五戦目:リザードマン
轟々と流れ落ちる滝音が耳奥を騒がせる。
大きく息を吸い込めば、湿り気を帯びた清浄な空気が心地良く喉を抜けていく。
人族の領地から離れた山奥、かつて魔王の支配していた地域にほど近い場所にひとつの滝壺がある。
さして大きな滝ではないが、大気に散っていく水がきらきらと日光を反射して輝く様は、それ自体がひとつの美影であった。
「いいところだな。空気も澄んでる」
ズボンを脱いで露わにした素足を水面に差し込みながらナディーンはほうと息を吐いた。
アキラについて森を出てから早半年。久しぶりの心休まる時間だった。
「エルフはそういうの気にするのか?」
「んー、森にいるのが長かったしね。まあ、水場は強い魔物が居座ってたから、こういう場所で寛ぐのは初めてだけど」
「なるほど」
納得したように頷いたアキラは目の前の焚き火に視線を戻す。
焚き火の周りには串を入れた川魚が立て掛けられて、時おりぱちぱちと脂の弾ける音を鳴らしている。
「そろそろいい具合だけど、彼は?」
「もう上がってくる頃じゃないかな」
ナディーンの言葉が聞こえたのか、そのとき、滝壺からざばっと音と水を散らして人影が姿を現した。
八尺の槍を片手に、水かきのついた足で岸に上がる姿は明らかに人間ではない。
端的に言って、二足歩行するトカゲ。透き通るような青色の鱗と長い尾を持つ魔物。
すなわち、リザードマンだ。
「や、やあ、“隻眼”の旦那。シュギョウはもういいの?」
「……うむ」
ナディーンの言葉に“隻眼”のリザードマンは言葉少なに頷いた。
二つ名の通り、彼の左目は古い刀傷で塞がれている。
リザードマンの特徴は、武の研鑽の果てに“竜”に成ると謳われている点であろう。
もっとも、実際に竜になったリザードマンは伝説の中にしかいない。
そして、今世において、最も竜に近いと言われていたのがこのリザードマンだ。
――勇者との戦いで“隻眼”となる前の、このリザードマンだ。
“隻眼”は斬られた目を治療しなかった。
敗北を忘れぬためか、勇者への敬意のためかは、本人以外に知る由はない。
結果として、彼は群れを逐われた。
竜を目指す尚武の種族にとって、自ら点睛を欠いた彼は裏切り者に等しかった。
それゆえ、こうしてひとり、修行の日々に明け暮れているのだという。
そして言わずもがな、アキラが挑む“十人”のひとりである。
「……」
“隻眼”が残った右目でアキラを見遣る。既に事情は伝えてあるのだ。
アキラも視線こそ向けなかったが、よくよく見れば右手が黄金造りの柄にかかっている。
お互い、いつでも戦える体勢になっていた。
「さ、魚!! 魚焼けてるよ!!」
「……いただこう」
「元々アンタが獲ったやつだ。ご相伴にあずかるのは俺たちの方だろう」
「そうか」
“隻眼”が焚き火を挟んだアキラの正面にどっかりと腰を据える。
トカゲそのものの顔は人間には異質に見えるが、くるりと巻いた尻尾の上に座る姿はどことなく愛嬌を感じられた。
アキラが丁度よく焼けた一尾を渡すと、疑いもせずに齧りつく姿も堂々としている。
「熱いぞ」
「むぐ……仔細ない……うまいな」
「それはよかった」
アキラもにっかりと笑って自分の分に口を付ける。
途端に口の中でじゅっと脂が溶けだす。
味付けは岩塩だけだが、丁寧に下拵えをしただけあって臭みもない。
「しかしわからないな、“隻眼”。これまで斬ってきたのはみな人生に飽いていた様子だけど、アンタは違う」
「いかんのか?」
「それで“十人”に名を連ねられるのは、な」
「……成程、お前の行いは先代様の慈悲なのだな、今代の魔王よ」
「そういうことになる」
「あの方らしい」
細い舌をだし、しゃっと石を擦るような音を“隻眼”は発した。それがリザードマンの笑みの音であることを、アキラは初めて知った。
少年にはトカゲ顔の表情は読みとれないが、彼が先代を慕っていたことはわかる。その郷愁に似た念も、また。
「……約束していたのだ。あの方と、いつか雌雄を決しようと。
信じていたのだ。その先に、竜と成る道があるのだと」
「だから、か」
「そう。だから、先代様はお前を遣わしたのだろう――約束を果たす為に」
二人は同時に立ちあがり、食べ終わった串を焚き火に投げ込むと、戦いの間合いを取った。
視界の端でナディーンが物言いたげな表情のまま離れていくのが垣間見える。
その間に、二人が円を描くようにとった間合いはおよそ二十尺。
剣にとっては広すぎる間合いであり、槍にとっては十分に射程圏内。
だが、アキラは敢えてその間合いを選んだ。そうすべきだと判断した。
理由は、“隻眼”の構えにある。
アキラが頬横に鍔を寄せて八相に構えたのに対し、相手は両手で槍の柄を握り、胸が地面をするほどの極端な前傾姿勢をとった。
荷車を牽くのに前かがみになるのと同じだ。尾の分だけ体を前傾させて重心をとっている。
然してそれは突撃する為の構えだと、一見してわかる。
(狙いはやはり刺突――)
この世界に来て気付いたことがいくつかある。
そのうちのひとつが魔物たちの戦闘方法だ。
彼らは『斬り合い』をしない。かつての世界で人が獣と斬り合うことがなかったように、だ。
想定が違うのだろう。たとえば、“崩山”然りトロールのような巨体相手では、そもそも彼我の体格差がありすぎて斬り合う状況が発生しえない。
彼らの技は自分たちより大きく、硬い相手を一撃で仕留めるために磨かれている。
必然、技は強い踏み込みと貫徹力を重視した突撃・刺突や、破壊力を具えた大ぶりな強攻・打撃が主体となる。
“隻眼”は見るからに前者だ。間合いの広さはそのまま槍撃の鋭さに直結する。
だからこその、この間合いだ。
甚平一枚で鎧も着込んでいないアキラに対し、彼らの振るう絶大な破壊力は過剰だ。
過剰であるがゆえに隙ができる。
狙いは後の先。そこに、勝機がある。
「来い」
「――!!」
瞬間、“隻眼”が猛然と地を蹴って踏み込んだ。
応ずる声はない。水中での戦闘も想定しているリザードマンは戦闘中に口を開くことはない。
そして速い。爪と尾を駆使した這うような疾駆は最高速度で矢すらも超える。
だが、一直線に突っ込んでくるならば見切ることは可能だ。
槍の穂先が大気の壁を突き破り、額に触れるか否かというギリギリの瞬間。
――アキラの躯が、ぬるりと半歩ずれた。
「!!」
“隻眼”が残った右目を驚きに見開く。動きの初動を捉えられなかったのだ。
次いで、そのカラクリに気付く。
いつの間にか、アキラの構えが肩上の八相から、頭上の上段へと変わっている。
“隻眼”にとっての死角、左側で行われたほんの僅かな所作。
――太刀を振り上げる僅かな動きで体位を半歩ずらしたのだ。
ムラカミ流刀争術、中ノ太刀“陰妙”。
それこそは、向かい来る相手を流し斬るための攻防一体の剣技である。
「――シッ!!」
間をおかず、アキラが太刀を振り下ろす。
“隻眼”の頭部を狙った雷鳴の如き一閃。
槍を避けられ、両足で踏み込んでいる“隻眼”には避ける術はない――
――彼が人間であったならば、だが。
瞬間、“隻眼”の躯がぐるりと錐揉み回転して致死の一刀を潜り抜けた。
人間では有り得ないタイミングでの加速。それを為したのは彼の尾の動きであった。
リザードマンの体の中で最も太い筋肉は肢ではない。尾である。
彼らは尾を三本目の足として用いているのだ。
そしてこの瞬間、勝敗の天秤は“隻眼”に大きく傾いた。
彼が回避動作に回転を加えたのは伊達や酔狂ではない。
その証拠に、彼の体を軸に衛星の如く周回した槍の穂先が掬いあげるように振り抜かれる。
――人呼んで“リザードマン槍竜術”。種族の悲願たる竜を模した一撃がアキラを捉えた。
「――ッ!!」
斬、と振るわれた穂先が左肘から先を切断する。
斬撃の鋭さ故か、はたまた戦闘の興奮故か、痛みはなかった。ただ喪失感だけがあった。
「は――」
だが、そんな些事は今のアキラには関係がなかった。
「――はははははははははッ!!」
アキラは笑っていた。心から笑っていた。楽しくてしょうがなかった。
命を賭けて戦う相手がいることが、楽しくてしょうがなかった。
「すごい、すごいよ、アンタ!! アンタの武はすごい!!」
「――――」
「ああ、ほんとうに、此の世界に来てよかった!!」
“隻眼”は応えない。
自分がまだ生きているから、自分がまだ諦めていないからだ。
少年の視界の端に、柄から垂れ下がった左腕が映る。
邪魔だ。引き剥がし、背後に投げ捨てる。ナディーンの悲鳴が聞こえたが無視する。
今はそれどころではない。左腕の残存部位で脇を締めるが出血が止まらない。
残された時間はあと僅か。その僅かな時間で、目の前の難敵を攻略せねばならない。
我が剣に、この苦境を脱する技はありや。
完璧に機を捉えた“陰妙”ですら避けられた現状、後の先を狙うことは不合理。
そも、相手には此方の動きを見てから加速をかけられる“尾”がある。
隻腕で振るう剣速ではもはや追いつくことは不可能。
差し合いは不利。
であれば、選ぶべきはただひとつ、こちらから攻めるより他はない。
「――はああああああああっ!!」
アキラは気炎をあげて駆け出した。
出血は止まらない。声を発し続けていなければ意識を保つこともできない。
ゆえに、息の続く限り走り続ける。声が尽きた時がアキラの限界点だ。
対する“隻眼”もまたトドメを刺すべく駆け出した。
退く選択肢はなかった。
リザードマンは瞬発力に優れるが、持久力は人間より遥かに劣る。
退けば追いつかれる。背中を見せれば斬られる。
であれば、選ぶべきはただひとつ、己が槍で敵手を貫く以外に道はない。
「ぁあああああ――!!」
残る命を燃やし尽くさんと迫る敵手。
瞬時に詰まる間合い。
踏み込みは同時。
衝撃。
一挙動で突き出した槍が、太刀の切っ先と衝突して弾かれる。
絶体絶命の状況でなお剣腕の冴えを失わぬ敵手に、声なき称賛を贈る。
ゆえにこそ、全力を尽くす。
尾を用いて加速を掛ける――寸前、“隻眼”は僅かに迷った。
アキラは既に動いている。差し合いを捨て、先の機にて勝負をかける気だろう。
彼が動いたのは“隻眼”にとっての右、見える側だ。
死角たる左を狙われることは“隻眼”にとって日常であった。
弱点を衝かれることは当然であり、卑怯と謗るつもりもなかった。
そも、左目を潰したままにしているのは己のエゴなのだ。
だからこそ、アキラの行動を彼は理解できず――即座に思考を放棄した。
「――!!」
無音の気勢と共に踏み出す。
そこに敵手がいるのなら、迷う意味はない。
尾で地面をしっかと叩き、躯を押し出す。
全身の鱗が風を捉え、一気に加速する。
間をおかず、構えた槍を渾身の力で突き込む。
瞬間、これは会心の一撃だと確信した。
勇者と死合った時より尚鋭く、おそらくは先代に披露する筈だった約束の一撃。
その一撃が敵手を捉える、直前、首元にひやりとした感触を覚えた。
見るまでもなく、それは刃の冷たさであった。
(早――)
状況を理解する。
間合いが想定よりも半歩近い。
ゆえに、こちらに刺突は跳び越えられ、敵手の一太刀が届いている。
しかし、それは有り得ない半歩だ。
先の一瞬、敵手は既に踏み込んでいた。
尾のない者には届かない半歩だった筈だ。
だが、“隻眼”はひとつの事実を見落としていることに気が付いた。
剣を振り上げる動きで体位をずらせるならば――
――剣を振り抜く動きでも同じことができて然るべきだ。
それこそは尾無き徒人が幻の半歩を跳び込む剣の御業。
――ムラカミ流刀争術、中ノ太刀“絶陽”。
(――見事)
最期まで“隻眼”は声を発しなかった。
ただその口元が僅かに綻んでいたことを、敵手だけが捉えていた。
◇
「……きて、お願い、起きて」
「!!」
ふと、頬に触れる暖かな感触を知覚して、アキラは覚醒した。
寝転がっていた地面から跳び起きると同時に手が太刀の柄にかかり、直後、左腕が焼けつくような痛みを発した。
「ッ――」
「アキラさ――っとと」
「ナディ?」
「や、やっと起きた。血も随分だしてたし、もう目覚めないかと思ったよ。……うん、腕もくっついたみたいだね」
「くっついた……?」
成程。見れば、斬り飛ばされた左腕がたしかに繋がっていた。
肘のあたりに残る傷跡からして、先の一幕が夢だったという訳でもあるまい。
試しに拳を握ってみる。思うように動く。ただ捥げそうなほど痛いだけだ。
「あんまり動かさないで。とれても知らないよ」
「よく治せたな」
「断面合わせてポーションかけただけ。完全に元通りになるかはアキラの回復力次第だと思う」
「……そうか」
一瞬、アキラは左腕を引き千切りたい衝動に駆られた。
傷は男の勲章、などと言うつもりはない。
ただ、左腕の喪失は“隻眼”が勝ち得た結果だった。
それを反故にしてしまったことに、どうにも後ろめたさを覚えたのだ。
「……“隻眼”もこんな気持ちだったのだろうか」
「何言いたいのかわかんないけど、物騒なこと考えてるのはわかる」
「ああ、まあ。そう、かもしれない」
珍しく歯切れの悪いアキラの様子に、ナディーンは大きく溜め息を吐いた。
「あのね。たしかにボクは荷物持ちだけど、無限にポーション持ってるわけじゃないからね」
「わかってる」
「わかってない。アンタが斬るのは少なくともあと“五人”。確保できたポーションはあと四本。それで、こっから先で補給する目処はないんだよ」
「……」
アキラは二の句が告げられなかった。ナディーンの言うことは正しい。
これからアキラたちが行くのはかつて魔王領と呼ばれていた地域だ。
そこは人魔戦争の末期に壊滅的な被害を受け、以来、人間たちからも見放された荒廃の地が広がっているという。
いるとすれば魔物のみ。ポーションどころか、満足な寝床の確保すら覚束ない可能性が高いのだ。
「……引き返すのはオススメしない。そろそろ冗談抜きで“鮮血公”殺しの犯人探しが始まってるだろうし」
「なんだ。行くしかないんじゃないか」
「なんで嬉しそうなんだよ!? 死にかけたんだぞ!!」
「そっちこそ――」
アキラはナディーンを見つめたまま、首を傾げた。
「なんで、泣いてるんだ?」
「ッ!? な、泣いてない!!」
はっとしたナディーンは乱暴に目元を拭い、くるりと背中を向けた。
「う、動けるんだったら埋葬手伝って。右腕だけでも役に立つだろ」
「ああ、わかった」
「泣いてないからな!!」
「わかったから。俺が悪かった」
これ以上は藪蛇になると対人経験の少ないアキラでもわかった。
それに、尊敬すべき敵手を野晒しにしておくわけにもいかない。
しかし――
「あれ……?」
先を行くナディーンが足を止める。
少女の視線の先、おそらくは“隻眼”の死体があったであろう場所には、血だまりと槍しか残されていなかった。
「生きてたの!?」
「いや、たしかに首を落とした」
血の匂いに惹かれた魔物に持っていかれたとは考え難い。
それならばナディーンが気付いただろう。彼女とて伊達に魔物の跋扈する森で暮らしていたわけではない。
(なら――)
アキラは視線を転じて、“隻眼”が修行していた滝を見遣った。
そして、滝の中に、透き通るような青色の“何か”をみた。
長い尾を踊らせ、滝を逆しまに昇っていく“何か”を、たしかにみた。
「どうしたの、アキラ?」
「いや……」
一瞬、視線を外した間に“何か”はもう見えなくなっていた。
だが、アキラはそれ以上行方を追う気にはならなかった。
彼はきっと滝を昇り切ったのだから。