六戦目:vs.エント
晴れ渡る青空の下、アキラの目の前に荒野が広がっていた。
見渡す限り赤く焦げた大地。山がちだった日本と比べると視界は開けていて解放感があるが、本当にそれだけだ。
荒涼たる、という言葉を現実に表現すればこういう風景になるだろう。そんな光景だった。
あるいは、少し前まで豊かな森の中にいたから余計にそう思うのかもしれない。
この荒野は一般に『死者の園』と呼ばれているらしい。
かつての魔王領の中心地であり、人魔戦争における最大の激戦地だった場所だ。
「戦争は人間側が勝ったって聞いたけど、これじゃあ村を作るのは無理だろうな。土が完全に死んでる」
二人、荒野を歩きながら、アキラはナディーンの呟きを聞くともなく聞いていた。
エルフであり、初歩なりとはいえ魔術の使い手でもある彼女には自分と違うものが見えているのかもしれない。
とはいえ、こんな荒野を支配しても無意味だろうとはアキラでもわかる。交易地にするならまた別だろうが、肝心の相手がいない。
元魔王領の端はそのまま『世界の果て』と呼ばれる遥かな山脈がその威容を詳らかにしている。
誰も――魔物すらも含めて、山の向こう側に行って戻って来た者はいない。
この先にはかつての魔王城と世界の果てしかない。
そんな場所に求めるモノがあるのは、この異世界ではもうアキラくらいのものなのかもしれない。
先代魔王から引導を任された“十人”の打倒。
それも折り返しとなったところだが、残りの五人はこの先に集中している。
主なき領地を守るため、あるいは俗世から隠遁するため、理由は様々だ。
彼らはカタチを持った魔王の後悔だ。
――『戦乱の世は終わった。新たな時代に戦士の居場所はない』
――『我らは亡霊だ。だが、まだ死んではいない。死んではいないのだ』
彼の後悔に共感したからこそ、アキラはここにいる。
そして、六人目との邂逅はすぐそこまで迫っていた。
「下がれ、ナディ。アレの“足”が届かぬ所まで」
「お、おう。死ぬなよ、アキラ!!」
「……ああ」
アキラの視線の先に一本の古木があった。
高さは八尺ほど。人からすれば大きいが、さして大きな木というわけではない。
ただし、ただの木ではない。
その黒ずんだ木には根の代わりに足があり、枝の代わりに手があり、そして明らかに顔があった。
――“大樹”のエント。
エントは樹人とも呼ばれる魔物だ。樹木の守護者であり、彼ら自身も木である魔物。
本来ならば、このような荒野にいる存在ではない。彼らは澄んだ水がなければ生きられないからだ。
その不合理のツケを彼は自らの身で支払っている。
近付いて見れば、“大樹”の全身は乾き、崩れかけていた。魔物に詳しくないアキラからしても、それが尋常の様子ではないことは一目瞭然であった。
『――ま、おう、さまぁあああ?』
ぎょろり、と眼球のような部位を巡らせて“大樹”がアキラを見下ろす。
見ただけでよく分かったな、と少年は感心しかけ、次いで、かぶりを振った。
そうではない。そうではないのだ。
『まおうさまぁああ、よくお帰りになられましたぁあああ』
胴体に空いた洞に反響する声。“大樹”は既に狂していた。
哀れな、と思い掛けて、しかしアキラはその感情を打ち消した。
この者も、こうなることはわかっていた筈だ。
エントは本来、五百年近く生きる――ただの“木”になることを“死”とするならば、だ。
だが、聞く限りこのエントはまだ百歳かそこら。耄碌するには早すぎる。
限界を超えた渇きが、死者の園と呼ばれる死んだ大地が、“大樹”の精神を病ませたのだ。
『お久しぶりですなぁ、まおうさまぁああ』
「……初めましてだ、“大樹”」
『何年ぶりでしょうかぁああ。心配せずども、わだしは一日たりどもお役目を忘れておりませんぞぉおお』
「……ああ、見ればわかる」
それ以上の問答を打ち切って、アキラは黄金造りの太刀を引き抜いた。
【膝切り】。五度の死闘を経て尚、曇ることのない古太刀が陽光を受けて輝く。
少年には先代の振りをする義理も道理もないし――そのような振る舞いは仁義に悖る。
『おお、おおぉお!! また、けいこをづけてくださるんですかぁあああ!!』
「さてな。殺す気でやることだけはたしかだ」
『? へんなまおうさまだぁ。い゛づもとおなじではありませぬかぁあああ』
「……だろうな」
それほどの戦士でなければ、先代も引導を任せはしないだろう。
刹那の如き短い付き合いだったが、アキラにはわかる。
先代は根っからの武人であったが、しかし、慈悲なき者ではなかった。
戦うことしか知らない。
殺すことしか考えられない。
そういう者以外はきっと、この戦争なき“灰の時代”でも生きていくように願っただろう。
泉下に連れていくのは、平和な時代では生きていけない戦士のみ。
――この『十本勝負』はきっと、そういうものなのだ。
「……いくぞ」
端的な掛け声と共にアキラは一気に踏み込んだ。
“大樹”の武器はその腕だ。人の何倍も長いその腕が、そのまま得物となる。
遠の間合いは不利。まずは近付かなければ勝負にならない。
だが――
『――おおおおおぉおぉおおおおお!!』
洞に反響する咆哮とともに、“大樹”が自身を回転させつつ、その右腕を振り抜いた。
長い。アキラの予想の、見かけの間合いの、何倍も長い。
すなわち、自身に巻きつけていた腕が節も露わに伸びたのだ。
否、それはもはや“鞭”だ。
――エント流枝鞭術。自らの腕を鞭とするエントの武がアキラに襲いかかった。
「ッ!!」
アキラは反射的に受け流そうとした動きを止めて、横っ跳びに回避した。
一瞬前にいた赤焦げた大地に深々と裂傷が刻まれる。
記憶が警鐘を鳴らしたのだ。
アキラには鞭を使う者との戦闘経験はない。……あっても、この“大樹”ほど非常識ではないだろうから無意味かもしれないが。
ともあれ、アキラにはないが、彼の師には鎖鎌との戦闘経験があった。
彼らの攻撃を受けてはならない。――彼らは、武器を絡め取るのだ。
素早く立ち上がったアキラは師の教え通り、即座に駆けだす。
鞭の弱点は前後の大きな隙だ。
遠心力――その言葉自体はアキラも知らないが――を武器とする以上、威力を出すためには予備動作が必要だからだ。
特に“大樹”の腕は枝であり、先端にいくほどに細まっていく。
先端重量に欠ける以上、予備動作のない直打ちは不可能だ。
だが、ここでもう一度アキラの常識は打ち砕かれた。
彼が気付いた時には、目の前にあり得る筈のない“二発目”と“三発目”が迫っていた。
左右から挟み込むような横薙ぎの交差。
アキラは咄嗟に、足から地面に跳び込むように身体を滑らせた。
ぶんと致死の勢いと音を鳴らして枝鞭が通り過ぎる。
圧し折れんばかりに撓る先端が肩を掠め、肉をしたたかに削いでいく。
タネを明かせば、簡単な話だった。
“大樹”の腕は一本ではない。
合計して八本。人間ではありえない連続攻撃こそエント流枝鞭術の真骨頂だ。
(……マズいな)
肩から脇にかけてだくだくと血を垂らしながら、アキラは自らの状況を端的に結論付けた。
“大樹”が根下まで狂っているならば話は簡単だった。
八本の枝鞭を避けて、胴体を斬れば、それで終わっただろう。アキラにはそれが可能だ。
だが、狂ってはいても“大樹”の武は健在だった、皮肉なほどに。
鞭はその間合いが広くなるほどに先端速度と攻撃力が上がる武器だ。
極めれば、人間の頭をザクロのように“弾く”ことも可能だ。
一方で、戦場向きの武器ではないともされている。
振り回すその動きが味方との連携を阻むから。
必須となる予備動作が前後の隙の大きさに繋がるから。
あるいは、“弾く”という攻撃方法が鎧兜――この世界では魔物の強固な外皮にあたる――に対して効果的でないというのもあるだろう。
そんな常識を“大樹”は当然のように踏破する。
八本の枝鞭。八本を順繰りに振るうのならば、隙などあってないものだ。それも自身の巨体に巻きつけることで個々の長さを調節した全距離対応ならば尚のこと。
そして、人間の扱う鞭とはそもそもの長さが、攻撃力が違う。外皮の上から弾いても衝撃は臓腑にまで達するだろう。
もっとも、甚平一枚しか着込んでいないアキラにしてみれば、どう喰らおうと一撃が致命傷であることに変わりはないのだが。
“大樹”の八本腕に対して、アキラの武器は太刀が一振り。斬るためには踏み込むしかない。
しかし、そのためには八本の枝鞭を避け続けなければならない。
不可能だ。いかにアキラが超人的な機動力をもっているとはいえ、八本目までを避けているうちに一本目が戻ってくる状況では、さして時を待たずに詰むだろう。
であれば、枝鞭を斬るしかない。
奪われぬよう、絡め取られぬよう意識を張って、少なくとも半分。
半分の四本は斬り飛ばさなければ、近付くことができない。
相手の土俵で不利な勝負をすることになる。だが、それ以外に道がないのなら、やるしかない。
――剣の極意とは、斬ることを知り、斬らぬことを知ることだ。
ふと、アキラの脳裡を師の言葉がよぎった。
病床にありながら、それでも剣のことしか頭になかった狂える人斬り。
彼の最期の姿が、目の前の“大樹”と重なって見えた。
「――――」
やる。やらねばならない。その為に自分は此処にいるのだ。
その意気を以てして、アキラは三度駆け出した。
即座に打ち込まれる一本目の鞭。
十分に引きつけて、弾く瞬間――鞭がその柔軟性を失う瞬間を見切って一閃。
「一本目」
吹っ飛んでいく枝には目もくれず、アキラは走る。
間合いは三十尺。アキラにとっては瞬きの間に走り抜けられる距離だ。
間をおかず、緩急を付けて放たれる二本目と三本目。
武器破壊を狙っていることはもう看破されたらしい。
相手の狙いも明確だ。横薙ぎの二本目で速度を殺し、縦打ちの三本目で武器を奪う。
明確であるが故に、打ち破る術もまた存在する。
ムラカミ流刀争術、中ノ太刀“陰妙”。
太刀を振り上げる僅かな動きで体位をずらす妙技。
それを、自らの体を沈める動きとして用いる。
然して、二本目を潜り抜けて回避、立ち上がる動きで迫る三本目ごと叩き切る。
「二本目、三本目」
あと一本を斬れば、アキラの剣が届く。
太刀を振るうたびに肩の傷が広がっている。ここで退けば後がない。それゆえの決死行だ。
そして、それは“大樹”もよく理解しているのだろう。
突如として朽ちた巨体が連続して回転する。速度に乗るは五本の枝鞭。
後先考えぬ攻勢の構え。次の一度で圧殺する気なのだろうと、考えずともわかる。
「……チィ」
駆け寄りつつもアキラは思わず舌打ちする。もっとも、その表情は満面の笑みに彩られていたが。
強敵だ。狂っていようが病んでいようが、この敵はまさしく強敵だ。
“大樹”からすれば、枝鞭を斬られるごとに不利になるのは明らか。ここで勝負をかけるのは合理的だ。
だが、そうとわかって勝負を賭けられるモノがどれだけいるか。
自らの有利を捨てて、この一合に勝負を決するべしと肚を括れるものがどれだけいるか。
アキラにはそれが心地良かった。
だからこそ、手を抜くことはしない。
徐々に回転を早めていく“大樹”に注意しつつ、奇策をひとつ手の内に準備しておく。
そして遂に、“大樹”が五本の枝鞭を打ち放った。
左前方から薙ぎ払うように振るわれる五本の枝鞭。その連なりはもはや壁が迫るに等しい。
速度もまた尋常ではない。元よりその気はないとはいえ、今から下がっても避けられない。
「――ゼッ!!」
だから、アキラは勢いよく、手の内のソレを投げつけた。
ソレは黄金造りの鞘だった。アキラの腰に納まっていた、膝切りの鞘。
それが回転しつつ、一本の枝鞭の半ばに激突した。
次の瞬間、枝鞭は衝突部分を起点にくるくると回り、鞘に巻きついてしまった。
『――!?』
“大樹”にしてみれば反射の動きだったのだろう。
常の通り、触れた物を巻き取って奪取する動き。それがここにきて仇になった。
残る枝鞭は四本。互いの読み通り、アキラが回避しきれる数だ。
ゆえに、避けて、避けて、避けて、避けて。
そして、己が間合いに踏み込んだアキラの一閃が“大樹”の胴を捉えた。
◇
荒野に吹く風はひどく乾いている。
この風に晒され続けた“大樹”は痛くはなかっただろうかと、残心をとりつつも、アキラの心は別の場所に流れていた。
慌てて意識を引き戻す。感傷は後だ。尊敬すべき敵手をいたずらに苦しませてはならない。
“大樹”はまだ死んでしなかった。
微かに震える枝が、彼がまだ生きていることを伝えている。
そして――
『――すまぬな、“まおう”、わだしの知らぬ、つぎのまおうよぉ』
「ッ!! アンタ、正気を――」
『戦ってわかった。本当にすまぬ、昔から同族以外の者を見分けるのが苦手でなあぁ』
“大樹”は傾いだ体で振り向き、不器用に微笑んで見せた。
アキラに魔物の表情はわからない。だが、どこにでもいる朴訥な青年のような様子が、彼の素なのだろうとはわかった。
「言い残すことはあるか?」
『いいやぁ。最後にいい勝負ができたぁ。わだしにとっちゃぁそれで十分でさぁ』
「……そうか」
アキラはゆるりと介錯の構えを取って、しかし振り下ろすことはなかった。
“大樹”はもう動くことはなかった。
腕は枝に、足は根に、顔だった部分は瘤の浮いた模様でしかなくなっていた。
ただの“木”になることを“死”とするならば、これがエントの死なのだろう。
「……ナディーン、彼に水をやってくれないか。妖術で水を作れるんだろう?」
「魔術な。いいよ、それくらいなら」
既にして熟練の手つきでアキラの肩の傷にポーションをぶっかけながらナディーンは応じた。
少女はすっと指を伸ばし、小さく詠唱を重ねる。
恵みの雨にも似た雫が渇いた大樹を濡らしていく。
「っと、根腐れしないようにするとこんなもんかな。でも、この土じゃあ……」
「わかってる。いいんだ。死者の園を生者に返したいわけじゃない」
この地に緑が戻ればまた係争地に逆戻りだ。そんなことは“大樹”も望んでいないだろう。
「じゃあ、なんで?」
「……俺の故郷では、墓は水をかけて清めるものだ」
「ふぅん……まあ、そういうことにしておくか」
「ああ。ありがとう、ナディ」
そう言って、アキラは照れた様子のナディーンの肩を叩いて歩き出した。
――残るはあと“四人”。