口付け
朝日が射し込んで部屋を照らす。
暗闇から目が覚めたときはいつもつまらない1日が始まると憂鬱になるのに、今日は少し気が軽い。
昨日彼女に自分の過去を話したからだろうか。
今まで溜め込んできた気持ちは一度口に出してしまえば心が軽くなった。
起き上がろうと寝返りを打つと、目の前に何故か彼女がいた。
「え!?」
昨日の夜、一人で寝室に来たはず。
困惑で固まる俺の横で彼女はまだ寝ている。
何もかも見透かすようなあの瞳は今は閉じられ、
抜けるように白い肌が乱れた服から覗いている。
まだ色濃く残っている痛々しい痣が、何故か妖艶にも見えた。
そっとその髪に触れて、それからその頬に触れる。
きっと、魔がさしたのだと思う。
その瞳に見つめられていなかったから。
そっとその頬に口付けをした。
柔らかな頬の感触をしばらく感じてからそっと離れる。
自分のしたことに驚きながらも何もなかったように立ち上がった。
決して彼女の方を見ずに、部屋を立ち去る。
熱をもった自分の顔を誰にも見られないように、俯いて書斎に籠った。
その頃彼女がその瞳を見開いて、俺の出ていったドアを見つめているとも知らずに。
彼女が起き出してしばらくしてから、
俺は彼女に視線を向けることもできずにいた。
「今日は私についてあれこれ聞かないのか」
気まずい沈黙を破ったのは意外にも彼女だった。
何も答えられないでいる俺に彼女は溜め息をついて言い放った。
「あんな口付けくらいで何をギクシャクしているのだ。
だいたい夫婦としてここにいるのに別室で寝てるのはまずいと言ったのは蓮だろうが」
さらりと言われた台詞に驚愕しながらも、少し安心する。
怒っているのは口付けをしたことに対してではないらしい。
「気が向いたら部屋に来いと言ったから望み通りしてやったのに、そんなことでは蓮の親戚を騙せんぞ。
それに蓮がそんなだと調子が狂うから、
いつもみたいに馬鹿みたいに質問攻めにでもしてくれ」
その視線は俺をまっすぐに捉えていて、
俺の反応を一瞬たりとも見逃してくれないようだ。
今までずっとお互い踏み込まなかったその距離を、彼女は壊した。
少しためらいがちに俺の頬に触れる。
冷たくて細い、白いその手が俺の頬をそっと撫でる。
小首を傾げた彼女の瞳はまっすぐ俺に向けられ、
耐えきれずに顔を背けようとしたその瞬間だった。
柔らかくて温かな感触が唇を覆う。
何が起こったか分からず固まっていると、
ニヤリと笑った彼女は悪戯に囁いた。
「これくらい出来るようになるんだな、我が旦那様?」
踊るような足取りで彼女は自室に戻って行った。
俺はまだ呆然と唇に触れて、
ああ、これがキスというものか…
などと考えていた。
俺が彼女に口付けた理由も、彼女が今、口付けた理由もまだ、わからないままだった。