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人は、自分を救ってくれたものによって破滅するんだ。

温泉の中でありながら、真っ黒いジャージを着たまま男は立っていた。


女「……ぁ……」


言葉が出ない。


思考がまとまらない。


一体、何をしにきたんだろうか。


謝罪をしにきたわけではないのだろう。


その手にもつわりばしの意味は何なのだろう。


「大きくなったね」


身動き1つまともにとれないのに、普段は決してできないこと―相手の目を見ること―ができた。


目は、合わなかった。


相手も私を見ているにも関わらずだ。


(人の目は、同時に相手の両目を見れない)


いつかの男さんの言葉を思い出す。


男性は、私の義眼をみていた。


裁判の過程で同じことをされたことがある。当時は眼帯をつけていたが、自分が奪ったものを確かめるかのようにじっと見つめてきたのだった。


男性は、今度は私の左目を見つめて、もう一度言った。


「これが、最後の花火だ」


/


「私もそうだった!!!!」


いきなり大声をあげ、湯の中に踏み込んできた。


水しぶきがあがって身体にかかった。


私はいつもの定位置から離れ、男さんが普段座っているところまで足を震わせながら進んだ。


「"あの時ああしていれば!!!"」


「このくだらない!!このくだらないセリフを!!何度吐いたことか!!!!」


男性は激昂していた。


「だったらせめてその一部くらい、君にも味あわせてやりたかったんだ!!!」


宙を見て叫んだ。


私のことなんか見ていないようだった。


「僕は臆病だ……」


昂ぶっていた男性は一転、突然萎縮しながらぼそぼそとつぶやきはじめた。


「人が怖い……人を見るのが怖い……人から見られるのが怖い」


「君に僕を見られるのが1番怖い……」


「君が現れるといつも僕は物陰に隠れ……君が視界からいなくなると君の姿を探した」


「太陽と月のような関係だった」


「君は僕には決して気づかなかった。それは仕方のないことだった。しかし罪深いことだった」


「君は僕を見るべきだった。そのことで、死ぬまで後悔してほしい。そうすれば、僕の過去が報われる」


宙を見るのをやめ、私を見てこう言った。


「お母さんにそう告げてくれ。そのために、その目を奪う必要があったということも」


これから行うことを告げられた。


目の前に迫った恐怖に絶望し、早く死なせてほしい、と願った。


/


ぎりぎりまで逃げなければ。


そう思って立とうとした途端、めまいがした。


のぼせてしまっていたんだろうか。


こんな大事な時にのぼせるなんて馬鹿みたいだなと思った。


頭のおかしい犯罪者と、タオルを巻いた女子大生が、混浴で対峙しているこの状況も傍目からしたら滑稽に観えるんだろうか。


右目を奪われて生きるのと、溺れて死ぬならどちらの方がマシだろう。


すくなくとも、数年前に遭ったあの激痛にはもう耐えられない。


もう一度叫ぼうとしたが、声が震えて消えてしまった。


足がもつれて転んでしまった。


近づいてきた男性に、足首を掴まれた。


私は串で神経を抜かれる魚のようにぶるぶると痙攣した。


こんなに温泉を、冷たく感じたことはなかった。


/


水が見える。


あぶくが見える。


私の手が見える。


この景色も、1秒後には奪われてしまうのだろうか。


一人の男の理不尽な暴力によって、私は尊厳を奪われてしまうのだろうか。


奇跡が起きてほしかった。


あの頃から何も変わらず、目を背けてばかりの私。


8年前と今の私、違うものは、一体。




恐怖でもがき続けている私は、疲労を感じはじめていた。


一人でばしゃばしゃと何十秒も暴れているだけで、足首をもう掴まれていないことにも気づいた。


何かがおかしい気がした。



/


女「……ぶはぁ!!」


女「はぁ…!はぁ…!何が…」


女「う、うわぁ!!」




危険は去っていなかった。


しかし、それは無力だった。


身体がぐにゃぐにゃになった男性が、男さんの腕から身を乗り出し、折れた割り箸を口に咥えて必死で私に近づこうとしていた。


男さんは左腕に包帯を巻いていた。右腕だけで男性を制し、身体の破壊を続けていた。


ぐ、ぐががが。君の悪い声が男性から漏れていた。


自分が破壊されながらも、それ以上に私の破壊を試みる姿は、知能を失った悲しきロボットのようだった。


男「下手に動くな。100まで数えて浸かってろ」


口調は普段と同じだったが、表情は酷く疲れているようだった。


男さんの肩からは血がポタポタと流れていた。


男性の口からは血がポタポタと流れ落ちていた。


男性はもぞもぞと動いていた。必死でジャージのポケットに手を伸ばそうとしていた。


女「男さん!そいつ、何かポケットにいれてる!!」


私の気づきは、少しだけ遅かった。


ナイフは男さんのふとももを切りつけた。


男性は身を乗り出して、私に近づいてきた。


口元に咥えていたわりばしを手に持ち、構えた。


男さんは男性の頭を掴み、物凄い勢いで水中に沈めた。


水上にも聞こえてくるくらいの音で、何度も地面に叩きつけた。


湯はみるみるうちに赤く染まっていった。


私のバスタオルも赤く染まった。


そして、静かになった。


/


女「…………」


女「し、しんだんですか」


男「死んだんじゃない。俺が殺したんだ」


女「せ、せいとうぼうえいです」


男「あんなに何度も頭をうちつける必要はなかった」


女「だったらどうして!」


男「死なない限り、また10年後にでもお前のところに現れると思った。その執念を感じた」


女「そのせいで、あなたともまた10年も会えなくなってしまいます」


男「10年なんて贅沢な時間は残されていない」


女「し、しけいになりませんよ。私が庇いますよ」


男「殺されるんだよ俺は。それも、皮肉なことに、刑期を終える予定の奴にな」


男「医者のあんたの父親でもできないようなことといったら、俺には暴力しか残されてないんだ。冥土の置き土産に、暴力を残してやった」


女「怒りますよ」


男「怒ればいい。俺は、間違っている人間だしな」


女「男さん」


男「どうした」


女「泣いてるじゃないですか」


男「見えるのか」


女「見えますよ。あなたのおかげで」


男「俺は、涙で何も見えないけどな」


/


女「男さん」


男「なんだ」


女「夏と花火と温泉っていい組み合わせだと思いません?」


男「そうだな」


女「私と男さんっていい組み合わせだと思いません?」


男「どうだかな」


女「今度、違う場所の混浴にも行ってみません?」


男「どうしたんだ」


女「このまま、また、日常に戻れませんかね」


男「戻ればいいだろ」


女「一緒にですよ」


男「お前は一人だ」


女「男さんは」


男「俺はこの死体と一緒だ」


女「どうするんですか」


男「今からいつものように後処理の仕事をする。客が俺になっただけだ」


女「殺し屋だったんですか」


男「殺したのは過去に一度だけだ。それでずっと刑務所にいた」


女「誰を殺したんですか」


男「命の恩人だ」


女「私の知ってる人ですか」


男「親父さんだ」


女「えっ」


男「親父さんを、殺したんだ」


/


仕事はこれ以上にないくらいに順調だった。


飲食店、パチンコ店、裏カジノ、風俗店等へのみかじめ料(守料)の設定、取立。


借金の持ちかけ・取立。


揉め事が起きた時の仲裁・肩入れ。


企業に対する総会屋紛いの脅し・総会屋対策の用心棒の請負。


暴力が関わるあらゆる仕事で、俺は他人の半分の努力で、他人の倍以上の成果をあげることができた。


親父さんのもとでずっと働いてきた年上の男を追い抜き、俺は親父さんの右腕になった。


親父「かわいい息子だ。本当の息子のようだ。お前が俺のもとへ来てくれてよかった」


親父さんは寿司を食べながら満足気に笑った。


親父「ほら、飲め飲め」


男「酒は大丈夫っす」


親父「そうか」


親父さんは左手に持ったビールを、1時間前から親父さんの足元で土下座している男の頭に流した。


床ににおいがうつるのでやめてほしいと思った。


/


男「また出張ですか」


親父「嫌か。電車なら酔わないんじゃなかったか」


男「嫌じゃないですが」


親父「ついでに羽を伸ばしてこい。九州には上手い食べ物がいっぱいあるぞ」


男「働きますよ」


親父「死なない程度に頑張れ」


男「うさぎと亀の話ってあるじゃないですか。あの話の教訓はなんだと思います?」


親父「俺に人生論を語るつもりか」


男「はい」


親父「言ってみろ」


男「走るうさぎには誰も勝てないということです」


男「俺はこの世界で頂上に登り詰めますよ」


俺は、自惚れていた。


それは、自分が優れた人間であるとか、他人が劣った人間であるとか、そんな単純な勘違いではなく。


自分は幸せというものについて理解しているという、恐ろしい勘違いだった。


幸せは、制するものだと思っていたのだった。


/


最近、事務所にいる時間が少なくなっている。


やけに遠くの地に仕事で行かされる。


暴力とはまるで無縁の、倉庫の物品の確認をやらされることもある。


こんな仕事ならわざわざ俺にやらせる必要はないと不満に感じてもいたが。


俺は想像した。


俺の最近の活躍ぶりを、煙たがっている人間は多い。


年上の男の年下の男に対する嫉妬は深い。


自分より仕事のできる年下など絶対に認められない。


これが表の男の世界なら、頭脳や学歴に。


女の世界なら若さや美貌に向かうのかもしれないが。


俺のいる狭い社会では、暴力に価値が置かれる。


そして、俺は1番暴力に恵まれていた。


男「俺の才能が軋轢を生んでいるのかもしれないな」


傲慢も甚だしい独り言をつぶやいていられるほど、俺はまだ愚かでいられた。


/


親父「久しぶりだな、お前とこうやって湯に浸かるのは」


男「そうですね」


親父「うちには慣れたか」


男「仕事にはなれましたが、親父さんは遥か彼方です」


親父「馬鹿なやつだな。そもそも土俵がちげぇんだよ」


男「今いる土俵は好きです」


親父「暴力が向いてると思うか」


男「はい」


親父「暴力は好きか」


男「感情は持ち込みません」


親父「嫌いだろ」


男「わかりません」


親父「わからないってことはノーってことなんだよ」


/


親父「お前、スカウト来てるだろ」


男「来てます」


親父「いくらでもちかけられた」


男「今の二倍ほど」


親父「どうして断った」


男「わかりません」


親父「わかりませんじゃわからないだろ」


男「わからないものはわからないですよね」


親父「裏切ったりしないよな」


男「安心したいなら、今の二倍俺に金を積んでくれればいい」


親父「本気で言ってるのか」


男「冗談でからかったりしませんよ」


親父「随分偉そうになったな」


男「本音で話せるようになるまで働いただけです」


親父「積もう」


男「本当ですか」


親父「その代わり裏切るなよ」


男「はなからそのつもりはありませんよ」


親父「一生誓うか」


男「義理を忘れるわけありません」


親父「なら、お前も刺青入れるか」


男「それは断ってるじゃないですか」


親父「形で示せ。俺も今金で示した」


男「義理を形で示したのが刺青ってことですか」


親父「どうして嫌がるんだよ」


男「今までの自分を失ってしまいそうだから」


親父「まだ自分のことが好きなのか」


男「好き嫌いじゃないですよ」


親父「じゃあなんだ」


男「それは……」


母親という呪縛から、逃れられないでいるから。


ここまでの本音は打ち明けられなかった。


/


男「親父さんは、まだ諦めていませんか」


親父「かつて見た美女との再会か?」


男「はい」


親父「あれは追う夢じゃないからな」


男「じゃあなんですか」


親父「見る夢だ」


男「追う力が今ならあるでしょう」


親父「俺にだって怖いものがあるんだよ」


男「後悔しませんか」


親父「少し黙れ」


男「はい……」


親父「…………」


男「…………」


親父「のぼせてないか」


男「えっ」


親父「よく喋ってるだろ。のぼせてるんじゃないかって」


男「少しだけ。でも大丈夫です」


親父「そうか」


男「はい」


親父「悪かったな。出会った頃は、無理やり長湯に付き合わせちまって。のぼせてたんだろ」


男「い、いいんですよ」


親父「上がりたきゃあがれ」


男「親父さん」


親父「なんだ」


男「不治の病かなんかですか」


親父「馬鹿言え」


男「す、すいません」


親父「温泉入っているうちは健康だ。温泉に入るから健康なんじゃねえ。健康だから入れるんだ」


男「そうですね」


/


男「夜の裏の大阪は、聞いていた以上に危険でした」


親父「金と女を求めるあまり命を疎かにするやつは多い」


男「親父さん、どうして表と裏が生まれてしまうんですかね」


親父「表と裏?」


男「昼間の街と夜の街です。あるいは、犯罪があるかないか。薬と、ギャンブルと、貧困と、性」


男「どうして裏の世界が生まれてしまうんでしょうか」


親父「裏は昔からあったものだろ。それだけで楽しいというものだ。一人の快楽が全体への害を上回ったら取り締まられるんだよ。タバコが許されてるのは税金のおかげだ。パチンコが許されているんだから、今にギャンブルも公に認められるようになる」


男「そうですか」


親父「お前、しばらくここに住め。そのくだらない考え事もしながら働ける」


男「急ですね」


親父「関西をお前に任せる。そろそろ独り立ちしてもらわないとな」


男「いいんですか」


親父「嬉しいか」


男「暴力だけで解決できますか」


親父「出来ないことの方が多い」


男「大丈夫ですか」


親父「俺に安心を求めるな」


男「…………」


親父「細かいことは今日来た事務所の連中に聞け。それじゃあ、達者でな」


/


俺はこの夜近くのホテルに泊まりに行く、のではなく、親父さんを尾行した。


仕事を放棄したのはこの日が初めてだった。


翌日の出社には確実に間に合わないが、多少言うことに逆らっても問題はないという自惚れもあった。


親父さんは警戒心の強い人間だったが、俺も仕事で尾行することには慣れていた。


大阪から名古屋、名古屋から都内まで移動し、事務所に一度寄った後、親父さんはボロアパートの中に入っていった。


ここで暮らしているのだろうか。


人前では豪快なお金の使い方をするが、本当はお金に余裕がなかったりするのだろうか。


親父さんの家庭の事情はよく知らない。


息子が欲しかったとよく言っていたが、あれは本心なのだろうか。


踏み入ってはいけない領域な気がしていた。


恐怖を制して一度近寄って表札を見てみると、親父さんの名前ではなかった。


愛人の家だろうか。それとも、親父さんの隠された本名だろうか。それともこの表札も偽名なんだろうか。


しばらく観察していたが、何も変わった出来事は起こらず、その場を離れることにした。


そうだ。


俺には、もう一つ立ち寄らなければならない場所があった。


自分のバッグに詰めてある200万円近くの金を確認したあと、俺は実家に向かった。


/


家に灯りはついていなかった。


最後に母親の顔を見てから、どれくらい経っただろう。


義父を暴力で伏せ、金を奪って去ったあの日から俺は母親と一度として会っていない。


幼い頃から暴力を振るわれても。


言葉で否定されても。


母親の正しさを無理やり肯定させられても。


自分の存在をいくら否定されても。


俺は、母親を愛していたし、母親からの愛に飢えていた。


今も働いているのだろうか。


この世への不平不満をこぼしているのだろうか。


どんな姿でもかまわないから。


もう一度、ひと目見ておきたかった。


/


親父「人を殺すときくらい、相手の目を見たらどうだ」


無人の露天風呂だった。


俺は両手を親父さんの首にかけていたが、それを上回るような握力で親父さんが指をこじあけてきた。


親父「関西の秘境を案内してやるだなんていうから、久しぶりにわざわざ足を運びに来たら」


親父「裸で馬乗りにされるほど、お前に愛されていたとはな。そういう趣味はないんだが」


/


脱衣場で親父さんが裸になり、温泉に向かっている途中で俺は後ろからナイフで刺そうとした。


目の届かない後方にまで反射の神経が行き届いているのか、俺の手を掴んだ親父さん自身さえ驚いているようだった。


親父「動機を言え。動機を」


男「心当たりがあるだろう」


親父「有りすぎてどれかわからねーんだよ」


男「俺のお袋を殺した」


親父「勝手に自殺したんだ」


男「お前が金を貸して追い込んだ」


親父「借りたのも返せなかったのもお前の母親の責任だ」


男「お袋は俺を連れ戻そうとしていた」


親父「お前を欲しがるクズはこの世界にたくさんいるさ」


男「お袋の遺書を読んだ」


親父「なんて書いてあった」


男「愛していたと」


親父「本当にお袋さんが書いたのかねぇ」


男「お前は自分さえ幸せになれれば他人はどうでもいいんだ」


親父「人を殺そうとしている今のお前にだけは言われたくないな」


/


親父さんは左手を振りほどき、躊躇なく親指を俺の左目に刺そうとしてきた。


すんでのところで躱したが、バランスを崩し倒れてしまった。


親父「お前、俺に殺されるぞ。殺し屋でも雇うか、銃でも射てばよかったじゃねーか」


男「俺がしたいのは復讐だ」


親父「思い出深い温泉で、血のぬくもりとともに殺すのが復讐か。情緒のあるやつに育ったもんだ。そうだよなぁ、愛がそのまま裏返ったものが復讐だもんなぁ」


男「金か。俺がいなくなると、金が減るからか」


親父「色々大人の事情があるんだよ。お前のお母さんの新しい愛人が、うちの敵の保険屋さんでよ」


男「保険屋?」


親父「保険金を降ろさせるために殺す仕事があるんだよ」


親父「まだ、授業続けるか?」


親父さんは今度は膝で蹴り上げようとしてきた。


俺はそれ以上に早く膝を突き出し抑えつけた。


/


親父さんは容赦のない戦い方をする。


喉仏をめがけて拳を振るってきたり、鳩尾に膝を乗せようとしてきたり。


鼻を噛みちぎろうとしてきたり、目にツバを吐いてきたり。


喧嘩に勝つための行動は何でもするのは、プロといえばプロなのだろうが、子供の喧嘩のような、美しくない戦い方だった。


親父さんは暴力の秀才だったが、対して俺は天才だった。


親父さんが努力で培ってきた戦い方を、体格や、生まれ持った感覚を活かしていなすことができた。


口こそ余裕を見せているものの、思うような運びに持っていけない親父さんから焦りと怒りが見えてきた。


親父「成長し過ぎたな」


男「おかげさまでな」


親父「本当の親子でも、同じ分野で負けた父親は、息子に嫉妬をするらしい」


男「それは実体験か」


親父「歴史の教科書にそう書いてあっただろう」


今度は左の拳で股間めがけて殴りつけようとしてきた。


俺は膝を思い切りあげ、拳を蹴りつけた。


男「親父さん。あんたの頭でも、俺の体躯にはかなわない」


復讐心を持ちながらも、俺は高揚していた。


自分の恩人を支配している感覚。


自分が、神になったかのような錯覚に、少し酔っていた。


/


親父「これは……もう降参だな」


男「死んでくれるか」


親父「助けを呼ぼう」


男「助け?」


親父「火事だぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」


親父「火事だぁあああああああああああああああああ!!!!!!!!誰か来てくれ!!!!!!!!!!!!!!!!!」


管理人のいない天然の露天風呂で、数日間の事前調査でも人気のなかった真夜中の時間ではあるが。


万が一人が聞きつけると通報される可能性がある。


口を塞ごうとすれば噛み付こうとしてきた。


生きるために手段を選ばない親父さんを、心底鬱陶しく思った。


もう一度息を深く吸い込んだ親父さんを、俺は思わず湯の中に突き落とした。


湯から顔を出した親父さんは、さらに奥へと進みまた絶叫しようとした。


俺は深追いをして、親父さんの口を殴ろうとした。


一転、親父さんは俺の手を引っ張り湯の中に沈めてきた。


天然の湯だが、温度は高かった。


俺はその瞬間に親父さんの考えに気付き、笑ってしまいそうになった。


親父「さっさと、のぼせてくれ」


親父さんは拳を振るうのをやめて、身体を固めて俺を水に沈めることに集中してきた。


小学生の頃を思い出す。


ここで溺れてしまっては、今度こそ、死んでいることに誰にも気づかれないまま横たわってしまうだろうなと想像した。


/


水中では普段のような暴力が活かせず、技術がものをいいやすかった。


親父さんに形勢が傾いた。


俺は親父さんから逃れようとしながらも、親父さんから距離を置くことができなかった。


脱衣場までの途中の道に刺すのに失敗したナイフが転がっている。


脱衣場には親父さんの拳銃やナイフがある。


なんとしても、この場で、暴力で解決しなければならない。


俺は暴れた。


冷静さを欠かないように気をつけながら、力任せに親父さんを殴りつけた。


いつもの技術的な戦い方やセオリーを無視して、力を押し付けることにした。


速さと強さだけを押し付けているうちに、親父さんもそれを防ごうとし、単純な殴り合いに近い形になった。


親父さんの顔を何度か殴りつけた。


俺を家から救い出してくれた恩人の鼻から血が吹き出した。


俺がのぼせる以上に早く、親父さんは体力を消耗していた。


/


親父さんはもう力が尽きかけているようにみえた。


このまま殴りつけ、水に沈めようと思った。


親父「もう……許してくれねえか……」


男「母親を殺されたのにか」


親父「ろくな母親じゃなかったろ」


男「黙れ」


親父「俺の母親と一緒だ」


男「何を言う」


親父「娼婦だったんだよ。知らなかったろ」


一瞬の不意をつかれた。


親父さんは物凄い勢いで顔を両手で掴み、髪を除け両目を見つめて言った。


親父「お前は、間違っている」


めまいがした。


心臓の鼓動が激しくなり、汗がとまらなくなった。


親父さんはそのまま俺を水中に沈め、岩底に何度も頭を打ち付けてきた。


/


身体つきだけで喧嘩は決まらないと親父さんはよく言っていた。


俺が親父さんを理解している以上に、親父さんは俺を理解していた。


俺が親父さんを愛している以上に、親父さんは俺を愛していたのかもしれない。


もう抵抗する力は残されていなかった。


走馬灯の様なものはよぎらなかったが、俺は親父さんの言葉を思い出していた。


あれは義父に暴力を振るった日にかけられた言葉だった。


「才能や恩人には気をつけろよ」


「人は、自分を救ってくれたものによって破滅するんだ」


まさに、今、暴力の才能に過信した俺は、恩人によって殺されようとしていた。


/


俺は、誰にも気づかれない死体、にはならなかった。


目覚めたのは病院だった。


早朝に散歩をしていた男が、足だけ湯に浸け岩の上で横たわっている俺と親父さんを見つけたらしい。


親父さんは俺の隣で、ナイフを腹に刺された状態で死んでいたそうだ。


俺は殺人の容疑で捕まった。




水中で完全に優位に立っていたのに、どうして岩場で俺と親父さんは横たわっていたのだろう。


俺は混濁した意識の中で、ナイフを取りに走り、親父さんを刺したんだろうか。


納得のいく答えは1つしかなかった。


俺は、親父さんに命を救われたのだった。


俺が溺れないように。俺がのぼせないように、水上までひきあげられ。


そして、自殺を図ったのだ。


/


20代を刑務所で過ごした。


俺は親父さんをナイフで刺殺したことになっていた。


冤罪といえば冤罪だが、真実といえば真実なのだろう。


その状況を引き起こしたのは、紛れもなく俺なのだから。




刑務所生活の30秒ほどの短い入浴時間のおかげで、俺はのぼせることがなくなった。


刑務所内でのいじめは激しいものがあったが、殺人の罪で入ってきた大柄の俺に手をだすものはいなくて、表の世界にいたときよりも暴力とは無縁になった。


規律を守り、規則正しく行動し、単純な作業を繰り返した。


できるだけ過去のことも、未来のことも考える時間を与えられたくなかった。


何もかもに絶望をしていた。


人生を、どこから後悔すればいいのかわからなかった。


/


刑務所で俺はよく本を読んだ。


知識を得たかったからでも、解決を求めたからでもない。


うつむくことが自然な行為だったからだ。


俺はあらゆることから目を背けていたかった。


俺は俺の人生を後悔し続けた。


俺の他にも殺人を後悔している者はいた。


だが、被害者に対して謝罪の気持ちを示すものは俺の周囲にはいなかった。


極悪非道の犯罪者のひとりごとは、おかあさん、だった。


俺は、おかあさん、と言ったあとに、おとうさん、といった。


そのおとうさんが、実父だけを示すものなのかは自分の中でもはっきりとしていなかった。




服役してから数年が経った。


出所は恐ろしくてたまらなかった。


外の世界と関わる自分を考えると恐ろしかった。


ただでさえ人の目を避けてきた自分だ。


刑務所でも、丸刈りにされ、人の視線を避けるように下を向いて、ろくな関わりなどもたなかった。


今更表の世界に行って何の意味がある。


誰のために生きる。


俺を待つものは、もう誰一人としていない。


俺を忌み嫌うものと、恨むものしかいない。


親父さんの信奉者の一人が、俺を殺そうとしているとの噂を聞いた。


その男も数年前から服役しているとも。


俺が先に出所して、その男も追って出所したら、殺してくれるだろうか、


俺には希望なんてものはなかった。


もう、死んでいるも同然の人生だった。


/


10年近い労働の対価で、俺は刺青を彫りにいった。


出来る限り親父さんの模様を思い出しながら、彫師にイメージを伝えた。


親父さんと同じように体中に彫るつもりだったが、温泉に入れなくなるのは困ると直前になって思いなおした。


天然の温泉に入るくらいならぎりぎり隠せるだろうと、下半身の一部に彫ってもらうことにした。


足を洗って表の世界に出て、俺は親父さんと一緒の足になった。




犯罪者には就労支援がある。


俺は刑務所の作業とさして変わらない、単純な仕事を繰り返した。


その仕事場には、前科のない表の人間もたくさんいた。


40代を超えたオヤジたちは、自分らは社会の最底辺だと自虐風に笑いながら、ダンボールに品物を詰める作業を繰り返していた。


パートのおばさんが1時間の残業を指示すると、口々に子供のような文句を言いながら作業を続行した。


まともじゃないか、と思った。


あんたは若いしまだ未来があるよと励まされた。


はい、とだけ答えた。


日が経つに連れて、俺は以前行っていたような、裏の仕事に手をのばしていった。


稼ぎがよくなるという理由もあったが、それ以上に、自分にふさわしい場所はそこだと思ったからだ。


自分一人が生きるのに必要な金と、自分ひとりで過去を思う時間だけを手に入れて、あとは、死すべき瞬間を待つのみだった。


/


男「だから後悔したぞ。お前に話しかけた時はな」


女「…………」


男「仕事の都合でこの地にたどり着き、親父さんの過去を追うように早朝の5時に風呂に浸かり」


男「過去の呪縛から逃れたい思いと、自分を支えるものは過去の回想しかないという依存に苛まれて」


男「孤独を苦しく感じる自分と、人を避けて生きたいという自分がいて」


男「どうして俺は、お前に話しかけてしまったんだろうな。親父さんの一目惚れした人と、重ねてしまったのかもしれないな」


女「私は後悔していませんよ。あなたに話しかけられたこと」


男「左目まで奪われずに済んだからな。俺も死ぬ前に誰かの役に立ててよかったってもんだ」


女「そんなつもりで言ったんじゃないってことくらいわかってくれてますよね」


男「お前は表で生きる人間だ」


女「あなたも裏で生きてくださいよ」


男「太陽と月のようにか」


女「希望をもってくださいよ」


男「なら、俺と添い遂げてくれるか」


女「試すような言い方では ”はい” とは言えません。投げやりな言葉はやめてください」


男「おい、さっきからやめろよ」


女「何がですか」


男「俺の目を見るな」


女「あなたも私の目を見てください」


男「何のためにだ」


女「相手を理解するためですよ」


/


男「お互い暗い過去には触れ合うのをやめるんじゃなかったのか」


女「暗闇でも見つめ続けていれば、目は順応して光を見つけられます」


男「もう関わるのをやめろ」


女「今から幸せになりましょうよ」


男「出会ったときから、俺達は取り返しがつかなかったんだよ」


男「理不尽が約束されたお前と、道理を外れてしまった俺」


男「お前は因果もないのに応報をくらって、俺は義理も人情も通さずに裏切った」


女「あなたを殺そうとする人がいるのなら、北海道でも、沖縄でも、遠くに隠れて生きていけばいいじゃないですか」


男「俺の幸せ残存数ってやつ覚えてるか」


女「急になんですか」


男「18,000個だった。残り50年生きるとしたら、1日0.9個だ」


男「犯罪者はぎりぎり幸せになれないんだ」


女「だったら幸せの母数を増やして下さい」


男「どうやって」


女「一緒にお風呂に浸かりましょう」


男「血にまみれたこの死体の浮かんだ風呂でか?」


女「…………」


男「痕跡は跡形もなく消す。それでも記憶は一生消えない」


男「もう俺もお前も二度とここにはこない」


男「さようなら、だ」


/


女「そんな……」


男「出て行け。邪魔だ」


女「これで、終わりですか……」


男「言い残したことはあるか」


女「また……」


女「また、早朝……」


男「もうここには来るな」


女「あなたも、お風呂、もう入らないんですか」


男「家に風呂はついてるからな」


女「そうだったんですか」


男「実はお前に会いたかったのかもしれない」


女「そうなんですか。よかったです。安心しました」


女「それでは、また早朝ですね」


男「じゃあな」


女「また」


男「早く出て行け」





花火はとっくに消えていた。


お気に入りのタオルでさえ、身体を拭く感触を感じられなかった。


少し外出していたのか、何事も知らない管理人のおばあちゃんとすれ違ってさようならを言ったあと、私は家まで一人で歩いた。


明日また、日常が始まる。


今日までとの違いは、憎しみの対象が消えたことと、あの人がいなくなること。


きっと。


これが、正しい姿なのだろう。


私は泣きながら、無理やり自分を納得させようとしていた。



レールは2つに別れていました。


一つは天国へ通ずる道。


もう一つは地獄へ通ずる道。


天国へ通ずる道は、天国へ通ずる道を目指すものと歩むことができます。


地獄へ通ずる道は、行き先が地獄であると知ってもなお共に歩みたいと思う者と歩むことができます。


快楽は、そのまま生きる意味となります。


苦悩は、そのまま愛の証明となります。


だとしたら、悲しくて悔しいことに。


ただひたすらなければよかったと願っていた過去に、救われてしまうこともあるかもしれませんね。


次回「湯の花の花言葉って知ってますか」


アインシュタインさんに質問です。


好きな人と業火の湯釜に浸かると、二人の時間はどのように進みますか。

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