温もりの家
俺は猛烈に緊張していた。かつてないほどに心臓がバクバクいっている。
なにせ、これからはじめて好きになった女の子が、なんと我が家に遊びに来るのだ。緊張しない方がおかしい。
はじまりは今日の朝。日曜日はゆっくり朝寝坊派の俺にかかってきた一本の電話。スマホの表示を見て、寝ぼけていた俺はすっかり覚醒した。
電話に出ると、相変わらずかわいい彼女のかわいい声。しかも内容は、昨日作ったシフォンケーキを食べてほしい、なんてかわいいもの。断る理由なんてなく、二つ返事でオッケーした俺に、笑美は俺の家の住所を聞いてきた。なんと、わざわざ家まで届けてくれるらしい。
というわけで、俺は珍しく日曜の朝から身支度をきちんとし、両親と姉から奇異の目を向けられながら、鼻歌まじりにかわいいかわいい彼女の到着を待ちわびているのである。
十時を過ぎるといてもたってもいられず、何度もスマホを確認し、ついには玄関を飛び出した。どうしよう。途中まで迎えにいこっかな。ああ、でも入れ違いになったら困る。だけどちょっと遅くないか? もし笑美が迷子になってたりしたら……。
「笑?」
自宅前で不審者のごとくうろうろしていた俺に、訝しげな声がかけられた。俺はハッとして声の方を見やる。笑美が私服姿で立っていた。黄色の丈の長いワンピースに、ふわふわした白のカーディガン。麦わら帽子をかぶっているのが可愛い。手には小さなハンドバッグとは別に、かわいらしい模様の紙袋が握られていた。
笑美はあいかわらずのきょとん顔で、首をこてんとかしげていた。
「なにしてるの……?」
「笑美を待ってた」
早く会いたくて、とは恥ずかしくてさすがにいえない。俺は玄関の戸を開けて彼女を促した。
「暑いから早く入って。お茶ぐらい用意するから」
「でも、今日はケーキ……」
笑美は困惑したような声でいったが、俺はかまわず彼女の背を押して中に入る。ここで帰すなんて、自他ともに認めるヘタレな俺でも我慢ならない。
強引に中に引き入れたが、笑美の方もまんざらでもないようだった。断っていたのは最初だけで、すぐに俺に引かれるがままついてくる。
「笑美、こっちこっち。俺の部屋いこう」
「あ、でも、笑のパパとママ……」
「なに?」
「挨拶、しなきゃ。ママにいわれた」
階段で立ち往生していると、ふいにリビングの方から怒鳴り声がした。
「笑ー? あんた、さっきからだれとしゃべってんのん?」
おふくろの声だ。
マズい。笑美の気持ちは嬉しいが、正直俺は、おふくろと笑美を引きあわせたくない。だって、笑美のママの美喜子さんは、若くてきれいで優しくて料理上手で、非の打ち所がない完璧なママさんだ。それに引き換えうちの母親ときたら……。
「独り言の多いやつはモテへんぞ。そんなんやから、あんたは……」
逃げるタイミングを失っていた。笑美を説得する前に、おふくろがこちらに来てしまった。
おふくろは一瞬、笑美を見て固まっていた。それは笑美も同じだった。
なにせうちのおふくろは、主張の激しいヒョウ柄のズボンに虎の顔が大きくプリントされたトレーナーを着、髪をくるくるパーマにしている。つまり、日本国民なら絶対一度はテレビかなんかで目撃したことのある『大阪のオバちゃん』そのものだった。
衝撃の冷めやらぬ空気の中、先に呪縛を解いたのは笑美の方だった。彼女はまだ困惑したように眉を寄せていたが、小さな声でつぶやいた。
「笑の、ママ……?」
その声にハッとして、おふくろも意識を取り戻した。かと思ったら、瞬時にこちらに向かってきて、バッと笑美の手を取った。
「まっ……まーまー! 女の子や! 女子高生や! JKや! 我が家に女の子がおる!」
「おふくろ、落ちつ……」
「なんや笑! いつの間に彼女作ってたん!? なんでお母ちゃんにすぐ報告せえへんの。しかもこんっなにかわいい子を」
そういう反応をすることが目に見えてたからだよ。ああ、笑美がまた固まってる。
「おふくろ、笑美が怖がってるから放し……」
「笑美ちゃん? 笑美ちゃんっていうのん? まあ、名前もかわええわぁ。ほら笑! なにぼさっとしてんねん。はよ彼女リビングに案内したり! 気ぃきかんバカ息子でごめんなぁ。笑美ちゃん、おばちゃんがお茶淹れたるから、ちょいと待っとって。あ、お茶より紅茶とかコーヒーの方がええ?」
『大阪のオバちゃん』特有のマシンガントークを展開し、呆気にとられる笑美を結局、自分で引っぱって連れてった。
リビングには親父とねえちゃんも、それぞれソファとかイスに座ってくつろいでたけど、おふくろが戻ってくるなりぎょっとした。親父は読んでいた新聞をバリッと破っちゃったし、ねえちゃんはソファからずり落ちるっていう、哲ちゃんも真っ青なナイスすぎるリアクション。これを素でやっているのだから余計にすごい。うちの家族はリアクション芸人になれる。
おふくろはまだ笑美の手を握ったまま、彼女を親父の前に連れてった。
「お父ちゃん、お父ちゃん! 笑に春や。春が来たんよ!」
無駄に大きな声で叫ぶと、おふくろは笑美をずいっと押しだす。
「見てみい! こんっなかわええ子を連れてきよったわ。さすがはお父ちゃんの子やわ。見る目があんで」
親父は無言だった。最近かけはじめた老眼鏡がずれて、顔から落ちそうになっている。だが目だけがこぼれんばかりに開いて、笑美を凝視している。もともとおしゃべりすぎるおふくろと違って、親父は無口な人だ。むしろ親父がしゃべらないから、おふくろがしゃべりまくるんだろうけど。
親父に変わって口を開いたのは、俺の四つ上のねえちゃんだった。一応、女子大に通う立派なJDのはずだ。休日の今日はゆるゆるのスウェットを着てすっぴん。我が姉ながら、女らしさのカケラもない。
「笑が女連れてきた!? ウソでしょ、お母ちゃん」
「ほんまやって。美幸も見てみいよ、笑美ちゃんやって」
笑美は今度はねえちゃんの前に押しだされる。ねえちゃんは目をこぼさんばかりに見開いていた。
「ありえない……笑に、彼女? 弟に先越された……私は、ねえちゃんは、彼氏いない歴イコール年齢なのに……。こいつだけはないと思ってたのに……。なんで……なんでやぁぁぁぁぁっ!!」
ねえちゃんが頭を抱えて絶叫している。これでも二十歳の女盛り。知りたくなかったが彼氏いない歴イコール年齢。
おふくろはいそいそと笑美の背中を押しながら、たった今ねえちゃんがずり落ちたことで空いていたソファに座らせた。
「笑美ちゃん、座って座って。あーもうっ、笑ってば照れてなんもいってくれへんのやもん。来るって知っとったらおいしいお茶菓子でも準備しとったのに」
お茶菓子で思いだした。笑美は今日、俺にケーキを持ってきてくれたはずだった。笑美もソファに座らされて落ち着いてから、そのことを思い出したらしい。おずおずと手に持っていた紙袋を、おふくろに差し出した。なぜだっ、なぜ俺じゃないんだっ!
「あの、これ……」
「ん? どないしたん?」
「昨日、うちのママと作ったケーキ……」
「ケーキ!?」
おふくろがキンとした声で叫ぶと、ぶつぶつと俺を呪っていたねえちゃんがはっと我に返った。
「えっ、ケーキ? 私も食べたい!」
「あんたダイエット中やろ。冷蔵庫のカロリーハーフゼリーまだ残ってんで」
「ダイエットには休憩も必要なんよ!」
「そんなんやからいつまでたってもそんな体型なんよ。お母ちゃんを見習い。どうや、この若々しさは!」
「この前私のバランスボール、勝手に乗って壊しとったくせに。私のダイエット本読んどることも知ってるから」
互いにデカい声をさらに張り上げるもんだから、笑美がますます凍りついて怯えている。仕方がない。
俺はようやく、こっそり笑美に近づくことができた。
「笑美、大丈夫?」
「笑……」
笑美は基本表情は変わらないけど、声の響きで心底怖がっていることがわかる。そんな彼女をなだめるように、俺はこういうしかなかった。
「えーと、まあ……。これが脇田家名物、おふくろとねえちゃんの女子力バトルです」
ちなみに今まで勝敗がついたことはありません。
やがて親父の「やめなさい」の一言でおとなしくなった二人は、いそいそとお茶の準備をはじめた。とはいえまだ軽い小競り合いは続いていて、台所からあーだこーだといいあう声が聞こえていた。
しばらくすると、コーヒーの香りが漂ってきた。二人がおぼんを手に持って、それぞれコーヒーカップと切り分けたケーキを運んできた。
おふくろが上機嫌にみんなにケーキを配りながらいった。
「いやぁ、ケーキなんて何年ぶりやろうね。うちはお父ちゃんが和菓子好きやから、洋菓子はめったに食べへんのよ。コーヒーも美幸しか普段は飲まんし」
俺としてはあまりそういう感じはない。最近は笑美と一緒に、時々学校帰りに甘いものを食べたりしているし。
笑美が作ったシフォンケーキは紅茶味らしく、紅茶のいい香りがした。姉ちゃんがコーヒーを全員に配り終えたところでおふくろがいった。
「ほんならいただこか。笑美ちゃん、いただきます」
俺のために作って持ってきてくれたこのケーキを、なぜ俺は家族全員で食すことになってるんだろう。大変不本意だが、笑美がじっとこちらを見ているので仕方なしとしよう。
フォークをそっとケーキに差し入れると、ふわっとした弾力を感じた。それを口に入れ、ゆっくり咀嚼する。笑美が隣で眉を寄せて俺のことをうかがっている。
「ん、うまい」
俺がそういうと、笑美は少しほっとしたように頬を緩めた。
「ほんと?」
「うん。最高」
お世辞でもなんでもなくそう答えると、笑美は両手で頬を包んで、俺から顔をそむけてしまった。ヘンに思って顔をのぞき込んで、俺もドキリとする。ほっぺたが真っ赤だった。
ああ、どっちかっていうとこっちの方がおいしそうかも。そんな思いとともに、手が自然と笑美の頬に伸びる。次の瞬間、後頭部をなにかでスパンっと殴られた。
「いってぇ!」
「笑、顔キモいわ。イチャつくんなら外でやり」
姉ちゃんからの凍てつくような視線に、冗談ではなく背筋が凍った。ていうか、弟をスリッパで叩かないでほしい。
笑美は俺が頭を押さえているのを見ておろおろしていた。
「笑、痛い? 痛いの?」
「あー笑美、大丈夫だから。こんなのいつものことだし」
笑ってそうごまかしていると、脳天にゴンっとなにかが落ちてきた。
「せやせや、笑美ちゃん。こいつ昔から頭は強かったんやから。それに叩いてもこれ以上はバカになれへんやろ」
姉ちゃんの肘が、ぐりぐりと俺の脳天を抉る。こいつ、俺が笑美連れてきたこと、相当根にもってやがる。
「そもそもこのバカのどこがええのん、笑美ちゃん。姉の私がいうのもなんやけど、こいつアホやしバカやしガキやしチビやし。ええとこといえば、底抜けに明るいとこぐらいやろ?」
実の弟をよくもまあここまで貶せるもんだと、逆に感心する。しかもいい返したくても事実しかいってないことが腹立つ。
「……笑は」
笑美が口を開いたことが意外で、俺はすぐ隣の笑美を見た。人見知りが激しい笑美は、この口数の多すぎる俺の母と姉にはついていけないだろうと思っていた。
たどたどしいながらも、笑美は必死に言葉を紡いでいた。
「ずっと友だちがいなくて、「お人形」っていわれてた私を、すごく気にかけてくれて……。笑がいたから、私は笑えるようになったし、学校が楽しい。明るくて、友だちいっぱいで、優しくて、勇気がある。そんな笑と友だちになれて、すっごく嬉しい」
普段無口な笑美が、ここまで長くしゃべるのは珍しい。それだけに、一言一言に重みがあった。
家族全員が笑美に視線を向けている。笑美は嫌がるかと思ったが、意外な反応を示した。肩をすくめ、ふふっと笑ったのだ。くすぐったそうな、無邪気な顔で。
「この家、好き。あったかい」
そのままの笑顔でそうつぶやかれ、俺たち家族は顔を見合わせた。温かい、そんな風に思ったことは一度もない。だからそういわれるとなんだか照れる。
確かにこの家にはいつも笑顔があって、にぎやかだ。俺以外は関西出身ということもあって(俺はこの家に引っ越してから生まれた)、笑いが大好きな一家だ。しんみりとした空気はなによりも似合わない。
笑美はなおもクスクス笑いながら、俺たちを順繰りに見つめる。
「笑の家族も好き。みんな楽しい」
親父とおふくろが顔を見合わせ、そろって破顔する。ねえちゃんがまんざらでもなさそうにふんぞり返った。
「笑にしてはええ子を選んだやん。私、気に入ったわ」
偉そうな態度が気になるが、笑美が嬉しそうなので良しとしよう。
その後、笑美はなんやかんやと俺たち家族と一日を過ごし、夕食を一緒に食べてから帰ることになった。料理が苦手なおふくろは、奮発して出前寿司を注文してくれた。
すっかり暗くなった空を見て、笑美は「遅くなっちゃった……」と少し困り顔。俺はというと、両親からの無言の「送ってけ」オーラに気づく前に、玄関で靴を履いていた。
「駅までとりあえず一緒にいくよ」
「うん」
ロングスカートで歩きにくそうな笑美に手を差し出すと、少し照れたように笑って、そっと手を重ねてきた。
「また遊びに来てな、笑美ちゃん」
おふくろが手を振りながらいった。
「今度はおばちゃんおススメのお茶菓子用意して待っとるから」
笑美はこくんとうなずいた。
「お邪魔しました」
ぺこり、と笑美は丁寧にお辞儀をして、俺と一緒に家を出た。
道中、俺はずっと思っていたことを口にした。
「笑美、辛くなかったか? うちの家族って、その……強引だしうるさいし、変わってるだろ?」
笑美はきょとんとした顔で俺を見返した。
「そうなの?」
そうなのって……。
「笑の家族は、みんな笑顔でいい人。笑のことも大切にしてる」
「ねえちゃんは俺をいじめてるけどな」
照れ隠しにそういえば、笑美は真剣な顔で否定した。
「そんなことない。おねえさんも、笑のこと好き。見てればわかる。仲のいい姉弟で、うらやましい」
「そう……かな」
俺とねえちゃんが仲良しなんて、到底思えないけど。でも笑美にはそう映っているらしい。
「笑」
「なに?」
「また笑の家、遊びにいってもいい?」
上目遣いにこちらを見られ、不意打ちにドキリとする。
「べ、別にいいよ。あ、でも今度来るときは俺が日にち決めてもいい?」
「なんで?」
「……おふくろとねえちゃんがいない日の方がいい」
あの二人に出くわしたら、また二人っきりになんてさせてくれないはずだ。親父はともかくとして、あの二人は要注意人物だ。
笑美はなぜかしゅんとした様子だ。
「笑のお母さんとおねえさん、明るくて好きなのに」
「……ごめん、それだと余計にダメ」
「どうして?」
子猫みたいな純真な目で見つめられても、こればかりは譲れない。笑美に好きって、俺もいわれたことないのに。俺をこれ以上嫉妬させてどうする気なんだ。
笑美はすねたように唇を尖らせながら、俺から目をそらした。
「ずっと会っちゃいけないの?」
「それは……」
迷いながらも、俺は思ったことを答える。
「将来、俺がもっとでかくなって、頼れる男になって、笑美のことを守れるようになったら――そん時はもう一回、笑美のことを紹介するよ」
俺にしては大胆な発言に、笑美は目を丸くしている。
「どうして将来なの?」
「う……さあ」
あ、やっぱり意味通じてない。
そうしているうちに駅について、笑美は「ここでいいよ」といった。
「今日は楽しかったね」
「うん、まあ」
俺としては、二人きりがよかったけど。
「じゃあ笑美、気をつけてけよ」
「うん」
笑美は定期を取り出して、改札口に向かおうと背を向ける。ホームにいくまでは見守ってやろうと俺がその場にいると、急に笑美は振り向いた。
驚く俺に笑美は猫のような無邪気な顔を向けてきた。
「笑。早く大きくなって、お母さんたちに紹介してね」
大きな声ではなかったが、すぐ近くにいた駅員さんがぎょっと目をむいていた。誤解を生みかねない発言に俺も体中が熱を持った。
小悪魔で気まぐれな俺の猫は、またくすりと笑って今度こそ去っていった。
ヘタレな俺の精いっぱいの求婚、きみはいつ気づいてくれるかな。
最後に番外編を更新してから、およそ一年がたっておりました(笑)
色々と書き溜めてはいたのですが、なかなか更新できず……。
前回が笑美の家族との対面だったので、今回は笑の家です。
彼の家族は笑が生まれる三年ぐらい前まで大阪に住んでいたという設定です。
(『大阪のオバちゃん』に関しては、生粋の関東人usaの偏見があるかもしれません)
なお、この後家に帰った笑は、笑美がさりげなく漏らした「お友だち」発言に関し、(主に姉から)激しい追及をされることとなりましょう。
脳天に肘をぐりぐりされながら。
また別の話を更新できたらいいなぁと思っています。
感想・評価などお待ちしております<(_ _)>