訳者のあとがき
短編の名手として知られる「サキ」ことヘクター・ヒュー・マンロー。その16年の執筆期間で、書いた作品は100を超える。だが、その多くは短編小説であり、戯曲の体を成したものは少ない。私の知る限りでは「The Baker’s Dozen」(短編集「Reginald in Russia and Other Sketches」収載)や「The Watched Pot」(Charles Maudeとの共著)や「The Miracle-Marchant」「Karl-Ludwig’s Window」「The Death-Trap」(ペンギンブックスのサキ全集などに収録されている)の五つの作品だけである。
正直なところ、日本で知られているのは中村能三訳の「十三人目(The Baker’s Dozen)」だけだろう。それ以外の戯曲が話題に上がることはまずない。海外の書評サイトなどを見ても、サキの戯曲を語る者は稀である。もし、読者諸氏の中に「サキの戯曲は全て読んだ」と仰る方がいれば、その人は重度のサキ・フリークか、三流詐欺師のどちらかであろう。十中八九、そのはずである、賭けてもいい。
さて、この翻訳の原本である「The Death-Trap」について語るとすれば、インターネットの海を隈なく探してようやく二、三のレビューなり感想なりを目にするくらいの作品……といったところだろうか。その程度の知名度の作品であり、埃に埋もれてしまっているといっても過言ではない。ただ、もしかすると、一部の東欧史の研究家にとっては名の知れた戯曲であるのかもしれない。まあ、これについては後述することとしよう。さて、そういったマイナーな作品であるから、日本で翻訳出版されることはこれまで無かったし、おそらく今後も(余程のことでもない限り)しばらくは無いはずだ(もちろん、同人即売会などで、翻訳モノが公開されたことはあるやもしれないが……それについては保留とする)。
作品についてあれこれ語ってみせるのは野暮で無粋だと思うので、詳しくは本文なり原著なりに二度三度目を通して理解を深めて頂きたい。ただ、少しだけ語るならば、この戯曲の見所は、やはり若き君主ディミトリの心境の変化の生々しさであろう。自らに降りかかる暗殺の黒い手を前に、少年ディミトリは諦観からか空元気を出しているようにも見受けられる。だが、内心、死を恐れ、生への執着を懇々と語り始める。親友である軍医シュトロネッツの計略によって、暗殺者たちを退かせたときには、この若き君主は命を得たことに心から歓んでいた。だが、病魔によって避けられぬ「死」を知らされると、子供のように狼狽して取り乱す。最後には死を決意して、君主として毒杯を嘗めて、笑いながら逝く。この一連の目まぐるしい心情の変化が、短い中にも関わらず緻密に描き込まれている。流石「短編の名手」と言ったところだろうか。サキの短編には、心情よりもそれを覆い隠す虚飾の表層を鋭く笑うような作品が多く、登場人物の心情を深く掘り下げているものは少ないように思える。そういった点でもこの戯曲は異色の作品と言えよう。本書は、大人と子供の狭間にあるディミトリの心情の生々しさ、生への渇望、これらが非常に印象的な作品である。
また、サキの作品には「意外な結末」が特徴的だが、この戯曲もその例に漏れない。つまり「暗殺者に狙われる若き君主が、親友の機転で命を助けられる」が第一の転調。そして「命は助かったが、病気のためにあとわずかな命だと知らされる」が第二の転調で、「自決の際に、暗殺者たちも道連れにしてしまう」が第三の転調である。この戯曲にはこのような三つの転調(どんでん返し)で構成される。言うならば、タイトルの「死に至る罠(The Death-Trap)」とは、「暗殺者による罠」と「病魔の罠」、「ディミトリが暗殺者を陥れる罠」のことを指しているのだろう。
いやいや、なんと刺激的で心揺さぶる『意外な結末』であろうか。これには全世界に住まう全国津々浦々の読者諸氏の飽くなき読書欲求も十二分に満たされることであろう…………となるわけも無く、『意外な結末』としては少々刺激に欠けるものがある、というのもまた事実。
やはり、世に知れぬ作品であるが故、底無しの読書欲を満たすには値しないか……と即断するのは早計である。この物語の「意外な結末」とはそんな陳腐な「三つの罠」であるはずがない。隠された「第四の罠」を明らかにすることで、この戯曲の真の「意外な結末」を知ることだろう。
この戯曲には、一人の嘘吐きがいる。それは、シュトロネッツ軍医という狂言者である。
冒頭の登場人物欄に再度目を通していただきたいが、この軍医は、クラニツキー連隊の軍人である。クラニツキー連隊というのは、ディミトリ殿下と敵対するカルル老公の腹心である。
だが、作中でクラニツキー近衛連隊について、ディミトリが軍医にわざわざ説明する場面がある。シュトロネッツが近衛連隊に所属していることが公になっているのならば、このときのディミトリの台詞はひどく不自然極まりないだろう。ゆえに、軍医が自分の身分を隠していると考えた方が自然だろう。
そして、ディミトリが死を決心した直接的な原因は、あと数日の命と宣告された病のせいである。そして、それを宣告したのはシュトロネッツ軍医であり、その病の真偽を知るのもまた軍医ただ一人なのである。また、作中でのディミトリの死因は、暗殺者の凶刃でもなく己を蝕む病魔でもなく、軍医が与えた毒薬なのである。つまり、この軍医は、自分の身分を隠して若き君主ディミトリに近づき、信頼を勝ち得たのであろう。そして、暗殺者が今にも迫り来るという緊張の中、虚偽の死病を宣告し、それを暗殺者はもちろんのこと、ディミトリにも信じ込ませる。迫り来る偽りの死の恐怖を抱えるディミトリに対し、忠臣を装って、安らかな最期を迎えることが出来る毒薬を渡す。結果、ディミトリは毒薬をあおって死に至り、見事カルル老公の時代が到来するのであった。
しかし、ギルニッツァ大佐たちの死まで予想していたかは分からない。自分と同じくカルル老公を担ぐ政敵がいなくなって、軍医にとっては好都合だったに違いないだろうが……。一人の若い君主と三人の軍人が凄惨な最期を迎える中で、軍医は無事に城から逃げ遂せた。走りながら、腕で隠したその顔は一体、どのような表情を浮かべていたのだろうか。このシュトロネッツ軍医という存在こそが「第四の罠」で、「死に至る罠」そのものなのである。彼の手の上で踊る四人を描いた戯曲、それが「The Death-Trap」なのである。
……というのは、訳者自身の個人的な邪推であって、疑わしい妄想にすぎない。もちろん、サキ自身がそのような意図でこの戯曲を書き上げたのかは今となっては知る術もないし、これが全く以ておかしな勘違いである可能性も十二分にある。何しろ、この仮説の根拠は登場人物の覧だけだ。もし誤植なら、一瞬にしてこの仮説は崩れ去るのだ。世界の隅の日陰者の妄言として話半分に聞き流していただけたら幸いである。
さて、ここで作品の背景について少しばかり論じてみようと思う。最初の方でも述べたと思うが、この「The Death-Trap」という戯曲は非常にマイナーな作品だが、一部の歴史学者はこの戯曲に着目しているようである。例えば、セルビア出身の小説家であるVesna Goldsworthy(現Kingston大学教授)が記した「Inventing Ruritania」(1998)やBelgrade大学のSlobodan G. Markovich教授の「British Perceptions of Serbia and the Balkans, 1903-1906」(2000)で論じられるに、この戯曲「The Death-Trap」は1903年にセルビア王国で起きた国王暗殺事件「五月政変(May Coup)」をモデルにしているそうだ。(ただし、両者のそもそもの引用元はA. J. Langguthの伝記「Saki: A Life od Hector Hugh Munro, With Six Short Stories Never Before Collected」(1981)であることに留意されたい。)
五月政変(May Coup)とは、1903年当時のセルビア国王アレクサンダル一世・オブレノヴィチと王妃ドラガ・マシンが軍人ドラグティン・“アピス”・ディミトリエヴィチ大佐らの手によって暗殺された事件である。この事件によって、セルビア王家であったオヴレノヴィチ家は断絶し、長年敵対していたカラジョルジェヴィチ家のペータル・カラジョルジェヴィチが玉座に座すこととなった。「Inventing Ruritania」によると、当時サキは英紙Morning Postの海外特派員としてブルガリアのソフィアに滞在しており、件の事件を聞いてセルビアの王都ベオグラードに向かったという。だが、彼が目にしたベオグラードには、国民の「悲嘆に暮れる姿」もなく、「異常な興奮の一端」も無かった。セルビア兵士は帽子の「Aという頭文字が添えられた花形の紋章を千切り捨て、薔薇の若枝に挿し替え」ていたのだった。「Inventing Ruritania」と「British Perceptions of Serbia and the Balkans」からの孫引きになって申し訳ないが、サキは首都ベオグラードで見た光景について、1903年6月13日付のMorning Postに次のような記事を寄せている。
『歴史は賛否両論を交え、その王家の滅亡を語り、かの不幸な婚礼と此度のクー・デ・タについて論じることだろう。王家の栄華の儚さや死に至る悲劇の結末に黙祷を捧げ、市井の心は休まる暇も無いことだろう。
ただし、悲劇を目の当たりにしたからといって、憐れ哀しまねばならないわけではないし、非難を浴びせる義務もない。此度のことは彼ら自身の問題であり、セルビア国民とセルビア王家の間の問題なのだから。
だがそれでも、あの仄暗い宮殿で起きた孤独な最期に恐怖し、想いを巡らせている者もいる。宮殿に迫り来る凄まじき大騒動の最中で、命を狙われる国王夫妻は部屋の隅から隅まで助かる道を探してまわった。そして、二人は唯一の逃げ道を見つけ、その目には敵の姿を映していたのだ。』
国王夫妻の死を哀しむこともなく日常を送るセルビア国民(実際、国王アレクサンダル・オブレノヴィチは独裁的で国民人気は低く、侍女ドラガ・マシンとの結婚も国民の反感を買っていた。)を目の当たりにしたときの感情を、この戯曲に書き殴ったのであろう。暗殺者の銃弾が国王夫妻の身体を撃ち抜き、二人はそのまま窓の外に投げ捨てられる……そんな情景を思い浮かべながら。
つまり、ディミトリのモデルはセルビア国王アレクサンダル・オブレノヴィチで、暗殺者たるギルニッツァ大佐はセルビア軍のドラグティン・“アピス”・ディミトリエヴィチ大佐、カルル老公はペータル・カラジョルジェヴィチというわけである。ただし、ディミトリと違ってアレクサンダル一世は結婚しているし、ギルニッツァ大佐が命を落としたのに対して、ドラグティン大佐は事件後も生き永らえ、テロ組織「黒手組」を結成して第一次世界大戦の元凶ともなるサラエヴォ事件に関与している。この戯曲はセルビア王国の滅亡を基盤に置きつつも、あくまでもケダリア公国という架空の国の物語なのである。
ただ、このケダリア公国の滅亡の遠因となる「古くからの諍い(The old feude)」とは何なのか。それについてはセルビア王国史、ひいては当時の東欧を巡る状況について論じねばならないだろう。
×××
鋭い爪を尖らせた双頭の鷲が二頭、睨みを利かせる。赤き夜空には月星が煌めき人々を脅かす。想像するにそういった土地だったのだろう、バルカン半島というのは。西欧と東欧に挟まれ、海を隔てて中央アジアにも面する。種々様々な民族が雑多に混在し、オーストリア=ハンガリー帝国や帝政ロシア、オスマン=トルコなどに従属する時代もあった。時にそれら大国の代理戦争を担って半島のあちらこちらで火花を散らす。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるのも頷けるが、外から降り掛かる火の粉だけではなく、内奥から生まれ出る火種にも注視しなければならない。
或る一つの国の歴史を紐解いてみるに、それは二つの家の権力闘争の歴史であり、或る王家の歴史を紐解けば、それは或る国の誕生と滅亡の記録であった。因果律か積み木倒しかは分からないが、怨嗟が復讐を生み、報復が憎悪を生むように、転がる石は止まることを知らず、ぐるぐるグルグルと終焉へ向って転がり落ちていくのだった。
抽象的な言葉ばかりで食傷気味だろうから、話をバルカン半島に戻す。
舞台は半島の北、十九世紀のセルビア。
十四世紀、セルビアの地には東ローマ帝国の後継者と称するセルビア帝国が君臨し、双頭鷲の旗が挙がっていた。しかし、1459年のオスマン=トルコ軍の侵攻によってセルビア人国家は滅亡してしまう。それから数世紀を経て、1804年、当時セルビアはオスマン=トルコ帝国の支配下にあったが、セルビア人たちは独立を目指して二度の蜂起を起こした。一度目の蜂起は家畜商カラジョルジェ・ペトロヴィチの手によってなされ、一時は完全な独立を掴みかけたが、圧倒的なまでのオスマン帝国の数の暴力により反乱は鎮圧される。カラジョルジェ・ペトロヴィチは国外に亡命するも、蜂起に参加していた家畜商ミロシュ・オブレノヴィチによって暗殺される。
二度目の蜂起はこのミロシュ・オブレノヴィチによってなされた。しかし、この二度の蜂起を以てしても、セルビアはオスマン帝国の支配から脱することは出来なかった。だが、ミロシュ・オブレノヴィチはオスマン帝国の名の下にセルビア公位に就くことを許された、セルビアは事実上の自治権を獲得したのであった。これにより誕生したのがセルビア公国である。
以降、ミロシュ・オブレノヴィチを祖とするオブレノヴィチ家がセルビア公国を統治することとなり、双頭の鷲が再びセルビアの地に君臨した。ただし、オブレノヴィチ家の専制的な政治に不満の声を上げる者も多く、反対勢力は第一次セルビア蜂起の指導者カラジョルジェ・ペトロヴィチの血を引くカラジョルジェヴィチ家の人間を担ぎ上げ、しばしば謀反を企てた。また、オブレノヴィチ家はオーストリア=ハンガリー帝国を後ろ盾に、カラジョルジェヴィチ家は帝政ロシアを後援に持っていたため、この両家の対立は両帝国の代理戦争という色も帯びている。南から昇る赤い月夜が不気味に照らす中、東西の双頭の鷲がセルビアを睨み付けていたのである。
史書にこのオブレノヴィチ家とカラジョルジェヴィチ家が登場して以来、セルビアの歴史はこの二つの王家を軸に描かれ、両家の間で繰り返される暗殺と公位の簒奪が史書を彩っていった。
初代セルビア公ミロシュ・オブレノヴィチ一世はセルビア公位を息子のミラン・オブレノヴィチ二世に継がせるものの、すぐにミランは病没する。ミランの弟であるミハイロ・オブレノヴィチ三世が公位を継承するが、反対勢力によるクーデターで廃位となる。
その後、セルビア国民議会の推挙によって、カラジョルジェ・ペトロヴィチの息子アレクサンダル・カラジョルジェヴィチがセルビア公に選出される。しかし後にこのカラジョルジェヴィチ家のアレクサンダルも議会と対立し退位に追い込まれる。
そして、第三代セルビア公であったミハイロ・オブレノヴィチ三世が再びセルビア公に返り咲く。だが、幸福も束の間、何者かの手により暗殺された。この暗殺についてカラジョルジェヴィチ家が疑われたが真相は未だ闇に包まれている。ミハイロには子供が無く、縁戚のミラン(第二代セルビア公と名前が同じで非常にややこしい)が若干14歳で第四代セルビア公ミラン・オブレノヴィチ四世として即位する。そして、1878年、露土戦争によってセルビアはオスマン=トルコからの独立を果たし、公国から王国へと姿を変えた。この時、ミラン・オブレノヴィチ四世はセルビア国王ミラン一世として戴冠する。
だが、このようなオブレノヴィチ家の波乱に満ちた歴史も一発の銃声で終わりを迎えることとなった。
公国の成立から六十年の後、遂にセルビアはオスマン帝国の支配から完全に脱し、セルビア王国として完全なる独立を果たしたわけだが、オブレノヴィチ家とカラジョルジェヴィチ家の対立が無くなることは無かった。それどころか、オブレノヴィチ家の独裁に対する不満の声は国土を席巻していったのである。王室への不信感が最高潮に達した1903年6月10日(ユリウス暦1903年5月28日)、その夜、セルビア陸軍のドラグティン・“アピス”・ディミトリエヴィチ大佐は青年士官を引き連れて王宮への襲撃を決行した。
王宮には国王アレクサンダル・オブレノヴィチと王妃ドラガ・マシンがおり、侵入してきたセルビア兵士らの銃弾が夫妻の身体を貫いた。銃撃直後、国王夫妻は辛うじて息があったが、反乱兵士らの黒い手が夫妻をそのまま窓から突き落とした。そして夫妻は文字通り落命する。国王夫妻には跡継ぎが無く、この二人の死こそが長きにわたるオブレノヴィチ家とカラジョルジェヴィチ家の対立の終幕であり、オブレノヴィチ家の終焉でもあった。
ブルガリアに滞在していた英モーニングポスト紙の或る記者は、この国家転覆騒ぎを聞きつけるなり急いで汽車に乗りセルビアへと向かった。国王の居なくなった首都ベオグラードには、哀しみに暮れる国民の姿や動揺を隠せない市民の姿などは無く、その奇妙な情景を前にして記者は或る種の不可解を思った。凄惨な最期を迎えた国王たちの孤独な末路に思いを馳せ、筆を走らせたのであった。
その記者の名はヘクター・H・マンロウ。後にサキと呼ばれる小説家である。
×××
いや、短い戯曲一つ取ってみても、このように深い思索を巡らせることが出来る。実に面白い。だが、それがこの戯曲に難解さというか、ある種の親しみにくさを生んでいる遠因かもしれない。勝手気ままな解釈ではあるものの、翻訳を通じてこのような論評を公開できたのは、非常に得難い経験であった。サキの数多く、そして数少ない未訳作品を無事翻訳することができたことに感謝している。乱文をここまで読んでいただいた読者諸氏には感謝してもしきれず、機会があれば口直しに原著「The Death-Trap」を読み、サキの生きた筆を味わっていただければ幸いである。
2016年11月4日 着地した鶏