の右側を寄せてきたらどう思います?」


男「……近い」


女「そうですね。右側にいる人が、右の頬を寄せてくるんですもの。大学でそういう友達がいて『レズっ気があるんじゃない?』って影で少しからかわれていました」


女「私は一瞬でわかりました。おそらく左耳の難聴だと。私はその子の右側に立って話すようにしたり、教室に入る瞬間から右側に座れるように計算しました。そしたら顔を寄せられることはありませんでした。その子自身も人の左側にいるように日頃から考えて行動していることがわかりました」


女「私はその子の抱えているものには触れません。私が気付いたことを、遠慮のない友達にも、その子本人にも伝えません」


女「大学に入学してから、私の右目が義眼だと指摘してきた人はいません。髪のバランスが不自然だってからかわれることもあるくらいですから、本当に気付かれてないのだと思います」


女「ノートに気持ち悪い落書きをしている時に友達が右側に立っているのに気付かずに恥ずかしい思いをしたこともありましたが、時々天然だと思われるだけです」


女「あの難聴の子は気付いてるのかもしれませんがね。何かを失った人は全てが自分事なのですから」


/


女「続いて悪いことです」


女「電車の中で寝れなくなりました」


女「理不尽がいつ襲ってくるかわからない、という恐怖のためです」


女「男さん。隻眼の私が右目で視ている今の景色はどのようなものだと思いますか」


男「暗闇か?」


女「反対です。白いモヤのような浮かぶ気がしてるんです」


女「まぶたのうらのはなびを失った私は、視神経が見せる幻を見るようになりました。見えてるという表現が適切かはわかりませんが。この景色に命名する気にもとてもなれませんでしたしね」


女「左目が日常で、右目が非日常です。理不尽と遭遇しただけでここまで世界が変わってしまうんです」


女「ごつくて、でかくて、こわくて。それでいてユーモアもあるような、ミステリアスな雰囲気もあるような」


女「女子大生の恥ずかしい一面を目撃して、それでも無関心でいるような、朝の5時にお風呂に入るような何か事情を背負っているような」


女「正体を掴めそうにないあなたに私が話しかけた理由、わかる気がしませんか?」


男「…………」


女「過去の恐怖に打ち勝つためですよ」


/


女「今までの人生で交わることのなかった人々への克服。男性についてまわる暴力性のイメージの払拭。そんなことを考えるようになったのはつい数年前からです」


女「中学で孤立し、不登校になりました。勉学へのやる気も削がれ、高校も希望するところには合格できませんでした」


女「高校も馴染めずにすぐに不登校になりました。無為な時間を家で潰した青春時代でした」


女「1日は長いくせに、日々はあっという間に過ぎていきました。何も積み重ねておらず、1年間、2年間を振り返っても何も記憶がないんです」


女「権威ある賞をいくつも受賞した映画を見ても感動できません。何かと文句をつけたくなるだけです。それよりか、ただ馬鹿馬鹿しい同性同士の青春を描いたアニメの方が心地よかったです」


女「親の金と時間を全て浪費に使いました。たまに外出をした帰り、混雑する時間帯の電車に乗る必要がある時にも、女性専用車両にしか乗ることができませんでした」


女「理不尽に巻き込んでくる男性が怖かったんです」


女「いつまで外に怯えて生きなくてはならないんだろうと不安と不満につぶされてしまいそうでした」


/


女「高校2年生の終わりのときでした。正確には、もう中退扱いだったんですが」


女「このまま孤独に人生が終わってしまうのではないかと怖くなりました。はやく、レールの上に戻らなくてはならないと焦っていました」


女「昼夜逆転が乱れに乱れて、一周回って通常の生活サイクルに戻った時に、今から人生をやり直そうと決意をしました」


女「きっかけなんてものはないんですね。本を読んでも、映画を見ても、観た直後の数時間だけ気持ちが変わるだけで、翌日にはまた腐った自分に戻っている。私は、私を動かすのは私しかいないんだとようやくわかりました」


女「自分でした決意さえ1日後に失せているのはしょっちゅうでしたが。失せるたびに何度も決意をしました。1日目に365日続くような決意ができないのなら、365日毎日決意をしてもよかったんですね」


女「大検というものを取得して、家庭教師をつけてもらって、なんとか今の女子大に合格することができました。家庭教師の女性の先生は医学部の大学生でした。能率的に機械的に淡々と、かなりわかりやすく教えてくれました。勉強以外の話題に踏み込むこともなく接しやすかったです。そこまで計算して接してくれたのかもしれませんが」


女「ここまでもかなり大変でしたが、これからはもっと大変です。なんせ、心穏やかに、一般人と話す日常を送るという目標があるのですから」


女「まぶたにも少しだけ傷が残っているので、人前で目を瞑るのも避けよう。そもそも、見えないように右髪を目にかかる髪型にしよう。自分から右目のことについて話すのはやめよう。いろいろと悩み、正解のないルールをつくりました」


女「ところが、いざ入学してみると、当初心配していたようなことの大半は気にせずに済んだんです。というのも、私自身もそうであるように、みんな自分がどう見られるかばかり気に病んでいるからです」


女「右目が見えない人も、右目が見える人も、他人の目を気にしてばかりの人生です。相手の弱みを見抜こうとする人は、相手が自分をどう見てるのか怖くて仕方ない人ですし、他人を全く見ようともしない人は、自分を見せることだけに夢中になっている人です」


女「育ちの良い女の子たちはそれが平和なレベルなだけです。孤立したくない、仲良くしたい、楽しい日常を過ごしたい。私と考えていることは一緒だったんですね。そこだけ解決できれば、他の細かいことなんてよかったんですね」


/


女「入学したての頃は大学を人一倍愛おしく感じました。ここには過去の自分を知っている人はいない。授業がどんなに退屈でも、仲良くなった友達が無防備に隣で寝ている90分間は嬉しくてたまりませんでした。ちゃんと群れの中に属しているということがこんなにもありがたいことだとは思いませんでした」


女「親との関係も良好になりました。私が海外に行ってみたいと言った時は、背中を押してくれました。父と母が夜な夜な口論する声は実は聞こえていたんですけどね。家をでる時には父も母も泣いてしまいましたし」


女「私は、私を知っている人には二度と会いたくないと思っていたほどなのに。私を知らない人に話しかけるのは平気でした。海外の大学で、つたない英語で、日本人の女の子と外国人の同世代の人と話しました。外国人の男友達もできて、普通に馬鹿げた会話もしました。海外を好きなまま日本に帰国することができました」


女「キャリーケースを引きずって、男性も乗っている混雑した電車に乗った帰り道でした。電車が急停車して、近くにいた男性が私にぶつかりました。」


女「私は途中の駅で降りて、ベンチに座って、大量の汗をかきながら呼吸を整えました。日本の男に対する恐れが全く消えてないことに失望しました」


/


女「自分を変えるというのには二種類あるのではないかと思います。1つは、本当に変わること。もう一つは、変わったように周囲に思われること」


女「私はせめて、周囲には変わったように見せられる段階まで行こうと思いました」


女「人見知りの女の子がアイドルを目指そうとする心理を反動形成というそうですね。私は、恐怖の対象である男性に気軽に話しかけました」


女「見た目がごつくて、でかくて、こわいだけじゃなくて、刺青までしてたなんて、最高でした」


女「早朝にお風呂に入るというのは健全な生活サイクルをまわすための儀式のようなものでしたが、あなたと出会って、過去の自分を乗り越えられる機会を与えられたのではないかと思いました」


女「あなたに私の恥ずかしい姿を見られた日から。男性でさえ話しかけるのをためらうようなあなたに、私は言葉をかけました」


女「内心焦っていましたよ。男性と話す時はだいたいそうですが。しかしここでなら、私がどんなに冷や汗をかいても、熱くて汗をかいてるようにしか思われません。手が震えても湯のゆらぎにしか見えません」


女「そもそも、あなたは私と同じくらい人を見ようとはしない人でした」


女「のぼせるのが早いあなたといることで、毎朝5分間、10分間程度のリハビリをしていたんです」


女「少しずつ慣れてきました。駅員の男性に質問することも、大学にいる若い男の先生に質問することもできるようになりました」


女「でもそんなことはおまけみたいなものです。私は、あなたと話すことが毎日本当に楽しみになっていたんです」


女「男性に対する恐怖の克服が目的のはずだったのに、あなたと話すことが私の目的になっていました」


女「あなたと朝からまわしていく一日が好きになっていたんです」


女「よろしかったら、男さん。もうすぐ」


男「街中の銭湯の工事が終わるんだったな」


女「はい!それでも、私はこれからも……」


男「もう俺には二度と関わるな」


/


女「……どうしてですか」


男「お前のくだらないリハビリに付き合ってられん」


女「き、傷つきましたか。不快になりましたか」


男「恐怖を乗り換えたいなら、ワニとでも仲良くしていろ」


女「トラウマを克服する手段にされたことがそんなに嫌でしたか」


男「お前は変われない」


女「…………」


男「自分で言ってただろ。変わったようにみせられればいいと。誰に見せるんだ。親か、友達か、世の中か」


男「自分で言ってただろ。みんな自分がどう見られているかに夢中だと」


男「お前はな、自分が男性を克服したと、自分自身に見せつけたかったんだよ。それは自分に対する虚栄心なだけで、本質は何も変わっちゃいない」


男「過去の自分を消すことなんて諦めろ」


/


女「あなたにとって……私と過ごした時間はどうでしたか」


男「俺は俺を変えてくれる存在を求めていたんだと思う。お前では俺を見守るには弱すぎる」


女「目を見るななんて言ってるくせに、自分のことを見てほしいだなんて、子供みたいな要求ですね」


男「そうだな。俺は母親代わりの女を求めていたのかもしれんな」


女「あなたを子供だと思う女性なんているんでしょうか」


男「いないだろう。俺ももう期待しない。30代のおっさんだしな」


女「私と話す時間はもういりませんか」


男「お前にとってこそ不要なんだよ」


女「どういう意味ですか」


男「今日はもうのぼせた。あがる」


女「理由を話してくださいよ」


男「これ以上人に恨まれるのはごめんなんだ」


女「なんですかそれ。自分だけが何かを背負ったみたいに思って」


男「背負っているんだよ」


女「何を」


男「罪を」


女「私に関係ありますか?」


男「人を後ろから刺そうとしたことがある。そして俺は刑務所に長い期間入れられていた」


女「えっ……」


男「乗り越えた壁の向こうは、谷底だったな」


男「それじゃあ、さようならだ」


/


女「…………」


女「怖く見える人は、悪い人だと限らない」


女「そんな偏見をなくすつもりが、偏見は正しかったということですか」


女「自分が魔物だと自ら伝えるその人は、それでもやはり魔物なんでしょうかね」


女「……腹が立ちますよ」


女「むかつきますよ。世の中、全部全部」


女「お風呂なんて、大っ嫌いですよ。入らなければよかったです」


女「許せないですよ。目につくものも、目に見えないものも」


女「私の周りには、嫌なものしかないんですか」


女「なんで見えないのよ。なんで見えるふりをしているのよ」


女「私はただ、幸せになりたいだけなのに!」




私はこの日、大学をさぼってしまった。


私は一人で興奮していた。街中を怒りながら歩いていた。


あの人は私を刺した男ではない。見た目も似ても似つかない。


だけれど、私を不幸に突き落とした男と、同じような人間だったのだ。


嫌いなものの克服なんて、馬鹿げた考えだった。


私の右目を奪った男と結婚して、子供でも産んで、家庭を築けば克服、とでも私は言いたかったんだろうか。


無性にいらいらした。


コンビニで買ったお菓子の袋を怒りに任せて道端に捨てた。たかがそんな行為でさえ罪悪感が重くのしかかる私が、どうしてこんな苦しい目に遭わせられているのか。


帰ってふて寝をした。そして、風邪を引いてしまった。


表面上の温度だけ高く、身体から熱が奪われていくことに気づかずに体温が下がることを湯冷めと呼ぶ。


一度墜落してたどり着いたぼろぼろのレールを飾り立てようとしていた私にはお似合いの現象だ。


そういえば、小さい頃にこんなことを思っていたっけか。


風邪を引いたら、お風呂に入らなくても済む。


帰ってきたおばあちゃんがつくったおかゆを食べたあと。


私はぼおーっとしたまま、あたたかい布団の中で寝た。


/


男「久しぶりだな、夜の風呂は」


男「こんなところにあるからか、どんな時間帯でも人は少ないな」


男「今日も疲れた。ゆっくり浸かるとしよう」ザバァ


男「ふぅ」


男「…………」


男「…………」


男「…………」


男「風呂はこんなに静かなところだったんだな。ここ数日は早朝から騒がしかったからな」


男「お母さん。やはり、あなたの言ったことは正しかった」


男「あなたは間違っている」


男「律儀に、俺は間違え続けています」


/


男「今日は日差しが眩しいな。昼間の風呂も久しぶりだ」


男「温泉はいい。親父さんとの思い出が蘇る」


男「何もかもが憂鬱だった時期が俺にもちゃんとあったことを思い出せる」


男「仕事のプレッシャーに潰されそうになって吐いていたこと。怒りから人を殴りつけていたこと」


男「自分が何のために生きているのか、葛藤できる時期があったこと」


男「俺は幸せになるのを諦めたんだろうか。諦めたふりをしているんだろうか」


男「今は何も考えず、日銭を稼いで、食べ物を食べて、温泉に浸かって、家で寝るだけだ」


男「これでいいんだ。俺は、表の世界の人間と交わってはいけないのだ」


/


男「ふぅ。今日の仕事も長引いたな」


男「もう4時半か。風呂に行ってから寝たいところだが」


男「…………」


男「一度寝てから入ればいい。どうせ、いつも汚れている人間だ」


男「それとも、自信過剰かもしれないな。街中の温泉はもう治っている。あいつも、わざわざこんなところまでもう足を運んでくることもないだろう」


男「俺には、レールなんてない。このままどこにも進まず、過去に置き去りにされたまま死ぬのを待てばいいのだ」


/


男「……寝すぎてしまった。ここのところ疲れていたからな」


男「もう夜か。飯を食うか、それとも風呂にでも入りに行くか」


男「…………」


男「風呂から行こう。あの場所はいい」


男「誰とも交わらずとも、自分を迎えてくれる。そんな雰囲気がある」


男「今夜も一人、何も考えずに湯に浸かろう」


/


男「心地いい夜風だな。やはり夏の温泉も悪くない」


男「それにしても、髪が伸びすぎてきたな」


男「床屋なんかに行くと、昔は汗がとまらなかったな。今でも緊張する」


男「黙って、目を閉じて。あまりにも切られそうになったら口を挟んで」


男「俺も、あの頃から何も変わって……」


男「……ペットボトルが見える。ワニでも来ているのか」


男「残念だな。夜にこんなところまで来る女なんかここ数日いなかった」


男「もしも女子大生にでも会いたいなら、早朝に来れば可能性は……」


男「お、おい」


/


女「…………」


女「はぁ……はぁ……」


女「や、やっと……来ましたね……」


女「さぁ……あなたが……のぼせる前に……はやくお話でも……」


男「顔が真っ赤だぞ。いつからここにいる」


女「水があるのに……脱水症状だなんて……海で遭難したみたいですね……」


男「いいからあがれ。はやくしろ。手を貸してやる」


女「はい……」


男「立てるか?」


女「おぶってください……」


男「それは無理だ」


女「恥ずかしいんですか……」


男「馬鹿なこと言ってる場合か。ほら、肩なら貸してやる」


女「……じゃあ立ちます」ザバァ


女「う、うわぁ……」グッタリ…


男「おい。大丈夫か。立ちくらみか」


女「…………」


男「……はぁ」


男「おぶるしかないか」


/


女「……んん」


男「目が覚めたか」


女「ここはどこですか」


男「管理人のおばあちゃんの休憩場所だ」


女「そうですか。それはレアですね」


男「俺はもう行くぞ」スタ…


女「健康診断か何かの記入書で」


男「なんだ」


女「気絶したことがあるかどうか、はいかいいえで答える欄があるじゃないですか」


女「あなたのせいでこれから私は”はい”に丸をつけなければならなくなりました」


男「ただの立ちくらみだ。それに俺のせいにするな。じゃあな」スタ…


女「三途の川は冷たかったって言ってたことがあるじゃないですか……」


男「覚えてない」


女「言ってました。さりげない言葉に深い意味を持たせる優越感、私にはわかるんですよ」


女「私もよく大人や知人に使っていましたもの。”他人の目を気にしてばかりの性格”とか”目を奪うような光景”とか」


女「日常会話では実はそんなに出番のない表現をさりげなく混ぜて、深い意味を込めているとも知らない相手を見てちょっと優越感に浸ったり、見下したり」


女「ほんのいたづら心なんですけどね」


女「それであなたは、どんな風に死にかけたんですか。危険なお仕事でもしたんですか」


男「鋭いな。だが、小学生の時に起こった本当に大したことのない話だ。じゃあな」スタ…


女「あの!」


男「なんだ」


女「コーヒー牛乳が」


男「コーヒー牛乳がどうした」


女「ええと、うーん……」


男「コーヒー牛乳が飲みたいか?」


女「それ!そうです!コーヒー牛乳が飲みたいです!!」


/


男「……はぁ」


女「パスタうんまいですねぇ」


男「コーヒー牛乳が飲みたいんじゃなかったのか」


女「ファミレスのご飯は美味しいですね。若者には、おばあちゃんの食事だと健康的すぎるんです」


男「用がないならもう帰るぞ」


女「男さん、ファミレス入ったのいつぶりですか」


男「しょっちゅう入るさ」


女「意外。一人でご飯食べててさみしくないんですか?」


男「お一人様も多い。ファミリーで来ている客の方が少ない」


女「一人で入りづらい場所があったら私が行ってあげますよ。お化け屋敷とか」


男「怖くない」


女「怖さよりも一人で入るの恥ずかしくないですか」


男「それはまあ言える」


女「なんか、パスタ食べてる男さんって違和感あります」


男「相変わらず話の飛ぶやつだ」


/


女「どうして避けてたんですか」


男「俺の存在はお前を不幸にするだけだ」


女「かっこつけてるんですか」


男「俺は元犯罪者だ。長い期間服役していた」


女「どれくらいですか」


男「知りたいか」


女「知りたくありません」


女「私は他人を見ることなんてどうでもいいんです。ちゃんと人間らしく、自分が自分をいかに素晴らしい人間か認識するために、他人によく見られることだけを考えます」


男「いかにも不幸になりそうな考え方だな」


女「嫌なことには目を閉じます。うっかり目に入ってしまわないように、あなたも見せないでください。男性のぽろりなんて御免被ります」


女「いや、それはそれで……」


男「お前は何なんだ」


女「それを知るためにも、私にはあなたが必要なんですよ」


/


男「過去の恐怖を乗り越えたいというやつか」


女「…………」


男「刑務所で1つ面白い話を聞いたことがある」


男「海外の話だ。10歳で大統領顕彰の学生賞を受賞した、頭脳が極めて優れた学生がいた」


男「学生が興味を抱いたのは連続殺人鬼シリアルキラーだった」


男「常人ではない者達の心理を追求しようとし、彼は多くの殺人鬼と交流を持とうとした」


男「自分は不幸な境遇にいると殺人鬼に見せかけ、同情を引き、自分に興味を抱かせることに成功した。彼は、“理解できないものの支配”を成し遂げようとしている自分に陶酔していたのかもしれない。ある時、殺人鬼との面会中に、彼は殺されそうになった。運良く生き延び、殺人鬼の死刑は執行された」


男「学生は弁護士になった。犯罪の被害者になった者を救うことを仕事にした。ところが、自身の頭部に銃を放ち、自殺してしまった」


男「お前風の優越感に浸れそうな表現をニーチェの言葉で示してやろう」


男「深淵を除く時、深淵もまた、こちらを覗いているのだ」


男「俺に関わるな。お前をレールから引きずり下ろした奴と、話しているようなものなんだぞ」


/


女「…………」


女「あの」


男「どうした」


女「私が髪型変えたの気付きました?」


男「またふざけた話題で誤魔化すつもりか」


女「気づかなかったですよね」


男「女の些細な変化などいちいち気にしていられん」


女「それは男性だからというだけじゃないでしょう」


女「あなたは、人の目を見ようとしません」


男「…………」


女「私も、人の目を見ようとしません」


女「深淵を見ることも、深淵から見られることもありません」


女「見抜くことも、見抜かれることもない湯船に浸かって、ただ目を閉じていればいいじゃないですか」


/


男「なおさらその相手が俺である必要はないだろう」


女「まぁ、そうかもしれませんね」


男「認めるのか」


女「道徳とか、論理とか、倫理とか持ち込んだらあなたとのんきにパスタ食べてる場合じゃないことくらい私にだってわかりますよ」


女「不謹慎は被害者の特権です。母も、自分の父親が亡くなるまで、父親を亡くした人を葬式で慰める言葉が見つからなかったそうですが、父を亡くしてからは、他の人の葬式の時に言葉をかけられるようになったそうです」


女「なんなんでしょうね。なんで出会ってしまったんでしょうね。あなたのこと毎晩拷問するような妄想にかけていたのに」


男「俺は張本人じゃない」


女「同罪ですよ」


男「拷問でもするか」


女「今日は夜も遅いのでいいです」


男「朝早くならするのか」


女「その時間は湯船に浸かる予定があるので」


男「忙しそうだな」


女「それではまた早朝。今夜は大学の宿題をやらなければいけないので。お代、置いておきますね」ガタ


男「お、おい」


店員「お会計ですか?」


男「ああ……」


男「……はぁ。身勝手な女だ」


男「…………」


男「あの野郎、2千円置いていきやがった」


男「小走りしているのがここからでも見える」


男「……ふふ。ふっふっふ」


男「朝も夜も騒がしいやつだ」


/


女「おはようございます」


男「おはよう。先に来てたんだな」


女「えっへん」


男「街中の風呂はどうだった?」


女「行ってないですよ。風邪を引いて寝込んで、それからまたここで早朝にお風呂にはいって。あなたがいないもんですからワニのように待ち伏せて待ってたんです」


男「恐ろしいな」


女「えっへん」


男「俺に会いに来る口実に、女湯の故障を言い訳にできなくなってしまったな」


女「調子に乗らないでください」


/


男「お前がのぼせた姿は珍しかった」


女「あんなに浸かってたことないですもん。一日中ですよ」


男「その対価に俺と会話したところで何も得るものはないと思うがな」


女「それでは死にかけた時の話をしてください」


男「まぁ減るもんじゃないしいいだろう」


女「ちなみに女性は裸を見られると心がすり減りますからね。見ても減るもんじゃないとかいわないでくださいね」


男「俺が小学生の時の話だ」


女「いいスルー具合です」


/


男「俺は昔カナヅチだった。今もだが」


女「えー!?」


女「あっ、でも金槌っぽい。重そうだし」


男「そりゃどうも」


男「友達の親に海に遊びに連れて行ってもらったことがある。自動車酔いする俺のためにわざわざ電車でな。友達の人数も多かったしな」


男「遠出する時はいつも自動車酔いでぐったりしていたものだったから、元気なまま目的地についた俺は興奮していた」


男「友達を砂に埋めたり、埋められたり。砂浜を駆け回ったり、ボールをなげあったり」


男「小学生の夏を普通に楽しんでいたな」


/


男「友達は、拙いながらも泳ぐことができた。はじめは集団でボールを投げ合ったりしていた」


男「お昼ごはんも食べ、午後になった。皆まとまってやる遊びに飽きて、各々泳ぎだした」


男「俺も泳ぐ真似をした。一人だけ突っ立ってるのは恥ずかしかったからな」


男「明るい日差しの差す天候とは裏腹に、波の勢いは強い気がしていた」


男「顔に水をつけてるうちに、友達とはぐれてしまった。トイレに行ったり、飲み物を取りに行ったり、泳げるもの同士でみんな自由に行動していたんだろう」


男「俺はなんだか惨めな気がした。自分だけ泳げないし、自分だけ自動車に乗ると体調を崩す」


男「自分の親だけが、友達の親が迎えに来た時も挨拶にすら出てこない」


男「惨めさが怒りに変わり、俺はどうにでもなってしまえばいいと思って沖へ向かって進んでいった」


男「背は高かったから、足はついた。それでも次第に身体のコントロールが効かなくなっていった」


男「引き返そうと思ったがもう遅かった。パニックになって、慌てた俺は泳ごうとして、水の中に潜り込んでしまった」


男「次に目覚めたのは、夕方になった時だった」


男「悲しいことにな、自分で起きたんだ」


男「目が覚めると夕陽が差していた。俺は溺れかけ、失神したあと、なんとか浜辺まで押し戻されたらしかった」


男「周囲には何人も人がいた。友達もまさか俺が溺れかけていたとは思わず、泳げないから寝ていると思ったらしい」


男「もしも水が気道に詰まっていたら、俺は本当に死んでしまっていただろう」


男「生きてても死んでても見分けの付かない人間だと思った。ひどく孤独に感じたよ。帰り道一緒に帰っている時も、友情なんてものは存在しないんだと怒りに満ちてずっと無言になっていた」


男「その日の夜に風邪を引いた。親はふたりとも、別々の場所に外出をしていた」


男「布団に入っても身体は震えていた。そのくせ身体は熱かった。じっと寝ていることに耐えられなくなって布団から抜け出した。涼しさが心地よかった」


男「そのせいで風邪は悪化した。いっときの涼しさを求めて身体から熱が奪われているなんて気にもかけなかった。こういうのは、湯冷めと似ているな」


男「これでおしまいだ。お前の人生が実りあるものになるようなエピソードだったことを願うばかりだ」


/


女「それは、悲しい出来事でしたね」


男「不謹慎は被害者の特権だろ。お前なら笑ってもいいんだよ」


女「人の痛みがわかるのも被害者の特権です。肉体が死に近づいた時に覚える感情は孤独感であるということもわかってるつもりです」


女「友達はあなたが呼吸しているのを確かめた上で、放って置いたのだと思いますよ」


男「どうだかな。何時間も寝ていても問題ないような友達なら、そもそも誘う必要はなかっただろう。俺はあの頃から少し浮いていたからな。海に行く話題が出た時にたまたま俺もその場にいたから、一緒に行くことになっただけだったんだろう」


女「あなたも私と同じかもしれませんね。毎日こうやって、水への恐怖を乗り越えようとしているのかも」


男「温泉で海への克服か。そりゃあいいリハビリかもな」


女「今でも海は怖いですか?」


男「もっと怖いものといっぱい出会った。海への苦手意識も消えないが、海の方がマシだと思えるものの方が多いこともわかった」


女「例えばなんですか?」


男「嫌な人間とかだな」


女「それは、嫌な海より嫌かもしれないですね」


/


男「話はおしまいだ」ザバァ


女「もうあがるんですか」


男「定位置につくだけだ。奥側は俺の席だ。どけ」


女「気を遣わなくてもいいですって」


男「さっきからずっと俯いてるだろう。俺以上に根暗に見えるぞ」


女「そういうことは口に出さずに遠回しに言うものだと思います」ザバァ


男「だから俺の定位置に座ると言ってるだろう」


女「座る場所にはこだわらないって言ってたくせに」


男「じゃあどういえば良いんだ」


女「そうですね……」


女「こうしましょう。私の身体の魅力に理性を失ったあなたがいつ襲い掛かってきても逃げられるように、入口付近に私はこれからも座り続けます」


女「これならみんな納得しますね」


男「…………」


女「もしもーし」


男「…………」


女「溺れていませんか?」


男「起きてる」


女「ならよかったです」


男「ふて寝するがな」


女「ちょっと!すみませんってば!」


/


男「おはよう」


女「おはようございます」


男「…………」


女「…………」


男「触れてもいいか?」


女「駄目です」


男「どうして私服で風呂に来てる?体育座りなんかして」


女「美しい景観は損ねていません」


男「そうだが……」


女「何か昔話でもしてください。他の話題を求めます」


男「…………」


男「中学生の時に、女子がプールを見学していたが、あれは」


女「他の話題だって言ったじゃないですか!」


男「ここは学校じゃないんだ。わざわざ来ることもなかっただろうに」


女「無言で来なかったらあなたが悲しむじゃないですか」


男「風呂なしアパートだとこういう時に困るんだな」


女「家で髪の毛だけでも洗面所で洗って、身体はタオルで拭くことにします。幸い大学も夏休みに入りましたし」


男「本当にか?お前が本当にそんな面倒なことをしてまで清潔を保つのか?」


女「……保ちますよ」


男「目が泳いでるぞ」


女「金槌の人に言われたくないです」


男「泳げて羨ましい限りだ」


/


女「おはようございます」


男「おはよう。今日も早いな」


女「そういえば、私がのぼせて気絶した日の話なんですけど」


男「どうした」


女「私の裸見てませんよね」


男「見てない。おぶったが」


女「おんぶしたんですか!?」


男「他にどう持てと」


女「お姫様抱っこでいいじゃないですか!!」


男「それは……そっちの方がハードルが高い。見られているようで困る」


女「気絶してたんなら見えないでしょう」


男「気絶した方が悪い。ごちゃごちゃ言うな」


女「開き直った!?」


/


男「おはよう。今日も早いな」


女「おはようございます。さぁ、私を襲わないうちにはやく奥へ」


男「はいはい」


女「大学生で夏休みにこんなに律儀に早起きしてるの私くらいですよ」


男「家で何してるんだ?」


女「就職活動も私は終わってますし、卒業論文の準備と、あとは不登校の時にしてたようなことです。本を読んだり、映画を観たり」


男「文化的だな」


女「私も来年から働くんですね。ああ、日曜日の夜が憂鬱になってしまうのかぁ」


男「それは今までだって一緒だったんじゃないか」


女「これからはもっと大変でしょう」


女「月曜日の朝を楽しみに感じるような人を勝ち組というんでしょうね」


女「不登校の私は、むしろ誰とも会わない平日が安心できて、休日に外出するのを控えていましたからね」


女「平日も休日も、どちらも楽しく過ごせたらいいのになぁ」


男「そんなお前が朝風呂に入っているのは凄いことだな」


/


女「……ふっふっふ」


女「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ、ですよ」


女「お風呂嫌いの私が少しでもお風呂を好きになれるように、お母さんが私にプレゼントしてくれたものがあるんです」


女「誕生日でもクリスマスイブでもないのに、プレゼントをしてくれたことは珍しかったんです。あれは不登校の1月ごろのことだったでしょうか」


女「荒んでいてろくに口も聞かなかった私に、メッセージとともに包みを部屋に置いていてくれたんです」


女「湯上がりの冬の脱衣場さえ、ちょっと楽しみになる魔法」


女「包みをあけるとバスタオルが2枚入っていました。何の変哲もない、キャラクターも何も描かれていないタオルです」


女「おちょくられている気がして一瞬腹が立ちました。ただ、手に持った瞬間に、心地の良い違和感があったんです。手触りが、なんだかやわらかい」


女「本物っていうのは絶妙なんですね。100%弾くとか、100%吸収するというのは二流の中の最高級品で。一流の物は、100%も100点も決して取らないように気をつけているんですね。少し、しっとりとしていました」


女「今身体に巻いているタオルは普通のバスタオルですが、身体を拭くタオルは別物なんです」


女「今治タオル、というものをご存知でしょうか。愛媛県今治市は伝統的なタオルの産地です。品質テストに合格したものが、今治タオルブランドとして販売されいます」


女「ブランドといえばティファニーやブルガリくらいしか知らなかった私です。今治タオルというものは当然初耳でした」


女「その日は寝る前にお風呂に入るのが楽しみになりました。冬場の脱衣場の寒さが大嫌いだったのに、お風呂からあがるのを待ち遠しく思いました」


女「お風呂からあがり、身体を拭いてみたところ、なんとなくよかったんですよ。なんとなくいいな、と思った繊維が頭から包み込んでくれて。髪の毛もいつもほどにはワシャワシャしなくてもいい感じで」


女「癖になりました。お気に入りの枕が見つかったようなものです。タオルなんかにお金をかけるのは馬鹿馬鹿しいと、裕福な家庭の娘ながら思っていましたが。やはり高級なものは高級な理由があるんですね。親はそれを私専用のタオルにしてくれました」


女「熟睡するには安心できる目覚まし時計を持てばいいんです。ゆっくりお風呂につかりたいなら最高のバスタオルを。デザートが梅干しだって聞かされてたら、フレンチのフルコースもしょっぱく感じてしまうでしょう?」


女「終わりよければ全て良しといいますが、終わりがよければ過程もよくなってしまうんですね。過程が良いから終わりがよくなるわけでもなく」


女「お風呂に入る前から、良いタオルが私を待っていると知っている。お風呂に入る前から、楽しい話題を共有してくれる人が待っていると知っている」


女「それが私が朝混浴を継続できている秘訣かもしれませんね」


/


女「以上、宣伝でした」


男「今治市のまわしものか?」


女「根っからの東京育ちですね」


男「見た目は普通のタオルと違うのか」


女「すこしモコモコしている感じはしますかね」


男「耐久力はあるのか」


女「高級なものが脆いなんてのは偏見ですよ。雑に扱わなければ長く使えるのは靴と一緒です」


男「ほう、そうか。」


女「興味がおありですか」


男「けっこうな。安いタオルしか使ったことがないから、どういう違いがあるのか知りたい」


女「女の子の下着以外で初めて興味を持った布ですか」


男「今治タオル製の下着があったら凄い興味がわいてしまうかもな」


女「あくまでタオルですから……」


男「わるい、少しのぼせた」ザバァ


女「知ってます。それではまた早朝」


男「ああ、また早朝」


おぶらない。


かけない。※水


しせんをむけない。


もまない。


混浴では、マナーを守りましょう。


社会でも、マナーを守りましょう。


さもなくば、この空間に、浸かる資格が与えられません。


次回「勃起してるってことですか?」


浸かっては出るのを繰り返すように。


話しては離されることの繰り返しで。


あなたといるのにも、あなたといないのにも、少し、疲れてきちゃいました。

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