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エンドリア物語

「アーロン隊長の長い長い2日間」<エンドリア物語外伝24>

作者: あまみつ

 熱いコーヒーの入ったカップを手に取ると、アーロンは警備隊詰め所の椅子に腰を下ろした。

 口に含むと、たまっていた疲れが浮き上がってくる感じがする。

 間口4メートル、奥行き10メートルの警備隊詰め所。

 入り口から1メートルのところに受け付けカウンターがあり、その奥が警備隊の事務所兼待機所になっている。2階には倉庫と仮眠所とトイレ。地下1階には仮牢がある。

 ドアの上にかけてある時計の短針は10を指している。

 もう夜の10時なのかと思ったアーロンは、今日の出来事を振り返った。



 早朝5時、巨大な斧を担いだ人物2人、ニダウ城門を通ったという連絡が入ったと、早番の警備兵がアーロンを下宿に迎えに来た。

 いつものことなんだから、放っておけ。

 そう言いたいのを我慢して起きた。警備隊の詰め所に行く前に、キケール商店街をのぞいてみた。

 予想通り、ウィルが斧を持った戦士2人に追いかけられていた。

 見なかったことにしようかという考えが一瞬頭をよぎったが、これが自分の仕事なんだと自分に言い聞かせ、キケール商店街の入り口のアーチを抜けた。

 助けに行こうと走っているのに、前に進まない。走っても、走っても、近づかないと思ったら、地面が動いていた。

 アーロンに気づいたウィルが大声で怒鳴った。

「アーロンさん、気をつけてください。ムーの召喚獣が地面に寝そべっています」

 召喚獣は保護色らしく、地面と完全に同化している。形もわからない召喚獣のせいでウィルから遠ざかっていく。キケール商店街のアーチを抜けたところで、ようやく地面が動くのをやめた。

 急いでウィルのところに駆けつけると、目の前でウィルが倒れた。その隣にいた2人の戦士も倒れた。

 奇妙な臭いに、しまったと思ったときには気を失っていた。

 目覚めたのは警備隊の詰め所だった。

 時刻は朝の8時。

 ムーがウィルを助けるために睡眠ガスをキケール商店街にまいたという説明を部下から受けた。現在はガスの効力は薄まっていて、普通に通行できるということだった。

 本来ならば事情聴取に桃海亭まで出向くところだが、桃海亭に行くとトラブルに巻き込まれるの可能性が高いので、アーロンは調書の作成を部下に命じた。泣きそうな顔をしていたが、見なかったことにした。

 昼までの間に、喧嘩1件、迷子2件、道案内5件、爆破未遂1件。

 爆破未遂事件は、爆破マニアが桃海亭の爆破に挑戦したが、シュデルの魔法道具に設置時に気づかれ失敗したらしい。設置された爆弾は火薬も信管もついた状態で、ムー・ペトリが猫ばば…拾得したと報告を受けた。報告を受けたのが爆破未遂事件から30分後だった為、今から桃海亭に行っても爆弾の姿をしていないだろうと回収はあきらめた。

 午後には、迷子1件、道案内が8件、強盗未遂事件が1件。

 桃海亭に5人組の強盗が押し入ろうとしたが、ちょうど帰ろうとしたアレン皇太子によって斬り伏せられた。庶民を装っているが、皇太子ということは観光客にもバレバレだ。見事な剣技に拍手を浴びてご機嫌だったらしい。

 最近、アレン皇太子の人気が急上昇しているのは聞いているが、桃海亭のせいであっては欲しくないとアーロンは思っている。

 夕方5時になって帰る支度を始めようとしたとき、部下が飛び込んできた。キケール商店街が雪に埋め尽くされていると。

 桃海亭を襲おうとした魔術師が、氷の攻撃用ロッドの使い方を間違えて、雪をまき散らしたらしい。暴走したロッドはムー・ペトリが止めたのだが、その時、面白がって、自分の魔力を上乗せして大量にまき散らしたらしい。

 キケール商店街に駆けつけたアーロンは、最初にムー・ペトリを捕まえた。蹴り飛ばしたかったが、立場を考え、グッとこらえた。謝るウィルとヘラヘラと笑っているムーを叱り飛ばして、シュデルの道具の力を借りて雪を蒸発させた。雪で遊んでいた子供たちから「ひどいよ」とか「やめて」とか文句を言われて泣かれた。

 詰め所に帰ってきて報告書を書いて、日報を記入したら、今の時間になった。

 まだ、夕食も食べていない。

 どこかの酒場で、腹にたまりそうなものを食おうと考えたところで、詰め所に入ってきた人影に気がついた。

「お前がこんな時間に出歩くとはめずらしいな」

「夜遅くにすみません」

 桃海亭のシュデルだった。

 シュデルは店にいることが多い。出かけるのは買い物くらいだ。本業以外の仕事でもシュデルを加えて3人で出かけるのは半分くらいで、残りの半分はひとりで店を守っている。

「店長が帰ってこないのですが、何か大きな事件のようなものおきていませんか?」

「いまのところ、何も入ってきていないが」

「そうですか」

 やけに不安そうだ。

「ウィルのことだ。また、急な依頼で出かけたんじゃないのか?」

 時々、拉致同然で連れて行かれる。そのまま、命の危険のある場所に投げ込まれる。

 よく、生きて戻ってくるとアーロンはいつも感心している。

「それならば、ムーさんも一緒にいなくなるはずなんです。でも、ムーさんは店にいますし、夕食はビーフシチューなんです」

「それは確かに奇妙だな」

 拉致される理由はムー・ペトリの能力が必要とされる場合で、ウィルは付き添いだ。ウィルだけをさらっても利用価値はない。

 それだけでもおかしいのに、肉に飢えているウィルが、ビーフシチューをあきらめるとは考えられない。

「魔法協会に行ってみたか?何か情報はあるかも知れない」

「ここに来る前に行ってみたのですが、特にないと言われました。店長に依頼もしていないそうです」

 日報をチェックしたが該当しそうなことは何もない。

「こちらも特になさそうだ。詰め所には遅番の警備兵がいるから、何かわかったら桃海亭に連絡を入れるように伝えておく」

「よろしくお願いします」

 不安そう表情でシュデルは詰め所を出て行った。 

「さて、帰るか」

 立ち上がろうとしたアーロンは飛び込んできた初老の男性に前を遮られた。

「いてくれてよかった。アーロン、頼みがある」

 エンドリア国軍討伐隊のヘンズリー隊長だった。

 アーロンはニダウの警備隊に転属される前は、エンドリア国軍の討伐隊にいた。

 エンドリア王国は小さい。討伐隊はニダウの拠点を置き、そこから国中に現れる山賊や盗賊を退治しに行っていた。

 3年前、アーロンは盗賊との戦いで怪我を負った。左肩を数センチ切られただけの軽い怪我だったが、エンドリア国軍5年ぶりの負傷者ということで大騒ぎになった。怪我の療養と休養の為、当時もっとも閑職だったニダウ警備隊に転属されたのだ。仕事の内容は迷子のお守りと道案内。数日に一度スリや盗難事件がある程度。勤務時間は3交代制だが、夜の勤務時間中は2階の仮眠室で爆睡していても問題のない、のんびりした職場だった。

「お久しぶりです、ヘンズリー隊長」

「急いでいる。挨拶は抜きだ」

 ずかずかと詰め所にあがりこむと、詰め所の奥にある階段のところにたった。

「内密の話だ。こっちにきてくれ」

 夕食がまた遠のいたと思いながら、隣に立った。

 ヘンズリー隊長がアーロンの耳のそばで、小声で言った。

「リュンハ帝国の前皇帝が、お忍びでニダウに遊びに来ていたらしい」

「いま何と言われましたか?」

 聞き間違えたのだと思った。

 それでなければ、耳がおかしくなったのだと。

「聞こえなかったのか、リュンハ帝国の前皇帝がニダウに遊びに来ていたらしい」

「本当なのですか?情報の出所は確かなのでしょうか?」

「私も最初に聞いたときは冗談だと思った。リュンハ帝国前皇帝の側近がいなくなったから内密に探して欲しいと、私に会いに来た」

「リュンハ帝国前皇帝の側近をご存じなのですか?」

「昔、リュンハ帝国とキデッゼス連邦と小競り合いがあったとき、和睦の会議で顔を合わせたことがある」

 リュンハ帝国。ルブクス大陸の東に位置する魔法大国だ。西のラルレッツ王国が白魔法を得意とするのに対して、黒魔法を得意としている。

「午前中はカジノで遊んで、午後は観光地に行ったらしい」

「観光地?」

「有名な場所で、なんでも途中から雪が降って、子供たちと一緒に雪投げをして遊んでいたらしいのだが…」

 顔から血が引いていく感覚がわかった。

「雪が消えた後、前皇帝もいなくなっていたらしい」

 息が止まりそうだ。

 シュデルに雪を消せと命じたのはアーロンだ。

 まさかと思うが、もし、前皇帝まで消してしまったなら、大変なことになる。

 リュンハ帝国 対 エンドリア王国

 他の国が加勢してくれなければ、勝負は数分で終わるかもしれない。

「アーロン」

「…はい」

「大丈夫か、真っ青だぞ」

「大丈夫です。前皇帝が行かれた観光地に心当たりがありますので、今から行ってきます」

「私も行こう」

「いえ、どこかに連絡の拠点が必要です。ここを使用してください。私も何かわかりましたら連絡します」

「わかった。頼んだぞ」

 走ろうと思ったが足に力がはいらない。

 それでも、動かせる精一杯の力で足を動かし、桃海亭に向かった。




 桃海亭の扉をたたくと、シュデルがすぐに鍵を開けて、中に招き入れてくれた。

「何かわかりましたか?」

 ビーフシチューの美味しそうな香りが漂っている。

「いや、そちらではない。昼間の雪の件だ」

 シュデルが、がっかりした。

「すまない。急いでいるので、話を聞かせてもらいたい」

「雪の件でしたら、ムーさんを呼んできましょうか?」

「私が聞きたいのは、雪はどのようなに消したのか、その方法だ」

「零度、プラスマイナス5度の氷結している水分を蒸発させるように設定した…」

「待ってくれ。いまの方法だと人は消えないな?」

「人というのは、人間のことですか?」

「そうだ。年寄りとか」

「消えません。人間を消すには酸素、炭素、水素、窒素、カルシウム、リン、亜鉛、フッ素…」

「わかった、わかった。とにかく、消えないんだな」

「消えません」

「雪が消えた時、老人は残っていなかったか?」

「わかりません。ルテアは神経質なので、そちらに気をとられていました」

「ルテア?」

「今回使用した多孔質ガラスのグラスです。壊れやすいの出したくないですが、もしごらんになりたいのであれば、まず石鹸で手を洗ってください。その後アルコールで消毒して、滑り止めの粉をつけてください。指先だけでなく指の間も…」

「出さなくていい、必要はない」

「よろしいのですか?」

「大丈夫だ」

 雪を消したときの情景をできるだけ思い出してみた。

 到着したとき、たくさんの子供たちがはしゃいでいた。

 ムーも雪にまみれて、雪だるまのようだった。ウィルと一緒に並べて叱り飛ばすと、笑いながらキケール商店街の外に逃げていった。

 ムーはおそらく今回の件に関係していない。

 シュデルは道具に気を取られていたようだから関係していない。

 ウィルは……見ていない。

 シュデルに命じて雪を消すと、アーロンの周りに子供たちが集まった。怒ったり、泣いたり、元に戻して欲しいと頼み込んできたり、子供たちかき分けて、キケール商店街を出た。

 あの時、老人は……いてもわからない。

 子供だけでなく、子供の親や観光客もたくさんいて、ごったがえしていた。

「雪を消した後、ウィルはどこにいた?」

「わからないんです。雪を消すまではいたのですが、その後、いなくなって、いままで戻っていません」

 ウィルは最近こう呼ばれている。

 不幸を呼ぶ男。

 リュンハ帝国の前皇帝の行方不明と関わっている可能性はある。

 ウィルが巻き込んだのか、巻き込まれたのか。

「その辺りを見てくる。何かあったら詰め所に…」

 扉がたたかれた。

「はい、どなたですか?」

 シュデルが窓から外をのぞいた後、急いで扉を開いた。

「店長!どこに行っていたんですか、心配したんです」

「ちょっとな。それより、温かい飲み物を作ってくれ」

 前屈みで入ってきたウィルは、背中に誰かを背負っていた。

「身体が冷えていると思うから、急いで爺さんにあげてくれ」

 背負っていたのは黒いローブを着た小柄な老人。

 寒さをしのぐためか、ウィルの上着がかけてある。

「いま、お茶を入れます」

 シュデルが先にたち、食堂にウィルと老人を向かい入れた。

 ウィルは食堂の椅子に老人を用心深く降ろした。

「まだ、痛むか」

「大丈夫じゃ。すまんのう」

 右足首に布が巻いてある。怪我ではないのか、血はにじんでいない。

「どうぞ」

 シュデルが湯気の立った上品なカップを老人の前に置いた。同じお茶を欠けたカップに入れて、ウィルに渡した。

 受け取ったウィルの右袖がない。老人の包帯になったようだ。

 むき出しの腕には、一筋の赤い傷があった。

「いま、薬箱をもってきます」

「毛布も頼む」

「はい」

 階段を駆け上がっていくシュデルの後を追った。

 あの老人がリュンハ帝国の前皇帝である可能性は高い。だが、それをシュデルに告げてよいかアーロンは迷った。

 リュンハ帝国とキデッゼス連邦は長年にわたり領土争いをしていた。そして、シュデルの父親が王位についているロラム王国はキデッゼス連邦の盟主国だ。

 階段を上がったところでシュデルが振り向いた。

「大丈夫です。店長はすでにわかっています」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。

「誰なのかまではわかっていないようですが、貴人であることは理解しています」

 いつもの笑みを浮かべたシュデルが言った。

 知っている。

 あの老人の正体を既にシュデルはわかっている。

 言外にリュンハ帝国前皇帝であるとアーロンに教えている。

「1時間ほどしたら、馬車で迎えをお願いします。それまでは桃海亭で責任をもってお預かりします」

 アーロンは何とも言えない気分になった。

 桃海亭はいつも人の世の常識を無視する。

「わかった。頼む」

 階段を下りると、食堂をからは老人とウィルの楽しそうな話し声が聞こえた。

 食堂には戻らず、扉を抜けて外に出た。

 急ぎ足で詰め所に戻ると、ヘンズリー隊長はひどく疲れた顔をして椅子に座っていた。

「何か手がかりはあったか?」

「見つかりました。桃海亭で保護しています」

「桃海亭、本当か!」

「はい、1時間後に馬車で迎えに行く約束になっています」

「いまから、すぐに迎えに…」

 ヘンズリー隊長が詰め所から出ようとしたのをアーロンが腕をつかんで引き留めた。

「1時間後、お付きの人に馬車で迎えに行ってもらいます。その頃には私ももう一度桃海亭に行き、前皇帝の帰りの護衛につきます」

「桃海亭に1時間も置いておくなど危険すぎる」

「勘違いされないでいただきたい。このニダウで桃海亭ほど安全な場所はありません。各国の盗賊団や暗殺組織から頻繁に襲われているにも関わらず、あのように平然と商売を営んでいる店です。鉄壁の防御を誇っていると言っても過言ではありません」

「しかし」

「ヘンズリー隊長、前皇帝陛下は命を狙われているのではありませんか?」

「そのようなことは聞いていない」

「隠さないでいただきたい。ウィルが怪我をしていました。あれが怪我をするとなるとよほどの手練れがニダウに入ったと思われます」

 攻撃は苦手でも、逃げるのは得意のウィルが怪我を負った。前皇帝陛下を守るというハンデを考えたとしても、かなりの修羅場があったはずだ。

「…狙われているという情報はある。だからこそ、桃海亭から我々が保護して」

 テーブルを思いっきり叩いた。

「いったはずだ。桃海亭より安全な場所はこのニダウにない」

 驚いた顔をしているヘンズリー隊長をアーロンはにらんだ。

 軍ならば上官を怒鳴ってにらむなど軍法会議ものだが、いまのアーロンは警備隊だ。にらもうが、怒鳴ろうが、問題ない。

「ニダウのことは、このニダウ警備隊が一番よく知っている。いまから1時間、桃海亭には行かないでもらおう」

 前皇帝を狙った刺客は、おそらく桃海亭まで追いかけてきている。うまくいけば、警備隊が動く前に桃海亭の住人が捕まえてくれるかもしれない。

 ヘンズリー隊長から目を離さず、2階にいる部下を呼んだ。

「お付きの人はどこにいますか?」

 ヘンズリー隊長に聞いた。

「私が…」

「部下を使います」

 3年前、閑職だったニダウ警備隊は、1年ほど前からエンドリア王国で一番危険な職場になった。のんびり暮らしていた警備隊員も、毎日のように危険にさらされ、鍛え上げられた。互いの命がかかっているから、信頼関係も厚い。

「ご安心ください。このニダウにいるかぎり、ニダウ警備隊が命にかえてもお守りいたします」





「隊長、大変です!」

 下宿のベッドで爆睡していたアーロンは、耳元で部下に怒鳴られた。

「なにが……」

 昨夜、11時過ぎ。約束の時間の10分前に桃海亭に行った。

 3人の刺客が意識を失った状態で縛られていた。忍び込んだところ、待ちかまえていたシュデルの道具達に、あっさりと捕まったらしい。

 ニダウの常識では、桃海亭の中にはいる刺客はバカだが、ニダウの常識を知らない西の国の刺客らしい。

 一緒に行った部下に詰め所に連れて行くように命じて、アーロンは桃海亭で迎えの馬車を待った。前皇帝陛下は、食堂でビーフシチューを食べながら、ムーやシュデルと楽しそうに雑談をしていた。

 迎えの馬車に前皇帝と同乗して、宿まで送り届けた。宿には目立たないように複数の護衛がいたから、安全だと判断して詰め所に戻った。

 詰め所では部下が捕まえた刺客の処遇について、アーロンの指示を待っていた。3人とも意識はまだ戻っていなかったので、拘束だけ解いて仮牢獄に放り込んだ。

 見た目は簡易な牢獄に見えるが、ムー・ペトリ殺害にやってきて捕まった暗殺者や魔術師が逃げ出さないように、結界が幾重にも張ってある強固な牢獄だ。

 腹を空かせて下宿に戻ったのが、日をまたいで午前2時。

 シャワーだけ浴びて、ベッドに潜り込んだ。

「隊長、寝ている場合じゃありません」

 時計を見た。

 午前4時。

 布団にもぐりこんだ。

「桃海亭が…」

 予想通りだったので、布団からでなかった。

「…奇妙な草に覆われました」

 犯人の予想がついている。

 外れる可能性は1割にも満たない。

 犯人がわかっていても、奇妙な草が店の外に生えているのであれば、ニダウの人々を守るために、アーロンは起きなければならない。

「やるなら、店の中に生やせ」

「隊長、何か言いましたか?」

「何も言っていない」

 ベッドから出て、制服に着替え、直接桃海亭に向かった。

 夜もまだ明けきらないというのに、観光客がとりまいていた。近寄らないように、警備隊が紐で囲っている。

「こいつか」

「はい」

 真っ黒な細いツタのようなものが、網状になって桃海亭を覆っている。

「ウィルはどうしている?」

「まだ、眠いから寝ていると」

「起こしてこい!」

 犯人のムーから話を聞かなければならないが、起こす順番はムーよりウィルが先だ。

 ウィルがいない状態でムーから聴取を行うと、部下や観光客が被害を受けかねない。なにより、自室で眠っているムー・ペトリを起こせるのがウィルしかいない。

 腕をひっぱられて、眠い目をこすりながらウィルがやってきた。

「なんですかあ、昨日の夜、遅かったんですけれど」

「私の方が遅い。2時間しか寝ていない」

「はあ、それは眠いですね」

 寝ぼけているのか、言っている内容が変だ。

「あれが見えるか」

 ウィルは振り向いて自分の店を見た。

「あ、ヂヂンだ」

「この草を知っているのか?」

「草じゃないです。生き物です」

「異次元召喚獣か!」

「違います。極北の生き物で、太陽を……あ、まずい」

「どうした!」

「太陽を浴びると急激に成長するんです」

 ちょうど今、東の尾根の稜線から太陽が顔を出そうとしている。

「なんとかしろ!」

「うまい実がなるんです」

「生き物だといったばかりだ!」

「ムーの説明だと……分泌液らしい……んですけれど…」

 寝た。

 立ったまま寝ている。

「起きろ!どうすればいい!」

 襟首をつかんで揺すった。

「…大丈夫です」

「大丈夫じゃないだろう!」

「実がなれば枯れます」

「実はすぐになるのか!」

「……10年、だったかなあ」

「隊長、草が育っています!」

「布だ、できるだけ厚くて、濃い色の大きな布で覆え」

 部下の数人を、布を扱う店に走らせ、他の部下と周りの店をたたき起こして、布を集めた。その間に、半分眠っているウィルの尻を蹴飛ばして、ムーを起こしに行かせた。

「なして、ヂヂンしゅ?」

 はねた髪とシワシワの服を着たムーが、目をこすりながらウィルに聞いている。

「オレが知るか」

「ゾンビ使い呼ぶしゅ」

「シュデルなのか?」

「犯人はあっちしゅ!」

 ウィルがシュデルを連れてきた。

 淡いピンクのローブを着て、髪をきちんと縛り、いつもの笑顔を浮かべている。

「アーロンさん、おはようございます。これがヂヂンですか。初めてみる植物です」

「生き物だそうだ」

「それで僕は何をしたらいいのですか?」

 アーロンはムーを指した。

「ムー・ペトリはお前が犯人だと言っている」

「少しお待ちください」

 店の中に入っていった。

 少し経つと戻って、アーロンの前に立った。

「隊長が予想されていることとは違うと思いますが、どうやら僕が原因のようです。この生き物について教えていただけますか?」

「ムー・ペトリに聞け」

 シュデルが、ものすごくイヤそうな顔をした。

 シュデルとムーだと話がややこしくなりそうだと判断したアーロンは、まだ眠そうなウィルの肩をたたいた。

「頼む」

「腹が減っていて…」

「こいつの片がついたらソルファの店のミートパイを買ってやる」

 しかたなそうに2人のところに歩いていった。

「ムー、ヂヂンは排除できるか?」

「できるしゅ」

「方法は、熱か、振動か、光は、まずいよなあ、何がいいんだ?」

「電気がいいかもしゅ」

「シュデル、ラッチの剣に頼めるか?」

「できますが、いま通電させると桃海亭が燃えるおそれがあると思いますが」

「そうだよなあ。どう考えても燃えるよなあ」

「すみません、僕のせいで」

「なんで、自分のせいだと思ったんだ?」

「植えた人物がわかりました」

「そう言うことか」

 ウィルが納得している。

「ウィルしゃん。もうひとつ、思い出したしゅ」

「桃海亭が燃えない方法だろうな?」

「ヂヂンは音を蓄積するしゅ」

「蓄積……音をたくさん与えればいいのか?」

「たぶん、しゅ」

「シュデル、音を出す道具はないか?」

「ありますが、店長が求めているたくさんの音というのが、場所を限定した状態で一時的に大きな音を出す、ということであれば、桃海亭の魔法道具にはありません」

「はーい、しゅ」

「そうか、何か別の方法を考えるしかないか」

「はいはいしゅ」

「音なら、燃えないんだけどな」

「ボクしゃんの召喚獣にいましゅ!」

「アーロンさん、警備隊に何か特定の場所に音を集中して当てる魔法道具はありませんか?」

「音か。たしか、討伐隊にモンスターを追い払うための音波発生装置が…」

「ボクしゃん、やるしゅ!」

 ムーが走り出した。

「待て!」

「待つんだ!」

 短い足で跳ね回るように逃げる。

 ウィルと2人で捕まえようと追いかけ回したが、その前にムーの呪文が完成した。

「我はムー、我が声にこたえよ」

「こたえるなあー!」

 ウィルの怒声。

 地面に現れたのは、小さな爬虫類のような生き物だった。

 身長10センチほどでワニの頭とトカゲのような身体をしている。色はキラキラと輝く薄紫。

「失敗したしゅ」

 ムーがワニの頭を突っついた。

 ワニが口を開いた。

「キュゥエエエエェーー!」

 耳が割れるような大音量が放たれた。




「これで、ようやく終わったな」

 アーロンがヂヂンについての書類をすべて書き終えたのは昼を過ぎていた。

 ムーが呼んだ召喚獣の叫び声で、ヂヂンは崩壊した。

 早朝、響きわたった咆哮でニダウ中が目覚めてしまい、何が起きたのかという問い合わせが警備隊に殺到した。王宮に連絡して軍の助けを借り、ニダウ中に「朝の音は問題ない」ことをふれ回った。午前10時前には町は落ち着きを取り戻した。

 召喚失敗ワニトカゲはシュデルの魔法道具の【音を消す籠】の中に入れてある。ウィルがやった葉っぱを美味しそうに食べていた。

 使用した布は警備隊で買い取ることにしたが、キケール商店街の店からは、どうせすぐに使うからと支払わなくていいと言われた。たぶん、警備隊からウィルに請求が行くことを見越しての配慮だろう。

 王宮への現在までの報告書、桃海亭への請求書、警備隊の調査書などを、パンをかじり、コーヒーを流し込みながら書いた。

 一眠りしたかったが、その前に壊れたヂヂンの身体が掃除されたかを確かめるために、桃海亭に行くことにした。

 片づいていれば、安心して眠れる。

 キケール商店街はいつものように観光客でにぎわっていた。桃海亭の前には長い行列があり、商店街会長のワゴナーさんとウィルがスープを売っていた。手書きの登りには【ニダウ名物ヂヂン汁】と書かれている。

「何をしているんだ?」

「見ての通り、金を稼いでいます」

「ムーくんがね、ヂヂンの壊れた身体からは良い出汁がとれるっていうんだよ。試しに作ってみたらこれがものすごく美味しくてね、はい」

 カップに入れて渡された。

「身体にもいいそうだよ。たくさん作ったんだけれども、評判が良くてもうこれの鍋で最後なんだよ」

 笑顔のワゴナーさんに言われて、口に含んでみた。

 うまい。

 まったりとしていてコクがあり、それでいてくどくない。

 絶妙な塩味がそれを引き立てている。

「なにかご用ですか?」

 ウィルが聞いてきた。

 手の持っているのはヂヂン汁。

 ヂヂンの身体は片づいていない。

「また、あとでくる」

 鍋のスープはほとんど残っていない。1時間後にくればいいだろうと、アーロンは桃海亭を後にした。



 詰め所で仮眠を1時間取った後、桃海亭に行った。

 店の前にあったヂヂン汁の売場は片づけられていた。

 扉を開いたアーロンは、店の中の風景に目を疑った。

 リュンハ帝国前皇帝とアレン皇太子がお茶を片手に歓談していた。

「エンドリアは暖かいくてよいですな。私の故郷の冬は骨まで凍りそうです」

「それでしたら、エンドリアに住みませんか?貧乏な国ですが農産物は豊富で美味しいです」

 アレン皇太子が自慢げに言った。

 正体を知っているのかわからないが、リュンハ帝国の前皇帝をエンドリアに誘わないで欲しい。

「それもいいですな」

 社交辞令でも言わないで欲しい。

「失礼いたします。ウィル・バーカーはいますでしょうか?」

 庶民のふりをしていても、皇太子と前皇帝。

 丁寧に挨拶をした。

「おーい、ウィル。アーロンが来たぞ」

 皇太子が奥に声をかけた。

「はい、今行きます」

 ウィルが大きな籠をもって出てきた。商品とおぼしき物が入っているところを見ると店内に並べてある商品を変えるようだ。

「何か用ですか?」

 籠を床に置いたウィルが聞いてきた。

「ヂヂンの処理の状況を確認しにきた」

「ヂヂン汁は完売しました」

「ヂヂンの本体の方だ」

「膠原質だったんで溶けました」

「ヂヂン汁を飲んだ人の腹の中ということでいいな?」

「売り出したのが8時前でしたから、最初の頃に買ってくれた人のヂヂンはもう吸収されているかと」

「わかった。とにかく、ないんだな?」

「ありません。銅貨に変わりました」

 ウィルが笑顔で言った。

 奇妙な声がした。前皇帝が口を布で覆って隠しているが、どうやら笑っているようだ。

 ヂヂン事件の真犯人を前皇帝は知っているようだ。

 そうならば、前皇帝がニダウに来た本当の目的は観光ではなく、シュデルだった可能性が高い。

「あ、アーロンさん。すみません、ちょっと壊しました」

「何をだ?」

「地下水路の下の下の遺跡の冷蔵施設」

 怒鳴るのをアーロンは必死にこらえた。

 エンドリアは温暖な気候だ。

 だが、王都ニダウの地下水路の下の下の遺跡の一部に、昔から強力な冷気の魔法がかかっている場所がある。ニダウの住人が自由に使える保存倉庫になっている。地下深くて行くまでに大変なので、あまり使われてはいないが。

 昨日、ウィルが前皇帝を連れて帰ってきたとき『冷えている』と言っていた。おそらく、保冷倉庫のあたりで、前皇帝を守りながら、刺客と戦ったのだろう。

「…わかった。あとで正確な場所を教えろ」

「そうだ、ウィルと言ったな。昨日は世話になったな。何か礼をしなければ」

 前皇帝がウィルに言った。

「いらないよ」

「そうはいかん。シャツも破かせてしまった」

「シュデルが縫いつけてくれるっていっていたから大丈夫だ」

「欲しいものがあれば」

「そんな金があるなら、孫にでも何か買っていってやれよ」

「しかし」

「観光に来たんだろ。そんなこと考えず、ニダウを楽しんでいってくれよ」

 笑顔でウィルが前皇帝に言った。

 前皇帝が黙った。

 ウィルは前皇帝の正体をおそらく知らない。わかっているのは、貴人でシュデルに敵対する立ち位置にいる人物であるということくらいだ。それでも、危険に陥っていれば助ける。観光していってくれと笑顔で言える。

「そうだ、今朝ムーが呼んだ失敗の異次元召喚獣がいるんだ。爺さん、見ていないだろ。見るか?」

 ウィルはこの一件を『観光』で終わらせようとしている。

「…そうじゃな。見せてもらおうか」

「おーい、ムー。あれを、持ってきてやれよ」

 食堂の方からドタドタという足音と共に【音を消す籠】に入ったワニトカゲを持ったムーがやってきた。ワニトカゲは籠の中でリンゴをかじっている。

「綺麗なトカゲじゃな。これが異次元獣なのか?」

「そうしゅ、ボクしゃんが呼んだしゅ」

「本当に呼べるのだな」

「もっと呼ぶしゅか?」

 笑顔でいったムーは、ウィルに頭をひっぱたかれた。

 ウィルとムーと前皇帝が、召喚獣の話題で盛り上がっていると、アレン皇太子が立ち上がって、少し離れた窓際に立った。手でアーロンを招いた。

「どうかいたしましたか?」

「言いにくいのだが」

 そこでアーロンは話の内容が、予想がついた。

「出されていた122回目の転属希望は却下が決定した」

「わかりました。明日には123回目の転属希望を出します」

「そろそろあきらめないか?討伐隊隊長ヘンズリーも昨日の件でアーロンを誉めていたぞ」

「討伐隊でなくても、国軍本隊でも、王宮の馬番でもいいです。警備隊からの移動をお願いいたします」

「だから、何度も言っているだろう。代わりは自分で見つけてきてくれと」

「見つからないから、転属希望を出しているんです。危険が大好きという無謀な奴が、軍に1人くらいいませんか?」

「いるはずないだろう。ここはエンドリアだぞ。戦いたければシェフォビス共和国に傭兵に行けばいい。だが、行ったという話を私は聞いたことがない」

「なんで、そんなに軟弱なんですか」

「だから、ここはエンドリアだといっているだろう!」

 アレン皇太子の大声に、ウィル達がアーロン達を見た。

「エンドリアに何かあったんですか?」

 ウィルがアレン皇太子に聞いた。

「逆だ。ないということを話していたんだ」

「エンドリアにも色々とあると思いますが」

「ないのは戦争のことだ」

「戦争?」

「エンドリア王国は建国以来360年間、舌先三寸の外交で国を守ってきた。だから、エンドリア国軍は360年間一度も戦争をしたことがないという話だ」

 ウィルが、大きくうなずいた。

「エンドリアは平和ですよね。オレが出たエンドリア王立兵士養成学校でも、生徒のほとんどが冒険者志望でした。わずかにいた兵士希望者も兵士の募集がないって困っていました」

「そのとおりだ。ゆる~い兵士生活を辞めるものがいないから、募集する必要がないんだ。すばらしい国だろう」

 戦争がないのは自慢できる話だろうが、ゆる~い兵士生活は自慢できる話ではないだろう。そして、ゆる~い兵士生活を満喫しているから、誰もアーロンの代わりに忙しいニダウ警備隊に来たがらないというのを明言している。

「それならば、前から頼んでいた警備隊の増員を至急でお願いします。部下たちは過労で死にそうです」

「募集はとっくにかけている。王宮内だけでなく、エンドリア各地の役所や街角にも募集のポスターは貼ってある。が、応募はゼロだ。命の危険がある激務とわかっていて応募するような人間は、このエンドリアにはいない」

 アレン皇太子の言うことが真実なら、アーロンと部下たちは、明日も、明後日も、その先も、過労死しそうな職場で働かなければならない。

「あの、大丈夫ですか?」

 ウィルが心配そうに言った。

「大丈夫のはずがないだろう。今朝から桃海亭に何度…」

「すごいしゅ!!!」

 アーロンの文句は、ムーの大声にかき消された。

「爺しゃん、すごいしゅ!!」

「そうだろ、そうだろ」

 そう言った前皇帝陛下は、手を開いていた。その手の上に黒い丸が乗っている。何かの魔法なのだろうが、アーロンにはわからなかった。

「ボクしゃん、感激したしゅ。爺しゃん、すごいしゅ」

 そう言ったムーは、前皇帝に顔を近づけた。

「爺しゃん、ボクしゃんと魔法の勝負して欲しいしゅ」

 前皇帝はフォフォと笑った。

「それは無理だな」

「なんでしゅ?」

「私が使うのは攻撃型の黒魔法だ。この店が消えてしまう」

「キケール商店街の通りなら大丈夫しゅ。モジャが大丈夫にしてあるしゅ」

「モジャというのは、モップ型の超生命体と聞いたが」

「はいしゅ。あとちょっとで、戻ってくるしゅ。モジャに審判してもらうしゅ」

「面白そうだが、魔法戦闘は商店街でやるようなものではないであろう」

「大丈夫しゅ。シュデルとよくやってるしゅ」

「商店街で魔法戦闘をやっているのか?」

「はいしゅ。ボクしゃんの全戦全勝しゅ」

 ウィルがムーの頭をはたいた。

「違うだろ、3勝12引き分けだろ」

 訂正している。

「負けてはいないしゅ。ウィルしゃんがとめていなければ、ボクしゃんの勝ちしゅ」

「なぜ、そういうことを…」

「いいだろう」

 前皇帝が言った。

「モジャという輩がキケール商店街でやっても被害を出さないようにしてくれるというならば、魔法戦闘の相手をしてやろう」

「やったーしゅ」

 ムーが両手をあげて、喜んでいる。

 いつもは止め役のウィルが何も言わない。

「いいのか?」

「モジャが関係しているときは、モジャがお守り役をしてくれるんでオレは見ているだけです」

 アーロンとしては止めたいが、どちらもアーロンが止められる相手ではない。

 前皇帝はキデッゼス連邦との戦いにおいて、歴史に残る戦功をあげている。作戦の立案、軍の指揮、どちらも優れていたが、最前線で放つ前皇帝が放つ黒魔法は、キデッゼス連邦の兵士たちを恐怖のどん底に陥れた。

 ムーは化け物と呼ばれるほどの膨大な魔力と知識で、大陸最強の魔術師と言われている。

 魔法戦闘ということは、おそらくムーは召喚獣を使わない。失敗召喚に悩まされることはないと、アーロンは自分を慰めた。

ーー おや、客人が多いではないか ーー

 聞き慣れたモジャの声がした。

「初めてお目にかかる。私の名はナディム・ハニマン。リュンハ帝国に住んでおります」

 前皇帝が本名を名乗った。

 モジャ相手に嘘は無意味だが、アレン皇太子がいるのにいいのだろうかと考えてしまう。 

ーー ご丁寧な挨拶いたみいります。モジャと呼ばれております。 ーー

 モジャが、ウィルが言う【礼儀正しい常識的なモップ】であることをアーロンは思い出した。

「モジャー。魔法戦闘したいから、空間をいじってしょ」

 非常識の塊がモジャに頼んでいる。

ーー よろしいのですか? ーー

「この老いぼれがどこまでできるかわかりませんが、久しぶりに一戦交えてみようか思っております」

ーー では、キケール商店街の通りの空間を10分間戦闘可能な状態にしますが、アーロン隊長よろしいですか ーー

「わかりました。至急、商店街にいる人を待避させます」

ーー 戦闘時間は5分、よろしいですな? ーー

 前皇帝陛下とムーがうなずいた。



 アーロンが緊急の待避を通りに向かって言うと、2分とかからず通りから人が消えた。皆、慣れている。

 桃海亭に戻って戦闘可能になったことを告げると、ムーがはねるように通りに飛び出した。前皇帝はその後を、ゆっくりと杖をつきながら出て行った。

 足の捻挫は魔法で完治しており、杖はいつも使っているということだった。

 2人が20メートルほど離れて向かい合うと、モジャが声をかけた。

ーー はじめ ーー

 ムーの手から巨大な光の玉が放たれた。前皇帝は黒い網のようなものを出現させて、玉を吸収した。

「爺さん、すごいな」

 ウィルが感嘆の声をあげた。

 続いてムーが細かい黒い粒子のようなものを大量に拡散させた。前皇帝は10本ほどの光の切片をムーに向かって突進させた。

「こいつは、ムーの初黒星だな」

 隣に立っていたウィルがつぶやいた。

「まだ、戦いは始まったばかりだろ」

 黒い粒子が光の切片にまとわりついた。切片が地面に落ちる。クリアになった視界で、ムーが前皇帝に向かって、手のひらを広げた。アーロンにも空間がきしむのがわかった。

 なにかしらの空間攻撃を受けたはずの前皇帝は、笑顔をたもったまま、空中に浮かび上がった。

「5分と短いですから結果はおそらく引き分けです。でも、1時間だったらムーの惨敗です」

 前皇帝が杖をひとふりした。

 地面に落ちていた黒い粒子がまとわりついた光の切片が、ムーに向かって飛んだ。分厚い光の防御壁が出現、切片が弾け飛んだ。

「ムーは次に大技を繰り出しますが、その前に爺さんが仕掛けます」

 ウィルの言ったとおり、ムーは自分の全面に炎でできた巨大な渦を出現させた。渦のスピードがどんどんあがり、同時に大きさも巨大化していく。

「きますよ」

 ウィルの言葉とほぼ同時に渦が消滅した。前皇帝は動いていない。すぐにムーが両手をあげた。氷できた無数の柱がムーを取り囲んだ。その柱に透明な何かが当たった。柱の数本が弾け飛んだ。

ーー そこまで ーー

 氷の柱が消えた。

 ムーが桃海亭に走ってきた。扉をあけて飛び込んでくる。

「うわぁーーーん」

 顔中、涙がだらけで、鼻水が垂れている。アーロンたちを無視して階段をあがっていった。

 次に入ってきたのは、前皇帝。杖をつきながらゆっくりとはいってきた。続いてモジャ。

ーー 礼儀がなっていない子で申し訳ない。戦ってくれたこと、心より感謝する ーー

 モジャの柄が前皇帝に向かって動いた。

「どうぞ頭をあげてくだされ。ワシも魔法を心おきなく使えて楽しかった」

 モジャがムーのあとを追って2階に向かった。

「爺さん」

 ウィルが前皇帝の前に行った。

「どうかしたか?」

「ありがとうございました」

 深々と頭を下げた。

「昨日の礼にはなったかな?」

「おつりがでますが、オレには払えません」

 前皇帝が笑顔になった。

 次に飛び込んできたのは、前皇帝のお付きの人だった。青い顔をしていた。何か言いたげだが、他に人がいるから口に出せないのだろう。

「そのように心配するな。ここにはアレン皇太子もいらっしゃる。正体もばれている。心配することは何もない」

「しかし…」

「ここはエンドリアです。魔法は観光資源です」

 アレン皇太子が堂々と言った。

 違うだろうとアーロンはつっこみたかったが、最近のニダウを見ていると、そう言い切れないことに気がついた。

「楽しんでいただけましたかな?」

 前皇帝がアレン皇太子に聞いた。

「我が先祖は賢明だったことを思い知りました」

「これからも舌で戦う予定ですかな」

「もちろんです」

「力での戦いを避けられないこともあるでしょう」

「そのときは、ムー・ペトリを敵軍の前に置きます」

 前皇帝がフォフォと笑った。

「それはいい。それでは私から助言をひとつ」

 杖でウィルを指した。

「あれをムー・ペトリの隣に置くことを忘れずに」

「わかりました」

 アレン皇太子が真顔でうなずいた。

「オレは関係ないだろう!」

 前皇帝にウィルが文句を言った。

「いやいや、昨日の戦いは見事なものだった。多くの戦いを見てきたが、あれほど、逃げるということに特化した戦いを見たことがない」

「爺さん、誉めてないよな、それ」

「ワシとしては絶賛しているつもりだが」

 アレン皇太子が笑って、前皇帝も笑って、ウィルだけムスッとしている。

「そろそろ、宿にお帰りください」

 おつき者に言われて、立ち上がった。

「楽しく過ごさせてもらった。礼を言う」

「また、遊びに来いよな」

 ウィルがいつもの調子で言った。

「そうだな。そうさせてもらおう」

 迎えの馬車が滑り込むように桃海亭の前に止まった。護衛が数人いるのを確認してからアーロンは前皇帝を見送った。

「アーロン隊長、まだ何か」

「今回のヂヂンの件での請求書をあとでもってくる。できるだけ早くに払うように」

「わかりました。シュデルに渡しておいてください」

「シュデル?また、どこかに行くのか?」

「南にちょっと」

 ウィルが遠い目をした。

 アーロンは関わらない方がいいと判断して詰め所に戻った。

 迷子が2件続いて、喧嘩が1件。

 報告書も日報も書き上げて、帰りに桃海亭によって請求書を渡せばいいだけになった。

 詰め所をでようと立ち上がると、飛び込んできた人影があった。

「聞いたか、アーロン」

 討伐隊のヘンズリー隊長だった。

「何をです?」

「リュンハ帝国の前皇帝が、宿から王宮に移った」

「なにか、トラブルでもおきましたか?」

 宿の周辺には警備隊を頻繁に巡回させているが、トラブルの報告はアーロンに届いていない。

「いや、観光するためだそうだ」

「いま、なんといいましたか?」

「アーロンも知っていると思うが、王宮の敷地内には温泉が沸いている。前皇帝は足に古傷があるそうで、湯治をしながらしばらくニダウの観光を…」

「いつまでです?」

「しばらくとしか聞いていない。リュンハ帝国の前皇帝陛下ということは伏せておき、あくまでもアレン皇太子の知人という立場で滞在するらしい」

 冗談じゃない。

 いまでも忙しいのに、リュンハ帝国前皇帝の警護まで手が回らない。

「期待しているぞ」

 ヘンズリー隊長がアーロンの肩をたたいた。

「……警備隊に入ってください」

「何か言ったか?」

「人手不足なんで、ヘンズリー隊長も警備隊に入って…」

 アーロンが言い終わる前に詰め所から逃げていった。

「桃海亭によって帰るか」

 時間はまだ6時前。久しぶりに夕食をのんびりと食べられる。

 請求書を封筒に詰めたところで、部下が飛び込んできた。

 昨日もろくに寝ていない。

 部下が言う前に、アーロンは怒鳴った。

「今日はもう帰るからな。桃海亭にこの請求書を届けたら、帰るからな」

「その桃海亭が吹き飛びました」

 手に力がこもった。請求書を破きそうになって、ディスクに置いた。

 昼間、ウィルが出かけると言っていた。あの時、シュデルに渡しておいてくれと言っていた。つまり、桃海亭にシュデルだけがいる状態になる。注意しておくべきだった。

「わかった。桃海亭に行くぞ」

 部下を連れてでようとしたアーロンは、詰め所の外にいた人物に驚いた。

「なぜ、ここに!」

「ワシも一緒に行ってよいかな」

 リュンハ帝国前皇帝陛下。

 好奇心丸出しの顔で、目がキラキラと輝いている。

 明らかに事件が起こるのを、詰め所の陰で待っていたのだろう。

「桃海亭はどんな風に吹っ飛んだのだ。何か特別なことは起こったのか」

「危ないので、どうか王宮で…」

「これほど楽しい観光ができるとは思わなかった」

 前皇帝は先にたって、桃海亭に向かって歩き始めた。

 アーロンはため息をついた。そして、言った。

「どうぞ、警備隊の馬車があります。そちらにお乗りください」

 アーロンの長い長い長い一日は、まだ終わらない。

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