学園
2.学園
「おはようございます。お嬢様。」
豆は次の日も普通に挨拶をして部屋に入ってきた。
「お、おはよう。」
「はい!」
ぎこちなく返事をすればとても嬉しそうに声を上げる。
「今日の調子はいかがですか?」
また同じ質問。もしかして、これ、毎日やるのだろうか。
そう考えると何だか気恥ずかしい。
「普通…だけど、いつもよりは、ちょっといいかも。」
「え、お嬢様‥‥」
いつもと違った回答に豆が目を丸くする。私の口調が戻った事にも気づいたようだ。
驚いた顔、初めて見た。途端に、顔が熱くなる。
「な、何!?本当はこういう感じなのよ。悪い!?」
声を荒げれば、彼は余裕の笑みを浮かべた。
「いえ、今の方がとても、可愛らしいです。」
あんた、またスキルあがってんじゃないの?
それから豆は思いついたように目を見開いて、それから慌てて紅茶を入れていた手を止めると、さっと私の前に出て、〈気を付け〉の姿勢をした。
「あ、すみません。えっと、もう一度やりましょう!」
「え?なんで?」
もう一度。と言うのは、毎朝行われるさっきの会話だろうか。
「せっかくお嬢様がしっかり答えてくれたんです!私もしっかり答えたいです!」
力説する少年は目をキラキラと輝かせて小さな胸の前でぐっと拳を握っている。…えっと?
「いや、いいよ‥‥。」
やや引き気味に断れば、相手も諦めると思ったが甘かった。
握り拳を作っていて両手をぱっとほどき、今度は私の手を一つずつ握る。
そしてぱっちりとした大きな目をキラキラと輝かせた。
「お願いします!」
…何これ、ちょっと可愛い…。
なんて、不覚にも思ってしまうのは、相手が十も満たない背格好の小さな少年だからだ。
「え、やだ。」
顔を見ると頷いてしまいそうで、私は豆から目をそらす。
「お願いします?」
横目で豆を見れば、今度は語尾を疑問系にして、同じように自らも小首を傾げてみせる。
あくまで私にお願いをしている。
そんな風に見えるけれど‥‥‥。
「…何か強引になってない?」
そう、いつもならば、私が断ればすぐに諦めたはずの豆はあらゆる愛らしい手を使って私を落とそうとしているように思える。
「最近、お嬢様がこうすれば言う事を聞いてくれると、学習しましたので。」
と、無邪気に笑う。その裏にほんの少しばかりのあざとさが見えたような気がした。
何こいつ。何もかも読まれているようで納得いかない。
「~~っ…知らないっ。」
ぱっとその手を払いのけて立ち上がり、豆が持ってきたワゴンを大人げないながらも、彼に向かって押し出した。
「え、あ、あのっ、お嬢様!?」
「子供の癖に。ばぁ~かっ」
その言葉を聞き終わったかどうかのところで、豆はワゴンと一緒に部屋から押し出されていった。
From 豆
「いったた…。」
無理やりワゴンごと追い出されて、尻餅をついてしまった。
「お嬢様だって強引だ…。」
もう見えなくなってしまったあの人に向けて抗議の声を漏らす。
僕は仕方なくワゴンの足に捕まって立ち上がり、ぱっぱと軽く燕尾服の皺を伸ばした。
旦那様がわざわざつけてくださった、自分の背丈にあった持ち手を握って、ワゴンをゆっくり押していく。
持ち手がちょうどいいからと言って、ワゴンも丁度いい高さな訳でなく、前なんてほとんど見えていない。
何かに躓かないようにゆっくり行くのが一番だ。
「ふぅ…。」
特に疲れたわけでもないのに、そんなふうに息を整える。
僕が疲れることなんて、この先もきっとほとんどないんだろう。知っていながらも何だか悲しくなる。
と、後ろからコツコツと高いヒールの足音がした。
ワゴンに手を置いたまま、横向きに振り向けば、そこには腰まである茶色いウェーブがかかった髪の、お嬢様によく似た女の人が立っていた。
「あら、あなた、大丈夫?」
高く少し幼さの残るような声で、心配そうに言ってくる。次女の美香様だ。
思い出し、慌ててちゃんと向き直って、深く礼をする。
「おはようございます。美香様。申し訳ありません、通路を占領していたでしょうか?」
「構わないわ。私、歩くのが遅いから。あなたが前を歩いていてもそんなに変わらないもの。」
くすりと笑う。初めてお会いしたけれど、なんだか、この人は苦手だ、そう思った。
「あなたこそ、そんな自分より背の高いもの、重くないの?」
「はい。御心配、おそれいれます。」
ぺこりとまた小さくお辞儀をする。
「まあ、行儀がいいわね。」
クスクスと笑う仕草もとても可愛らしい。
色とりどりの華やかなコスモスを連想させるような人だと思った。
「あなた、お姉さまのお世話係…よね?」
「はい!」
お嬢様の事が出てきて、つい満面の笑みになってしまうと、美香様は目を丸くした。
「まぁ…元気なお返事。そんなにお姉さまが好きなのね。」
「はい!」
お嬢様ほど可愛らしい方はいません。僕はよくそう思う。
「そ、そう…。」
即答すれば、何か思うことがあるのか曖昧にそう返し、それからにっこり笑う。
「また、お姉さまと一緒にお食事ができるのを待ってるわ。もちろんあなたもね。」
頭を下げれば、「じゃあね。」とひらひらと手を振ってゆっくりと横を歩いて行った。
美香様…とは、どんな方なのか…。僕はただポカーンとしてそれを見送った。
From 万理音
「そうだ。お嬢様、また庭園に出てみませんか?」
豆がやって来て、私の世話をするようになったことに、少しだけ慣れてきたある日の昼。
豆が無邪気な笑顔で提案してきた。
「外……?」
基本引き籠りの私にそれを提案するか…。私の心情を知ってか知らずか豆は大きく頷いてはしゃぐ。
「はい!」
毎回、小学校に入ったばかりでワクワクが止まらない一年生のような元気で良い返事をする。
こいつ、ちょっと言う事を聞いたから、調子に乗っているのだろうか。
「私は基本インドアだから…あまり外には出たくないのだけど。」
「そう…ですか…。」
一瞬、豆の頭にぺたんと垂れた耳が見えたような気がした。小型犬…。
綺麗な燕尾服から尻尾が飛び出ているような錯覚に陥る。
だが、この後きっと、ウルウルした可愛い目で私を見つめて結局いう事を聞かせようとするに違いない。そんなもの、絶対に聞くもんか。
今日と言う今日は絶対意見を曲げない。私は固く決意をした。
思った通り豆は、私の目の前に来るとおもむろに両手を取り、くりっとした大きな黒い目を潤ませてじっと見上げてきた。
「あの…どうしても…ダメ…ですか?」
「う…。」
可愛い…。分かっていても可愛い。でも…負けてたまるものか。
「だ、駄目。」
そう言って顔を背けると豆はさらに手を握る力を強めた。ちらりとそちらを見れば切なげな顔。
目が合うとしゅんとして視線を下に落とし口をきゅっと結ぶ。なんてテクが豊富なんだ‥。
「う…だ、駄目だからね。」
念押しをするとまたさらに手にかかる力が強められる。
と言っても、小学生の子供が手を握りしめていると言った感じなのでまったく痛くはない。
だが、彼は私を軽々持ち上げれるような凄い力があるから、きっとこれも加減を見て計算してやっているのだろう。
なんて、考え過ぎだろうか。
「お嬢様ぁ。」
豆が甘ったるい声で嘆く。…いや、考えすぎではないだろう。
こんなの、自分が可愛いと知っていないとできない。もう一度顔を上げ、じっと私の目を覗き込む。
「…………。」
負けるな、負けるな私。今日は絶対に外に出ないと決めたのだ。
「……はぁ。」
何も言わない私に諦めたのか、豆が深くため息をつく。
手がパッと離されほっとして豆の顔を見ると、その目はまだ諦めていなかった。
いや、むしろ何か決意したって感じ…。
「分かりました…もう力ずくで行きます。」
「え…ちょ、ちょっと…?」
ベッドの上で座ったまま後ずさり、豆と距離を取ろうとしても、彼はベッドの上にひょこっと上がってきて一歩一歩、歩く。
「ちょ、ここベッドよ?何普通に歩いてるの…?」
そんな声にもお構いなし、私はとうとう壁まで追い詰められた。さーっと血の気が引く。
「失礼します。」
豆はぺこりと頭を下げ、それからしゃがむと私の膝の裏に腕を通して、もう片方の手を肩に回した。
「…よっと。」
「ひゃぁっ!」
いとも簡単に持ち上げられ、横抱きにされる。
小さな体に支えられる不安からきゅっと豆の肩に抱きつく。
「な、何やってるのよぉ。」
「お嬢様が動こうとしてくれないので…このまま庭園までお運びしようかと。」
そう言うが早いかそのままベッドを下り、窓を開けてぴょんっとウサギのごとく窓枠を跨いだ。
「あ…。」
屋根の下がよく見える…。私、ここから落ちかけたんだ…。
ぶるっと体が震えて、豆の肩を掴んだ手に力が入る。
「お嬢様…?」
不思議そうな豆の声には返事をしないでただ小さく震えていると、クスッと笑う声。
見上げれば子供の幼い顔が優しげに微笑んでいる。
「大丈夫です。私がいれば、もう落ちることはありません。」
豆の言葉に小さく頷くと、彼も嬉しそうに頷き返し、それから屋根の端に行くとぴょんっと底を飛び下りた。
「ええ!?」
確かに私を抱えたままじゃ下りるの難しいけど、だからって飛び降りる!?
予想外の行動にギュッと燕尾服を掴んだ。しゅんしゅんと風の音が聞こえて耳がキーンと痛くなる。
「ひゃあ~!!」
私の悲鳴も気にせず、豆はやがて綺麗に着地すると、そっと私を土の上に下ろした。
私はそのままへたり込んで肩で息をする。
「な、何で…飛び降りたり……。」
「え?だって、手が塞がっていましたし。」
クスクスと何が面白いのか笑う。そりゃそうですが…せめて何かひとこと言ってからとかさ…。
不満げに見上げれば素知らぬ顔でそっぽを向く。私は仕方なく大きく息を吐いてから、立ち上がった。
「あんたねぇ…。」
「あ!お嬢様!見てください!タンポポ!タンポポが咲いてます!」
話を逸らすように大声ではしゃぎ、ぴょんぴょんと跳ねながら花壇まで進んでいく。
無邪気……いや、邪気の塊…。こういう奴を、{あざとい}というのだろう。
「そう、よかったね…。」
なんだか疲れ切って、私はため息をついた。何だって私はこのちびっこに振り回されているのか…。
でも、どうして雑草が咲いているのだろう。タンポポは、道端で咲く物。
いつもきれいに花壇の手入れをしている母にしては、こんな花をそのままにしておくなんて珍しい。
「これはマーガレット、これはチューリップ、これはアネモネ。」
そんなことを考えている間にも、豆は楽しそうに花壇を見て回っている。
「ガーベラ、クレマチス、スイートピー、ハルジオンにヒナゲシ。」
豆は次々に植わっている花の名前を当てていく。それにしても…。
「ねえ、いつの間にそんなに覚えたの?」
この前まで、パンジーも知らなかったというのに、今ではこの庭にあるすべての花を言い尽くせる勢いだ。
私の驚く顔に、豆は少しばかり胸を張って見せた。
「ヒナゲシは、双子葉植物の離弁花で、ケシ科の植物です。花言葉は、恋の予感、いたわり、思いやり、陽気で優しい、忍耐、妄想……」
そこまで言って困ったように首を傾げる。
「どうしてこんなにもあるのでしょう?どれか一つでないと、どう感じていいかもわからなくなります…。」
「まあ、そうだけど…」
確かに、一つの花が持つ花言葉は多すぎる気がする。
「誰かに花言葉の意味を添えて、花をプレゼントしたい時、相手に違う感じ方をされてしまったらどうしたらいいんでしょう。」
悲しげな眼は花壇の花をじっと見つめている。
「その時は、自分の思いをそのまま口にすればいいだけよ。」
ロマンチックな演出はとても美しい。だけど、それだけじゃ全て伝わらないことだってある。
豆はにっこり笑って私の顔を見上げた。
「そうですね。」
この少年は素直だが、時々とても分からない。
急に大人びたかと思えば子供の様にはしゃぎ、謎めいた言動も多々ある。
どこから来たかとか、どうしてここに来たかとか、聞いてもいつも誤魔化される。
この少年は、相手を自分の思い通りに誘導するのも得意だ。恐ろしい…そうよく思う。
「そんなことより、どうしてそんなに花の事を知ってるの?」
「僕は何でも知ってます。お嬢様、何でも聞いてみてください。」
無邪気に笑い、得意げに言う姿は予想外。これでは、本当に子供みたいだ。
ぴょんぴょんと跳ねる豆のズボンのポケットから、ひらりと小さなメモが落ちた。
「あっ。」
豆がしまったというような声を出す。
メモは私の足元に落ちてきて、拾ってみるとそこにはびっしりと何か書いてあった。
~アヤメ~〈菖蒲〉と書く。【花期】4月~5月。
~アイビーゼラニウム~別名 ハゼラニウム、ツタバゼラニウム、ツタバテンジクアオイ、フウロソウ科のテンジクアオイ属…など、花の名前と思わしき物や、その花の咲く時期までがずらっとそのメモに書いてある。
「あ、あの、その…これは…えっと…。」
めずらしく慌てる豆を見てクスッと笑った。するとすぐに豆の顔はぼっと赤く染まる。
「わ、笑わないでください!!僕だって、見栄を張りたくなる時があるんです!」
時々戻る口調、〈僕〉と、子供のように言う豆。
焦って私の手からメモを取り上げようと、必死に背伸びをするとこなんか、本当に可愛らしい。
弟ができたら、こんな感じなのだろうか。
最近振り回されてばかりだったせいか、今までにないほど口の端がにんまりと上がった気がする。
あ、からかうって結構面白いのかも。
メモを掴んだ腕を真っ直ぐ上に伸ばすと、豆はそれに向かってぴょんぴょん小動物のように跳ぶ。
頭三つ分ほど違う身長では、当然彼が欲しいものまで手が届くわけがなく、小さな手が虚しく空気を掴んで落ちていく。
「ふふっ…」
「か、返してください~」
外に出るのも悪くない。
結局私は、彼の思い通り動いてしまっているのかもしれないが、それも今は悪くない。
そんなふうに思えた。
From???
今日も遠くから彼らを眺める。
ぴょんぴょんと跳ねる小さな少年と、楽しそうに笑う女性。
「なに、あいつ…。」
ギリッと自分のドレススカートを握り締める。むかつく…あんな笑っちゃって…。
なんなのよ、本当に。ポケットからカメラを取り出し、一枚撮る。
「…許さない。」
早く家から出て行けばいい。あの邪魔者を、はやく何とかしなくては。
From万理音
「最近暑くなってきましたね。」
「…そうだね。」
庭のベンチに座って、せっせと洗濯物を干すちびっこを眺める。
手伝うって言ったんだけど、自分の仕事だからと断られた。
なんとなく手持無沙汰になり、空を仰ぎ見た。
気づけば豆が部屋に来れば、そのまま私も彼の後をついて外に出ていることが多くなった。
豆といるととても楽で、安心する。
安心できる奴がこんな小さな子供なんて少し情けないけど、今の私には、彼の他に気負わず話をできる相手がいない。
時々ムカついたり、可愛く見えたり、大人に見えたり、こいつは今もよく分からない。
ふと気づけば、さっきまで私が退屈しないように、仕事をしながらも話しかけてくれていた声がもう聞こえてこない。
「ねえ、豆。」
顔を、洗濯物がたくさんぶら下がった突っ張り棒の方に向ければ、いつもはすぐ返事をする豆は黙っていて、じっと何も見えない後方を睨んでいた。
「豆?」
見たことのない表情。何が見えるのか気になって、私はベンチを立ち上がり、豆の隣に歩み寄った。
「どうしたの?」
尋ねても何も答えは返ってこない。
じっと真剣な顔で遠くの方を睨み、洗濯物の皺を伸ばしていた手をだらんと垂らした。
一緒になって彼の見る方を目を細めて見てみても、やっぱりそこには何も見えなくて、だんだんと不安が募っていく。
「っ…。」
と、次の瞬間、豆は顔色を真っ青に変えて、いきなり私の腕を引っ張った。
「わっ。」
グイッと体が動き、豆の後ろに持って行かれる。
―――ビュン、と風を切る音がした。
私がさっきまでいた場所に、何か小さな塊が飛んできて、豆がそれを掴んだのだけは分かった。
バシッと凄い音がして、少しばかり豆の眉がピクリと動いて歪んだ。
「な、何…?」
「………。」
問うような視線を向けても彼は黙ったままで、それからそっと掴んだものを自分の胸ポケットにいれた。あ…隠した。
一瞬だけ、難しい顔をして俯く。本当に、何かあったのだろうか。
私はまめの顔色をうかがうのをやめて何か聞こうと口を開いた。
「…申し訳ございません。虫が飛んで来たものですから。」
けど、次にはもういつもの笑顔で、なんとなく私は開いた口を閉じた。
それでもさり気なく、さっき何かを掴んだ手は体の後ろに持っていくのを私は見逃さなかった。
「む、虫?」
「はい。虫です。」
元気にこくりと頷くのは、明らかに不自然だ。
顔をじっと見つめて覗き込むと、困ったように眉根を寄せる。…もう一押しかな…。
すとんと腰を下ろし、下から覗き込めば、うっと声を漏らして気まずそうに目を逸らした。
こうなったら…。
「えいっ。」
一向に何も話してくれそうにない豆の、後ろに隠した腕を無理やり引っ張り、手のひらをこっちに向けさせた。
「わっ…お、お嬢様!?」
相手が戸惑っている間に、きゅっと握られた拳を開くと、その手のひらは血が滲んでいた。
「っ…な、なんで…。」
血…?血…?どうして?
あの飛んで来た何かって、そんな、掴んだだけで血が出るような危ないものだったの?
驚いて手の力が抜けたと同時に、豆は私の手からさっと自分の手を引き抜き、もう片方の手で胸元からハンカチを取り出すと丁寧に赤い手を拭いた。
「ま、豆…?」
もう何だか訳が分からない。さっき、私の所に飛んで来たものはなんだったのか。
父親の言葉が不意に脳をよぎった。…〈豆は私のボディガード〉、〈私を狙う人達〉…。
まさかそんなの…本当にいる訳じゃ…ないよね?
「お嬢様。」
名前を呼ばれて慌てて顔を上げれば優しい笑顔。
「お見苦しいものを見せてしまい、申し訳ございませんでした。ここでの仕事も終わりましたし、もうそろそろ戻りましょうか。」
「…うん。」
豆の笑顔に何か問い詰めることができず、私は静かに頷いた。
次の日、私がもともと引き籠りだったことを忘れているかのように、父親が部屋に来るように言ったと、豆から伝えられた。
「え…い、嫌…。」
引き籠りには引き籠りの意地がある。確かに外に出るようになったとは言え、豆と二人の時だけだ。
父親になんて、豆がここに来た日以来会っていない。
私は豆にそれを伝えられた時、首を横にブンブンと振った。
「そう仰らずに、会って差し上げて下さい。旦那様も、お嬢様に会いたがっておられますし…。」
「嫌、絶対嫌。」
「お嬢様…。」
頑なに首を振って見せれば諦めるかと思ったのだが、そうではなかった。
最近の豆は、前よりも強引な気がする。
ボスの長女である私に対して、少し偉そうと言うか、へりくだってはいるけど、うまく掌で転がされている感がある。
今回も例外ではないらしく、豆は簡単には引かなかった。
「仕方ありません…また、お嬢様を抱えて連れていかなければ…。」
豆が一つ息を大きく吐き、肩を鳴らして一歩私に近づいた。え…?もしかして…?
「ま、待って。またやるの?」
「お嬢様が来て下さらないなら。」
にっこりと笑い、無言で圧力をかけながら、その間にも一歩、一歩私に近づいてくる。
会って間もない時、私が豆を馬鹿にして…。その次は屋根から脱走しようとした時。
三度目は庭に出るのを嫌がった時……。三度の悪夢が脳裏によみがえり、私は冷や汗をかいた。
10センチ以上も小さな少年に抱えられるなんて、冗談じゃない。
「……わかった。」
そういえば、豆はぱっと顔をほころばせる。
「ありがとうございます!旦那様もきっと喜ばれます!」
悔しい…。いつか、こいつを絶対負かしてやる。
「で、何だって言うんだ?」
父の部屋に嫌々行くと、彼は顔をふにゃりと緩めて笑った。
「おお!万理音、来てくれたのか!さすがは豆だ!」
「いいから要件を言え。」
手を広げて近づいてきた父に一言強い口調で言えば、その手はグニャリとまた曲がる。
「…豆、なんで万理音ちゃんは、お父さんにきついのかな…。」
豆は苦笑して肩をすくめる。
「あ…あはは…申し訳ございません。お嬢様は今、大変不機嫌でいらっしゃって…。」
『大変不機嫌でいらっしゃって』ね……。誰のせいだと思ってるのよ。
私は、ちらちらと顔色を窺っている豆と父に気づかないふりをして、つんっと天井を見上げた。
「では、本題に移ろう。」
一、二言、言い合った後、ようやく父は本題に切り出した。
「万理音、お前には明日から、学校に通ってもらう。」
「は?」
「え!?」
言っていることを正しく理解できていない私よりも、豆は大声を上げて驚いて見せた。
判断処理が追いつくと、途端に怒りが込み上げてくる。
「何言ってるんだ。高校には行かせないとか言ったのはどこのどいつだよ。」
義務教育が終わってすぐ、父は私をこの家に閉じ込めた。それなのに今さら何を言っているのだろう。
「それは、お前が勉学に励むだけなら、家庭教師で事足りると思ったからだ。」
「…旦那様、私にも分かりません。どうして…今なのです?」
さっきまでの明るい表情から打って変わり、豆はとても暗い目をしていて、私は目を丸くした。
思い出されるのは豆の血の滲んだ手。困ったような顔。
もしかして…私を外に出したくない理由があるのだろうか。
考えすぎかもしれないが、ボディーガードという、豆のもう一つの肩書を思い出し、どうしても気になってしまう。
「万理音は人との関わりが少なすぎる。高校に入れないと決めてから、すぐに後悔をしたんだ。こいつの内面をより強く育てるためにも、やはり入れておくべきだったが、もうその時にはこいつは部屋に籠り、俺に顔を見せなくなった。」
父は悲しそうに目を伏せる。それから思い直すように目を大きく見開いて私を見た。
「だが、今は違う。豆のおかげで万里音は外に出ることができるようになった。だから、今、なんだ。」
父の強い意志を持つ目に真正面から見つめられていると、もうこの人を許してもいいんじゃないかと思えてきた。
私には今、豆がいて、普通の同年代の子と同じように学校に行かせてくれるなら、もう別に彼を嫌う理由はない。
「私は反対です!」
私の思いと裏腹に、父の言葉も聞いても、豆は頑なに否定した。父の強面な顔が、ピクリとゆがむ。
「何故だ?」
「…それは……。」
そこで豆は口ごもり、困ったようにちらっと私を盗み見る。
その時ばっちり目があったせいで、余計に豆は戸惑って目を泳がせた。……なんなの?
「いえ…その…お嬢様、申し訳ございませんが、一度お部屋に…。」
「戻る訳ないでしょ。」
きっぱり断れば、う…と声を漏らす。今日はもう、絶対に折れない。
お父様がこっち側にいるなら、私だって豆に勝てるかもしれないし。
「では、旦那様、少しお耳を…。」
豆は仕方ないと言うように目を伏せて、父の傍に寄った。…どうしたって私に聞かれたくないわけね。
こそこそとする内緒話。豆にそんなつもりなんて全くないのだろうけど、私としてはとても不愉快だ。
豆の言葉を聞いてから、父は二度頷いて見せた。
「分かっている。それを承知で俺は言っているのだ。」
「旦那様!」
あまりにも必死な豆の声に、私はついに声を上げた。
「豆!一体何だっていうの!?最近アンタは隠し事ばっか。それすっごい感じ悪いから!私一人じゃどこにも行けないとでも思ってるの!?」
いきなり怒り出した私に、父も豆もぎょっとして慌てて私のご機嫌を取ろうとする。
「違います!そんなことはけっして…。」
「行く!」
「お嬢様っ…。」
「私、学校に行く!」
豆の必死な顔と抗議の声なんて無視して、私は大声で宣言した。
父の部屋を出た後から、豆はとても不機嫌だ。
ツンと顔を上にあげ、口を堅く結んで私の後をただついてくる。
「あの…豆?」
「……はい。」
反応もいつもよりワンテンポ遅い。声も一オクターブは低いだろう。
それでも返事をしてくれるところはやっぱり従順だと思う。
「私……学校行ってみたい。」
「…はい。」
さっきより返事までの間が短い。あと、もう一押しだろうか。
「駄目?」
「お嬢様が行きたいと仰るなら、そのように…私は従います。」
「…そう。」
いつもの答え。ちらっと後ろにいる豆の顔を盗み見た。…そんな拗ねた顔してよく言う。
本当は不満なくせに。
「豆?」
クルッと振り返ると、豆は立ち止まってくれた。
私に顔が見られる状態になったからか、豆の顔はもういつも通りきちっと引き締まっている。
そういうとこは少し気に入らないと思いながらも、私は口を開いた。
「私、アンタがいなかったらこんなこと、してないよ?」
「え…?」
豆の目がぱちくりと瞬いた。
「アンタがいるから、なんだか安心できて、だから行くの。」
ちゃんと分かってる?私は一人だったらこんなことしないってこと。
10センチ以上下にある豆の瞳をじっと見る。
「……はい。」
ほんの少し明るくなった声で豆はまた返事をした。私は口の端を少し上げる。
「行こ。お腹すいた。」
おどけたように言う私に、豆は嬉しそうな顔で頭を下げた。
「かしこまりました。」
「じゃ、行ってくるから。」
真新しい制服を着てバッグを肩に背負い、クルッと振り返る。家の門の前。
親への反抗心で部屋にこもって以来、ここまで来れたのはいつ振りだろうか。
それどころか、これからはこの先、外に出て行くことになるのだ。
振り返った先には豆がいて、彼は眉をひそめて不安げな眼差しをこちらに向けている。
「はい……あの、やっぱり学校まで車で…。」
「嫌だって言ってるでしょ。じゃあね。」
そう言い切ると観念したのか、ぺこりと頭を下げて、行ってらっしゃいませと言った。
早朝、部屋に入ってきた豆は私の朝ご飯を用意しながら車で学校まで行くことを提案してきたのだが、転校初日に車で登校なんてしたら、最初が肝心の学校生活が台無しになってしまう。
しかも、ヤクザの車だ。
それだけで想像はできるかもしれないが、スモークの貼られた窓に黒光りの胴の長い車体、激しいエンジン音。
私の家にある車は大体派手だ。そんな車で学校に行こうものなら、完全にアウトだ。
「なんだろう……。」
私は固く伸びた背筋をほぐそうと一つ息を吐いた。何か、凄い見られてるんだけど。
やっぱり、この時期に転校生は珍しいから…なのかな。それとも、なんか変?
私は一応自分の身だしなみをチェックした。……合っている、はず。
他の生徒達とも変わらないし、何もおかしいところは無いように思える。なら、どうして?
「あの人見て!」
「うちの学校にあんな人いたっけ?」
注意して聞いていると、そんな声がいくつもいくつも聞こえてくる。
なんだ、やっぱり転校生が物珍しいだけか。
私はホッとして、また堂々と学校までの道のりを歩き始めた。
「はじめまして、立花 万理音と言います。これからよろしくお願いします。」
お辞儀をすればぱらぱらと手を叩く音がする。
「何か質問がある奴は?」
担任の高田先生が尋ねると、生徒達はちらちらと目配せをしてそれからぱらぱらと手を上げた。
先生にあてられて、一人の男子生徒が周りからちゃちゃを入れられながら立ち上がる。
「彼氏はいますか?」
……は?
「…いません。」
「電話番号教えてください。」
何なの?
「…携帯、持ってません。」
「住所教えてくれる?」
生徒の質問って、こんなものなんだろうか。でも、なんかおかしい気がする。
「……ええっと。」
私は何だか馴れ馴れしすぎるような質問に答えあぐねてしまう。
住所とか、電話番号とか、ふつうこんな大勢の前で聞くものなのかな……。
「おいおい、そう言うのは個人的に聞けよ。」
高田先生はニヤニヤと笑っていてまるで注意する言葉に気持ちが入っていない。
「ちょっとぉ~ちゃんと答えてくださいよぉ~」
クスクスと笑う男子生徒に目を細める。もしかして私、からかわれてる?
「はい、そこまで~!!まだ聞きたい事がある奴は後から聞きに行け~」
高田先生の声に、にやけた面の男子生徒たちは、ぱらぱらと手を下ろしていった。
「あ、あの……。」
私は戸惑って目を泳がせた。
「ねぇ、ねぇ、ほんとに彼氏いないの?」
「じゃあ俺と試しに付き合ってみない?」
「いやお前じゃ無理だよ。やっぱ俺っしょ。」
休み時間になると、大勢の男子クラスメイトに机を囲まれた。
中学校でもまともに男性と話したことが無かった私は、どういう風に接していいのか分からない。
普段接しているのが礼儀正しくて優しい豆だから、こんな軽い態度の男性なんて久しぶりだ。
怖い。そう思った。学校って……怖い。私は今日見た豆の心配そうな顔を思い出した。
豆……、怖い。やっぱり、私にはまだ学校なんて早かったのかな。
「ご、ごめんなさいっ。ちょっと私っ、きゃっ。」
何とか逃げだそうとうつむいたまま立ち上がった時、ちょうど歩いて来たクラスメイトとぶつかった。
バランスを崩して倒れそうになった時、背中に腕を回されて支えられる。
「あ……。」
かなり近くに同世代の男性の顔がある。茶色い切れ長の瞳に筋の通った鼻、赤みがかった跳ねた髪。
日に焼けた肌はそれでも綺麗で。少し軽い雰囲気の彼は、うちの組にもいそうな外見をしている。
だけどなんでだろう……、全然怖くない。
「おい……。」
低くきつい声にはっと我に返る。男の人に、抱き留められてる!
「ごめんなさいっ。」
慌てて飛びのくように彼の腕の中から離れると、さっきのきつい声とは違った困った顔をした。
「別に。」
彼はそう言って私から目をそらす。あれ……、やっぱり、怖くない。
周りにいる男性はみんな怖く見えるのに、他より外見が派手なこの人の方が、怖くない。
私はばっと顔を上げ、目の前から去ろうとするその男性に声をかけた。
「あの、ありがとう。」
そう言って微笑むと、その男性は驚いたように目を見開いて、それからばっと顔を背けた。
「……別に。」
もう一度繰り返した端的な言葉。ほんのりと赤くなった耳。やっぱり怖い人には見えなかった。
何だか、ちょっと気になる。そう思ったとき。
「ちょっと男子。立花さんがめちゃくちゃ可愛いからって、ずっと囲んでちゃ駄目でしょ?」
一人の女子生徒が私と男子生徒たちの間に割り込んだ。
「ほら、来て。一緒に話そう?」
私の手を掴むと、女子生徒はにこにこと親しみやすい笑みを浮かべた。
両側にできたえくぼが、ぷくりと柔らかそうな頬をへこませている。私は頷いて彼女についていった。
「立花さんって、すごい綺麗だから、気取ってる人かと思っちゃった~」
女子生徒の一人が楽しげに笑う。
一人の女子生徒についていくと、今度はたくさんの女子生徒に囲まれた。
転校生って、こんなものなのかな。私は小さく首を傾げた。
「え?綺麗ってまた、そんなことないよ。」
「またまた~!!ねえ、ここだけの話、うちのクラスに気になる奴いた?」
「え?」
「男子よ、男子!!彼氏いないんでしょ?今からつくっても、遅くないよぉ~?」
にたにたと茶化すように笑う彼女の名前は確か、古谷友加さん。
さっき私を男子生徒の中から連れ出してくれた、まさに救世主のような人だ。
柔らかそうなほっぺと言い、切れ長な目と言い、福笑いのような印象のある人だ。
初めてのガールズトークなるものに、私の顔は真っ赤になる。
「え、え!?私、そんなつもりはっ。」
「あ~赤くなった~!!」
なんだろう、なんか、変。豆と話してるときと、全然違う。空気が違う。でも、楽しい……。
女の子の雰囲気って、柔らかくて優しいな。
うちにはガタイの大きな男性ばかりいるから、こんな風に女の子に囲まれるのは初めてかもしれない。
一つ違いの妹である美香とも、あまり話したりしていなかったから。
その時、私の机の前を、さっきぶつかった男子生徒が横切った。
「あ。あの人……。」
「ああ、あいつ?若葉。」
クラスメイトの一人が教えてくれる。へぇ、あの人、若葉君って、言うんだ。
私が若葉君の姿を目で追っていると、古谷さんがまたにやにやと笑った。
「へぇ~立花さん、若葉に興味あるんだ~」
「え!?」
突然飛躍した話題に頭がついていかない。え?なんで?名前を聞いただけなのに!?
古谷さんの言葉に、皆がうんうんと頷き始める。
「ああ、確かに顔は結構いいよね~でもさ、若葉って、ちょっと怖くない?」
「うん。男子からもなんか距離置かれてるし。噂ではなんか、ヤクザとつながってるらしいよ?」
「え?やくざ?」
『ヤクザ』その言葉に、過剰に反応してしまう。
なら、怖くないと思えたのは、やっぱり勘違いなのかもしれない。
ヤクザなんて、ろくなものじゃない。
私は机に突っ伏して寝ている若葉君をちらりと見て、勝手ながらも、なんだか裏切られたような気持になった。
「立花さん。」
授業が終わると、古谷さんが話しかけてきた。
「家どの辺?もしよかったら一緒に帰らない?」
「え……あ、ごめん。私、ちょっと用事があって。」
私は申し訳ない思いで断った。家の事を、少しでも知られそうなことは避けたい。
家がヤクザなんて知れたら、学校にいずらくなるのは明白だ。
脳裏に若葉君の顔が浮かんで、ぶんっと首を振る。
ヤクザと関係があるかも。なんて、ただのうわさかもしれないじゃない。
勝手に彼を私の考えに巻き込んではいけないわ。
古谷さんはそんな私を不思議そうに見ながらも、にっこりと微笑んだ。
「そうなの?残念。じゃあ、学校でるまで一緒に行こう!!」
「え?」
てっきり教室でお別れなのだと思っていたので、私は間抜けな声を出してしまった。
「駄目?」
「だ、駄目じゃない!!」
あまりの嬉しさに前のめりになって声を上げる。ほんとは、すっごく、一緒に帰りたいんだもん。
「うわっ、あははっ、OK。」
私の勢いに驚いて、古谷さんは少しのけぞって見せてからぷっと吹き出してケラケラと笑った。
古谷さんと一緒に学校を出ると、何やら生徒たちが一か所に群がっているのを見つけた。
「ん?……何かな?」
古谷さんが首を傾げて校門前まで走って行ったので、私もそれに続く。
一つの場所に群がり、何やら黄色い声を上げる女子生徒たちの中心にはなんと………豆がいた。
「うわぁ~何あの子、すっごい可愛い!!」
「まっ、豆!?」
驚いて声を上げると、豆だけでなくその場にいたほぼ全員がこちらを向いた。
豆は私に気が付くと、パッと顔をほころばせ、満面の笑みで手を振った。
「あっ、おじょ――」
「わーーーー!!!!!」
〈お嬢様〉豆がその単語を口にする前に、私は大声を出した。
豆は驚いて口をつぐみ、目を見開いて私を見つめた。隣では、同じようにして固まった、古谷さん。
「び、びっくりした…。何?知り合い?」
「う、うん。まあ……。」
豆は私の方まで静かに走ってきて、お辞儀をした後、にっこりと笑った。
「お勉強、お疲れ様でした。この時間にはお帰りになると伺いましたので、お迎えにあがりました。」
「わ、わぁ、えっと……どういう関係?」
豆の丁寧な口調に、古谷さんが戸惑ったような声を出す。
「あ、失礼しました。私はお――」
「お、弟!弟なの!!」
「え?」
困惑する豆の手を無理やり引っ張り、こちらに引き寄せてぎゅっと抱きしめた。
「弟!」
豆は一瞬顔を赤くしたが、すぐにそれを完璧な笑顔に切り替え、三秒後にはこの状況を理解したのかこくんと頷いた。
「はいっ。お姉ちゃん!!」
ほんと、こいつの吸収能力には感心する。
「この子、ちょっと変わってるの。誰に対してもこんな感じだから、気にしないで。」
「へぇ、おませさんだねっ。可愛い~」
古谷さんが豆の頭をよしよしと撫でる。その間、豆はにこにこと笑って大人しくしていた。
なぜこいつを見ていると、大人の余裕を感じるのだろう。
「それより豆、いったいどうしたの?」
「お姉ちゃんが言ったんじゃないですか。学校の後、僕を遊びに連れて行ってくれるって。」
「へ?」
「あ、もしかして、用事って弟君と?」
「う、うん!そうなの。」
私はぎこちなく頷く。
「じゃ、じゃあ、豆、いこっか。」
私が手を差し出すと、豆は少し躊躇するような動きを見せてから、思い切ったように強く私の手を握った。
「わ~い!!ありがとうございます!!お姉ちゃん。」
何が『わ~い』だ。
私は豆にしかわからない程度にじろっと彼を睨んだ後、握った手に思いっきり爪を立てた。
うっと、小さくうめく声が聞こえる。それでも、豆の顔は完璧な笑顔のままだ。
普段は大人ぶっている豆が、こんな風に子供のような態度をとっているのは新鮮で、だけどこれもすべて演技だと知っている私としては少しだけ憎らしくもあった。
でも、今の豆は本当に弟みたいで、何て言うかしっくりときて、年相応という感じがした。
私は屈託のない豆の笑顔を盗み見た。可愛い……悔しくも。
「で、どういうつもり?」
古谷さんと別れて二人だけになると、豆はすたすたと家に向かって歩き出した。
私の問いに首を傾げる姿も、全て子供のものだというのに、あざとく見えてしまうのはやはり普段の彼の振る舞いを知っているからだろう。
「何がですか?」
「迎えになんて、来なくていいって言ったじゃない。」
ああ、と思い出したように息を漏らす。
「お嬢様は確かに、送りの車だけでなく迎えの車もいらないと仰いましたが、やはり心配だということで、旦那様が僕にお迎えをしてくるようにと。」
「それであんなこと?」
私はさっきの豆の振る舞いを思い出して私は脱力する。やっぱり、お父様か……。
「はい、お嬢様の嘘に便乗させていただきました。」
にっこり笑った顔は小悪魔的。
その目は決して攻めているわけではないのに、なんだか私は後ろめたい気持ちになる。
それは私が、勝手に何の話し合いも無しに彼を弟と紹介したことで、彼を戸惑わせてしまったのだとわかっているからだろう。
腕を掴んで引き寄せた時、手を差し伸べた時、実際に豆は少し困った顔をしていた。
豆に任せれば、もっとうまくできたのかもしれない。
そんな風に小さな少年のことをすっかり信頼してしまっているのが癪で、私はひねくれた言い方をする。
「だって、あんたの風貌なら弟っていうのが一番違和感ないじゃない、それに私は家がヤクザだってこと、誰にも知られたくないの!私は、普通の学校生活を送ってみたいの!」
つい強い口調になってしまい、私ははっとして口をつぐむ。
恐る恐る豆の顔を見ると、驚いたように目を見開いて、同じように私を見ていた。
「お嬢様は………、自分の家族が、お嫌いなんですよね。」
ぽつりと寂しげに言った豆の言葉は、私にとっては当然のことで、何を今更と思ってしまう。
だけど、そこである記憶が蘇ってきた。
初めて豆と自宅の庭に出た時の事。豆の焦げ茶の髪がさらさらと揺れ、その顔はどこか寂し気で…。
―――「置いて行かれたんです。僕は他の兄弟と比べておかしいから。」
初めて、自分の事を僕と言った時だった。きっと、豆は家族が好きだったんだ。
だから、私が家族を否定すると、そんな寂しそうな顔をするんだ。
だけど私にはその気持ちはわからない。昔から、私にとって家族はただの重みでしかなかった。
重いだけで、邪魔なもの。早く関係を切りたい、家を出ていきたいと今でも思っている。
だから今、私から豆に何か言うことはできないんだ。
そう思ったから、私はただ黙って下を向いたまま唇を噛んでいる。
豆なら絶対、私を許してくれて、自分から折れてくれる、そうわかっていて、私は目の前の小さな子供に甘えているんだ。
情けない。分かっている。だけど……。
「………わかりました。お嬢様が嫌な思いをするのなら、仕方ありませんね。」
しばらくして、豆が言った。
「うん………。話、合わせてくれて、ありがとう。豆。」
結局私は、この子供にこんなにも頼ってしまうんだ。
最近、よく思うようになった。私は豆に依存している。
このままじゃだめだとわかっていても、今の私は、豆がいないと生きていけない。
「でも。」
私の思考を豆の高い声が遮る。
私がゆっくりと顔を上げると、豆は見たことのないほどの真剣な顔をしていた。
豆は私の手を軽くお辞儀をしてからとり、じっと下から見つめてくる。
「僕は命ある限り、ずっとお嬢様のお傍にいます。だけど……。」
そこで言葉を切り、何の感情も読み取れない大きな瞳を伏せる。また、彼は自分を僕という。
それは、今話していることが、本音なのだと、そう伝えているようにも思えて……。
きゅっと手に込められた力が少しだけ強くなったような気がした。
「もし、お嬢様が僕の存在を不要だと、そう言うのならば、僕はすぐにお嬢様の前から消えましょう。」
「……なんでそんなこと、言うの?」
私は戸惑いが隠し切れず、豆の手をぎゅっと握りしめる。
そんな私とは対照的に豆はくすりと笑う。その時、豆の纏う雰囲気が変わったような気がした。
「わかりませんか?私にとって、お嬢様の存在は絶対なんです。」
絶対。その言葉が、私に重くのしかかる。それは…、雇い主の娘としてってこと?
豆の口調は、また戻ってしまっている。
そのせいで、豆の言葉をさっきより素直に聞けない自分がいる。そんな間にも、豆の話は続く。
「だから、お嬢様が言うことなら、たとえどんなことだとしても、ご期待に沿えるよう努力します。ですが……、人の心は移ろいやすい。先程のようにご友人を作りたいと思うのでしたら、私を邪魔だと思うようになり、私がお嬢様の元を離れた時にも、ちゃんと周りに説明がつくような立場を、私に与えるべきでした。」
豆は時々、とても近くて、とても遠い。無邪気に笑うその姿は、愛らしく、それでいて儚く。
たまに見せる真剣な顔は、私が知らない豆のようで少し怖い。
「……豆、私は……。」
言いかけた時、握っていた手をぱっと離され、豆は私に背を向けた。
「え?」
私が話をしている間は、豆はいくら機嫌が悪くても、ちゃんと聞いてくれた。
こんなこと、今まで一度もなかったから、私はかなりのショックを受けた。
考えなしだった?呆れられた?でも、やっぱり豆の言ったことはわからない。
豆が私の傍にずっといてくれるなら、それ以上に嬉しいことなんてないのに。
「あ、の、豆?」
「お嬢様。」
ピシャリとした緊張感のある声に思わず口をつぐむ。
「いいですか?私の傍を、絶対にはなれないでください。」
「え?」
私の手首をもう一度掴み直したその荒々しさが、ただ事でないことを知らせる。
ふいに父の言葉を思い出す。
―――「お前はヤクザの頭の娘。他の組の輩に狙われる立場の者だ。それなら、ボディガードくらい必要だろう。」
ボディー……ガード。
「お嬢様?」
まだ幼いその声が、私の返事を催促する。
これから何が起こるのか、豆が何のことを言っているのか、わからない。でも……。
私はもう一度その小さな背中を見つめた。豆の事は、なぜだかすごく信じられる。
「わかった。」
私はしっかりとした声で答えた。
それが、私が豆を信頼していることの証明になるような気がしたから。
私の返事を合図とするように、豆が家とは逆方向に勢いよく走りだす。
その途端、後ろからどたどたと複数の足音が迫ってきた。
「な、何!?」
「振り返らないでください!」
豆の走る速度が一層速まる。私は転ばないように一生懸命足を動かした。
眼前に分かれ道が三つ。その全ての道から、黒いスーツを身にまとった男たちが現れ始める。
豆は私を抱き上げると、そのまままっすぐ突進していく。
「ま、豆!?」
これじゃあ捕まる。私は慌てて豆の腕をたたく。
「お嬢様、大丈夫ですから大人しくしててください!!」
豆はそう言うと、さらに速度を上げた。すぐそばに男たちの大群がある。何が大丈夫なものか。
もう駄目だと目を瞑ったとき、ふわりと体が浮かび上がるような感覚に陥った。
男たちの野太い声が一斉に上がり、そして遠ざかっていく。
何が何だかよくわからないまま目を開けると、豆は民家の屋根の上をひた走っていた。
「え!?ちょっと!!どこ走ってんのよーーー!!!」
私の叫び声が風に吸い込まれて消えていく。
豆は私の不安をよそに悠々とした足取りで、次々と屋根の上を飛び越える。
下の方から荒々しい男たちの怒りに満ちた声が聞こえてくる。
豆がそれを見下すように薬と笑ったのが聞こえた。
「あんた、本当に……。」
バン、バン。何者なの?そう聞こうとした時、すぐ傍から大きな音がした。
ぴたり。豆の足が止まる。豆の頬から、ツーと血が滴り落ちた。
「えっ……。」
「ご安心を。ただの掠り傷です。」
豆はちょうど真向かいにある民家の方を睨み付けたままそう言った。
「なんや。うちの奴らの気配にいち早く気付いた言うから、えらい強者かと思うとったら、チッコイガキやないか。」
なまりの強い挑発的な声。
真向いの民家の二階のベランダから、サングラスをした、褐色肌の男が現れた。
顎には黒い無精ひげが生え、にやりといやらしく引き上げられた口元には、皺が幾線もできている。
お父様と同じくらいの年齢みたい……。
だけど、うちのお父様とは違って、そいつはすらりと背が高く、明るい髪色といい、若々しく見えた。
「そんなボクちゃんに抱きかかえられてんのが、立花の長女か……。」
にやり。楽しそうにそいつは笑う。
「夢魔………。」
豆が呟くように言う。
「夢魔?」
「おや?俺らのこと知ってんの?」
私が豆の言葉を復唱すると、そいつは小さく首を傾げる。
「んなら話ははえーな。」
カチャ。手に持っていた銃をこちらに向ける。
「立花の可愛い、可愛い娘はんを渡してもらおうやないか。」
「ま、豆…。」
体が震える。こんなの初めてだ。
ずっと家にこもってきた人間に、こんな体験をさせるのは明らかにいくつもステップを飛び越えている。私を抱える腕にギュッと力がこもった。
「大丈夫です。僕がいる限り、お嬢様には指一本と、触れさせはしません!!」
豆はそう宣言してまた走り出す。
その宣言通り、連続で撃たれる銃弾を小さな体で器用にかわしていく。すごい……。
豆が強いことは知っている。
力が異常なほどに強くて、どうやったか知らないが屋根の上に飛び乗ることができて、こんな状況にも動じなくて、わかってはいたけれど、明らかに普通の子供じゃない。
だけど、今回はちょっとやばいんじゃないだろうか。
銃を持った大人。何十人もの男たち。体の小さな豆が、いったいどうやって太刀打ちできよう。
しかも、今は私を抱えているから両手も塞がっている。これじゃあ逃げるしかないではないか。
体の震えがまた始まる。豆はそれに気づいたのか、こちらに少し注意を向けるような動きをした。
そのとき、バンっとまた銃を撃つ音がした。そう思ったすぐその後、ぐらりと豆の体傾いた。
「うっ……。」
「!!」
屋根の上に、豆の後ろからポタポタと赤い点が続いていく。
私のせいだ。私が豆を信じなかったから、豆が怪我を……。
豆はつらそうにしながらも、必死な形相で足を動かす。
「豆!もういいから止まって!」
私は泣きながら言った。けれど豆は止まらない。目の前に人が一人躍り出た。
ああ、もう駄目だ。そう思った時。
「やめろ。」
低い青年の声が眼前で聞こえた。
屋根の上、私と同じ制服姿で目の前に立つその顔には、見覚えがあった。
赤みがかった癖っ毛。切れ長の色素の薄い瞳。日に焼けた肌。
ほんの少しの時間顔を合わせただけだったのに、その人のことはよく覚えている。
「若葉……君?」
私が呟いたとき、豆の体がぐらりと揺れ、屋根の上に倒れこんだ。
「豆!!」
足首から血が出ている。若葉君が一歩、また一歩と私たちに近づいてくる。
「や……めろ。お嬢様に……近づくな。」
「何を言ってるの?豆、この人は……。」
豆が若葉君をじろりと睨み付けるので、私はさらに困惑する。
若葉君と目が合う。彼はじっと私を見つめた後、次に豆の傷を痛々しそうに見た。
私は豆を抱き寄せる。若葉君は私たちを通り過ぎ、そぐ後ろに立った。
夢魔と呼ばれた茶髪の男性と、若葉君が対峙する。
「ここは引け。」
若葉君が言う。私はもう何が何だかわからなくて、涙があふれる。
「なん……なの?あなた、いったい何?」
クラスメイトが言っていた、ヤクザの話は本当だったのだろうか。
だって現に彼は今、私を狙う男に命令めいた口調で話しかけている。
「何やお前、俺には向かうんか。」
「転校生、俺のクラスメイト。お前が勝手に暴れるのは良い。だが俺に迷惑はかけんな。」
ちらっと私の方を見る。
「こいつが俺のことを学校で話すかもしれないだろ。」
そんなことはしない。そう言おうと思ったけど、豆が私の手を強く掴んだので何も言わないでおいた。
「………なるほど。」
男が言う。そしてくるっと方向転換をすると、気がそがれたように肩をすくめた。
「立花の跡取り。それからガキ。またな。」
そう言って男は屋根を飛び降り、黒ずくめのスーツの男たちを連れて消えていった。
若葉君がこちらを向く。じろりと、がんを飛ばすように私を睨む。
「何?」
私は涙のたまった目で精一杯彼を睨み返す。助けてもらったような気がする。
だけど、あんな危ない奴らに言うことを聞かせることができるようなやつ、私たちと同じヤクザに違いない。
そんな人を、すぐに信用するわけにはいかない。
若葉君は小さくため息をつくと、白い布を私に向かって投げた。
「俺のことは学校で言うな。」
それだけ言うと彼は私たちに背を向けた。あれ………?私は彼から受けとった物をまじまじと見る。
それは包帯だった。私ははじかれたように顔を上げた。
若葉君は屋根の恥までもう進んでいて、今まさに飛び降りようとしているところだった。
「ありがとう!!若葉君!」
私は大声で言った。若葉君は一瞬立ち止まり、それから振り返ることなく消えていった。
私はもう一度若葉君にもらった包帯を見る。豆の傷、心配してくれたんだ。
やっぱり若葉君は優しいのかな。私はもう何が何だかわからない思いで豆を抱きしめた。
どんな人かはわからないけど、やっぱり、助けてくれたんだよね………?
「う……。」
と、豆が苦しそうに身じろいだ。
若葉君の飛び降りた方を睨みながらゆっくりと手をついて起き上がる。
「豆!!起きて大丈夫なの!?」
「平気ですよ。ちょっとかすっただけですから……。」
でも、かなり痛そうだ。私は若葉君にもらった包帯を簡単に豆の足首に巻き付けた。
「今はこれしか持っていないから、応急処置しかできないけど……とりあえず止血にはなるから。」
「…………お嬢様、申し訳ありません。」
豆は悔しそうに唇を噛む。
「どうして豆が謝るの?迷惑をかけたのは私よ。あなたは私を守ってくれた。」
「いいえ!」
豆は突然前のめりになってきっぱりと言う。
「守れてなどいません!!……敵の情けがなければ今頃は……。」
「敵?なんのこと?」
敵の情け。その言葉が少し引っかかった。豆は若葉君のことを、すごく警戒しているように思う。
だけど私には、彼がそこまで悪い人には思えない。
「夢魔。昔から立花家と対立している一族だそうです。私も写真では見たことがありましたが会ったのは初めてです。」
「それは、さっきのあいつらのことよね。」
私は銃を持った中心の男と、それに従う黒スーツの集団を思い出す。
ということは、あの銃を持った男が、夢魔のボスなのだろうか。
「赤毛の青年……。お嬢様、彼と同じ学校とは本当ですか?」
「若葉君のこと?うん、そうよ。クラスメイト。」
私が頷くと、豆は難しい顔をして黙り込んでしまう。
「若葉君。どんな人か知らないけど、あんたに包帯をくれたの。もしかしたらいい人なのかもしれない。」
私が呟くと、豆はバッと顔を上げ、私の肩を掴んだ。
「お嬢様、彼を信用してはいけません!!」
「え………でも。」
豆は忌々しいものを思い出すように顔をしかめた。
「いいですか。彼は夢魔のボス、若葉泰介の息子、若葉透です。」
「え?」
私は目を見開いた。夢魔のボスの息子が若葉君……?
豆が言った敵の情けというのは、若葉君のことだったの?
若葉君と、夢魔のボスの会話を思い出すと、確かに合点がいく気がする。と、言うことは……。
「若葉君は、私の敵?」
私は、まだ会ったばかりのその人を思い出す。
彼のことを何も知らないのに、私は彼が敵のようには思えなかった。