九戦目:vs.ワークロウ
魔王城の内部は廃墟と化していた。
訪れる者も久しくおらず、頑強な柱に支えられている城内はただ、時の重みに潰されかけていた。
今に残るは戦火の傷跡を残す崩れた壁、埃の積もった床、そして朽ちるがままに任せた調度の数々。
亡骸だけは葬られているのがせめてもの幸いだろう。
「誰もいないな」
「……ああ」
敷き詰められた石畳にふたりの声が虚ろに反響する。
おっかなびっくり歩いていたナディーンだが、そのうちに緊張することに疲れて肩の力を抜いていた。
「なあ、ほんとにこの先にいるのか? その、“戦巧”のワークロウってあれだろ?」
「ナディの想像通りの相手だ」
「それが次の相手なのかよ……」
“戦巧”――“閃光”にして“戦巧”のワークロウ。その名は森に隠れ住んでいたエルフでも知っていた。
おそらくは魔王と並び、巷間で最も有名であろう魔物のひとり。
なぜなら彼は先代魔王の昔馴染みであり、そうでありながら人類側についた裏切り者だからだ。
全魔物の中で唯一ふたつの二つ名を有するのも、彼が人魔間を行き来した渡り烏だった証だ。
“戦巧”がもたらした情報、魔王領への手引き、そして勇者と共にこの城に乗り込んだその実力が、人類の剣が魔王の喉元に届いた最後のひと押しだったと吟遊詩人は歌う。
「友達裏切って勝ち馬に乗るとか、やっぱ性格悪い奴なのかな」
「会いもせずに先入観で語るのはよくないぞ、ナディ」
「……バトルジャンキーに正論で諭された」
なぜか凹んだ様子のナディーンを無視して、アキラは城の最奥へと歩を進めた。
斜めに切り落とされた扉を警戒しつつ乗り越える。
扉の先は、謁見の間になっていた。
今まで見た中で一番奥行きのある部屋――あまりに広すぎて部屋という観念には納まらないが。
奥の上座に階段状の段差があり、その上に朽ちた玉座が配されている。
こういう構図は異世界でも同じなのかとアキラは感心し、次いで、段差の根元に腰かけている魔物に目をやった。
擦り切れた袈裟を纏い、片手に酒杯を載せた男。
一見して人間に近い外見だが、その背から伸びる一対の黒翼が、彼が魔物であることを詳らかにしている。
「天狗……?」
山で一度遭遇したことのある化生を思い出し、打ち消すようにかぶりを振った。
あれはワークロウ。人の似姿とカラスの翼を待つ異世界の魔物。
戦場に現れては劣勢側に味方する、生まれついての叛逆の種族だ。
もっとも、だからといって人間側に味方したのは彼――“戦巧”くらいのものだが。
“戦巧”は伏せていた目を上げてアキラを捉え、興味深げに眇めた。
「おぬしが次代の魔王か。名前は?」
「アキラ」
「そうか。アキラよ、魔王城へようこそ。見ての通り玉座は空いておるぞ」
「興味ないな。俺の目的はアンタだ」
「……あいつの置き土産か」
“戦巧”は小さく誰かの名を呟き、ことりと杯を置いた。
ゆっくりと立ち上がる男の背で黒翼が広がる。翼長は両手を横に伸ばしたそれよりも尚長い。
応じて、アキラも【膝切り】を抜く。
おそらくは先代魔王と何かしら言い交わしていたのだろう。
それ以上、誰何の言葉はいらなかった。
「酔いは抜かなくていいのか?」
「鎮魂の酒で酔えるほど、ワシはもう若くはない」
冷然と告げて、“戦巧”はゆらりと右手を前に突き出した。
軽く腰を落とした無手の構え。ごきり、と鉤状に緩く開かれた五指が音を鳴らす。
柔か、と断じつつ、アキラはやや意外に思った。
てっきり“魔弓”のハーピーのように空から撃たれるのかと危惧していたのだ。
だが、それはそれで不自然だ。
武術とは理念云々をさておけば、相手を殺し、自分を死なせぬ術だ。
その根底にあるのは、僅かな差を勝利につなげるための徹底的な合理性。異世界であろうとそれは変わらない。
翻って、有翼種族にとり、相手が飛ばぬなら、空から釣瓶打ちした方が合理的な筈だ。
わざわざ翼の使えない近接戦にこだわるなど――
「我が二つ名は“戦巧”。――構えろ、次代の魔王」
懊悩を断ちきる厳かな“戦巧”の声が耳に届く。
次の瞬間、アキラの視界が闇に閉ざされた。
「ッ!?」
メキメキと頭蓋から鳴ってはいけない音が聞こえる。
痛みと驚愕が脳裡を支配し、本能的な恐怖が肉体の統御を乱す――それらを気合でねじ伏せ、アキラは見えぬままに目前の空間に太刀を振り抜いた。
手応え、なし。めくら打ちが当たる筈もなし。
だが、目的は果たした。
アキラの視界に光が戻る。揺れる視界に、黒翼の羽ばたいた影がよぎる。
ゆえに気付いた。視界が奪われた原理は単純だ。
“戦巧”は翼を打って高速で接近し、その掌でアキラの顔面を掴んだのだ。
――人呼んで、ワークロウ流駆術。これこそは異世界最速の組み打ちである。
ワークロウの黒翼は飛ぶためにあらず。彼らの翼は加速用のそれだ。
そして、鉄の爪などと呼ばれる彼らの指は、掴むだけで骨をも砕く。
成程、とアキラは皮肉気に口元を歪めた。
かつて魔王側にいた“戦巧”が“閃光”と呼ばれていたのも頷ける。
光のあとには闇が訪れるのが道理。この技を受けた者ならば、誰でも彼をそう呼びたくなるだろう。
(損傷は軽微。けれど、次喰らったらまずいな)
ズキズキと鈍痛を発する己のしゃれこうべを鑑みて、アキラはそう結論付けた。
確信がある。次掴まれれば、この頭はザクロのように弾けるだろう。
喰らった経験を分析する。
おそらく駆術は三段階の攻撃からなる。
駆け寄って来た速度を打撃に転化した一撃目。
掴みに移行しつつ押し込む動きで頭部を揺らす二撃目。
絶大な握力によって頭蓋を砕く三撃目。
卓越した反射神経が、高速の世界の中でその連携攻撃を実現しているのだろう。
翻って、アキラが後の先をとるのは現実的ではない。
“隻眼”のときと同じだ。敵の身体能力と知覚能力は人間のそれを遥かに超える。
下手に待ち構えても、為す術なくやられるだけだ。
ゆえに、アキラは敢然と前へ出た。
差し合いは不利。であれば、機先を制して己が土俵に持ちこむしかない。
瞬時に踏み込む三歩。振り抜く一太刀。
胴を狙った薙ぎの一撃は悠然と構える“戦巧”を捉え――しかし空を切った。
直前に、“戦巧”が黒翼を振って後退したのだ。
四肢を動かさず、翼のみを用いた移動。
人間では有り得ない動き――どころか、翼持つ魔物ですら同じことが可能かどうか。
アキラが肉体を制御して動きの“起こり”を極限まで削いだように、“戦巧”もまた翼打つその動きを極限まで削いでいるのだ。
そして、移動に翼のみを用いた“戦巧”は即座に踏み込むことが可能だ。
着地と同時に両足を用いた踏み込み。翼を併用するときより速度は落ちるが、至近であれば加速は十分。
閃光の右手が疾る。
アキラは咄嗟に頭部を護ろうとし、しかし、背筋を走る死の予感に転がるようにその場を脱した。
次の瞬間にはその理由も判明した。
飛矢の如く打ち放たれた“戦巧”の右手は四指を揃えた突きの体勢をとっていた。
(――貫き手!!)
胸部狙いの穿指孔。威力よりも到達速度を重視した一撃。
ワークロウの駆術は必殺の掴みと速度の貫き手を使い分けている。
僅かな飛翔の後、ざざっと石畳を擦るようにして制動をかけた“戦巧”が振り向く。
「どうやら、おぬし相手ならこちらの方が有効なようだな」
「器用なことだ」
苦笑と共に応え、アキラは再度踏み込んだ。
相手にいくら隠し札があろうと、距離を離す利点はない。
ゆえに、息の続く限りひたすら前へ、前へ、前へ。
「お、おおおおお!!」
「くっ」
“戦巧”が翼を振って後退する。しかし、一度見れば対応することは難しくない。
要は足が四本あると思えばいいのだ。退いた後にもう一度退く。あるいは横に飛ぶ。そういう動きがあるものとわかっているならば、こちらはその分だけ多く踏み込めばいいだけだ。
アキラはひたすらに“戦巧”へ肉薄し続ける。
迎撃に放たれる貫き手は太刀で弾く。
刃を当てた感触はまさしく鉄のそれ。動きながらの手打ちでは断つことはできない。
動きを封じ、確実に息の根を止める。
ただそれだけをシンプルに期して、ひた押しを続ける。
そうして、ひたすら追い込み続けた結果、ある瞬間に“戦巧”の黒翼の角度が大きく変わった。
飛ぶ気だ。その瞬間をアキラは狙っていた。
如何に動きを削いではいても、宙に浮く――上方への挙動には十分な助走が必要だ。
“戦巧”の技量であれば二歩で足りるだろう。
しかし、アキラを前にして、その二歩は致死の二歩だ。
瞬時に跳び込んだアキラは“戦巧”に覆いかぶさるようにして、上段からの唐竹割りを繰り出した。
全体重の乗った一刀。たとえワークロウの鉄爪であろうと諸共に断てる一撃。
対して、僅かに身を沈ませた“戦巧”は翼を広げたまま大きく胸を膨らませた。
極度に発達した胸筋がミシミシと筋肉の軋みをあげる。
――刹那、アキラの脳裡に小さな違和感が走る。
見る限り、ワークロウは発達した胸筋を用いて翼を振っている。
ゆえに、敵の動きは決しておかしな――否、既に上方をとられた現状でなお飛ぼうとするのはおかしい。
翻って、この動作は攻撃か防御のためのものだ。
攻撃か、防御か。アキラは迷わなかった。
次の瞬間、“戦巧”はその場から右手を撃ち放った。
これまでで最も速い刹那の一撃。
上体の僅かな捻りと、発達した胸筋を用いた零距離迫撃。
これこそは老獪なる“戦巧”の切り札。
初撃を見せ札に、次手の貫き手すら虚として、この至近での駆術に賭けていたのだ。
ここまで追い込まれていたように見せていたのも、飛ぶように見せかけたのも、全てはこの一撃を確実に打ちこむため。
追い込んでいたのはアキラの方、しかし、追い詰めていたのは“戦巧”の方だったのだ。
そうして、まさしく“閃光”の一撃がアキラに襲いかかった。
「――対勇者用の切り札だったのだがな」
右手を撃ち放った体勢のまま、“戦巧”は苦笑も露わに呟く。
完璧に決まった筈の一撃はしかし、アキラに防がれていた。
顔面を狙った掴みの一撃。それが、中指と人さし指の間にねじ込まれた太刀の柄によって半ばで押し留められていた。
鉄爪の先は額を割り、頭蓋を僅かに貫いているものの、致命には至っていない。
先の一瞬、アキラは迷わなかった。
“戦巧”は必ず攻撃する。そう信じて、振りかぶった柄を面前に引き寄せたのだ。
そしてこの瞬間、攻防の立場は逆転する。
全力の一撃を放った“戦巧”に対し、アキラにはまだ残された一歩がある。
“戦巧”が腕を引くより尚早く、跳び込んだ右足をそのままに相手の股合いに踏み込ませる。
互いの太ももが擦れ合い、息がかかるほどの超至近距離。
“戦巧”の腕ですら有効な攻撃方法のないこの間合いで、しかしアキラには残された一太刀がある。
即座に右手を柄から離し、滑らせ、刀身の半ばに添える。
左手は柄を保持したまま下へ、肘を引くようにして体重を乗せる。
――ムラカミ流刀争術、奥ノ太刀“壁刀”
それこそは、振りかぶる余地すらない至近距離で敵を据え斬るための妙技。
“戦巧”の左肩にめり込んだ膝切りは、そのまま彼の半身を切り落とした。
◇
「……おぬしは先代魔王に会ったのか?」
半身を断たれたまま、ふと“戦巧”が言葉を発した。
アキラは額から血を流したまま太刀を引き、小さく頷いた。
「ああ、霊魂のような状態だったけど」
「……ワシのことは、何か言っておったか?」
その声には僅かな後悔が窺えた。恨み言のひとつでもあっておかしくない、と。
種族のサガに従い、戦友を裏切ったワークロウ。
しかし、おそらくその根底にあったのは別の感情だ。
命を交わし合ったアキラにはそれがわかった。
この男は、先代魔王に認められたかったのだ。
戦友ではなく、ひとりの戦士として、認められたかったのだ。
だから、アキラはかつて告げられた通りの言葉を返した。
「――自分の次に強い魔物だ、と」
それはひどく残酷な言葉だ。
全てを裏切っても“戦巧”は届かなかったのだと、そう告げているに等しい。
「クッ……クハッ。そうか、そうか……ワシは奴の次に強いのか……ならば、悔いはない」
だが、“戦巧”の顔にあったのは晴れ晴れとした表情だった。
それが、それこそが彼が欲していた言葉。親友を裏切ってでも欲した言葉だったのか。
“戦巧”の頬を涙がひと筋流れ、それきり彼は動かなくなった。
アキラはひとしきり残心をとると、その場で大の字に倒れ込んだ。
今さらになって額がずきずきと痛む。実際に穴が開いているのだから当然と言えば当然だが。
血で滲む視界に慌てて駆け寄ってくるナディーンの姿が映る。
彼女の手にはポーションの瓶。それが最後の一本だ。次はない。
「――あと“一人”」
そう呟いたきり、アキラの意識は闇に沈んでいった。