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美しい女の特徴

女「……あれ。まだ来てないや」


女「お仕事が長引いてるのかな」


女「身体でも洗っておこうっと」


ゴシゴシ


女「それにしても、刺青をしてる人と話してるなんてな」


女「ピアスを開けてる女の子でさえほとんどいない環境下に育ったのに」


女「お父さんのコネで就職が決まった会社も、理系の大学院生がいっぱい入るような会社だし」


女「はぁー。私は私自身を乗り越えようと本気で戦ったことがなかったな。お父さんのお金で冒険ごっこをしてるくらいで」


女「私は人生と戦いたい!厳しい環境で独り立ちしたい!」


女「そんなこと、思えないな。自信もないし勇気もない。守ってもらっていることは幸運なことだと思うだけ」


女「なのに漠然とした不安、ならぬ不満を抱えてしまうのは何故なんだろう」


女「私なんてかなり恵まれてる環境にいるのには違いないのにな」


女「よそはよそ、うちはうち、かぁ」


女「私も小さい頃から物欲はあまりなかったし、お父さんもお母さんもなんでも買ってくれようとしたから言われたことはなかったけれど」


女「本来は、他人が幸福なのと、自分が不幸なのは関係ないってはなしなんだろうけどさ」


女「他人の不幸もまた、自分には関係のないことなんだ」


女「他人が不幸でも、私は私がまだ恵まれているとは到底思えなかったんだもの」ザバァ


女「ああ、良いお湯。この時間だけは正しい幸せの時間だ」


/


男「おう。おはよう」


女「おはようございます」


男「一番風呂をとられたか」


女「遅刻するあなたが悪いんです」


男「まだ5時代だぞ。皆まだ寝ている」


女「よそはよそ、うちはうちです」


男「ん?」


/


男「よいしょっと」ゴシゴシ


女「あれ、身体洗うんですね」


男「マナーだからな」


女「洗ってないのかと思ってました」


男「ワニがいた時言ったのは冗談だ」


女「見ててもいいですか」


男「何を」


女「身体を洗っているところ」


男「なんでだよ。ワニじゃないんだから」


女「ワニにだってメスはいるでしょう」


男「ああいえばこういうやつだ」


女「こういう奴なんです私は」


/


男「…………」ゴシゴシ


女「…………」ジ-


男「洗いづらいな…」


男「楽しいか?」


女「背中大きいですね」


男「そうかもな」


男「刺青はどう思う?」


女「確かに温泉にこんな人が入ってきたらびびっちゃうなぁって」


男「そうか」


女「でもあなたの大きさを見たらどうせ男ならみんなびびっちゃいますよ」


男「……背中を見ているんだよな?」


女「背中のはなしですよ?」


/


女「刺青って染みたりしますか?」


男「染みないな」


女「身長が高いのって幸せですか?」


男「役に立つことは多い」


女「ふぅーん」


男「…………」


男「洗いづらい」


女「そうでしょうね」


男「視線を感じる」


女「視てますもん」


男「正面からじろじろ見るな」


女「……どういう意味ですか?」


男「せめて横目でチラ見するくらいの配慮はないのか」


女「そういう意味でしたか」


女「男の子の裸を見てキャーっと手で顔を覆い隠すも、指の隙間から見ている女の子がタイプだということですね」


男「話を盛り上げるな」


女「チラ見はしません。景色でもみてます」


男「そうしろ」


/


男「ふぅー」ザバァ


男「生き返るなぁ」


女「さっきまで死んでたんですか?」


男「いつも死んでるみたいに生きてるよ」


女「そうですか」ザバァ


男「もうあがるのか?」


女「私はすぐにのぼせたりしません。定位置に着くんです」


女「あなたは奥。私は手前。お互い、いつも同じ所の石に寄りかかってるじゃないですか」ザバァ


男「俺は奥に詰めてただけだ。特にこだわりはない」


女「好きな女性のタイプは?」


男「特にこだわりはない」


女「そんなんじゃ根無し草になってしまいますよ」


男「根のない草などあるのか?」


女「ことわざですよ」


男「それくらい知ってる」


女「初恋の人の性格は?」


男「根掘り葉掘り聞くな」


/


女「育ちがよくて、性格がおしとやかな女の子に欠けてるものってなんだと思います?」


男「どうした急に」


女「自己分析です。就活生の間で流行ってます」


男「おしとやかか…。自己分析をする前に自己分析が必要なようだ」


女「育ちの良い女性はモテますか?近寄りがたいにしろ、人気はありますか?」


男「モテるだろう」


女「えへへ」


男「だが安心感に欠けている」


女「安心感?」


男「その子から恵まれた環境を取り除いたら、その子はどう変わるのかという不安がある」


女「ふむふむ」


男「薄手の服を着ているか、着物を着ているかの違いのようなものだ。薄手でスタイルが良い女は安心だ」


女「着物の方が脱いだ時の姿が楽しみじゃありません?」


男「…………」


女「共感しました!?今共感してましたよね!!?」


男「う、うるさい」


女「じゃあやっぱり薄手のバスタオルが一枚の方が?」


男「このメスワニはやっかいだな…」


/


女「安心感ですか」


男「どうした」


女「安心感が大切なんだなって」


男「温泉でもそうだろう。ゆったり浸かっても許される空間を求める。ハラハラドキドキなんて誰も求めちゃいない」


女「女の子はハラハラドキドキしたまま安心したいんですよ」


男「ジェットコースターに乗りながら寝ていられるか」


女「お父さんにおんぶしてもらいながらお化け屋敷を歩くのは思い出に残りますよ」


男「母親と観覧車に乗るのもわるくないだろ」


女「そんな思い出があるんですか?」


男「一切ないから憧れていた」


女「私は親との思い出ばかりです」


男「そうか」


女「あなたは?」


男「何の思い出もない」


女「どんな時間を過ごしていたんですか?」


男「俺の人生なんか聞いてもろくな哲学は得られないぞ」


女「押して駄目なら引いてみろって言うじゃないですか」


男「それが何だ?」


女「今の自分が不幸だと思ってるなら、今までの自分がしてきたことと逆のことをすればいいんじゃないかと思うんです」


女「あなたと私は見るからに真逆の生き方をしていそうじゃないですか。だから、あなたの真似をすれば、私の人生きっとひっくり返るって」


男「……くく」


男「…………ふふ。最悪だな俺は。しかし」


男「ははは!笑いが堪えられんな!そうか、俺の人生を真似してみるか!手始めに刺青でも入れたらどうだ?」


女「……気に障ったならそう言ってください」


男「気に入ったんだよ。思っていた以上に図太いやつかもしれないな、お前は。ふっふっふ」


男「刺青を入れることになった経緯くらいなら教えてやろう」


/


「殺してやったらどうだ。お前をそうしたやつを」


駐車場で倒れ込んでいる俺に、話しかける男の声がした。


こういうやつらは今までにもいた。明らかに人生に敗亡しているような俺に、興味本位で話しかけて来る。


言葉だけは心配そうにしながらも、言葉の調子や顔の表情は決まってにやついている。


群れているから強気なのだろう。


3人、4人、多いときには8人近い時もあった。


弱ければ弱いほど力を高めるために大人数で群れている。


だから、群れの力は、結局どこも同じなのだ。


俺は憎しみを込めながら、いつものように返答をする。


「お前らこそ殺すぞ」


体中の痛みを堪えながら俺は立ち上がる。


中学の後半には、既に他人を見上げることが滅多にないほど俺の背は高くなっていた。


体格にも恵まれ、同級生との喧嘩では負けた記憶はない。


ふらふらになりながらも、こちらの立った姿を見た相手はひるんで去っていくものだった。


/


時間の流れがわからない。


痛覚と麻痺が入り混じった感覚ばかり流れる。


しかし、それでも相手が去る気配だけは感じなかった。


「人を殺すときくらい、相手の目を見たらどうだ」


俺は顔をあげた。


相手は一人だった。


いい年したおっさんだ。身体つきは良いが身長は小さい。


自分の息子にでも姿を重ねて俺を気にかけたのだろうか。


相手の目を見ないように気をつけながら、脅すように言った。


男「俺にかまうな……捻り潰すぞ……」


俺は立ち上がり、巨大な身体を見せつけた。


ナイフや、銃でも持っていない限り、普通の喧嘩で俺に勝てるようなやつはいない。


あるいは、母が依存している、義父が相手でも無い限りは。


「背の低いやつと、体格の悪そうな奴には喧嘩を売るんじゃねぇ」


「弱いから、ナイフと銃を持っているやつが多いんだ」


肩を掴まれたと気づいた後に、一瞬心地の良い背中の感覚があった。


そして、俺は地面に叩きつけられた。


頭の中に広がるチカチカとした星々と、夜空に浮かぶ現実の星々が交差し、視界が混乱した。


額に冷たい感触が触れた。


「ほらな、俺はどっちも持っている」


落ち着いて、視界を認識すると、拳銃のようなものと、ナイフと、俺を投げ飛ばした親父の目が見えた。


途端に汗が吹き出てきた。


男「はぁ…はぁ…」


「さっきまでの威勢はどうしたんだ」


男「や、やめてくれ…」


「死にたくないか?」


男「し、死んでもいい……」


「はぁ?」


男「み、見ないでくれ」


男「頼むから、俺の目を、見ないでくれ……」


/


俺は家には帰らなくなった。


変わり果てた母と、母を変えた男の住む家に帰っても、俺は二人の世の中への恨みを一身に浴びるだけだった。


俺は母を愛していたし、本当の父親も愛していた。


しかし、母は俺の実父を愛してはおらず、実父そっくりの目を持つ俺のことも、もう愛してはくれない。


小学生の時には既にヒビが入りつつあった関係は、俺が中学に上がる頃には決定的に壊れてしまった。


実父は家を離れてからも、時々は俺に会いに来てくれていた。


しかし、母に新しい男ができてから間もなく、二度と会いにきてくれることはなかった。


俺は何も知らなかったが、ある一点に関することは何もかもを悟らされた。


今この世界にはもう、自分を愛してくれる人間はいないのだということを。


/


「あなたは、間違っている」


俺の頭を両手で押さえつけて、目をじっと見据えながら、母はこの言葉を俺に植え付けていた。


物心が付く前から行っていた教育らしい。


功を奏し、俺は自分を否定し、母に依存するようになった。


俺は母親に愛されるためではなく、母親を愛するために生まれてきた男の一人になった。


俺は主張をすることをしなかった。


じっと耐えることができる男になった。


小学生にあがっても俺は寝小便をしていたし、学校では落ち着きがないと言われた。


そのことで母親に暴言を吐かれ、暴力を振るわれても、一切何も言わず、黙って愛のない鞭を受け容れ続けてきた。


俺にとって、母は正しい人なのだから。




母は容姿の美しい人だった。


学業面に関しても昔は賢い人であったそうだ。


そして、傷跡の多くある人だった。


自分でも傷をつけ、男からも傷をつけられていたらしい。


母と交際しても、唯一傷をつけたことがない男が実父だった。


大人しい人だった。


その実父が、ついに、一度だけ母に手をあげたことがあった。


夜遅くに帰宅した実父は、ぼこぼこにされている俺を見て、母に痛みの意味を少しでも教えようとしたらしい。


母は一瞬呆然としたあと、これまで見たことがない様な恐ろしい形相を浮かべ、激しい自傷行為に及んだ。


俺は、安心できる場所というものをこの日完全に失ってしまった。


/


男「それで、どういうわけか、俺は実父に暴力をふるってしまったんです」


「馬鹿かてめーは」


男「はい。馬鹿です」


「母親と一緒だな」


男「いいえ。母は正しい人ですが、私は全てが間違っています」


「糞ガキが」


学校に通わなくなってからどれだけ経っただろう。


虐待を疑って、学校の教師や、スーツ姿の大人が家に何度か訪れたことがあった。


母は、美しく、学歴や職歴というものも立派だったらしく、それでいて相手を同情させる雰囲気を醸し出す才能があった。


母は手に入れたものに感謝をすることはなくて、手に入れられなかったものに対していつも恨んでいた。


母に従っていた俺は、ありがとうの一言を貰うことはなかったものの、恨まれてはいなかった。


今は、家を飛び出して、愛すべき母親の奴隷になることをやめてしまった。


男「母親に愛されるためだけに生きていたんです。何のために生きていいのかわからない」


「でもこうやって逃げ出してんじゃねーか」


男「母親と住んでいる男に、毎日殴られるんですよ。殺してやりたいけど、母の最愛の男だから手を出せない。そうして逃げ出して、あんたと出会った」


「あんたってのはやめろ。親父さんでいい」


男「……」


親父「俺もお前のことは男と呼ぶ。せっかく名前を教えあった仲なんだ」


親父「これからは、俺との繋がりを大切にして生きていけばいいんだよ」


俺は忘れていた。


母親が何度も暴力を振るう男を引き寄せていたことを。


自分はその母親の息子だということを。


親父「お前のような倅が欲しかったんだ。これから、よろしくな」


痛みに耐える日々からは、簡単には抜け出せなかった。


/


親父「肩まで浸かれ」


男「はい……」


親父「100数えるまで出るなよ」


男「はい……」


親父「がはは。いい景色だねぇ。極楽極楽」


男「はぁ……はぁ……」


親父さんは温泉に入るのが好きだった。


足にも背中にも、刺青を入れていた。


禁止されていようが、周りに客がいようが、お構いもなく温泉に入りにいった。


客に通報されて怒り狂ったのを止めたことも何度かあった。


ただでさえのぼせている俺に、喧嘩の強い親父さんをとめられるわけもなく、だいたい俺が倒れ込んで事態を収束させるよいうことが多かったが。


親父「お前、女はいるのか」


男「いいえ」


親父「もしかしてあっちか?」


男「いいえ」


親父「何故つくらない?」


男「いや……」


親父「どうした?」


男「熱いっすね、ここ」


親父「誤魔化すんじゃねーよ」


俺は湯船に浸かることが苦手だった。


熱に弱い体質だった。


真夏に外を歩いている分には耐えられるのだが。


熱の篭もった車で運転されたら数十分もしないうちに必ず戻し(母に叩かれた)、体育館で校長先生の話が長引いた時に立ちくらみをして倒れたことも何度かあった(保健室の先生には殴られなかった)。


病気というわけではなく、単に、極度に苦手なのだった。


強い体躯に生まれた代償なのだろうと思っていた。


それならせめて家庭環境の代償に大きな幸福の1つや2つを与えてくれとも思ったが。


風呂好きな親父さんがあがるまでは、俺はあがることができなかった。


母親代わりの父親という存在を前にして、俺はまたしても、"耐える"という手段で愛情を得ようとするやり方しかわからなかったのだ。


親父「情けねぇやつだなぁ。だったら、今夜はお前に女を教えてやろう」


男「いいですよ。お金持ってないですし」


親父「おめぇは払わなくていいんだよ」


俺はこんな形で女を知りたくなどなかった。


"初めては、好きな人と"


そんなセリフを、この俺が、この親父さんに到底言えるわけもなく。


とっくに100秒以上湯に浸かったあとのサウナにも、初めて味わう女の艶めかしい男として最高の感触にも、じっと耐え続けたのだった。


/


『その人が身内にあたる態度を見よ。それがやがてあなたに接する態度である』


どこで聞いた言葉だったか忘れてしまったが。


多分、実父が教えてくれたのだとは思うが。


俺はこの言葉の意味をもう少し考えるべきだった。


親父「口約束は死守するんだったよな」


親父にぼこぼこにされた大人が倒れていた。


親父はヤクザとも、暴力団ともわからない存在で、どちらかというと会社の経営者に近かったのかもしれない。


事務所の隣にある小屋に俺は寝泊まりをさせて貰っていた。


事務所には定期的に、スーツ姿の険しい顔付きの大人の男たちが出入りをしていた。


親父は自分に従順でない者は許さなかった。


努力や誠意は、過程ではなく結果で判断する人だった。


親父「ただで飯を食うつもりなら、死んでもらうからな」


倒れている男がいても、周囲にいる男たちは見向きもしなかった。


俺はただ見ていることしかしなかった。


親父「大丈夫だ。お前は俺の倅だからな」


俺が恐怖で立ちすくんでいると勘違いしたのか、親父は俺の背中をなでてくれた。


しかし、俺は倒れている男を見てこう思っていた。


これが、今までの俺の姿だったのかと。


男「親父さん」


親父「なんだ?」


男「明日、半殺しにしてきます」


俺を痛みつけた義父に、同じ目を遭わせてやろうと思った。


視界の端に見えた親父の目が、妙に輝いたと感じたのは、気のせいではなかったと思う。


/


「なんだよ」


数カ月ぶりに帰ってきた俺を見た義父は、怒りの表情を浮かべていた。


ただただ俺の存在が迷惑だといわんばかりだった。


母の姿はなかった。こいつを養うために、仕事に行っている最中なのだろう。


俺は、このあとの人生なんてどうでもいいから、全ての憎しみを目の前の男にぶつけたいと願った。


男「お前をぶっ飛ばしに来たんだよ」


母と義父からは殴られ、蹴られる一方だった。


生まれてからずっと正しい存在であった母に、反抗することなんて考えられなかった。


男「お前を、否定してやる」


相手の目もろくに見ずに、俺はもう一度告げた。


そして、今まで抑えつけていた才能を、開花させた。


/


「……ぐ、ぐぁああああああ!!!!」


俺は暴力に関して、天賦の才を与えられていた。


実父も大人しい人だったが、体格は他のどんな大人よりも恵まれていた。


そこに今は、母親によって後天的に思春期に培われた、暴力に対する嫌悪感の無さが加わっていた。


暴力は正しい手段だと、最高の教育を受けていたようなものだった。


「……ひぃ。……ひぃ。……うぎゃああ!!!!」


義父の身体はおもちゃのようにぐにゃぐにゃと曲げることができた。


義父の身体にはスタンプを押すように簡単に痣の跡をつけることができた。


服が張り裂けると、身体に刺青が彫られているのが見えた。


親父さんと同じことをこの男がしているのが許せなくなり、怒りの感情がさらに沸いた。


俺は容赦なく、何度も何度も、この男に暴力を振るった。


/


男「ただいま。お土産です」


厚い紙幣を手に持つ俺を見て親父は驚いていた。


義父を脅して家にある現金と、銀行への預金を引き出すためのカードとパスワードを教えて貰った。


手切れ金だと伝えて俺は家を出た。


母が一生懸命働いている割には、期待したほどの額ではなかったが。


親父「ぶんどってこれたのか?傷1つ負わずに」


男「配られたカードが強かった」


親父は疑問の表情を浮かべた。


男「喧嘩の仕方とか、そんなもの、知らなかった。でも、俺は暴力のやり方に関しては考える必要がなかった。適当にやっても、力の強さが全てを抑えつけてくれる」


男「勝ててしまうんですよ。勝ち方がわからなくとも」


男「俺は確信したんです。俺には天賦の、暴力の才能がある」


男「この力が役立つ場所であれば。俺をここで働かせて下さい」


親父は驚いた表情をしたあと、満面の笑みを浮かべた。


親父「そうか!そうか!!」


親父「やってくれるか!我が息子よ!」


ずっと待っていたと、言わんばかりに、俺の背中を何度も叩いた。


/


親父「俺の隣にいてくれるだけでいい」


男「ちゃんと戦いますよ」


親父「俺がいいと言うまで誰も殴るな」


仕事をする上で1つ学んだことがある。


暴力の才能は2つに分かれるということだ。


一つは、そのまま暴力を振るう力に長けていること。


親父「俺は強いだろ?万全な状態のお前とやっても、まぁ勝てるだろうな。身体つきだけで喧嘩が決まるなら、空手家が猛牛を素手で倒せたりはしなかっただろう」


親父「でもな、俺はなめられやすいんだ。身長があまり高くないからな」


もう一つは、暴力を振るう力に長けていると相手に見せることだ。


親父「中身が弱くても、でかいだけで相手がひるむんならそれでいいんだ。喧嘩が強そうに見える1番の長所はな、喧嘩をせずに済むところなんだよ」


俺は平和主義者なんだ、と親父さんは似つかわしくないことを言って笑った。


/


ビルの中に入り込むと、中にいた男たちが一斉に振り向き、親父さんを、そして俺を見た。


代表者と思われる男と親父が交渉をはじめた。


代表者は俺のことをちらちらと見てきたので、俺は視線を反らした。


しばらし経った後に他の従業員を呼び、細長い紙に何かを書かせ、ハンコを押した後、親父に手渡した。


事務所から出ると親父は説明した。


親父「こいつは手形っていうんだ。こいつを受け取る権利を、うちのお客さんに与えさせたんだ。まぁ、取り立ての代行みたいなものだ」


そして親父はガハハと大きな声で笑った。


親父「新人研修ってやつだなこれは。オンザジョブトレーニングってやつだ。どうだ、簿記の勉強でもするか?役に立つぞ?」


親父はまた一段と愉快そうに笑った。


親父の言うことはよくわからなかったものの、ただそこにいるだけで役に立てているという実感が、今までの人生とはあまりにも正反対で、俺は嬉しく思ってしまった。


/


女「…………あの」


男「どうした?」


女「場違いな発言をしてもいいですか?」


男「どうぞ」


女「トイレに行きたいです」


男「わははは!!」


女「わ、笑わないでくださいよ」


男「何を言うかとおもったら。これだけお前とは正反対の人生の話をしていて。虐待への同情やら、暴力への抵抗やら、何か言ってくるのかと思ったら、トイレか。ふふふ」


女「だから言ったじゃないですか!」


男「そこですればいいだろう。見ないでやるから」


女「な、何言ってるんですか!ここはトイレじゃありません!!それこそ場違いです!!」


男「俺も今日はもうのぼせた。こんなに長く浸かっていたのは親父さんと入っていた時以来だ。あがろう」ザバァ


女「私も上がります。今日は酔ってませんか?」ザバァ


男「少しな。だが耐えてる。耐えるのは得意なんだ」


女「……私も尿意くらい耐えられればよかったのですが。また明日も話してくれますか?」


男「それくらいかまわん。耐えるのは身体によくないぞ。たとえ温泉に浸かっててもな」


女「あまり無理しないでくださいね。それではまた、早朝」


男「また早朝」


/


女「おっはー」


男「おっはー」


女「おや、今日はノリましたね」


男「疲れているからな」


女「お仕事ですか?」


男「そんなところだ」


女「疲れているからノリノリなんて変ですね」


男「空元気というやつだ」


女「元気な時よりも元気じゃない時の方が元気に見えるなんて」


男「思いっきり元気なふりをして自分を慰めたいのかもしれん」


女「今日はゆっくり寝ますか?」


男「寝たまま溺れてしまう可能性もある」


女「私が助けてあげますよ。あなたよりのぼせるの遅いですから」


男「そうだといいんだがな」


女「私も寝たらどうしましょう」


男「その時は仲良く三途の川を渡ろう」


女「三途の川でも寝てしまったら?」


男「どうなるんだろうな」


女「そうならないために、あなたが少しでも寝るそぶりを見せたら叩き起こします」


男「それは頼もしい」


/


男「昨日の話の続きをしてやろう」


女「ありがたいです。ありがたいですが、燃え尽きる前のろうそくみたいで心配です」


男「そこまで疲れてない。タバコの先端についている火に近い。まだまだ大丈夫だ」


女「喫煙者ですか?」


男「違うが」


女「嬉しいです。そうだと思ってたので」


男「喫煙者が苦手なのか?」


女「あなたの寿命が延びたからです」


男「吸おうが吸うまいが変わらんと思うがな」


女「ちゃんと統計データがあるんですよ」


男「人生は何が起こるかわからんからな」


女「はいはい。ところで昨日の話の続きはまだですか?あなたのぼせるの早いんですから。さぁーはやくはやく」


男「はぁ…、こちらの空元気も空になるような元気さだ……」


女「あっ、また幸せが1つ去りました」


男「追いうちをかけるな」


/


女「さあのぼせないうちに」


男「そうだな。お前がトイレに駆け込まないうちにな」


女「と、トイレは生理現象だからしょうがないです」


男「のぼせるのだって生理現象だ」


女「そういえば!!」


男「どうした」


女「私、生まれてから、一度ものぼせたことがないです!!」


男「それがどうした」


女「すごくないですか?のぼせるということは誰もが経験していて、朝風呂も誰もが経験してるのに、朝にのぼせた人って滅多にいないんじゃないでしょうか」


男「女の朝風呂は朝シャンとかいうやつだろう。夜に張った湯は朝には冷えている」


女「ああ、そうですね。そもそも、朝にゆっくり湯船に浸かる時間はないですし」


男「今はあるじゃないか。新幹線で通学するほどの生活をしていながら朝に湯に浸かるゆとりがある」


女「それでも時間は少し意識してますけどね。ああ、どうして朝ってこんなに慌ただしいんでしょうね。夜の1時間と、朝の1時間を比較してみて下さい」


女「夜の五分なんて潮干狩りみたいにそこらじゅうにごろごろころがってるじゃないですか。20時に暇になったとして、テレビを見たり、SNSで友達と絡んだりして、ごろごろのんびりして21時になります」


女「それに比べて朝の五分はスーパーでのつかみ取りタイムです。次々に奪われていきます。目覚ましがジリジリ鳴って、ぐずぐずしてるうちに意識のないまま15分や30分過ぎてます。お母さんが怒ってきてベッドから飛び起きて、急いで朝ごはんを食べて、着替えて、化粧して電車までダッシュしてあっという間に1時間なんて吹き飛んでしまいます」


男「トイレを外すなよ。スーパーの掴み取りを例に出すなら家族と奪い合いになるくだりは必要だろ」


女「乙女の恥じらいです。それにうちにはトイレ複数ありますから」


男「それにしてもフェアな比較ではないだろう。休日の朝の1時間はそれなりにゆったりしているはずだ。まぁ、休日ならそもそも朝は寝ているがな」


男「朝は何時までに寝なければならないという期限があるのに対して、夜は何時までに寝なければならないという期限がないからな。それで無限に思えた夜の時間も、無駄なことをしているうちにあっという間に過ぎてはしまうが」


女「夜の自由時間も確かにあっという間ですけど、朝に比べたら何ともないですよ。夜が砂漠だとしたら、朝は砂場です。どちらも音速で駆け抜けてしまうので短く感じてしまいますが」


/


男「それなら時間がなくて電車の中で化粧をする女も仕方ない気がするな」


女「それは別ですよ。それを認めたら男性が電車の中で髭をそっていても私達文句言えなくなっちゃいます」


男「ひげは剃れば落ちるが化粧は塗るだけだろう」


女「ちっともわかってないですねぇ。化粧は女性の本能なんですよ。避難所にいる女性が欲しい物についてテレビで取り上げられていたんですが、食べ物など必要な物が確保された後では化粧が女性の最大の要求になっていたんです」


男「朝につけて夜に落とすのにな」


女「仕方なくマスクを着けるんです。すっぴんを見られたくないから」


男「でもお前もここに来るまで化粧してないんだろう」


女「これだけ髪が長いんですもの。それにあなたとしか会いませんし」


男「ああーそうかよ」


女「おや、ちょっと怒りました?怒ってくれました?」


男「化粧が女性の本能なのはわかった」


女「無視ですか」


男「けれど睡眠も人間の本能で、電車の中で寝ることは許されてるじゃないか」


女「いいじゃないですか。朝はただでさえ眠いのに、座って揺られてると眠くなっちゃいますよ」


男「……何の話をしていたんだったか」


女「電車の中で髭を剃るのと化粧をするのは同じだって話です」


女「化粧は塗りたくる行為でもなければ、仮面をつける行為でもありません。汚い自分を削ぎ落として本来の自分を取り戻す行為です。化粧をして自然と話している女性が偽物で、すっぴんで不自然に俯いている女性が本物だって言われたら違和感あるでしょう?」


女「化粧をすることはお風呂で垢を落とす行為と一緒なんです。旦那さんと夜の営みをする時に灯りをつけるのには応じるのに、お風呂に一緒に入るのは恥ずかしくてできないという女性がいたら、その人は決して電車の中でお化粧をする人ではないでしょう。はぁ、立派な女性とはお風呂プレイができないという男性のジレンマが生じますね」


男「混浴では人前で垢を落としているがそれは」


女「マナーの問題ですよ!当たり前じゃないですか!」


男「お前の主張についていくのは掴み取りに参加するくらいに大変だ……」


/


男「マナーの問題ですよ!!」


親父「だから言ってるだろ。垢を落とすのと何が違うってんだ」


男「全然違いますって!」


湯船に浸かりながら、俺は珍しく親父さんと長々口論をしていた。


親父さんは、身体を洗っている時に小便をしょっちゅうしていた。


俺はそれがたまらなく嫌だった。


親父さんは温泉という場所を、神聖な空間だとよく言っていた。


激しい刺青を入れているにも関わらず、刺青禁止の銭湯に堂々と入るし、騒いでいる学生がいたら脅して退出させていた。一滴も見ずを浴びないまま追い出された者もいる(たいがいそういう連中が腹いせに通報する)。


筋を通すなら、出来る限りのマナーは守って貰いたかった。


社会に対して不平不満を言いながらその社会の癌になっているような義父と重なった。


従順であることを愛情表現にしていた俺が、珍しく反発する時であった。


親父「マナーを守れない人間は、どうしてその場にいちゃいけないのか考えたことがあるか」


男「周りの人に迷惑をかけるからでしょう」


親父「周りの人に迷惑をかけてきた人間が、その場にいてもいいと思うか?」


男「すいません、どういう意味ですか」


親父「温泉でも、遊園地でも、映画館でもどこでもいい。普段は大人しいガキのくせに、そういうところに行って舞い上がってはしゃいだり道端にゴミを捨てたりするような人間と、普段は物凄い悪さをしているのにそういう場所に行くときはマナーを守る人間」


親父「どっちがそこにいるにふさわしいと思う?」


男「その場所でマナーを守る人間でしょう。その場所で正しいかどうかだけですよ。親父さんは、裏でも悪さをしているし、マナーも守れていません」


言い過ぎたと思った。


"お前も裏では悪さをしているのに温泉に入っているのだから、お互い様だろう"


こういう話に持っていきたかったに違いない。


長く湯に浸かってのぼせすぎていた。俺は正反対の主張をしてしまった。


自分を悪い人間だと思っている人が、自慢げに自分の悪さを自慢をしていたとして。


格下の人間がその人を悪い人間だと言ってはいけない。


お代官様と越後屋のように、上下関係の区別がはっきりついていて、お互いが同じことをしているような、絶妙なバランスが取れていない限り。


自分を馬鹿だと笑いながら言ってる人への、自分をブスだと笑いながら言ってる人への、タブーの言葉が馬鹿とブスであるように。


悪人に対して、悪人だと言ってはいけなかったのだ。


親父「……居場所をつくってくれた恩人に、悪者だってか」


周囲に他の客がいてもがいても同じことをされていただろう。


頭を掴まれ水の中に突っ込まされた。


息を吸う間もなかった。


ごぼごぼとあぶくがたつ水中からでさえ、頭上で親が怒鳴っているのが伝わってきた。


/


一緒に過ごす時間が経つにつれ、段々と自分に接する時の態度が厳しくなってきた。


それは社会で生きていく上では、裏の人間も、表の人間も同じらしい。


温泉でさえ長く浸かっていると身体を熱して追い出そうとしてくるのだから。


いつまでも役に立たずにぬるま湯に浸かっている人間は、社会が追い打ちをかけてくる。


ただ、うわさで聞くには。


家族という存在だけは、最初こそ厳しいものの、時が経つにつれてやさしい部分だけを見せてくれるようになるらしい。


俺は一度も味わったことはないのだが。


水中から引き上げられた。


親父はまだ鬼のような剣幕で怒っていた。


俺は憎しみに駆られていた。


本気を出せば、こいつを溺死させることもできるかもしれないと想像した。


俺は怒りを堪えた。


そのまま湯からあがり、無言で身体を拭き、店を出る前だった


親父さんが黙ってコーヒー牛乳を奢ってくれた。


親父「さっきは悪かったな」


親父さんは謝るのが早かった。


俺は、馬鹿らしいことに、罪悪感を感じた。


この人を傷つけてしまったな、と。


見ず知らずの他人である俺をあの家から救い出して、しばらく寝場所もタダ飯も与えてくれたこの人に、怒りの感情をわき上がらせてしまったなと。


俺は、俗に言う、ちょろい人間だったのだ。


/


女「私には全然ガードが硬いですけどね」


男「何のことだ」


女「人は何故温泉に行くのでしょうね。憑き物でも落とすのでしょうか」


男「本屋でトイレに行きたくなるし、お風呂でおしっこしたくなるだろ?人生、垂れ流しだ」


女「それ心理学の授業で聞きました。青木まりこ現象でしょう?」


男「なんだそれは」


女「書店に足を運んだ際に便意に襲われる現象を示す用語です。青木まりこというペンネームで、とある雑誌に質問を投稿した女性がいたそうです。内容は、書店を訪れると便意に襲われるということについて」


女「紙がトイレットペーパーを彷彿とさせるとか、いろんな説があるそうですが、これが原因だと断定できる理由はまだないそうです」


女「パブロフの犬という言葉もあわせて聞きました。これは経験による学習が引き起こす条件反射を示す用語です。梅干しを食べたことがない人が梅干しを見てもなんともならないけれど、梅干しを食べたことがある人が梅干しを見ると、ヨダレが出てくるというあれです」


女「その親父さんが温泉に行った時に尿意に襲われるのは、家庭でお風呂にはいっているときに排尿をしていたからではないでしょうか」


男「風呂とトイレを一緒にするなんて言語道断だな。トイレで水浴びをしているのと何ら変わらん」


女「あら、意外とそこら辺は厳しいんですね」


男「だから俺は浴室で伴侶を求めるようなことはしないだろう」


女「さぁ、どうだか」


男「のぼせた。あがる」ザバァ


女「私はもうちょっと浸かってます。朝にも関わらず時間に余裕がある女なので」


男「好きにしろ」


女「それではまた早朝」


男「また早朝」


/


男「おはよう」


女「おはようございます」


男「今日は暑いな」


女「真夏ですもの」


男「温泉に入っても汗がでてくるだけだぞ」


女「出てもいいじゃないですか」


男「そうだな」


女「夏の温泉は好きですか?」


男「親父さんにも聞かれたな」


女「なんて答えました?」


男「のぼせやすいんで、ちょっと熱いとは思います」


女「ぐふふ。それでも好きなんじゃろ」


男「喋り方が似ていない」


女「すぐにのぼせちゃいますよね」


男「ああ。だが、親父さんはなかなかあがらない。だから耐えるのに大変だった」


女「今ではすぐあがるのはその反動が来たんですかね」


男「さぁな」


女「でも、やっぱり冬に入る温泉にはかないませんよね」


女「夏のクーラー。冬のコタツ。夏のプール。冬の温泉。夏のアイス。冬のおでん」


女「人はないものねだりの生き物だって証ですね」


男「隣の芝生は青く見える。他人の飯は白い。隣の花は赤い」


女「隣のブツはでかく見える。他人の汁は白い」


男「慎め」


女「つい女子大のノリが」


/


女「無いものねだりの人間であるはずの私たちは、夏に温泉に来ていますね」


男「冬にプールに来ているようなものかもな。こういううだるような暑さの日には温泉好きは困ってしまうな」


女「本物の温泉好きなら天候に左右されませんよ。無いものねだりの人が欲しがる理由は、それを持っていないからです。本当に好きだという人は、それを持っていても欲しがり続けます」


女「夏に温泉に入るというのは、結婚した伴侶を大切にし続けるのと一緒です。釣った魚に餌をやり続ける立派な人格者の証です。私たちはこうして夏に温泉に来ることで、人格者になっているんですよ」


男「のぼせたんならあがっていいぞ」


女「シラフです」


男「シラフという表現が適切なのか」


女「風呂上がりの冷たい牛乳は最高ですけどね」


男「ここには置いてないな」


女「そこもまたいいですよね」


男「お嬢さんのくせにほしがらないやつだ」


女「与えられすぎていたのかもしれません」


男「身に余っているわけか」


女「ただ、私自身だって不安に思いますよ。与えられなくなったら、私は私自身を支えられないだろうって」


女「今私を支えているのは親の経済力と愛情だけです」


男「充分に見えるんだが」


女「私もそう思います」


男「めでたしめでたしだな」


/


女「冬の温泉までまだ半年後ありますね」


男「その頃には街中の銭湯の修理も終わっているだろう」


女「それはもうすぐ……」


男「ん?」


女「そうですね」


男「そうだな」


女「…………」


男「…………」


女「夏のアイス、夏のスイカ、夏のクーラー」


男「それが?」


女「やっぱり好きです」


女「私の仲の良い友達にもいるんですよ」


女「こんない暑い日は熱々のラーメンを食うに限る!!とか、寒い日にあえてアイスを買ったりするのが」


男「冬をコンセプトにしてる氷菓子があるくらいだからな」


女「暑いから熱々の物を食べるっていうのを聞き流すじゃないですか。そして、帰宅して、夕飯食べてテレビ見て、お布団にはいってるときに疑問がわくんですよ」


女「暑いからこそ熱々って意味わかんなくない!!!??」


男「わっ、驚かすな」


女「いいじゃないですか無いものねだりでも!!」


女「だから私はあなたの話に興味があるんです!!医者の息子の鼻もちならない話なんか聞きたくないんです!!」


男「わかったから落ち着け」


女「これが!!これが落ち着いていられます……」シュン…


男「わっ、急に落ち着くな」


/


女「さぁのぼせないうちに前の話の続きを。あなたがのぼせて気絶して、私もねこまないうちに」


男「三途の川をわたらんうちにか」


女「真夏に入る三途の川は気持ちいのかもしれないですね」


男「意外と熱いのかもしれん」


女「浸かったことあります?」


男「冷たかった記憶がある」


女「夏に入る水辺より、冬に入る温泉のほうが好きです」


男「ここではないどこかを求める旅好きのお前なら、きっと気に入る場所があるぞ」


女「どこでしょう」


男「北海道にある屈斜路湖露天風呂という場所だ」


女「くっしゃろころてんぶろ?」


男「通称古丹温泉だ」


女「こたんおんせん?」


男「奇跡なんだ、ここは」


男「岩に囲まれたスペースに小さな温泉がある。その眼前には湖の光景が広がっていて」


男「一面は朝日に照らされて輝いていてな。湖の上には数多の白鳥が見える」


男「白鳥は人間を畏れておらず、近くで鳴いている。白鳥独特の、あの高い鳴き声で」


男「異空間を思わせるようなその場所は、まるで」


/


親父「天国のようだった」


親父さんは、うっとりとした表情を浮かべていた。


親父「何もかもを失っていた時だった。俺は疲れ果てていた。馴染みもない冬国に命からがらたどり着き、手を差し伸べてくれる人もいるわけもなく」


親父「手持ちの金に余裕はあったが、借金は遥かに上回っていた。追い詰められた頭では、このお金で贅沢をしつくして、このままこの寒さの中死んでしまおうかと考えていた」


親父「目的地もないのにバスに乗っている間に、色々なことが頭をよぎった。俺はどうしてこんな目に遭っているんだろうと」


親父「父親が犯罪者だったせいなのか。母親が身体を売っていたせいなのか。そもそも、俺が生まれたこと自体が間違いだったのか」


親父「俺は俺なりに知恵を絞って生きてきた。一時期はうまくいっていた。俺を慕ってくれるようなやつらも現れた」


親父「それが、金を失った時にすべて離れていった」


親父「冬の広い寂れた光景をいつまでも眺め続けていた。これからどこに行くのだとしても、俺という人間は変わらない。だったら行き着く先は、全て絶望なのだろうと」


/


親父「小さな民宿に泊まった。広さは四畳で、畳は全てかびていた。俺以外に宿泊者は誰もいなかった」


親父「俺はそこで数日間過ごした。好きな時間に起きて、酒を買って飲んで、寝て。ひたすらそれの繰り返しだった」


親父「所持金にも余裕がなくなってきた。俺は支払いもせずに黙って民宿を出た。どこまでも世界に嫌われてやろうと思った」


親父「今が朝方なのか、夕方なのか、どちらかわからなかった。日が登ろうとしているのか沈もうとしているのかの区別がつかない」


親父「外は誰も歩いていなしし、寒さは変わらないし。腕時計なんてものも持っていない。そもそも、時間を気にする必要がなかった」


親父「ずっと歩いていた。多分、自殺しようとしていたんだろう」


親父「足のつま先の感覚も、寒さが痛さに変わり、やがて麻痺して気にもならなくなって」


親父「死ぬことだけを考えている頭で、ふと、お湯がほしいと思った」


親父「お湯。お湯。数か月前まで夜の街で贅沢三昧金をばらまいていた俺が、死の間際に求めていたものはそれだけだったんだ」


/


親父「そしてたどり着いた」


親父「こんなところに温泉があるのかと、目を疑ったよ。幻覚でも見てるんじゃないかって」


親父「もしも浸かって冷水だったら、俺はそのまま死んでしまおうと思った。そこで力尽きてしまうしかないと思った」


親父「無人の自然の中を、俺は裸になって、身体もながさずに水の中に入り込んだ」


親父「蘇ったよ。この時間だけをいつまでも抱きしめていたいと思った。俺は、皮肉にも、このまま死んでしまいたいとさえ思った。この最高の瞬間を最後にしたいとな」


親父「人間から忌み嫌われた俺の周りには白鳥がいた。遠慮もせずに甲高い声で泣いていた。白鳥でも冬の寒さを感じることがあるんだろうかと気になった。こいつらもここで湯の恩恵を受けに来ているのかと思うと、俺はふとおかしくなって、笑いだしてしまった」


親父「久しぶりに笑った。大声でな。白鳥が何羽かバタバタと飛んでいった。構わず俺は大声で笑い続けた」


親父「その時だったよ」


/


「そんなにおかしい景色ですか」


親父「俺は笑うのをやめて、凍りついた表情のまま振り返った」


親父「陽の光を浴びた女が、一糸まとわず立っていた」


親父「こんなに美しい女がいるのかと驚いた。幻想的な光景に、思わず見惚れてしまった」


親父「正気を取り戻して、俺を慌てた。女は静かに言った。ここは女湯ですよと」


親父「大きな岩で風呂は仕切られていた。そんなのを気にする余裕もなかった俺は間違えてはいってしまったらしい」


親父「柄にもなく謝ったあと飛び出ていったよ。空気の寒さに震えながら、股間をぶらぶらさせながら、滑稽に男湯だと思わしきところに入りにいった


親父「さきほどの美しさを整理する時間が欲しかった。湯に浸かりながら、白鳥の騒々しい鳴き声を聴きながら、俺は人間の心を取り戻した気がしていた」


親父「話しかけてみたいと思った。だが、なんと声をかけていいかわからなかった」


親父「しばらく身体を温めているうちに、俺は待ち伏せようと思いついて、脱衣場に向かった。服は脱ぎ散らかしたままだった。バスタオルなんかないから、上着で身体を拭いた」


親父「髪の毛は濡れたまま。かける言葉も思い浮かばないまま、女が出てくるのを、そのまま待ち続けた」


親父「しかし、いくら待てども女は出てこなかった。相当な長湯なのか、それとものぼせやすくてすぐに上がってしまったのか」


親父「寒さに耐えきれずに俺はその場所を離れた。有名な観光地らしく、バスに乗った人が降りてくるのが見えた。俺は宿を探しはじめた」


親父「もう一度あの女に会いたいと思った」


/


親父「次の日、俺は痛い目に遭った」


親父「再びあの温泉に、同じ時間帯に来た。早朝5時過ぎのことだった」


親父「俺は湯に浸かり続けた。誰か人の気配がするのを待った。まだバスが来るような時間帯じゃない。女が地元民ならば、観光客のこないこの時間帯に来ているんじゃないかと思った」


親父「隣の湯に人が来る気配がしたら、今日こそは声をかけようと思った。あの幻想的な天女の、落ち着いた声をもう一度聴きたいと願った」


親父「湯の中で待ち続けた。昨日は愛おしいと思った白鳥の声が、今日は耳障りだと感じた。あの女の気配を頼むから消さないでくれよと願った」


親父「昨日と同じくらい、かなり長い時間が過ぎた頃。のぼせかけていた俺の耳に、女の笑い声が聞こえてきた」


親父「違うとは思っていたが、それでも少し期待してしまった。緊張しながら待ち続けていると、女の二人組が入ってきた。タオルをまいたまま、俺のいる湯にな」


親父「女たちは小さく悲鳴をあげた。俺は女たちが間違えてはいってきたんだと思った。そしたら、そいつらがなんて言ったと思う?」


親父「こちら側は女湯ですよ、だ」


親父「俺は今度は謝りもせずに、しかし急いで出た。じいさんが近くにいたので尋ねた。男湯はどっち側なんだと」


親父「昨日現れた天女が、俺に嘘のいたづらをしかけたことがわかった。じいさんは、こんな小さいスペースに岩が一枚あるだけだから、どっちも似たようなもんだろうと慰めてくれたけどな」


親父「それから、俺は雪国を出てこっちに戻ってきた。頭ではあの女に取り憑かれているのに、死ぬほど金を稼ぐことに力を注いだんだ」


親父「いいか、小僧。ひとつだけ教えてやろう」


親父「美しい女っていうのはな――」


/


男「それから人の不幸で金を儲けて、俺と出会ったってわけだ」


女「……凄い人生ですね」


男「だろう?」


女「でもあなたの話じゃなかったですね」


男「俺はその温泉には行ったこともない」


女「伝聞ですか」


女「それでもなんだかとても印象に残るお話でしたね」


男「俺はのぼせて死にかけていたけどな。親父さんは湯の中でしか語ろうとしないんだ」


女「ふふっ、大変でしたね。ところで、その女性とは再会できたんでしょうか」


男「……それはできていないな」


女「そうですよね。お金で解決するのも難しそうですもんね」


女「それではそろそろあがりますね。今日はたくさん話してくださってありがとうございました」


男「こちらこそどうも。だが、もうちょっと浸かってからあがることにする」


女「ええ!?大丈夫ですか!?」


男「少し耐性がついたのかもしれないな」


女「無理しないでくださいね。寝ないでくださいね」


男「子供のように扱うな」


女「それでは、ご無事でしたらまた早朝」


男「無事だ。また早朝」


/


男「…………」


男「白鳥のように騒々しい女がいなくなったか」


男「親父さんの言う嘘つきの天女はまだどこかにいるんだろうか」


男「親父さんの見た女は幻覚ではなかったのか」


男「本当にそんな女がいるなら、見てみたいものだな」







「いいか小僧、一つだけ教えてやろう」


「美しい女っていうのはな」


「胸が、小さいんだ」




男「目のやり場に困るような胸部を持つあいつには到底言えなかったな」


男「親父さん。それでも、俺が早朝5時に出会った女の後ろ姿は、健康的で美しいものでしたよ」


男「顔は前髪に隠れて中々みえませんが、美しい雰囲気です。俺が人の目が苦手だから、あまり見てはいないんですが」


男「あんたにも、あの女にも、到底言えませんよ」


男「俺が、なにかしらの奇跡を求めて、無意識のうちにあんたの真似をしてしまっているんだと最近気づいだことなんて」

プリップリの食感。


外はサクサク、中はジューシー。


舌の上で蕩けるような味わい。


食べ物に関しては表現の定型とも言えるセリフがたくさんあるにもかかわらず。


温泉に関しては、感想のレパートリーがあまりない。



"ああ~"


"生き返る~"


"良い湯だ"


それらを言って終わり。


温泉のレポーターがコメントに困り、景色について感想を述べる場面は多い。


それは仕方のないことだ。


温泉は、生きている。


裸で訪れる人間がそうであるように、恥ずかしいという感情があり、いろんなものを隠している。


温泉の湯の感触はやわらかいかもしれない。


味はしょっぱいのではなく、酸っぱいのかもしれない。


底は硬いのかもしれないし、ヌルヌルしているのかもしれない。


湯の花は独特の味がするのかもしれない。


私は私なりの方法で、あなたに隠されたものを見てみたい。


そうすれば、もしかしたら。


私がさらけ出したいと思っているものを、あなたが見つけてくれるかもしれないと願って。


次回「風呂上がりの冬の脱衣場さえ、ちょっと楽しみになる魔法」


恋は、泡沫うたかたの様ね。

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