三戦目:vs.ヴァンパイア
かつてのこと。
大陸をふたつに割った人魔戦争の折り、全体としては少数ながら魔王に与しなかった魔物たちがいた。
元来の判官贔屓で魔王と袂を別ったワークロウ、そしてヴァンパイアやサキュバスなどの人間を餌にしている氏族たちだ。
特に人の血液を啜り、また吸血により同族を増やすヴァンパイアにとって、人間を滅ぼさん勢いで侵攻を続ける魔王との決裂は当然の理であった。
わけても、“鮮血公”の名を持つヴァンパイアの活躍は人々のまなこに鮮烈に刻まれている――。
「――そのときの功績もあって、御館様は領地の所有を認められているんですよ」
「へ、へえ、そうなんですか」
「あの方に血を吸っていただけるのは名誉なことですよ。一時は勇者と轡を並べたこともある英傑なのですから!」
「あっ」
案内人の説明にナディーンは思わず声を漏らしてしまった。
隣で何食わぬ顔をしているアキラが何の為にヴァンパイアの領地を訪れたのか理解してしまったのだ。
「どうかされましたか?」
「い、いえ。その、緊張してるだけデス……」
ナディーンは一応の主人である少年をこっそり睨みつけるが、当の本人はどこ吹く風だ。
そろそろどのタイミングで逃げようかとエルフの少女は本気で思案し始めていた。
「ご心配なく。御館様は気さくな方ですから、多少の失礼には目を瞑っていただけますよ。無論、度を過ぎれば別ですが」
「あははは……」
既に失礼どころでない事態が確定したことを知るナディーンは、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
◇
案内されたヴァンパイアの屋敷は、当初の想像と違って明るく清潔な印象を受けた。
危惧していたおどろおどろしい雰囲気はなく、それこそ人間の領主と変わらないほどだ。
「気付いてる、アキラ?」
手入れの行き届いた応接間にて、供された紅茶が湯気をくゆらせる。
件のヴァンパイア領主を待つ間、ナディーンはそっとアキラに耳打ちした。
「さっきの案内の人、魅了の魔法がかかってたよ」
「魅了?」
「ヴァンパイアとかサキュバスとかが使うあやつりの魔法だよ」
「ふむ……」
「おかしいと思ったんだ。亜人ですら迫害されてるのにヴァンパイアが大手を振って領地に居座ってるなんてさ」
多少の嫉妬が滲む口調でナディーンはそう告げて、もう一度周囲を見渡した。
埃ひとつないこの応接間も、人を操って手入れさせたものだと思うと不気味に見えた。
「ボクたちがまだ魅了に罹ってないのをみると、たぶん何か条件があるんだと思うけど……」
「領主だっていうのに無警戒に旅人招くのもそのせいか。なんにせよ、ナディが処女で助かった」
「だったら待遇の改善を要求するよ! 主に身の安全の!」
「前向きに善処する」
のらりくらいと言い交わしつつ、アキラはティースプーンを手に取り、突然、壁際に向かって投げつけた。
泡を食ったのはナディーンだった。
「ぎゃああああ!! 何してんだよ!? ここ領主の屋敷だぞ!?」
「落ち着け」
「おちつくのはアキラの方だよ!! ……って、あれ?」
そのとき、エルフの少女は気付いた。
なんとアキラが投げたティースプーンが空中で静止しているのだ。
否、それは事実認識として正しくない。
いつからそこにいたのか、銀の匙は忽然と現れた吸血鬼の手によって摘み取られていたのだ。
それは濡れたような黒髪を具えた美丈夫だった。
目を見開いて手の中の匙を見下ろす表情にすら華がある。
ただひとつ、口元を彩る牙だけが、彼が人間でないことを証立てていた。
「……驚いた。隠身を見破られたのは初めてのことだ」
「失礼だが、見て見ぬふりをされていたのでは?」
「ははは、これでも野伏せとしては大陸で十指に入ると自負していたのだがね」
気分を害した風もなくからりと笑って、吸血鬼はティースプーンをテーブルに戻した。
「改めて自己紹介しよう。私は“鮮血公”。お前たち血袋の言葉では発音できないのでな、こちらで通している」
「アキラという。こっちはナディーン」
「うむ、通行税として血を饗しに来たと聞いていたが、本題は別のようだな」
「アンタが強いと聞いて闘りに来た」
「……はは、これはこれは」
にやりと笑いかけるアキラに対し、“鮮血公”は芝居がかった仕草で肩を竦めた。
人魔戦争からこっち、彼の所業を妬んで殺しにかかってきた者は数多くいたが、ただ戦いに来た人物は初めてだった。
「私は領主だ。これでも善政を敷いていると自負している」
「魅了の魔法を使って?」
「職務を忠実に行わせるためだ。おかげで汚職も賄賂もないクリーンな統治を行えているよ。私は安定して血を吸える。血袋も安定した統治の下に暮らせる。この地位を存外に私は好いている」
「……で?」
「丁重にお引き取り願おうと、そう言っているのだよ!!」
瞬間、“鮮血公”の血のように赤い両眼が昏い光を放った。
危険を察して、アキラは視線を外す。が、まともに直視したナディーンはぱたりとその場に崩折れた。
「……なるほど。その眼が“魅了”の条件なのか」
「魔眼なぞそう珍しくもなかろうよ。もっとも、知覚の七割を目に頼っている血袋には効果覿面だがな」
吸血鬼は優雅とも言える仕草で袖から短剣を取り出す。
峰にノコギリのような櫛状の刃の付いたそれはソードブレイカーの一種だろう。
次いで、その姿が徐々に霧の中に消えていく。
隠身の術はなにもひとつではない。それこそはこの吸血鬼が長き時の中で身に付けた技芸。
――人呼んで、ヴァンパイア流忍遁術。
「忍者か……」
「にん……なんだと?」
「いや、気にしないでくれ」
「変な血袋だな」
呆れたような物言い。室内に立ちこめる霧には、吸血鬼の姿がおぼろげに映る。
下手に目を凝らせば“魅了”の魔眼を見てしまう危険性がある以上、視覚に頼るのは危険だろう。
「腰の物を見る限り、そちらは剣士のようだが――さて、私の目を見ずに戦えるかな?」
「こうすればな」
りん、と鞘走りの音を立てて黄金造りの太刀が抜かれる。
吸血鬼が警戒を露わにするのを余所に、アキラは引き抜いた刃で己の両瞼を斬った。
両のこめかみを縫うような一閃。過たず、少年の視界が暗黒に閉ざされる。
「見えるから頼ろうとする。なら、はじめからなければいい」
「……血袋の割に剛毅なことだ」
強敵だ。久しくなかった戦いの高揚感に吸血鬼の血が滾る。
牙を剥きそうになるのを堪えつつ、霧の中、アキラを観察する。
視界を自ら閉ざしたことで魔眼の危機は退けたとはいえ、状況は俄然、吸血鬼の側が有利だ。
だが、対するアキラに焦りは見られない。
両目から血を流したまま、太刀を中段に構えている。
(ふむ……)
吸血鬼は懐から棒手裏剣を取り出した。
そも忍遁術とは生存の為の逃走技法を基にする。卑怯こそが信条なのだ。
そうして放たれるは三条の閃光。
火矢のような攻撃系の魔法を吸血鬼は修得することができない。
必要ないからだ。吸血鬼の膂力を以ってすれば投擲によって鉄鎧を貫くことも容易に過ぎる。
「――ッ!!」
だが、敵もさるもの。アキラは微かな風切り音を捉えて棒手裏剣を回避した。
三連の棒手裏剣は壁板を半ばまで粉砕しつつ、残骸に突き立った。
一点して不利になったのは吸血鬼だ。放たれた方向から位置を看破された。
体勢を立て直したアキラは一挙動で間合いを詰める。
視界を閉ざしたとは思えぬほど、その足取りはしかと床を踏み締めている。
直後に放たれるは、一刀必殺を期した片手胴払い。
剣風を巻いて迫る一閃を、吸血鬼は短剣の櫛刃を合わせて絡め取らんとする。
激突。ガリガリと不快な金属音と火花をあげて刃と刃がこすれ合う。
驚くべきことに、押されているのは吸血鬼であった。
重い。膂力においては吸血鬼に利があるが、踏み込みと共に振るわれた渾身の一太刀はそれすら凌駕する。
迫る剣閃は止まらず、しかし、吸血鬼は片手で構えた短剣で受けつつ、するりと体を入れ替えた。
視界を閉ざしたことによる僅かなズレ、ソードブレイカーによる減速、さらにマントを囮として致命の一撃を回避する。
(――かかった!!)
直後、切り裂かれたマントがひとりでに蠢き、アキラの腕に巻きついた。
伊達や酔狂で室内でマントを着けていたのではない。布もまた忍遁術においては武器なのだ。
動きを止められたのは一瞬。
しかし、その致命的な一瞬で吸血鬼は素早くアキラの背後の周り、その心臓に向けて短剣を突き出し――。
「返すぞ」
その刹那、アキラが抜け目なく回収していた棒手裏剣を背後に――吸血鬼に向けて打った。
後の先。攻勢に注力した機を捉えた一手。
見えずとも、この相手ならば背後から襲いかかる。そんな信頼にも似た先読み。
至近距離で防ぐことも避けることもできず、吸血鬼の眉間に棒手裏剣が通った。
「――ギ、ガ」
ばちん、と数瞬意識がトぶ。
頭部損傷による意識の断絶。
吸血鬼の再生力ならば一瞬で治癒できるが、その致命的な一瞬にアキラの剣が四度振るわれた。
斬、と血飛沫が舞った。
“鮮血公”の意識が戻ったときには既に、彼は四肢を断たれて床に臥していた。
「……傷が治らぬな。察するに、魔剣の類か」
「由緒正しい大業物だ。化生を斬った逸話付きのな」
「銘は?」
「【膝切り】」
その一言において、アキラの声は二重に響いた。
本来の音韻とこの世界での意味。吸血鬼は目の前の少年が異界の者であることを察した。
だが、そのことはさらなる疑問を彼にもたらした。
「有り得ない。今代の勇者はまだ生きている。新たに異界の者が喚ばれる筈がない」
「勇者はな」
「な――ならば、お前は“魔王”か!!」
その瞬間、“鮮血公”の心臓に太刀の切っ先が突き立った。
「さてな。俺はただ強い奴と闘れると聞いて来ただけだ」
「ハッ……風変わりな……魔王も、いたものだ……」
血を核とする吸血鬼にとって、心臓は唯一の急所。
それが土蜘蛛を斬った逸話を持つ剣であればこれ以上はない。
彼の体は末端から徐々に灰へと還っていく。
「……お前のような……魔王なら……あるいは、私も……」
そうして、無念そうな、あるいは名残惜しそうな表情を浮かべて、吸血鬼は死んだ。
◇
「――ディ、ナディ、起きろ」
「ぅん、はれ、アキラさん――ってぎゃあああああ!!」
軽く頬を叩かれる感触に、ナディーンは目を開けた。
途端に両目から血を流すアキラの顔が視界一杯に広がって思わず悲鳴をあげた。気を失わなかったのは幸いだろう。
「な、なにあがったんだよ、アキラ!?」
「ちょっと斬っただけだ。ポーション出して」
「わかったから顔近づけるな!! 怖えよ!!」
荷物持ちはあたふたと背嚢からポーション瓶とタオルを取り出した。
「ほら、動くなよ。いま治してやるから」
「ん」
おとなしく待つアキラの顔に治癒の水薬を振りかける。
じゅ、と肉の焼けるような音がして瞼を斬った傷がふさがっていく。
そうして、タオルで流れた血を拭えば、アキラの目は元通りになっていた。
「何度経験してもこの効き目は凄いな」
「なんども経験するなよ……って、それより“鮮血公”は?」
「死んだ」
「でしょうね!! たぶん魅了から目覚めた奴らが暴走する。さっさとずらかるよ!!」
言いつつ、ナディーンは背嚢を担いで立ち上がる。
笹穂の耳を立てれば、既に屋敷のあちこちから悲鳴とも怒号ともつかない声が聞こえてきている。猶予はあまりないだろう。
「ああもう!! なんでこんな奴について来ちゃったかなあ!!」
「いつでも逃げていいと言った筈だけど」
「わかってるよ!! だから逃げるんだよ!!」
ほとんど泣きそうな表情でナディーンはアキラの袖を引っ張って急かす。
この後に及んでもまだ一人で逃げようとしないエルフの少女を見て、アキラは小さく笑みを零した。
「そうだな。早く次の奴のとこへ闘りに行こう」
ナディーンが悲鳴をあげたのは言うまでもないことであった。