見えない足枷
山の麓まで蝶の手を引いて歩く。
ちらりと振り返ると、彼女はきょろきょろと周囲を見渡しながら楽しそうに歩いている。
里から1度だって出たことがなく、全てが物珍しいようだ。
「乗って、これで家に行く」
軽自動車のドアを開いて背中を押す。
「これが車か、初めて見たぞ」
楽しそうな声色で彼女はシートに身を沈める。
車が走り出して暫くは流れる外の風景に目を輝かせていたが、
気付いたら俺の方を睨むように見ていた。
「なんだよ、外気になるんだろ」
その爛々と輝る紅い瞳に見つめられると、
何か胸がざわつくような感じがする。
まるで、視線で囚われて見えない鎖で繋がれてしまったかのような。
「お前は私のためにいくら払ったのだ」
視線をそらさずに彼女は問い掛けた。
嘘をつけば見透かされる、そう思った。
「この車1台分くらいじゃないか?」
彼女の視線から逃れるように前を見据える。
「そうか、私にそのような価値はないぞ」
再び外の景色に目を向けた彼女の声色は静かだった。
「価値があるかどうかは、俺が決める」
それ以来会話はなく、いつのまにか彼女はシートに身を沈めて眠っていた。
「起きろ、ついた」
ドアを開けて軽く肩を揺すると、彼女はさっと目を開けて車から飛び降りた。
周囲を警戒するように見渡してから、静かな声が呟いた。
「蓮、お前は何者なんだ」
その問いに答えずに手を掴んで歩き出す。
ドアの前に立つと扉が開かれた。
「お帰りなさいませ、蓮様」
溜め息をもらしながら彼女を風呂場に連れていく。
「とりあえず風呂入ってこい。着替えは用意させる」
そのまま彼女を置いて出てくる。
俺は、何者なのか、か。
不幸な運命だと決めつけられた家系の生き残り、
誰からも愛されることのない人間。
見えない鎖に繋がれた、何もできない無力な人間。
「お前、私を妻にしたいと言ったな」
急に話し掛けられて驚いて振り返る。
そこに立っていた蝶は見違えるほど美しかった。
艶やかな髪がさらりと揺れて、黒のワンピースは白い肌によく映えた。
紅の瞳が真っ直ぐこちらを見つめている。
細く白い手足に残る数々の痣。
痛々しいのに蝶が舞っているようにも見える。
「お前のような身分の者は、見合いで妻を決めるのではないのか」
彼女を椅子に座らせてから口を開く。
「そのつもりだった。最初は。
しかし、見合いで会う女達を妻にしたいと思えなかった」
何かを言おうとする彼女を遮って言う。
「不幸な運命を私と乗り越えましょう、と言われ続けるのはもう疲れてしまった」
自嘲の笑みが溢れたのが自分でもわかる。
彼女の顔から表情が消えた。
「この水無月家は昔から当主となった人間は幸せになれないと言い伝えられている。」
真っ直ぐなその視線を受け止めながら言葉を続ける。
「生まれながら不幸な運命を背負った俺を周囲は可哀想だと言いながら育て、見合いでも不幸な運命を分け合いましょうなんて言われる。だからあの里に行ったのは自由になるための逃避行だった」
俺の話を聞きながら、彼女は笑った。
「お前は、ただ私が珍しかっただけだ。
自分より目に見えて不幸な私が、どうして不幸そうにしていないか不思議だったのだろう」
赤眼の少女は皮肉な笑みを浮かべながら席を立った。
「なんにせよ私の鎖を切ったのはお前だからな。
恩に報いるのは当然のこと。
しかし、お前の妻にはなれない。
今日の話はここまでだ」
立ち去る彼女を呆然と見送り、ふと時計を見上げるともう夜中。
別に焦ることはない。
自室に戻りながら思った。
彼女は目に見える鎖に繋がれ、檻に入れられていた。
なら、俺は?
生まれながらに不幸な運命だと決めつけられているのに、
この家から解放されることもない。
俺は、見えない足枷でこの家に縛られているのだ。
そう思ったとき、彼女が俺の妻にならないと言った理由がわかった気がした。
俺は彼女をもう一度この家に、水無月家という檻に入れようとしていたのかもしれない。
しかしどんなに考えても俺のこの足枷の外し方はわからないままだ。
彼女といれば、わかる気がした。
不幸な身の上で自身を不幸だと思っていない彼女といれば。