人の痛みなんて知らなくていいから、傷つきたくなかったよ。
女「あら、おはようございます」
男「おはよう。今日は早いな」
女「今日もお仕事でしたか?」ザバァ
男「どうした、もうあがるのか」
女「定位置ですよ。はい、あなたは奥に行って」ザバァ
男「どこでも変わらんだろう」
女「どこでも変わらないならどこに行ってもいいじゃないですか」
男「哲学者みたいなことを言うんだな」
女「どこが哲学なんですか」
男「昔、生きていることと死んでいることは一緒だと主張していた哲学者がいたらしい」
男「そのことでからかおうとした市民が言った。生きているのと死んでいるのが同じだと言うのなら、今すぐ死んでみろとな」
男「哲学者は断った」
男「何故なら、それらは同じことだからと」
女「屁理屈ですか。意味がわからないんですけど」
男「同じことならする意味がない。だから同じことはしないというわけだ。たとえ同じだとしてもな」
女「余計わからなくなりました」
男「誤って女湯にはいってしまったら言ってみる価値があるかもな。男湯も女湯も同じだと」
女「そういう屁理屈を言う変態のために混浴が生まれたのかもしれません」
男「起源は混浴が先だろう。水に男と女の区別などなかったはずだ」
女「私たちは原点回帰しているんですかね」
男「源泉かけ流しの原点回帰か」
/
男「それにしても今日も暑いな」
女「気温ですか?水温ですか?」
男「どっちもだ」
女「寒いのは苦手ですか?」
男「むしろ得意だ」
女「どんなに寒くても半袖半ズボンを貫いた小学生時代でしたか?」
男「普通に長袖を着ていた。あいつらも別に寒さに強いわけではなかったと思う」
女「国は調査をするべきですね。小学生時代に真冬に半袖半ズボンを貫いた少年は、大人になったらどんな人物になっているか。きっと、なにかしら有意な結果が出るはずです」
男「追跡調査で厚めのコートを冬に着ていたら少し悲しい気持ちになるな」
女「寒いことに耐えなくてもいいんですからね」
男「俺もあついことには耐えないようにしてるからな」
女「北風と太陽なら、あなたに対しては太陽が有利ですね」
男「太陽がでていたら熱くて汗をかくから温泉に行って脱ぐ。北風が吹いていたら寒くて温まりたくなるから温泉に行って脱ぐ」
女「結局脱ぐんじゃないですか」
男「半袖半ズボンで気温に耐えた経験がないから、体温調整が苦手なんだろうな」
女「追跡調査の結果が出ました。半袖半ズボンで小学生時代を耐え抜いた少年は、暖房とクーラーを一般人より使わない傾向が見られました」
男「エコなやつらだな」
女「見習って下さい」
男「俺もどっちも使わんからな」
女「ええー」
/
女「北風が吹くのも太陽が照らすのも、哲学者が生きるのも死ぬのも結局は一緒なんですね」
男「違うだろ。混浴に女と入るのと、男が女湯に入るのと同じくらいに違う」
女「同じくらいに違いますか」
男「女が男湯に入るのは許されるけどな」
女「同じだけど違いますか」
男「男は女にとって許されざる存在になりやすいからな。混浴の数が減少しているのもこの前のワニみたいなやつらのせいだ」
女「この流れで聞きますけど、透明人間になったらどこに行きたいですか?」
男「女湯」
女「定番ですね。なんだかんだ言ってそこですか。でも、いいじゃないですか、混浴に麗しい女性とはいってるんですから」
男「女湯と混同を混浴するな」
女「混乱しないでください」
男「女はどうなんだ。透明人間になったらどうする?」
女「戻れるのか心配になります」
男「そんなこと心配している場合か」
女「女湯に行っている場合ですか」
男「男の夢をわかっていない。性欲を満たしにいくわけじゃないんだよ」
女「じゃあ……」
男「男は性欲を満たすためにアダルトな動画を見るか、アダルトな店に行くだろう」
女「知りません」
男「混浴という企画物も存在するが、それで性欲を発散させようというものは少ない。泡立つ湯に浸かる大人の店もあるが、やはり大多数の大人が行っているというわけではない」
女「知りません」
男「普通の性交動画で興奮している男たちも、透明人間になったときだけは、何かの使命に目覚めたように女湯に向かうんだ。普通の風俗店に行って普通の交尾を眺める奴などほとんどいないと言っていいだろう」
女「まだ時間あまり経ってないですけど、のぼせましたか?」
男「小学生時代の少年が想像する好きな女の子が裸になる場所というのは、お風呂以外には存在しなかったんだ。だから、ベッドの上では少年の夢はかなわないんだ」
男「原点回帰だよ。湯気立ちのぼる温泉に浸り、都会の喧騒から避難しているとこう思わないか。透明人間になってから温泉に行くのではない。温泉に来たから透明人間になれるのだと!!」
女「きゃっ!」
男「はぁ……はぁ……もうあがる」ザバァ
女「やはりのぼせてましたか。昨日は長く入っていられたのに」
男「あのあと湯あたりした。まだ少し尾を引いている」
女「それではまた早朝……お大事に……」
男「うぅむ……」
/
男「…………」
女「…………」
男「お、おはよう」
女「おはようございます」
男「昨日はすまなかった……」
女「何がでしょう」
男「透明人間がどうのこうの」
女「別に気にしてません」
男「そうか……」
女「…………」
女「…………」
女「ぷぷっ……」
女「(あんなの女子大ならシモネタのうちに入らないんだけどな)」
女「(刺青入れた紳士だからなぁ。大人の店がどうのこうの言っていたのを反省してるんだろうなぁ)」
男「…………」
女「(俯いててよくわかんないけど、今どんな表情をしているのかな)」
女「(ちょっと覗き込んでみよ)」グィ
男「……わっ!」
男「な、なんだ」
女「そんなに驚かなくても」
男「俺を見るな!」
女「そ、そんな言い方しなくても……」
男「いや、その……」
女「…………」
男「…………」
女「ソープランド行ってるくせに」ボソ
男「誰がそんなこと言った!!!」
男「というか何故そんな言葉を!!」
女「あなたよりよっぽどマセガキですよ。知識面だけですが」
/
女「昔話の時もおっしゃってましたね。目を見られるのが苦手だって」
男「ああ。原因はわかってる」
女「お母様の教育?」
男「そうだ。物心付いた時には、頭を両手で押さえつけて、俺の目を見ながら、"あなたは間違っている"と言葉を植え付けられていたからな」
女「洗脳みたいですね」
男「青年に反抗期というものが存在していてよかった。親の呪縛から解き放たれる貴重な機会だからな」
男「それでも、未だに人の目を見るのが怖い。だからこうして前髪を伸ばしている」
男「さすがに女性のあんたのほうが長いけどな」
女「……それは女性という理由だけではないかもしれませんよ」ボソ
男「ん?」
女「お母様は今でもトラウマですか」
男「そうだな」
女「時々恋しくなったりしませんか?」
男「なるよ」
女「会いに行ったりには?」
男「三途の川を渡ってか?」
女「えっ」
男「死んだんだ」
女「…………」
男「なぁ」
男「母から頭を押さえつけられて、近くでじっと見つめられている時に、俺は幼いながらあることに気づいたんだ」
男「人の目は、同時に相手の両目を見れないということに」
男「右目を見ればいいのか、左目を見ればいいのか。眉間を見ればいいのか。どれが正解なのかわからなかったんだよ」
男「俺は、確かに正しいことについて教えてもらったんだ。日常の細かいところにまで口出しをされていた」
女「世間にとっての正しさではなく、お母様にとっての正しさでしょう?」
男「そうだな。教わらなくてもいいようなことをたくさん教わった。母が怒っている時のふるまいかた、悲しんでいる時の慰め方。俺は何一つ合格点を取れなかったんだがな」
男「目のやり場の位置でさえ、どこを見るのが母にとっての合格なのか考えさせられた」
男「正しさの押しつけは、人を自然な道から外す」
男「例えるなら、正しい呼吸法について教わったようなものだな。何秒間、どのくらい息を吸い込み、どのようなペースで吐くのが理想的なのか」
男「普通のやつらはそんなこと教えて貰っていないから、自然に呼吸をしている。俺は、教えられたとおりにやろうと、不自然に呼吸をしてしまっている」
男「そして人に目を見られると、焦燥感がとまらなくなってしまった」
/
女「そうでしたか」
男「だから俺の目を見るのはやめてくれ」
女「わかりました」
男「……別に、あんたに対してだけじゃないからな」
女「わかってますよ」
男「あんたの瞳は、なんというか」
女「はい」
男「綺麗だった。一瞬見ただけだけどな」
女「…………」
男「久々に人の瞳を見た気がする。こんな綺麗なものだったかと驚いた」
女「……どちらですか」
男「どちら?」
女「私のどちらの瞳ですか?」
男「あまり意識は……」
女「なんだ、もう自然に呼吸ができているじゃないですか。もうあがります」ザバァ
男「どうしたんだ急に」
女「それではまた今度」
男「左目」
女「…………」
男「右目は前髪に隠れててあまり見えなかった」
男「左目だ」
女「……正解です」
女「それではまた早朝」
/
女「昨日は」
男「すまなかった」
女「すいませんでした」
男「おはよう」
女「おはようございます。じゃなくて」
男「やっぱり正解不正解があったんだな。どちらの瞳を見るのが正しいのか」
女「いいですよ。どっちでも」
女「うんざりして飽きてしまっていても、いつまで経っても慣れない人の反応っていうのが私にはあるんです」
女「男さん。よろしければなんですけど。のぼせたらすぐあがってもいいので。私の」
男「お前の昔話を聞かせてくれ」
女「……はい」
男「俺の長話に付き合ってくれたしな。話してて、意外とすっきりしたよ」
女「よかったです」
男「ちゃんと聞いてやる」
女「そんなに力を入れなくてもいいですよ」
男「それじゃあ湯の花をつまみにでもしながら」
女「どんな味がするんですかね。小麦粉みたいですけど」
男「食べてみるか?」
女「たべられません」
男「身体にいいらしいぞ」
女「浸かるとですよ」
男「話はまだか?」
女「私の嫌なところがうつってきましたね……」
男「水中感染だな」
女「はいはい。それじゃあ医者の娘の退屈な物語のはじまりはじまり」
男「根に持つなよ」
/
目を閉じた時に見える虹色のチカチカはどこから来るのだろう。
幼い時の私は、世界で自分にしか見えないものだと信じていた。
初めはパチパチとしたまだら模様の虹を映していても、目蓋の上から眼球を指圧するとその光景は変わる。
虹から宇宙へ。
宇宙から大地へ。
大地からマグマへ。
マグマから地獄へ。
地獄から星空へ。
困った私はそれを「まぶたのうらのはなび」と子供の感性で命名した。
/
父親は外科医で、母親は高校時代の同級生だった。
父親はプライドの高い変人で、母親はおしとやかだけれどたまに怒ると怖い人で。
父親は私を持ち上げるのが大好きで。
母親は私を抱き締めるのが大好きで。
2人とも愛情が深かった。
私は小学生の頃から授業は真面目に聞いていたし、快活な子達と上手く人間関係を築けていた。
親の期待通りに良い子に育った。
/
いや、こんな言い方は傲慢だ。
子供は親に似る。
素敵な親を見て育ち、素敵な親を模倣して似ていっただけだ。
「良い子を演じ続けた反動で不良に…」
テレビ番組でそんなエピソードを見ては少し違和感を覚えていた。
/
私はこうではないかと考える。
子供の反抗には、親の期待に対する反発と、親が期待しないことに対する反発、この一見正反対な2種類があると。
「親や教師に敷かれたレールの上なんか歩きたくない!」
親が敷くまでもなく、レールは既に敷かれている。
それは、親が歩いてきたレールだ。
それぞれのレールを歩いてきた男と女が出会い、結婚を機にレールは一つに結合される。
出産はその過程にあり、子供は生まれた瞬間から、親と一緒のレールを歩みはじめている。
その時に親が「あなたはあそこのレールを渡りなさい」と遥か上空にある綺麗なレールを指差していると、期待に応えられないストレスでグレてしまうのだろう。
一方で、親と歩いてきたぼろぼろのレールに嫌気がさして、「私はあそこのレールを渡りたい!」と反抗してしまう。このどちらかなのだ。
/
私は素直に、親の歩いてきたレールを歩みたいと思った。
私もこの人達のように、健全で、明るくて、時々くだらない口喧嘩のある、愛情に包まれている生活を送りたいと当たり前に思っていた。
父と、母と、あの事件が起きる日までの中学生の私を見て思う。
素敵な人生だった。
/
席替えをすることになった。
クジ引きで決めるのだが、私は中学生の女子としてはおそらく珍しく、隣の男子が誰になるかはあまり気にしなかった。
前後が自分と仲の良い女友達になりさえすれば、毎日楽しくなるなと思った。
だから、クジを引いて、前に仲の良い友達が来て、嬉しかった。
隣が肥っていてにきびだらけで俯いている男子で、後ろが眼鏡をかけてカバーをつけた本をこれまた俯きながら読んでいる女子でも、気にならなかった。
ちょっとからかってみようとか、見下すような気持ちも全然なかった。
全く、気にもかけないだけだった。
それは、恵まれた思春期を生きている女子学生には自然に芽生える感情で、決して罪深いことではなかっただろう。
/
これは後に知ったことなのだが。
休み時間を地獄だと感じ、早く授業中になって欲しいと願っている生徒がクラスの片隅にはいるらしい。
休み時間になって、嫌な人とコミュニケーションをとることや、 そのコミュニケーションすら取れず、孤独で惨めな思いをする人達だ。
私が見向きもしなかった人達。
孤独で可哀想だなんて思ったことはない。
孤独なんだな、と頭に浮かぶだけ。
私と人生が交わることがないような人達に対して、何ら感情を抱くことはなかった。
ヒエラルキーなんて言葉がまだなかった頃。
「みんな違ってみんないい」
「ナンバーワンよりオンリーワン」
流行りの言葉に素直に頷いていたのは、みんなと違ってみんなより可愛い子や、容姿の良さは1番の子だった。
男子は、デブでも愛されキャラの人もいたし、チビでも面白いキャラの人もよく注目を集めていた(恋愛対象にはならなかったが)。
ただ、会話がまるで面白くない人は、やはり冴えない者同士で群れていた。
一方、女子学生における序列においては、容姿が絶大な力を持っていた。
/
休み時間になる度に手鏡を開く女の子と一緒のグループだった。
綺麗な女の子ほど自分の容姿に厳しい。
アイドルや芸能人がブログで自分の容姿のコンプレックスを告白することがあるが、あれは本心だろう。
テストで40点の答案が返ってきても折り畳んですぐに捨てて忘れてしまうが、98点の答案が返って来たら用紙の間違えた部分をいつまでも悔い続けるだろう。
用紙の間違えた部分、いや、容姿の間違えた部分について、98点の女の子はいつまでも悔い続ける。
私はあごに小さなにきびが出来ていた。
親が外科医でもにきびの出現を抑えることはできない。
これさえなければかなり幸せなのになぁ、と悩んでいたことは、クラスのマドンナの様な存在だった母親の遺伝により獲得した98点の幸せの証だったろう。
いつも手鏡を大切そうにもっているのを揶揄して、根暗な女の子が「ラッコかよ」と言ってるのを聞いた時は、やはり妬みだとも不快だともすら思わず、何の感情も芽生えなかった。
/
浴衣の似合う女の子達だった。
ピンクも、黄色も、うぐいすいろも、鮮やかに映えていた。
私は友達が大好きだった。
クラスの男の子は二の次だったけれど。それでも、こんなに綺麗な女の子達だけで歩いているのは、なんだかもったいない気がするなぁと、他人事のように傲慢なことを考えていた。
生まれて、気付いたらここにいた。
13才になって、綺麗な女の子達と歩いている。
26才になった私はどうなっているんだろう。
39才になった私は今のような家庭を築けているんだろうか。
学校の先生をからかうような話題を聞きながら、私は珍しく哲学的なことを頭の片隅で考えていた。
/
食べ物を買おう、ということになった。
私はやきそばを食べたいと思った。
誰かがたこやきを食べたいと言い出した。
私も、私も、と続いた。
私も、と私も言った。
たこやきを買って、食べながら歩く。
確かに、食べ歩きするなら、やきそばよりもたこやきの方が見栄えがいいかもしれない。
食べ終わってしばらく歩くと、わたあめを買おうということになった。
私はあまり好きではなかったけれど、私も、と再び言った。
無理して協調しているというわけではなかった。
自分で考えず、周りに流されるのに慣れていた。
慣れというのは、好き嫌いを超越した感情であり、自由や束縛よりも高い次元にある行動でもある。
わたあめを舐める姿はたこやきを食べる時よりも浴衣姿に似合っていたと思う。
ちゃんと13才の時間を私達は生きていた。
/
女「今日はここでおしまいです」
男「そうか」
女「あなたがのぼせてしまいそうなので」
男「気付いていたか。中々言い出せなかった」
女「私の前では忍耐しないでくださいね」
男「当時のお前は、なんというか」
女「はい」
男「感情の見えないやつだな」
女「そうかもしれないですね。抜け殻みたいで気持ち悪いでしょ」
男「そこまでは言ってない」
女「今はどうですか?」
男「明るさで何かを隠していそうだ」
女「何かを隠したいなら暗いものが1番ですよ。なんせ見えにくいんですから」
/
女「おはようございます」
男「おはよう。昨日の話の続きをしてくれ」
女「せっかちですねぇ」
男「善は急げだ」
女「のぼせるのは善ですか」
男「急いでのぼせてる訳ではない」
女「それじゃああなたがのぼせないうちに、話しましょう」
/
「疲れたね」
屋台をぐるぐるまわっているうちに飽きてきた。
「花火の時間まであとどんくらいかな」
「落ち着いた場所で見たいね」
「……あのさ」
「ん?」
「公園、男子いるかな」
/
「やあやあ、ひまじんども~」
「なんだ、女子かよ」
公園にはクラスの男子と、私服姿の暗い女の子3人組、それとベンチに座っている男性がいた。
こちらに気付いた女グループが手をあげかけたが、男子に話しかけた私達を見て手をおろした。
「それなに?銃?」
「クジ引きであたったんだよ」
「ここ日本だよ?捕まっちゃうよ?」
「お前らを射ったら捕まるかもな」
「なにそれ下ネタ?」
女子がクスクス笑いだすと、銃を持っていた男の子がうんざりしたそぶりを見せた。
けれど、本気で嫌がっているようには見えなかった。
夏祭りの夜は、男子と女子の机と机の間に空いている3cm程度の隙間を、くっつける日なのだ。
/
雑談がしばらく続いた。
普段のような男子のとげとげしさも抜けて、和やかな話題で笑い合った。
その時だった。
「始まった!」
花火が夜空に打ち上がった。
赤色、黄色、紫色、橙色、緑色。
浴衣に劣らぬ色のバリエーションで夜闇を照らす。
去年は家族と見ていた。
物心ついた頃から見続けていた。
見慣れてはいたが、見飽きることはなかった。
この美しい景色に見合うだけの青春の中にちゃんといるという感触は、私を安心させた。
/
男子の1人が私に近づいてきた。
「わたあめ余ってるね」
女「うん。実はちょっと苦手なの」
「代わりに舐めてあげようか?」
女「んっ、やめてよ」
ニヤニヤ笑う姿も、かっこよく見える男の子だった。
一緒の班になったこともある。場を盛り上げるのが上手な男子だった。
「小さい頃、花火苦手だったんだ」
女「どうして?」
「怖かったんだ。フランケンシュタインや、ドラキュラと同じくらいに」
女「なにそれ」
花火が打ち上がっている間に、私達はささいな秘密を共有しあった。
時折他の女子が振り向いてクスクス笑ってくるのが恥ずかしくて目を逸らした。
公園の中には、もう3人組の女子はいなくなっていた。
/
「そっちはないの」
女「なにが?」
「そういうの」
女「そういうのかぁ」
花火を見て思いつく。
女「なんか、ちょっとグロテスクかもしれないんだけどさ」
女「小さい頃から私にしか見えないと思ってて。家でそれを見てる時は、友達も見えてるか気になるのに、学校に着くとその景色の存在なんかすっかり忘れてるっていうものがあって」
女「朝に二度寝してる時なんかに、手の甲を目に押しつけることがあるのね。そうしたらさ」
わたあめの棒を取られた。
先ほどベンチに座っていた男だった。
食べたいのかな。ホームレスなのかな。
普段ぼぉーっとしている私でも、もっと不穏な空気を感じた。
判断をする時間さえ、与えられなかった。
「太陽だ」
/
死なせて。
死なせてよ。
右眼に割り箸が突き刺さったことを知覚した瞬間、激痛に襲われた。
今すぐこの痛みを消すか、それができなければ死なせてほしいと願った。
足がよろめいて、近くにいた女子を左手で握り締めた。
絶叫され必死で剥がされた。
このままが良いのか。抜くのが良いのか。ただひたすら混乱していた。
/
左目まで涙が溢れてきて視界がぼやけた。
犯人の姿はなかった。
先ほど近づいて来た男の子はオロオロしているだけだった。
救急車。救急車。
それだけが自分を救ってくれると縋った。
お父さんの顔が浮かんだ。お父さんは私を治せるのだろうか。
お母さんの顔が浮かんだ。お母さんの腕の中で眠っていたころに戻りたかった。
他に苦しんでいる同級生はいなかった。
女「……どうして、私でなければならなかったの?」
『関節リウマチ、変形性関節症、腰痛症、神経痛、五十肩、打撲、捻挫、冷え性、抹消循環障害、胃腸機能、疲労回復、健康増進』
馴染みのない言葉が多いながらも、泉質の効能を見るたびに本当に効くのかと疑わしく思っていた。
幼い私が看板を睨みつけていると、母は昔の話をしてくれた。
産後の痛みがいつまで経っても引かなかった母は、田舎の実家の近くにある温泉に入りにいったそうだ。
医者である父を夫に持っていても取り除けなかったその痛みを、驚くべきことに一日湯に浸かるだけで解消できたという。
泉質。
同じ温度の自宅のお風呂では駄目で、その温泉に行ったからこそ取り除くことのできた痛み。
あの湯じゃなければ駄目。
あのシャンプーじゃなければ駄目。
あのバスタオルじゃなければ駄目。
他人に違いがわからなくとも、自分にだけはそれが必要だとわかるものがある。
身長も、体重も、あるいは容姿も性格も、たとえどんなに似通った人が他にいたとしても。
その人じゃなければ、駄目なのである。
次回「湯上がりの冬の脱衣場さえ、ちょっと楽しみになる魔法」
お風呂は心のお洗濯、タオルは心の乾燥機
湯に浸かった後の時間と、コーヒー牛乳を飲む前の時間に、他の布では替えられない楽しみを。